日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(1)2022/04/06

 日本は朝鮮を植民地としていない、と主張する人がいます。 私が「植民地時代の朝鮮」と書けば、そのような反応をする人が少なからずいました。 そこで「植民地」についてうまく説明しているものはないかと探していたところ、木村幹『誤解しないための日韓関係講義』(PHP新書 2022年3月)の中に解説がありましたので、紹介します。

日本の朝鮮半島や台湾における支配は、植民地支配ではなかった、という主張がある。 例えばある人たちは、日本の植民地支配下において、一定の経済発展があったことを以て、その支配が植民地支配ではなかった、と主張する。 また他のある人たちは、朝鮮半島や台湾の人々に教育が与えられ、大学が建設されたことを以て、やはり日本の支配は植民地支配とは言えない、と力説する。 そこで強調されるのは、例えば、イギリスのインド支配や、オランダのインドネシア支配などとの相違である。(66頁)

植民地とは何であるかから考えてみよう。 最初に重要なのは、歴史上に登場する「植民地」には実に様々なものがある、ということである。 日本語の「植民地」という語は、英語のcolonyをはじめとする西洋諸語からの翻訳語であり、これらの西洋諸語の語源はラテン語のcoloniaにある(67頁)

日本が朝鮮半島を支配していた時期の日本人は、「植民地」についてどのように理解していたのだろうか。 当時の植民地問題の「専門家」「植民地政策学」研究者である京都帝国大学教授であった山本美越乃は‥‥ 植民地とは、法律上、本来の国土つまり本土から明確に区別され、異なる法律によって支配されている土地だ、ということである。‥‥ そしてそれは当然だった。 時代はすでに20世紀、植民地を有する列強はいずれも、程度の差こそあれ、近代的な法的枠組みを以て統治を行なっていた時代だったからである。(69~70頁)

重要なのは、植民地とは定義上「場所」だということであり、これと区別される「本国」とどう異なっていたかである。‥‥ その「場所」が本国と異なる状態に置かれているとしたならば、近代的な法的枠組みを持つ国家においてその理由は一つしかない。 それは「場所」に本国と異なる法律が適用されているからである。‥‥ 例えば、その「場所」に住む人々が国政に参与することができないような状況に置かれているとするならば、その理由はその「場所」における法律、例えば憲法や選挙法の適用状況が、本国と異なるからである。(70~71頁)

植民地を本国と分ける基準は、どのような法律が適用されているかであり、また適用されている法律を見れば、その「場所」が植民地か否かがわかることになる。(71頁)

 「植民地」は、その言葉の中に「地」という漢字がある通りに「場所」を指します。 それは、同じ国家領土内で本国とは違う法体系で統治される「場所」なのです。 そしてそこには経済的な「搾取」「収奪」は関係がないことを強調しておかねばなりません。

 例えば香港は1999年まではイギリスの植民地でしたが、1960年代から経済が発展し、90年代までには一人当たりのGNPが本国よりも高くなりました。 つまり本国の人間よりも植民地の人間の方が経済的に豊かになっていたのです。 「搾取」「収奪」された哀れな植民地ではありません。 それでも香港はロンドンの議会で制定される法律を適用されず、本国より任命される総督によって統治されていましたから、「植民地」と言うしかありません。 

 ところで日本が統治した朝鮮は、当初より最後まで日本本国から大きな財政援助を受けていました。 つまり赤字経営で日本側からの持ち出しばかりだったのですから、「搾取」「収奪」がなかったと言うことは可能です。 しかしだからと言って、朝鮮は「植民地」ではないと主張する人がいるのにはビックリです。

 朝鮮における行政最高権力者は日本首相ではなく朝鮮総督であり、東京の帝国議会で成立した法律は朝鮮には適用されず、朝鮮からは議会に代表を送ることが出来ず‥‥、正に「植民地」なのです。

(1930年代までの日本本国では)大蔵省においては、朝鮮総督府や台湾総督府、さらには樺太庁などの予算は一括して「植民地特別会計」という名のカテゴリーにまとめられており、これに勤務する官僚も「植民地」官僚と呼ばれていた。 施行される法令は「植民地」法令という形で一括され、整理されることとなっていた。 内務省はこれらの地域について『植民地要覧』あるいは『植民地便覧』を毎年発行し、朝鮮総督や台湾総督は、関東州長官と並んで「植民地長官」と呼ばれ、日本政府は‥これらを集めた「植民地長官会議」をも定期的に開催 (73~74頁)

 このように朝鮮において「植民地」は、当初はごく普通に使われていました。 ところが1930年代になって、「植民地」の代わりに「外地」という語が使われるようになります。

朝鮮半島や台湾に対して当たり前に使われていた「植民地」という表現が、突如として使われないようになり、代わりに「外地」が使われるようになった経緯については、実は日本政府自身による説明が存在する。 外務省条約局が1957年に出版した『外地法令制度の概要』によれば、その経緯は以下のようなものになっている(74~75頁)

外地なる呼称が情報されるにいたったのはそれ程古いことではなく、25年前の昭和4年(1929)、拓務省が設置された頃からであって、拓務省の前身で規模の小さな拓務局時代には殖民地あるいは植民地なる名称をもって海外領域あるいは異法域の代称とした。 ‥‥ 枢密院の審議に上程されたところ、拓殖は拓地植民を意味し‥統治上面白くない節があるとの理由で‥当然の帰結としてその所管地域についても使い慣らされた植民地なる称呼に替え、外地という名が慣用されるにいたったのである。(75頁)

つまりは、1930年代に入ってからの「植民地」から「外地」への用語の変容は、「統治上面白くない節がある」という極めて国内的なそして政治的な理由によるものであり、何かしらの統治の実態の変化を伴ったものではなかったのである。(76頁)

 1930年頃から「植民地」という言葉にはマイナスイメージが付くようになって「統治上面白くない」から、「植民地」を使わないようにした、ということです。 要は単なる言葉の言い換えでしかなかったのです。

 それがいつの間にか「日本は朝鮮を植民地にしたのではない」という主張になってしまったと考えられます。 言葉を言い換えても、植民地として中身は変わらなかったのですがねえ。

例えば、日本による朝鮮半島や台湾に対する支配の特殊性を、その支配下において大きく人口が増えた点に置く人たちがいる。 そこでは人口増加は、即ち、経済発展や衛生状況の好転の証であり、だから同じ現象がなかった欧米諸国の植民地支配とは異なるものだ、というのである。(80頁)

確かに、日本統治下の朝鮮半島や台湾で人口が増えたのは事実である。 それでは欧米諸国の統治下にあった植民地では人口が増えなかったのか。‥‥ 明らかなのは、程度の差は大きく異なるとはいえ、19世紀以降、欧米諸国の支配下に置かれた多くの地域でも、ほぼ等しく急速な人口増加が見られたことである。(81頁)

背景に存在したのは、西洋列強における資本主義と民主主義の発展であった。‥そこには本国の人々が自らの経済的利益のために、植民地経済の活性化を望む状況が存在し、だからこそ民主主義が根付き始めていた西欧各国政府は、有権者の期待に応えて、植民地への積極的な投資を行なった。 結果、この時期の各植民地では本国による「上からの」経済的刺激により、経済が活性化し、それにより人口も増加することになったのである。(81~82頁)

 要するに、19世紀末~20世紀前半に全世界的な資本主義の発展により、世界の植民地の経済も発展し人口も増えたのです。 植民地はそれまで資源略奪的経営だったものが、この時に開発投資して経済発展を図る経営へと変わったのです。 日本の朝鮮や台湾を植民地にしたのは、まさにこの時期に相当します。 日本の朝鮮・台湾は欧米諸国の植民地と歩調を合わせていたのですから、“欧米の植民地とは違う”という主張は成り立ちません。  (続く)