韓国の民族史観 ― 2015/10/26
伊藤亜人『アジア読本 韓国』(河出書房新社 1996年7月)に、現在の韓国で歴史学の主流となっている民族史観について次のように紹介されています。
民族史観は李朝時代においては在野の史観というべきものであった。 しかし、韓末から日本統治下を経て解放後の今日に至るまで、韓国の史学で主流を成してきたのは、この民族史観であると言ってもよい。 民族史観とは基本的には事大史観からの脱皮と日本統治下の植民地主義史観に対抗して、民族の主体性とアイデンティティを強調する使命を担ってきたと言える。 こうした歴史観は李朝時代においても‥‥神仙思想ないし朝鮮道家の系譜を受け継ぐもので、特に檀君朝鮮の重視、非漢族である清と連盟して漢を征服することを主張する聯清・征漢論、中華に仕えるとする慕華・事大思想の排撃、道家(神教)の重視、東夷文化の再興などを唱えている。 民族の底流にあったこうした史観が、後には民族主義史観として主流を占めるまでに至り、実証主義的史学からは非科学的として、また社会経済史学からは神秘主義として批判されながらも、今日に至るまで民衆の強い支持を得ている。(28~29頁)
実証史学の側からはとるに足らない非科学的なものとみなされているが、逆にこれら民族史観の側から見れば、そもそも実証史学というものこそ、日帝時代に京城帝国大学を拠点に日本人歴史家が、植民地主義史観に都合のよい科学的実証性をふりかざしたものであって、したがって民族の血や肉と無縁の代物であり、史学が本来担うべき民族に尊厳と力をもたらす使命を放棄した主体性を失ったものであると厳しく反論する。(29頁)
学界自体においても、実学的な具体的・実証的な研究は一般的に軽んじられる傾向がある。 どちらかと言えば理論的あるいは観念的な研究のほうが尊重されるのも、内面性や精神性を重視する文人の伝統によるものであろうか。 特に社会科学においては、実社会の事例に即した実証的な研究は、文人よりは現場の職人の仕事と見なされるためであろうか、あまり尊重されない。(56頁)
韓国の民族史観あるいは民族史学は実証から離れてイデオロギー的なのものですが、これが韓国の歴史学の主流です。 この民族史観においては、実証というのは自分の歴史観を証明するための作業にしか過ぎません。 自分の歴史観に外れる歴史資料があれば「それは捏造された」「歪曲されている」と否定したり、自分の歴史観に沿う資料がなければ「誰かがその貴重な資料を廃棄した」とか「誰かが意図して隠している」とか言い出します。 そしてこの「捏造」「歪曲」「廃棄」「隠す」人が、日本人になる場合が多くなります。
民族史観については、かつて拙論でも論じたことがありますので、お読みいただければ幸いです。
第91題 実証なき歴史研究 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuuichidai
韓国の歴史には、楽浪がない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/13/5085283
韓国の歴史資料改竄志向 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/10/12/3815175
韓国のマスコミが語る「中国の歴史歪曲」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/10/17/5420260
韓国中央日報のビックリ古代史記事 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/10/06/7828118