朝鮮人も日本人もない2014/11/29

 毎日新聞で「五輪の哲人」という連載をしていますが、そのなかで次のような記事がありました。

戦後70年に向けて:五輪の哲人 大島鎌吉物語/3 朝鮮人も日本人もない

1936年8月1日、ベルリン五輪は幕を開けた。五輪史上初となる聖火リレーが行われ、ギリシャ・オリンピアから運ばれてきた聖火を手に最終走者が10万人収容の五輪スタジアムに現れると、会場は熱狂の渦に包まれた。  その開会式を前に、日本選手団の中でちょっとしたいさかいがあった。日本は選手179人、役員70人の大選手団を編成した。その中には日本が統治する朝鮮の選手も含まれていた。

「なぜ我々が朝鮮人の後ろを歩かねばならんのだ」

入場行進の際の選手の並び方を決める時、陸軍の騎兵隊に所属する馬術の選手がそんな不満を漏らした。背の低い選手が前に来るよう順番を決めており、小柄な朝鮮の選手が馬術の選手より前に並んだ。それがマラソンに出場する孫基禎(ソンキジョン)だった。

前回ロサンゼルス五輪の陸上三段跳びで銅メダリストとなった大島鎌吉(けんきち)は34年に関西大学から毎日新聞社に入り、運動部記者として記事を書きながら、競技生活も続けていた。その年の日米国際対抗陸上競技近畿大会では15メートル82の世界新記録をマークした。           ベルリン五輪で大島は陸上日本チームの主将に指名され、開会式では日本選手団の旗手を務めることになった。

大島は馬術の選手を一喝した。      「ふざけるな。ここはオリンピックの舞台だ。平和の祭典だ。朝鮮人も日本人もない。気に入らないならこの場を去れ」

生前の大島、孫と交流のあった明治大学商学部の寺島善一教授(69)は孫から聞いたエピソードを明かしながら、こう振り返った。         「孫基禎さんは『こんなに親身になって自分のために怒ってくれた大島さんは、人間的に信頼できる人だと思った。兄のように慕って付いていきたいと感じた』と話していました。その後もずっと2人の親交は続いたんですね」  ‥‥ <文・滝口隆司>

http://sportsspecial.mainichi.jp/news/20141106ddm002050162000c.html

 この記事は、戦前において朝鮮人を侮辱・差別した日本人に対して、同じ日本人が「朝鮮人も日本人もない」と一喝したという美談です。 この美談の核心である「朝鮮人も日本人もない」という言葉は当時としては、同じ天皇陛下の赤子なのに何故差別するのか! と同じになることに注意を引かれました。

 この類の話は、戦前では割とよく出てきます。 植民地時代の朝鮮では、日本人が現地の朝鮮人に対して乱暴な言葉を使って侮辱・差別することが多々あったのですが、その時に日本人警官が「何を言っているのか!同じ天皇の赤子だぞ!」と叱りつけたという話がよく出てきます。 そして叱られた日本人は「天皇」という言葉におののいて、謝るしかなかったというのです。 なおこれは聞いた話なので当時の資料に出てきたものではありません。

 しかしこれはおそらくあり得る話だろうと思います。 というのは、戦前の同和問題(部落差別)に対して当時の水平社が闘うときに使った論理が正に「同じ天皇の赤子」でした。 特に軍隊内での差別に対して、水平社がこの言葉を出すことは非常に有効だったようです。 軍人たちはこの言葉を聞いた途端に姿勢を正し、言うことを聞くのでした。 当時としてはあからさまな差別言動に対して、たとえ泣く子も黙る日本帝国軍人であっても、これには黙ってうな垂れて聞くしかなかった時代でした。

 この論理は一君万民思想(=天皇の下では臣民はすべて平等)なのですが、これが差別問題解決の大きな武器になったということです。 これが植民地朝鮮では「朝鮮人も日本人もない」ということになるわけです。 そしてベルリンオリンピック金メダリストの孫基禎は、差別発言した日本人にこの言葉を使って一喝した大島について、「人間的に信頼できる人だ」と高く評価したのです。

 しかし「朝鮮人も日本人もない」は神社参拝・創氏改名・徴兵制等々の「皇民化政策」と同じ発想ですから、今では民族を否定する同化だとして厳しく批判されるものです。 確かに朝鮮人も日本人も同じように扱うという平等(=反差別)の考えは、朝鮮民族の否定に繋がるものと言えるかも知れません。

 日本の明治以降の国民の理念であった「皇民化」=「同じ天皇の赤子」=「一君万民」をどう扱えばいいのか。 平等なのか?それとも民族の否定なのか? その裏表面すべてを考察せねばならないところです。