梶村秀樹さん2006/07/05

 拙論第91題で、漢の武帝が朝鮮北部一帯を平定して建郡したいわゆる「漢四郡」を北朝鮮が否定していることについて、

「韓国でも漢四郡については、そこまで言わない。やはり実証のないことでは北朝鮮はさらに抜きん出ています。」

と論じた。ところが日本人研究者で、この根拠のない北朝鮮の説を採用する人がいた。その名は「梶村秀樹」さん(1935~1989)である。彼はその著作『新書東洋史⑩ 朝鮮史』(講談社現代新書 1977)に、漢四郡のうちの楽浪郡について次のように記述している。

「漢の楽浪郡は武帝の頭の中だけにあって、せいぜい遼東に仮設されたにすぎないとみられる。一方、この頃、遼東古朝鮮とは別に、平壌に、武帝をして征服を夢みさせるにたるような王朝が存在したことが推定されるが、この平壌の無名王朝は、一時的な侵寇くらいはこうむったかもしれないが、基本的に征服されずに存続したと考えることもできる。‥‥漢の楽浪郡の遺跡とされてきた平壌郊外の『楽浪漢墓』は、たしかに漢字や中国系遺物をふくむが、平壌王朝側が一方では漢と戦いつつ、その文化を主体的に受容した遺跡とみなすことができる。」(33~34頁)

 梶村さんは古くからの著名な朝鮮史研究者であったが、その中身は北朝鮮のプロパガンダそのままであって、歴史研究の王道を踏み外すものであったのである。  彼は朝鮮に「土下座しつつすり寄る」日本人の典型例と言えるだろう。  このような日本人研究者が昔はいたんだよと笑い話的に言える時代が早く来ればいいのに、と思っている。

国籍剥奪論2006/07/15

>剥奪論の中で問題視されている「国籍」は、主に在日の日本国内における地位を問題にしているのであり、感情論から来る「元の国籍を取り戻す」という願いは、必ずしも「日本国内における地位」を視野に入れていなかったのではないでしょうか?>

 終戦=解放後における在日の主張は、日本国内で日本人より有利な外国人という地位が欲しい、という観点からのものです。  1980年代から登場した剥奪論は、日本国籍が欲しいのではなく、外国人であり続けたいが日本人と全く同じ地位・権利がほしい、という観点からのものです。  従って「日本国内における地位」は視野に入っています。

>在留資格を保留したのは、言葉を変えれば即座に「永住資格」を与えなかったという事だと思います。>

 126-2-6という在留資格(朝鮮・台湾といった旧植民地出身者)は、他の資格のような制限を設けずに引き続き日本に在留できる、というものです。在留資格のなかで最も有利なものです。「永住」という言葉はありませんが、それと同等あるいはそれ以上の意味です。従って「永住資格」を与えなかったという点は、言葉的にはその通りですが、中身においては誤りです。

>自分たちは朝鮮人であり「敗戦国民」「敵国民」にされたくないというやはり感情レベルの意味ではないでしょうか?>

 それはポツダム宣言の内容(朝鮮の独立)を実行するという意味がありますので、感情のレベルかどうか疑問です。朝鮮人は1945年までは「大日本帝国臣民」であり、それ以降は日本から解放=離脱したということです。

>仮に、その地位が「在留資格」をも視野に入れていたのであれば、その要求は満たされたのでしょうか?>

 満たされました。

> この間、厳密には1991年の「特別永住」までは在日朝鮮人に対する日本国内における在留資格は極めて不安定なものであったのではないでしょうか?>

 126-2-6は法律ですので法律上の地位は安定しています。不安定であるという主張は大きな間違いです。不安定であったのは、法律上の定めのなかったその孫以降の世代です。

>これを「有利」と言えるかについては甚だ疑問があり、間違っても「永住」と同等とは言えないと思いますが如何でしょうか?>

 永住権者よりはるかに有利な処遇を受けてております。

> しつこくまとめますと、在日が訴える「国籍剥奪論」は、本当に剥奪か否かという問題ではなく、その本質は、例えばドイツなどに比して、戦後処理責任を真摯に行わなかったという指摘だと考えますが如何でしょうか?>

 国籍剥奪論は朝鮮の解放を否定する言説です。つまりポツダム宣言の精神を否定し、日本の植民地支配を引きずるものです。  「戦後処理責任を真摯に行わなかったという指摘」は誤りです。

>(1)1952年、日本政府はどうして在日の在留資格を保留(「別に法律で定めるところにより、その者の在留資格及び在留期間が決定されるまでの間は・・・・」)したのでしょうか?その次点で何故、永住資格をあたえなかったのでしょうか?>

 繰り返し言っていますように、永住資格より有利な地位を与えております。  それまで日本の帝国臣民であったという歴史的経緯および当時の東アジア情勢から、この地位となったものとされています。またこれはかなり特殊なもので、十分な検討をされないまま1952年を迎えたために、とりあえずの法律となったとされています。

>永住資格を与えられた場合、その子も、その孫も、永住資格を与えられます。>

 これは間違いです。永住資格の子については法の定めがありませんでした。その当時は、外国人というのは一時的滞在者であって、永住する気なら帰化するものとされていた時代です。ましてや永住する外国人が子をもうけることは想定外のことでした。  なお永住資格の子供については、現在も永住する権利は与えられていませんので、出生後90日以内に永住権を申請しなければなりません。

> この両者を比較して、1952年の次点でどうし在日の在留資格(厳密には在留資格ではありませんが)が永住と同等もしくはそれより有利といえるのでようか?>

 126-2-6の子および孫は、法の定めによる在留資格がありました。従ってこの点については永住資格よりも有利です。  また例えば生活保護は、126-2-6系列は受給することが出来ましたが、他の外国人は永住資格でも受給する時点で国外退去となります。この点でも有利さは歴然としています。

>(3)どうして、「国籍剥奪論」が朝鮮の解放を否定し、ポツダム宣言の精神を否定することになるのでしょうか?少しだけ詳しく解説願えますでしょうか?>

 国籍剥奪論というのは、当人たちの意に反して日本国籍を強制的に奪うことの意味でしょう。ポツダム宣言における朝鮮の独立・解放とは、日本からの離脱を意味します。日本が宣言を受諾しましたので、朝鮮半島という土地、および朝鮮人という人間が日本から離脱することになります。しかもそれは朝鮮半島に樹立された両政府および在日朝鮮人自身の考えでもありました。つまり朝鮮の解放が日本国籍から離脱を意味することは当然であり、これを「剥奪」と表現することは解放を否定するものです。

在日の生活保護の法的根拠2006/07/22

 『諸君!』2006年4月号の浅川晃広さんの「見苦しいゾ『在日』の二枚舌」と題する論考があります。  内容は朴一大阪市大教授の著作『「在日コリアン」ってなんでんねん?』(講談社α新書 2005年)を批判するものです。

 拙論(http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/14/364473)でも、この本について「間違い・誤解・矛盾・重要事実の隠蔽が随所に見られる」と批判しましたが、浅川さんの方が説得力があります。

 しかし一点だけ疑問なところがあります。それは在日の生活保護の根拠のところです。(173~174頁)  彼は在日の生活保護について

「“在日コリアン”が対象外であっても当然のはずの生活保護」 「これ(在日の生活保護受給)は‥‥国会、法律、ひいては国民を無視した措置なのである」 「“在日コリアン”の生活保護受給は、法律的に極めて疑義があることはもちろんのこと」

と書いておられます。

 在日の生活保護は、1965年までは法に基づくものではなく法の運用によるものです。従ってこの時点までは、法的に疑義があるとする彼に一理があります。

 しかし65年に締結された日韓条約の在日韓国人の法的地位協定のなかに、教育・生活保護・国民健康保険について明記されています。  つまり在日の生活保護は、この条約によって法的根拠が与えられたのです。  この点が彼の言説の中で疑問とするところです。

「永住資格」はいつから始まったか?2006/07/28

>なお戦前戦中では、外国人の永住資格はなかったはずです。(今手元に資料がありませんが)1952年の時点でも、永住資格は定められていなかった可能性があります。>

 外国人の永住資格については、1951年発布・施行の出入国管理令のなかに定められている16種類の在留資格のなかにあります。第四条の(カ)もしくは14項に定めがあります。この資格を持つと、外国人登録における在留資格欄に4-1ー14と記載されます。  従って永住資格が定められていなかったことはありません。

 なお戦前戦中の件ですが、外国人の滞邦期間が15日未満、30日、60日以上の場合の規定があるのみで、永住=無期限の場合の定めは見当たりません。

>そもそも「永住」などという概念自体がありませんでした。> >外国人は、全て「寄留」という概念でした。>

 戦前における外国人管理は、大正七年一月二七日付け内務省令第一号「外国人入国に関する件」と昭和一四年三月一日付け内務省令第六号「外国人の入国、滞在及退去に関する件」として公布施行されているものです。

 そこにおける考えは、まさにその通りで、外国人は寄留=一時的滞在者というものです。従って「永住する外国人」という存在はあり得ませんでした。

 しかし昭和二六年十月四日付けの出入国管理令では在留資格16種類のなかに「永住」が定められています。なぜこれが突然に出てきたのか。

 当時の日本では外国人の出入国管理権はGHQにありました。これは憶測になりますが、GHQは日本政府に対して、アメリカの法を示して、これに準じた出入国管理政策をやらせようとしたのではないか、その時にアメリカ法にあった永住資格が日本の法令でも定められることになったのではないか、と思っています。