集英社新書『在日一世の記憶』(その4)2009/01/01

 この本の782頁に≪読者の皆様へ≫のなかに次のような一文がある。

「本書には、『京城』『日韓併合』という言葉が頻出します。京城は、1910年から1945年にかけての、いわゆる大日本帝国による朝鮮半島の植民地時代、それまでの首都だった漢城を改めた呼称で、現在のソウルの大部分を示してはいますが、必ずしも同じ都市名ではありません。‥‥‥右に例示した言葉や表現は、歴史事実を曲解させたり、差別を拡大、助長させる恐れがあり、本来ならば使用をさけるべきです。」

 1910年に漢城を京城と改称したのは歴史的事実であり、また解放後の韓国が首都ソウルの市域を拡大していったので、京城とソウルは市域が違うのも当然である。従って「歴史を曲解させ」るという理由にはならない。

 また李朝時代に諺文(ハングル)の「ソウル」を漢字語で言い表すのが「京城」であることは、原田環氏の「近代朝鮮における首都名の表記について」という論文のなかで証明されているし、現在の韓国で発行されている総合雑誌『月刊朝鮮』理事の趙南俊氏も、「京城」は口語で使われる「ソウル」を漢字で書くときに使う文語であることを明言している。  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuunidai  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyaku11dai

 「京城」を「歴史を曲解させ、差別を拡大助長させる」とする考えは、誤りとしか言いようがない。

(参考)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuukyuudai

集英社新書『在日一世の記憶』(その5)2009/01/02

 この本は52人の在日一世の体験談とされているが、次の二人は「在日一世」ではない。

 22、平野八重子(315頁~)  50、石梨香(718頁~)

 平野さんは元々日本人で、日本で生まれ育ち、在日朝鮮人男性と戦後の1947年に結婚している。

 石さんも元々日本人で、日本で生まれ育ち、在日朝鮮人男性と出会って5年経て1959年に結婚している。

 彼女らは結婚後は日本人ではなく朝鮮人として生きてきたが、朝鮮の地で暮した事がない。結婚後も生活の場所はすべて日本であった。

 この本では在日一世を「植民地時代から南北分断時代にいたる民族受難の歴史を異国で生き抜いた在日韓国・朝鮮人」(761頁)としている。従ってこの二人が「在日一世」でないことは明白である。

  在日一世でない者を二人も『在日一世の記憶』という本のなかに入れたのは何故なのだろうか? その理由・意図は、この本のどこにも記されていない。

集英社新書『在日一世の記憶』(その6)2009/01/03

 この本の編者である小熊英二は、「あとがき」のなかで在日の将来について次のように述べる。

「一世たちは、明らかに日本社会における『異物』であったが、現在の三・四世の在日はもはや言語的・文化的に日系日本人と差異はあまりない。日系日本人との通婚率も高くなり、国籍法が男女両系主義に変更していらい、生まれる子供は日本国籍になる可能性も高まっている。したがって、在日六・七世は存在しうるのか、存在するとしてもきわめて少数になるのではないかという疑念はでてきても不思議ではない‥‥‥

わたしは『在日』の存在は今後もなくならないと思う。‥‥

日本社会と『在日』の人びとが『在日』というカテゴリーを必要とするかぎり、どれほど文化や国籍の同化が進もうとも、『在日』は残りつづけるだろう。それは差別対象としてであるかもしれないし、日本社会を批判する足場としてかもしれないし、社会的権利を集団的に求めるためのいわば便宜的団結としてかもしれない。そうした必要がある限り、『在日』の存在はなくならず‥‥」(779~781頁)

 果たして日本社会が在日というだけで彼らを「必要」とすることがあるのだろうか?しかも「必要」というのが、「差別対象」であり「日本社会を批判する足場」としての必要性であるという。こんな必要性を有する日本人は、よほどの偏見に満ちたというか、人間性に問題のある人だ。  日本社会にとって必要な在日とは、日本社会に寄与・貢献してくれる人たちである。そういう存在ならば、在日が「異物」であろうが、「同化」していようが、まったく関係のない話である。

 また在日自身が「社会的権利を集団的に求めるためのいわば便宜的団結」のために「在日」を必要とするとある。  しかし小熊自身が書いているように、在日は日本国籍を取得していくのである。日本国籍を有せば、他の日本人たちと「社会的権利」の差はなくなる。差のないものを「在日」という理由だけで権利を求めることは、それは特権要求でしかない。

 小熊の論理では、「在日」のアイデンティティの源泉は、朝鮮半島や民族文化になく、日本との関係のなかだけにある。しかもそれは被差別・受難・被害という関係である。  小熊は在日を第二の部落問題にしようとしているようだ。