かつて在日の身分事項の混乱2018/12/25

 もう古い昔の話になりますが、在日韓国・朝鮮人が自分の身分証明事項に関して、彼ら自身が混乱していたことが多々ありました。 その一例が『季刊 三千里 №24』(1980年11月)の李敬子「父の在日・私の在日」に載っていましたので紹介します。

私は長い間、父をずいぶんいいかげんな頼りにならない父親だと思ってきた。なぜかといえば、まず名前である。父は私に「敬子」という名前をつけたつもりであった。確かに届出はそう記していた。ところが、もの心ついてから私はみんなに「キョウコちゃん」と呼ばれ(もちろん父からも)、自分の名前は「京子」であると信じてきた。だから小学校に入学した時、「冠村敬子」と書かれた自分の名前を見て、これは自分の名前でないと泣いて抗議した。その結果、本名李敬子こと冠村京子という、二つの名前をもった一人の人間が存在することになった。

次に生年月日である。小学校入学当時は、たしか昭和26年(1951)4月22日生まれとなっていたと記憶している。ところが中学校に進む時に、市役所の届出は5月21日になっているから、どちらからに決めて欲しいと担任の先生に言われた。考えてみれば、私の兄姉は、みな生年月日が二転三転している。四番目のあになどは月日だけでなく年の方がずれていて、入試手続の際にアワをくってほうぼう走りまわって証明書をもらい、変更したことがある。

自分の子供の名前や生年月日さえいいかげんに届け出てしまう何と無責任な父親だろうと思ってきた。おかげで外人登録の際のイヤな思い出も一つ二つではなく、どうもいまだに市役所ときくとイヤな思い出しか持ちあわせていない。 (以上 106~107頁)

 昔の在日一世の親は、こういった人が多かったものです。 母親の大抵は読み書きが出来ませんでしたので役所への出生届なんかは父親がしたものですが、届け出内容と実生活で使うものとに齟齬が生じることがしばしばでした。 だから子供の名前や生年月日に混乱が生じるという事態が発生したのです。

 もともと朝鮮人は日帝機関である総督府が作成する戸籍を信用しない傾向が強かったです。 だから子供の出生届はかなりいい加減だったようです。 特に生年月日は都合のいい日付で届け出ることが多かったのです。 当時の朝鮮人の生年月日は、戸籍よりも族譜(家系図)の方が本当であるという話はよく出てきます。 日本人は戸籍を非常に大事にしますが、かつての朝鮮人はそうではなかったのです。

 その考え方を受け継ぐ在日一世の父母は、子供の出生届がいい加減になってしまったようです。 届け出た子供の名前や生年月日を忘れてしまうなんて、そう珍しいことではなかったのです。 だから上述の李敬子さんのような例が出てくるのです。

 さらに本国では朝鮮戦争等によって戸籍そのものが焼失したりしたこともあり、韓国政府は新たに戸籍を作成するのですが、間違いが非常に多かったといいます。 在日が本国から戸籍を取り寄せたら、名前が違う、生年月日が違う、父母の名前が違う、となることがよくありました。

 このように在日は自分の身分事項が混乱した状態でしたから、パスポート(韓国)が作れない、あるいは日本に帰化しようとしても本人確認の書類が作れないので帰化できない、とかの状況が生まれました。

 在日が帰化するのが難しいという話がありますが、実はこのように混乱した身分事項が大きな一因でした。 これを解決しようと思えば本国戸籍と日本の外国人登録を整理して内容を一致させればいいのですが、これには費用と手間と時間が相当にかかります。 在日が帰化するのにかなりのお金を使い苦労したという話は、大抵はこのことです。 在日の帰化の難しさの原因はここにあったと言ってもいいぐらいです。

 以上はかなり昔の時代のことで、今は在日三・四・五世の時代です。 戸籍整理が済んでおり、日本の外国人登録と韓国の戸籍(家族関係登録簿)とが一致することがほとんどですから、パスポートの取得も容易ですし、帰化も以前ほど難しくはありません。 在日の状況は本当によくなりましたねえ。

【拙稿参照】

水野・文『在日朝鮮人』(22)―帰化 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/11/08/8244117

帰化にまつわるデマ        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/31/387157

在日の帰化            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/18/489465

帰化と戸籍について        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/26/499625