反日意識はどのように継承されたか―植民地時代2018/04/03

 作家の金達寿さんは20年前にお亡くなりなっていますが、幼い頃に祖母から教わった日本の話を記録しておられます。 7~8歳の時だったといいますから、1927~28年頃のことです。その話を紹介したいと思います。 出典は『朝鮮研究月報 第7・8合併号』(日本朝鮮研究所 1962年8月)2~3頁です。

僕とおばあさんと2人だけで故郷(慶尚南道昌原郡)にのこって日本からの仕送りでくらしていた。 その間7~8才の頃ですが、その中で日本人についての話は、甚だ面白くないでしょうが、日本人は「夷狄」であるという考え方です。 無智なおばあさんですが、小中華意識から「倭人」を見ているのです。 日本人のことをみな「ワエノム」(倭奴)とよんでいました。 その「ワエノム」に国を盗まれて‥‥というわけです。

日本人は飯を皿に盛って箸で食う野蛮な連中だという話がありました。 これは、数時間もっておいても暖かい鍮器の器で、匙を使うのが原則、箸はおかずをつまむものと考えている朝鮮人の感覚からいうとまずいことです。 それには、昔、日本人が朝鮮人に「我々もあなた方のように白い飯を食おうと思うが、どんな器を使いましょう」と、お伺いをたててきたので、お前らのようなつまらんやつは皿ででも食ったらよかろうと言ってやった、それでそうなったのだというような説明がありました。 もっとも皿というので私は小皿を想像していたのですが、日本に来てみると茶碗のことだった

それからまた、何か被りたいものがあるとも聞いてきたので、ポスム(靴下)でも被れと教えてやったら喜んで被っているというものもあった。 烏帽子のことですが、なるほど形が似ています。 

このような話は壬辰の役などの時に愛国心を高揚するためにもできていたのでしょうが、とにかく庶民の意識の中にそういうものがあって、その話を子供に語り聞かせるので、自然にそういうイメージができていく。 そして近所の子供同士でも日本人は人食い人種だぞなどと言い合うわけです。 僕の村のそばの中里という駅前に日本人のお菓子屋さんが一軒だけありましたが、「あそこの日本人は生首を塩漬けにして部屋の中においている。日本人はそういうことを平気な野蛮な人間だ」ということで、朝鮮人の村の子がそのお菓子屋に入って食べることはありませんでした。

これは、日本を小中華意識のメガネで見ていたということですが、日本は封建的儒教意識を、慣習を、支配の手段として温存しなければならなかったため、同時に皮肉にも夷狄意識も温存されたわけです。

 このように日本をバカにする話が、朝鮮人の各家庭内で代々伝えられてきたのです。 1990年代のAERAの記事だったと記憶していますが、韓国から日本に修学旅行に来た高校生に引率の先生が、烏帽子を被った人物を描いた古代の絵巻物について、日本人にポソム(足袋・靴下)でも被れと投げてやったら大事そうに被ったという、全く同じ話をしていたことを思い出します。 今手元にその記事がありませんが、へー! 韓国では日本文化をこのように教えているのかと興味深く、よく覚えています。 昔から伝わるこういう侮日の話が、最近まで学校でも教えられていたのですねえ。

 それ以外に私の経験では、日本人は犬の茶碗を国宝にまでしている、日本の文化というのは犬の茶碗程度のものだ、というのがありました。 これは茶道で珍重された高麗茶碗のことでしたが、文化の違いを文明・野蛮の優劣に結びつけていました。

 1970年代に在日活動家の梁泰昊さんと議論した時、彼から世界に誇れるような日本文化なんて一体何があるというのか、何もないじゃないか、と言われたことがあります。 私は、例えば浮世絵はフランス印象派に大きな影響を与えたこととか、扇子は日本で発明されて世界に広がり西欧の貴族の日用品にまでなったとかの話(今考えると不確実)をしました。 更に、朝鮮では世界に誇れるような文化として何があるのかと問い返しました。 彼はぐっとして何も言わなかったことが非常に印象的で、記憶に残っています。

 ところで、朝鮮民族が世界中の人々に影響を与えたと誇れる文化は、一体何があるのだろうか? ここ20年くらいの韓国の話なら、韓流ドラマやPSYの江南スタイルなんかを挙げることができるでしょうが、それ以前となるとなかなか思い付きません。 北朝鮮となると主体思想に基づく文化が発達してきましたが、「珍奇」なだけで「誇れる」ものではないですね。

芥川賞受賞者 李良枝 ―韓国人を美化する日本人はおかしい2018/04/08

 在日朝鮮人作家である李良枝は、1989年に小説『由熙』で芥川賞を受賞しました。 ただし彼女は子供ときに家族帰化していますので、国籍は日本です。 1980年代にソウル大学に留学し、次々と小説を発表して注目されたものでした。 芥川賞受賞の際に『朝日ジャーナル1989年4月21日号』でインタビュー記事があります。 興味深かったので紹介します。

受賞作品『由熙』のあらすじは、朝日ジャーナルの記者が次のように記しています。

在日韓国人である李由煕はソウルのS大に留学したガリ勉学生。 憑きものにつかれたように母国語(ウリマル)と格闘するが、文章は書けても、話すと発音は不正確で、文法も間違える。上達しない韓国語にいら立つ由煕は、とうとう卒業を目前にして韓国随一の大学を中退し、日本に戻ってゆく。 その軌跡と悩みがインテリの韓国人女性二人を語り手として描かれる。

 李良枝の簡単な紹介の後、インタビューが始まります。 抜粋します。

―在日韓国・朝鮮人のアイデンティティは中ぶらりんだ、と在日の作家でさえ言う人がいる。 李さんが韓国に居続けているのは、存在証明を確認するためだったのですか。

そういう面もなくはないけれど、ふつう在日韓国人であるということは、あくまで人間の生の一面でしかない。 そのへんが私の中で片付かなかったから韓国に居続けてきた ‥‥ 『由煕』を中心にいいましょう。私の分身でもある由煕はウリナラに大変な思い入れをしていたのに、韓国の現実を見て、韓国の文化や慣習に適応できず、韓国語にすら嫌悪を覚えて、自分の内部で葛藤を続ける。

私が『由煕』でいいたかったことは、自分も他人も、事物も、あるがままに見る力を持とうということだった。 語り手のお姉さんに「由煕はケチンボ」と非難されているでしょう。 由煕はソウルでの生活、勉強に挫折して日本に帰ってしまった。 けれど、由煕はまたいつか韓国に戻ってゆく、と思う。 それは在日である以上、母国を愛し続けなきゃいけない、ということではない。由煕があのまま日本に戻り、それっきりだったら他人を愛せないまま生きることになるような気がします。‥‥

―『由煕』を書き終えて振り切れたものはありますか。

‥‥目の前にある人間、事物、すべてを、判断を下す前に、そのまま引き受け、許容する力を持ちたいと、きょうまで願ってきたけれど、それを持ち得なかったがための葛藤が私の中にあった。  で、『由煕』を書いたことで、私の中の弱さを暴露し、埋葬したのです。 以前であれば、ソウルの生活で私の神経を逆撫でするような光景を見ても怒らなくなりました。

 李良枝が『由煕』を書いた理由というか経緯について説明でした。 この次に、へー! 1980年代にこういうことを言っていたのか!と感心する、あるいは考えさせられる話になります。

―大学に行くと韓国人の学生が床にツバを吐いたり、貸した洋服が返されないとか‥‥。

それらを含めていろんなこと。 日本でも東京人が関西に移り住むと、「大阪人はなんでこうなんだろう」と悪口を言う。 それと同じですよ。

―その程度のこと?

その程度って、どういうことですか。 そういう発想はとても危険で、同時に人間という存在に対してとっても失礼ですよ。在日韓国人が直面する差別やら言葉の問題が、日本人同士の間で抱えている苦しい問題よりも大変だなんて、そんなことは絶対に言い切れない。 韓国問題が“偉い”とでもいうのですか。

―そうは言っていません。

あなたの中に、ちょっと先入観があるのではないかしら。 人間はざまざまな属性を抱え、さまざまな場面を生きているという意味で、対等な生きものだと私は考えています。  私は、基本的に差別は大嫌いなの。あなたが、日本の東から西へ行った人が抱くカルチャーショックよりも在日問題のほうが深刻、あるいは“程度”が高いと考えているなら、それは在日に対する差別だともいえるのですよ。 差別って何だと思いますか。

―在日韓国人と自然に付き合っているつもりでも、ひょっとして心の奥底に差別感があるんじゃないかとおびえることがあるのですが‥‥。

戦前の日本は36年も韓国を支配し、韓国人を差別してきた。そしていまも社会構造的に差別しているという事実があるから、日本人は在日の前で何もいえない、口を閉ざすしかない、というのも逆の差別よ。

―在日の旧世代の作家たちは、日本社会の在日への差別を背景に書かないと、小説を書けなかった、という人もいます。 ところが、李さんの『由煕』を読むと、古い定型突き抜けた感じを持つ。

日帝による36年の(朝鮮支配)、日本社会の差別性はさびしく悲しい歴史であり現実です。 けれども人との付き合いは、個人と個人との出会いから始まる。性が合わないものは合わない。    韓国人を美化する日本人はおかしいし、逆差別にのっかってアグラをかく在日もよくない。   問題は山積みされています。けれどもどんなに政治的、あるいは社会的な問題でも、結局は人の心のありように行きつくことなのだ、と私は考えています。 ‥‥

 日本人と在日について、“差別と被差別”という関係で考える記者と、それに対する李良枝の反論ですね。 1980年代は、「日本社会からの被差別」に自らのアイデンティティを確認しようとしてきた在日社会の中から、李良枝のようにそこから抜け出ようとする人が現れ始めた時代だったなあと思い出されます。

 李良枝の「韓国人を美化する日本人はおかしいし、逆差別にのっかってアグラをかく在日もよくない」という発言は、当時の在日の差別反対運動への鋭い批判ですね。

芥川賞受賞作家 李良枝(2)―日本語は宝物である2018/04/13

 次に在日の日本語論について語ります。

―全く新しいタイプの在日作家が誕生した、と評されるのは不愉快ですか。

よく「在日文学を超えた」とか言われるけれど、私は文学ジャンルのために小説を書いてはいない。

―由煕の言葉で印象的だったのは「私には日本語が教えられない」と語る場面だったんですが、これはどう受け止めたらいいのですか。

由煕にとって日本語は何だったと思いますか。

―重荷でしょうか。

宝物だったのよ。

 在日にとって「日本語は宝物である」と主張する李良枝に感心しました。 在日が使う日本語を「植民地支配の傷痕」と捉える人が大部分だった時代でしたから、朝日ジャーナルの記者が在日にとって日本語は「重荷」だと言ったのです。 それに対し李良枝は「日本語は宝物」だと言い切りました。 この「日本語は宝物」という言葉は、在日社会でもっと評価されていいでしょう。 この感覚が、在日の使う日本語をもっと豊かにしていくと思うからです。

 次に、韓国に留学する在日論です。

―あなたの『刻』に韓国留学中の在日の若者が梅干を懐かしがったり、韓国人を「原住民」「原ちゃん」と呼ぶ、と書かれている。 こういう意識はどこからくるのですか。

在日の留学生は日本に生まれ育ったその出自に自信が持てないと同時に、名分として早く韓国人らしい韓国人にならなければならないという意識を持っているの。 ところが、そう簡単に韓国人になれない実態があります。 そこに先進国から来たというおごりが重なって、劣等感を埋め合わせる。

 『刻』はこれ以前に書かれた李良枝の小説で、芥川賞候補に選ばれたことのある作品です。

 ところで韓国に留学した在日が地元の韓国人を「原住民」「原ちゃん」と呼ぶというのは、1959年末~60年代初めに北朝鮮に帰国した在日が現地の北朝鮮の人たちを「原住民」と呼んでいたという話と同じですねえ。 韓国語の不自由な在日に対し、本国人が馬鹿にすることが多いのですが、在日は言葉ができないので反論できずに言われっぱなしとなります。 そこで内輪の話として本国人を「原住民」「原ちゃん」ということになります。

 しかしこれは在日の特性というよりも、人の悪口を言って溜飲を下げようとする人間の特性といった方がいいようにも思えます。

芥川賞受賞者 李良枝 ―韓国人を美化する日本人はおかしい  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/08/8821395

学術集会に荒唐な現代政治を持ち込む2018/04/18

 25年前の古い話ですが、韓国で甲午農民戦争(東学党の乱)に関する学術集会が開かれました。 これに参加した朝鮮史研究者の中塚明さんが、『朝鮮史研究会論文集 №32』(1994年10月)で次のように報告しています。

1993年10月末、私は韓国で開かれた「東学革命百周年記念国際学術大会」に出席しました。 その開会式の挨拶でオ・イクジュ氏はつぎのようにいい、参加者を激励しました。

日本はわが国をみくびっています。 日本のPKO海外派兵計画は韓半島進出を企図しています。 遠からず日本は世界最強の核武装軍事大国として21世紀には韓半島に日本軍が進出してアジアを支配せずにはおかない野望をもっています。 これをどうして防ぐことができるか、民衆の覚醒、決起とともに南と北が一つに統一しなければなりません――と。

学術集会の開会式の挨拶でこの発言があったことに私は強い印象を受けました。 そのことを皆さんにもお伝えしておきたいと思います。 (「日朝関係百年―日清戦争から今日まで」17頁)

 1993年といえば、北朝鮮の核開発が明らかになって問題化し、北朝鮮はNPT(核拡散防止条約)から離脱して核開発の継続を表明した時期です。 そんな時に、この北と一緒になって「日本の核武装」に対処しようという余りにも荒唐無稽な話が、国際学術大会の開会挨拶で出てきたのです。 

 さらに朝鮮史研究者として著名な中塚明さんが、この韓国人の挨拶に全く賛成し、帰国してから日本の学術誌に報告したのです。 ソ連や東欧の社会主義が崩壊して間もない時期に、日本は「世界最強の核武装大国」となって「韓半島(朝鮮半島)に日本軍が進出」し、「アジアを支配する野望」を持っていると大真面目に訴える韓国人がいたのです。 そしてその訴えをこれまた大真面目に受け取る日本人がいたということです。

 1990年代はそんな時代だったなあと思い出します。

 ところで現在の習近平政権の中国は「核武装大国」であり、「南シナ海に人民解放軍が進出」し、「東アジアを支配する野望」を持っていると見ていいでしょう。 25年前の韓国の学術集会における上記の挨拶は、「日本」を現在の中国に置き換えて次のように修正すると、言い当てていますねえ。

中国はわが国をみくびっています。中国は韓半島進出を企図しています。 遠からず中国は世界最強の核武装軍事大国として21世紀には韓半島に中国軍が進出してアジアを支配せずにはおかない野望をもっています。 これをどうして防ぐことができるか、民衆の覚醒、決起が必要です。

「南」に厳、「北」に寛だった日本のマスコミ2018/04/24

 1970~80年代の日本のマスコミは朝鮮半島について、韓国には厳しく、北朝鮮には寛容でした。 このような違いを見せる理由は、日本のマスコミが左翼・革新系だからという説明が世間では流れていました。 しかし当のマスコミがどのように説明しているのか、なかなか見当たりませんが、左翼雑誌として有名であった『朝日ジャーナル』1976年1月16日号のコラム「風速計」に、次のような説明をしているのを見つけました。

韓国政府は、日本の新聞が二つの物差しをもっていると非難する。 「南」に厳、「北」に寛だ、というのである。 日韓条約は前文で『国連憲章の原則に適合』を謳い、国連憲章は「基本的人権と人間の尊厳」を強調している。だから日本国民は、日韓両国に共通する人権問題には、厳であって当然だ。 (3頁)

 以下、日本の植民地時代の弾圧を例に引いて、今の(1970年代の)韓国の言論弾圧に抵抗する人たちを応援するのだと主張しています。

 当時の日本マスコミは北朝鮮の人権問題には全く関心を持っておらず、北に取材に行っても北当局の宣伝をそのまま垂れ流すだけでした。 北の人民は金日成主席の温かい懐の元で幸せに暮らしている、というイメージを日本のマスコミが率先して報道していたのです。

 しかし韓国に対しては常に厳しい目で見ていました。 確かに当時の韓国は軍事政権で、言論弾圧等々の人権問題を常に抱えており、とてもじゃありませんが民主主義から遠かったです。 従ってそれに対して厳しい目を向けるのは理解できたのですが、その厳しい目が北朝鮮には向かわなかったのです。 

 つまり当時の日本のマスコミは、韓国を見る目と北朝鮮を見る目が違っていたのは事実でした。 だから韓国政府が「日本の新聞が二つの物差しをもっていると非難」したのは、事実その通りなのでした。 しかし『朝日ジャーナル』は国連憲章を持ち出して、韓国に対し「厳」であるのは当然だと居直ったのが今回紹介した記事でした。 そして同誌は北を訪問した人士の手記を何度も掲載して、北に対する「寛」の態度を貫いたのです。

 1970~80年代は、そんな時代でした。 今は昔の話です。

北朝鮮の内部情報は?2018/04/28

 昨日、韓国・北朝鮮の首脳が会談し、板門店宣言が発表されました。

 ところで、この宣言を北朝鮮の内部では国民にどのように知らせているのかに関心が行きます。 というのは、北朝鮮はこれまで、内部向けにはかなり印象の違う説明をする場合が多かったからです。 この内部向けの情報については、なかなか入手が難しいですが、時々専門家が入手して、公表されることがあります。

 毎日新聞2018年4月24日付の「特集 ワイド」面に、北朝鮮に関する情報力では定評のある鈴木琢磨記者の長文の記事があります。 なかなか参考になるものですが、残念ながらインターネット版には載っていないようです。 その記事のなかで、公開されている情報以外に、鈴木さんが入手したという北朝鮮の内部情報があります。 興味深いので紹介します。

 2002年9月に小泉首相が北朝鮮平壌に行って、金正日委員長と会談しました。 横田めぐみさんらの拉致を北朝鮮が初めて認めた会談でしたから、その時の状況は皆さんもご存じでしょう。 その翌月に朝鮮人民軍出版社が発行した兵士向けの講演テキストです。

最高司令官同志(金正日)は、対朝鮮敵視政策に固執していた日本軍国主義の頭目が頭を下げて我が国をまず訪ねてきたことは歴史に特記される大事変であり、これは我が党の先軍政治の偉大な勝利だ、とおっしゃった。 この度の日本の首相の平壌訪問は、日帝が1945年8月15日、偉大な首領さま(金日成)の前にひざまずいたごとく、再び白旗を掲げて我が国を訪ねてきて、最高司令官同志の前で膝を屈し、降伏書に判をついたのと同じである。

 北朝鮮内部では、2002年の小泉首相訪朝はこのように認識されていたということです。 日本側の認識とは大きく違うことに注目されます。

 次に金正恩政権が発足して2ヶ月半ほど経った2012年3月3日に、金正恩委員長は板門店を訪れました。党が内部向けに作成した「発言集」にその時の彼の発言が載っています。

去る祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期には、ここで停戦の談判をしたが、これからの戦いでは停戦という言葉自体を思い浮かべてはなりません。 我々は米帝と南朝鮮かいらいどもを必ず消滅させ、祖国統一の歴史的宿願をどうしても成就させなければなりません。 私は米国のやつらと李明博(当時の韓国大統領)から必ず降伏書を取らねばならないのです。

 ここでは、アメリカと韓国を「降伏」させる決意を述べています。

 そして2016年3月6日に金正恩委員長が党と軍の幹部に行なった秘密演説です。

強力な国防力、戦争抑止力で敵どもの膝を屈させ、祖国の平和と安全を守護し、経済建設と人民生活の向上のための闘争に資金と労力を集中できる有利な条件をつくらなければなりません。 そして我が人民たちが軍事強国、核強国の徳を受け、子々孫々、幸福を享有しなければなりません。 その日は遠くありません。 その日は我々の目の前にあります。

 2年前に金正恩が内部に向けて明らかにしたこの考え方が、今度の板門店宣言にも貫かれていると考えるべきでしょう。 あるいは板門店宣言はこれに沿って読めば北朝鮮の真意を垣間見ることができる、ということです。

 「敵どもの膝を屈させ」 「その日は目の前にある」とあるのが、正に昨日の南北首脳会談なのです。

 時々漏れ出るこのような北朝鮮内部情報は、なかなか参考になります。

【拙稿参照】

自主的、民主的、平和的統一       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/04/22/6421457

南朝鮮解放路線はまだ第一段階      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/03/30/6762019

北朝鮮を甘く見るな!(1)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/23/7395972

北朝鮮を甘く見るな!(2)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/07/28/7400055

北朝鮮を甘く見るな!(3)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/02/7404064

北朝鮮を後押しする中国          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/08/8011036

「朝鮮半島の非核化」は「北朝鮮の非核化」とは違うのでは? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/08/8799658

金正恩の発言は既定の北朝鮮の路線  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/12/8801876