金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団2025/05/02

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478 の続きです。

⑬	 金時鐘さんの父親は西北青年団と親しかった

 4・3事件の前後、反共右翼団体の「西北青年団」はかなりの横暴を働いたようで、評判が極めて悪いですねえ。 金時鐘さんは次のように記します。

済州島4・3事件の前章に位する極右団体、「西青」(西北青年団)の横暴きわまりない〝アカ狩り”テロ‥‥ (北朝鮮からの)越南者のほとんどが反共主義の権化となって警察や右翼団体の先頭に立ち、済州島にも支部を作って島民への迫害をほしいままにしました。 (『朝鮮と日本を生きる』岩波新書 126・27頁)

(米軍政は)専ら共産党とその同調者を「策出」する治安維持の総責任者に、極め付きの趙炳玉を当てたのです。‥‥ その一方で「民間突撃隊」と恐れられた大韓民族青年団(族青)、西北青年団(西青)、大同青年会(大青)を育成、後押しをして左翼の集会になぐりこみをかけ、ピケラインを襲ってスト破りをし、白色テロを日常茶飯事のようにはびこらせました。 (同上 136・137頁)

反共が身上の極右団体が大々的に台頭したのも、半年ほど前の夏ごろ(1946年)からです。‥‥(11月には)北朝鮮を追われた人たちが若者らによる「西北青年団」を結成しました。‥‥ 金日成社会主義体制への怨嗟を梃子に超過激な反共の突撃隊をもって任じた社会団体が西北青年団です。 支部結成時はまだ小さな団体でしたが、日を追って続々と本土から移入してきて傍若無人な振る舞いを常套化していきました。 ゆすりたかりから難癖をつけての暴力沙汰は日常茶飯事の出来事で、職務規定など持ち合わせない彼らは、警官すらできないことを平気でやってのけました。 (同上 158・159頁)

済州島を「アカの島」と決めてかかっているべロス軍政長官と、極右の性向をむしろひけらかしてやまない柳海辰知事とが相俟って、西北青年団、大韓青年団等の右翼勢力がより強化され、白色テロが白昼堂々横行するまでになりました。 言いがかりを付けられたが最後、誰もが「赤(パルゲンイ)」にされて半死半生の目に遭いました。 とりわけ西青(西北青年団)の横暴ぶりは目に余るものがありました。 (同上 180~181頁)

 ところが金時鐘さんの父親は、この暴虐な西北青年団と親しくしていました。

父は西北青年団済州島支部のみぎり、顧問就任を要請されていながら体調を理由に辞退したことがありました。 邑内には当時北朝鮮出身者は父ひとりだったようで、私と同年輩ぐらいの西北の青年たちが何かにつけ、食事によばれにちょくちょく家にやってきていました。 (同上 173~174頁)

ぼくの家が北出身だからか、西北会の若い青年たちがその日暮らしが出来なくて、よく家に来てたんですよ。 (金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか』 平凡社 79頁)

 父親は西北青年団とかなりの親交があったようで、「顧問就任を要請され」たり、「西北の青年たちが何かにつけ、食事によばれにちょくちょく家にやってくる」ほどでした。 息子が共産主義者(南労党員)でありながら、一方では反共極右の青年たちと親しくしていたというのですから、心穏やかでなかっただろうなあと想像します。 そして父親は、息子のためにその西北青年団に頼みごとをします。

(1947年3月ゼネストに関連して金時鐘さんが逮捕)私も検挙されて2週間に及ぶ留置場体験を生まれて初めて味わいました。‥‥私は通院加療中の患者であるとの証明と、職務に忠実な教員養成所の嘱託であったことが幸いして、特例の形で釈放されました。 正直に申しますと、北朝鮮出身の父のつてで、西北青年団の口利きがあったことも、あとでうしろめたく知りました。 ‥‥ 西北青年団と父の関係をくどくど問いただしてきました (『朝鮮と日本を生きる』岩波新書 170~171・173頁)

(釈放後)母は眼が落ちくぼんでいたほど憔悴していて、父は以前にも増して無口になっていましたが、私の党活動について意見がましいことは何ひとつ口にしませんでした。 ただ「お母さんを心配させるな」とは、そっぽを向いての直言でした。 (同上 181頁)

 金時鐘さんは警察に逮捕された時、「職務に忠実な教員養成所の嘱託」だったから釈放されたと思っていたら、実は違っていました。 父親が西北青年団の知り合いを使って、「特例で釈放」されたのです。 父親は息子の共産主義活動を黙認し、息子が逮捕された時にその息子と対立関係にある極右団体に「口利き」を頼んだのでした。 だから金さんは、「うしろめたく」なったというわけです。

 また金時鐘さん自身が家に来る西北青年会の若者と話を交わして、彼らへの同情を語っていました。

その話を聞くのよ。 なぜ北を離れてきたということをね。 ‥‥ あやまって米軍政のお先棒を担ぐ暴力団のような奴らだと思っていたけど、個別的に会うと悲哀もあるし、流離、故郷を離れたもののかげりもあるわけよね。 ‥‥ 個別的に知っている若い何人かの思い出を考えると、悲哀、憂いもただよってくるのよ。 (『なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか』 平凡社 79頁)

 金時鐘の父親が西北青年団と親交があったことや、また金さん自身がその青年団の若者と親しく話をしていたことは、上述のように著書でわずかに触れているだけです。 青年団を激しく糾弾調に非難しながら、一方ではその青年団に同情を寄せるような一文を書く‥‥ この落差をどう理解したらいいのでしょうか。 金さんは4・3事件について各地で講演をしておられますが、このことに言及しないようです。           (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478