李朝時代に女性は名前がなかったのか(4)2016/05/04

 現代は人に名前があるのが当たり前ですから、中世の朝鮮では「朝鮮の李朝時代の女性に名前がなかった」と言うと、まさかそんなことはあり得ないだろうという反応が返ってくる場合が多いです。 犬猫でも名前をつけるのに、一体名前なしでどうやってその人を呼び、あるいは特定していたというのか、名前のない人間なんて想像すら出来ない―そういう反応が出てきますので、理解してもらうのがなかなか難しいようです。

 李朝時代の女性に名前がないというのは、個人に付けられる名前でもって本人を特定したのではなく、別の形で本人を特定したということなのです。 こういったことを、もう少し分かりやすく書いたものはないかと探してみました。 文化人類学の崔吉城さんが自分の母親の例を報告しています。 なお崔さんは1940年生まれですから、母親は李朝時代末期あるいは植民地時代初期の生まれに当たります。

崔吉城「韓国人の名前に関する人類学的研究」(上野和男ほか編『名前と社会』 2006年6月 早稲田大学出版部 所収)

私がこのことに関心を持つようになったのは、私事であるが、私の母親に名前がなかったことを知ったからである。 母が亡くなって、死亡届けのために初めて戸籍謄本をじっくり見た。 そこには姓名欄に「黄姓女」とのみ書いてあったのである。 普通は本貫(始祖の本籍地)というものがあるはずなのにそれもないので、位牌に書くべき黄氏の本貫の一つである「平海」を借りて「顕妣孺人平海黄氏之神位」と書いた。 その前にも戸籍謄本を見ているはずだが、生存中一度も母親の名前で呼ぶことはなく、また名前がなくとも違和感を持たなかったのである。 私は母の死後に位牌を書く時になって初めて名前がなかったこと、女性の名前に関する因習に気が付き、認識を新たにしたのである。 それまでの日常生活では名前がなくても不便ではなかったということは、名前を呼ぶ必要性がなかったことを意味する。 つまり私の母のように女性は名前を持っていなくとも、私の親の世代では珍しくはない。 女性は名前を持ったとしても呼称として使われることは少なかった。 このような女性に名前に関する慣習は父系性の強い韓国社会の特徴を表すものであろう。 そしてまた日本における女性の名前と呼称とは対照的であることもわかった。(146~147頁)

私の母親は名前がなかったが不便でなかったように、女性は名前を持たなくてもよかったし、名前があってもほとんど使われていない。 今村鞆(植民地時代の民俗学者)は、“(女性の名前は)民籍法施行の際、土民下流の輩にして、中には全く無く”、“女は出嫁の後、代名呼称を以て呼ばれ、名を呼ばれることなき”と記している。 一昔前までは女性は生まれてから死後まで名はなくともよいといっていいほど使われなかった。 女性に個人名をつけることは20世紀初頭まで待たねばならなかったのである。   このように女性には個人名があったりなかったりしたが、呼称としてはほとんど使われなかった。 これは女性のアイデンティティを認めないことを意味することかもしれない。(161~162頁)

 李朝時代の女性に名前がないというのは、このような状況でした。 そして李朝時代の人にとっては、女性に名前がないのが余りに当たり前だったのです。 お国が違えば、ましてや時代が違えば、想像すら出来ないくらいに社会が違うことがあるのです。

【拙稿参照】

李朝時代に女性は名前がなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/29/8033782

李朝時代に女性は名前がなかったのか(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/23/8055612

李朝時代に女性は名前がなかったのか(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/01/8061795

名前を忌避する韓国の女性   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/10/8043916

李朝時代の婢には名前がある  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/19/8053165

許蘭雪軒・申師任堂の「本名」とは? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/31/8060665

水野・文『在日朝鮮人』(6)―渡航の要因2016/05/09

第一の要因は、いうまでもなく植民地化の朝鮮の経済的状況の変化である。10年代の土地調査事業によって土地所有権が明確化される中で、土地を失う農民が増加したことが原因であったが、それに加えて20年代の朝鮮産米増殖計画が生み出した経済的要因が大きく作用した。‥‥農業だけでは現金を手に入れられない農家は、都市に出て働き口を得ようとした(22~23頁)

第二の要因として、文化的・社会的変化をあげることができる。‥‥学校に通う朝鮮人(特に男子)は増える傾向を続けた。日本語を習得したものは、それ以前の世代とは違って日本に行って働くことに障害を感じることが少なかったといえる。また、日本の新聞・雑誌を通じて、あるいは親族や知人から聞く話を通じて日本についての情報や近代文明の息吹に接することによって、日本の渡航を希望する(24頁)

 在日朝鮮人の渡日の要因を説明した部分です。 要因は二つで、一つは経済的要因、もう一つは文化的・社会的要因を挙げています。 しかし最も重要な人口的要因が出ていないのは何故なのでしょうか。

 1910年の植民地化当初の朝鮮の人口は約1,300万人。 これが35年後の1945年に約3,000万人(朝鮮本土2,500万、日本200万余、満州200万余、その他50万)と2倍以上に増加します。 しかしこの人口の増加に対応できるだけの農業生産は困難でした。 農村では過剰人口に悩み、農村外に出ようとする勢いが大きくなります。 一方の日本では近代産業化が進み、鉱工業や土木建設などに労働者の需要が大きかった時代です。 当然、朝鮮から日本へという人の流れが現れます。 これが朝鮮人の渡日の一番大きな要因です。 これを挙げないのは、何か意図があるのでしょうか。

 なお「第一の要因」として「土地調査事業によって土地所有権が明確化される中で、土地を失う農民が増加した」となっています。 しかし土地所有権が明確化というのは、農民が耕作する田畑が自分のものとなって安定した農業が出来るようになったという点があります。 つまり生活が安定したのです。 在日朝鮮人の渡日要因に土地調査事業による「土地の喪失」を挙げるのはいかがなものかと思います。 むしろ土地調査事業によって農民が安定した生活が営めるようになったから人口が急増し、これによって農村が人口過剰状態となり、そのために日本へ渡航する動きが大きくなったと言えるでしょう。

水野直樹・文京洙『在日朝鮮人』(1)―渡日した階層 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/06/8066021

水野・文『在日朝鮮人』(2)―渡航証明と強制連行 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/11/8069125

水野・文『在日朝鮮人』(3)―強制連行と強制送還  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/17/8072649

水野・文『在日朝鮮人』(4)―矛盾した施策 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/25/8077594

水野・文『在日朝鮮人』(5)―強制連行と逃走  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/29/8080041

土地調査事業  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/04/23/3273840

水野・文『在日朝鮮人』(7)―人口の急増2016/05/14

韓国併合の頃の数千人から35年間で200万人に達する朝鮮人が日本に居住するようになった最大の原因は、日本による朝鮮植民地支配にあったといわねばならない。(81頁)

 ここはもう少し掘り下げて書けなかったのか、と思います。 朝鮮は植民地支配によって近代社会になり、それに伴って人口が急増した。 しかし朝鮮は農業社会であり、農業生産が人口の急増に対応できず、農民は疲弊するしかなかった。 だから人口過剰で疲弊した朝鮮から、産業化が進んで労働力需要の旺盛な日本本土に人口が移動する現象が起こった。 これが、朝鮮人が日本に居住するようになった最大の原因である。 こういう風に書いてほしかったと思います。

 近代社会になって人口が急増するのは、全世界史的な現象です。 朝鮮も日本の植民地支配を受けることによって近代社会に入り、人口が急増しました。 これが過剰人口の植民地から労働力需要の大きな宗主国への移動という現象につながるのです。

 ところで植民地近代化論を批判・反対する論者は韓国にも日本にも多数いますが、人口急増になかなか言及しませんねえ。 日本の植民地支配は世界に類を見ない過酷な収奪だったとする歴史像では、人口急増は説明が難しいのでしょう。

水野直樹・文京洙『在日朝鮮人』(1)―渡日した階層 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/06/8066021

水野・文『在日朝鮮人』(2)―渡航証明と強制連行 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/11/8069125

水野・文『在日朝鮮人』(3)―強制連行と強制送還  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/17/8072649

水野・文『在日朝鮮人』(4)―矛盾した施策 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/25/8077594

水野・文『在日朝鮮人』(5)―強制連行と逃走  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/29/8080041

水野・文『在日朝鮮人』(6)―渡航の要因 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/09/8086320

水野・文『在日朝鮮人』(8)―戦前の強制送還者数2016/05/19

 水野・文『在日朝鮮人』では、戦前にたとえ不法で摘発されようが、それでも日本に行きたいと思っていた朝鮮人がどれほど多かったかを記しています。 これについては先に紹介しました。

連絡船乗船の際の(渡航)証明書のチェックが厳格になされ、朝鮮南部や西日本の海岸地方では「密航船」の摘発が強化された。「密航」を摘発されたものは、内地側だけで38年(昭和13)に約4,300名、39年には約7,400名に上った。摘発されたもののほとんどは朝鮮に送還された。(50頁)

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/17/8072649

 戦前・戦中に日本に不正渡航して摘発され、強制送還された朝鮮人の人数について、もう少し詳しい資料がありましたので紹介します。 ここでは1933年からの10年間の数字を挙げます。なお1943年以降の数字はありません。

       「不正渡航」発見     うち朝鮮へ送還

 1933年     1,560人         1,339人

 1934年     2,297人         1,801人

 1935年     1,781人         1,652人

 1936年     1,887人         1,691人

 1937年     2,322人         2,050人

 1938年     4,357人         4,090人

 1939年     7,400人         6,895人

 1940年     5,885人         4,870人

 1941年     4,705人         3,784人

 1942年     4,810人         3,701人

    森田芳夫『数字が語る在日韓国・朝鮮人の数字』(明石書店 1996年6月)75頁

 正規の手続きを取らずに日本に渡航して摘発された朝鮮人は、1938年から急増しています。 当時日本に行きたいと思っていた朝鮮人が、この1938年から非常に多くなったことが分かります。 ところがこの本では一方において日本に無理やり連れて行く「強制連行」がこの翌年の1939年から始まったとしています。 これを見れば、「強制連行」という歴史には整合性がないと言えます。

水野直樹・文京洙『在日朝鮮人』(1)―渡日した階層 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/06/8066021

水野・文『在日朝鮮人』(2)―渡航証明と強制連行 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/11/8069125

水野・文『在日朝鮮人』(3)―強制連行と強制送還  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/17/8072649

水野・文『在日朝鮮人』(4)―矛盾した施策 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/25/8077594

水野・文『在日朝鮮人』(5)―強制連行と逃走  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/29/8080041

水野・文『在日朝鮮人』(6)―渡航の要因 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/09/8086320

水野・文『在日朝鮮人』(7)―人口の急増 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/14/8089137

韓国の小説の翻訳に挑戦(8)―クォン・ヨソン2016/05/24

 個人的な韓国語勉強のための翻訳挑戦です。 

 今回は、日本ではおそらく知られていない作家の作品です。 簡単な作家紹介によれば、1996年に文壇デビューした方です。

クォン・ヨソン「伯母」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/imo.pdf

【これまでの小説の翻訳】

申京淑「ある女」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/aruonna.pdf

申京淑 「伝説」  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dennsetsu.pdf

申京叔「今私たちの横に誰がいるのでしょうか」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/imawatashitachinoyokoni.pdf

孔枝泳 「真剣な男」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/shinnkennnaotoko.pdf

孔枝泳「存在は涙を流す」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/sonnzaihanamidawonagasu.pdf

殷熙耕 「私が暮していた家」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/watashigakurashiteitaie.pdf

殷熙耕「他の雪片と非常によく似たたった一つの雪片」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/tanosubete.pdf