在韓米軍の慰安婦の話(1)2014/10/25

 ホームレスの自立に貢献することを目的とする雑誌『ビッグイシュー』は日本では11年前から始まっていますが、韓国でも4年前に創刊されました。

 この10月に韓国旅行した際に、どんなものなのか?と関心があって購入しました。 そのなかに、在韓米軍の慰安婦だった方の話が記事となって出ています。 ちょっと興味深いものだったので、訳してみました。(第93号 2014年10月発行)

基地村(米軍基地周辺にある遊興街のこと)女性の人生、そして夢

米が無くなっていた。誰かが盗んでいったのだ。 何日間、いや何週間のあいだ、家の中のものが無くなっていった。 家に鍵をかけても、隙を狙って入り込み、米や調味料、果ては化粧品まで持っていった。‥‥彼女は長い間糖尿病、関節炎を患っていた。 すぐにでも死んでしまいそうだった。 電話する人もいなかった。 周りは、お互いが敵のようになって心を開いて生きることの出来ない人たち、世の中すべてが敵ばかりの中を生きてきた人たちばかりだ。心を開いたならば、その隙を狙って入り込み、傷を負わせる。 文字を知らないという弱みにつけ込んで、一生懸命に稼いだお金を盗んでいくのである。

「病気になっても病院に連れていってくれる人は一人もおらず、米を買う金がなくて飢えても水すらくれる人はいなかったよ。 南山の八角亭(ソウルの南山頂上の手前にある)に登って『あの広いソウルに、自分の兄弟・親戚が一人もいないなんて、どういうことか』と、どんなに泣いたことか」

1948年生まれの彼女は今年67歳だ。両親はソウルで裕福な暮らしをしていた。 1950年、その日も乳母が子供をおぶって散歩に出かけた。 その間に北朝鮮人民軍が家を襲撃し、家族は殺された。 両親とも兄弟とも別れた。 両親の顔も兄弟の顔も覚えていない。 貧しくて人の家の子供の面倒を見ていた乳母はその子供をかわいがったが、責任を持つことはできなかった。 戦争中であり貧しくもあり、何よりもその子供の責任を持つ理由がなかった。 子供は物のように、この家あの家と転々とし始めた。 子供は何も言えなかった。 幸いにも、子供は可愛かった。 人は可愛い子供だから育ててあげようと気軽に言ったが、すぐに捨てた。 戦争は子供から父母と兄弟を奪い、家に帰る道までも永遠に断ち切ってしまった。

彼女は制服がかっこよく見えた。 軍人になりたかった。 しかし彼女は学校に行ったことがなかった。 誰も彼女を学校に行かせてやらなかった。 彼女が生きている痕跡は、この世のどこにもなかった。 50年の間、彼女はこの国で生きたが、無いのと同じ存在だった。 動物たちは彼女に付いていった。 彼女もやはり道端で捨てられた動物を、そのまま通り過ぎることは出来なかった。 だから獣医とか動物の調教師とかになって、動物と一緒に暮らしたかった。3匹の犬と共に暮らしている今、犬たちは彼女の唯一の家族だ。 名節(節句などの祝祭日)は、彼女には最も悲しく、寂しい日である。