在日韓国人と本国韓国人間の障壁2023/12/12

 もう40年以上も前の経験ですが、在日が本国韓国人と会うのを嫌がるのを多々見ました。 例えば民族差別と闘う在日の場合、「我々在日は日本から民族性を奪われてきたから、本名を名乗り歴史を学んで民族性を取り戻し、差別する日本社会と闘うのだ」などと勇ましく言っていました。 だから本国から来た韓国人とは同じ民族なのだから我々日本人とは違ってすぐに打ち解けるものと思っていたら、そんなことはなく、じっと黙ったままでした。 またある在日は勤め先の会社が韓国と合弁事業を始めて、韓国の相手先会社の役員が来日する時に会わせられそうになったので、その日は会社を休んだという実話を聞きました。

 また二世が親に連れられて韓国の故郷に行ったという話はよくありました。 民族性を取り戻すチャンスなので、「よかったですねえ、向こうはどうでしたか?」と聞くと、むつっとして喋らない。 その時は、〝これはこの人だけの場合であって、そういうこともあるだろう、一般的にはそうではないはず″と思って、それ以上は聞きませんでした。 

 しばらくして、在日が本国韓国人に会うのは、そこが日本であれ韓国であれ、嫌がるものだということに気付きました。 在日は本国韓国人と会うこと自体を最初から嫌がる場合が多いのでした。 民族差別をなくさねばならないと考える日本人は、韓国の悪口を言わないのですが、在日と親しくなるとその在日から韓国の悪口を聞くことになります。  「韓国人のくせに」と叱られた、在日のことを何も分かっていない、もうあいつらなんかと話したくない、もう韓国なんかに行きたくないというのが定番の悪口でした。

 本国韓国人は私のような日本人の場合には「ハングンマル チャラシネヨ(韓国語、お上手ですね)」と言ってくれるのですが、在日へは「チェデロ モタヌンガ(ろくに喋れないのか)」となるようです。 民族を取り戻すために韓国語や歴史を一生懸命勉強したと思ってきた在日は、この厳しい言葉を聞いてショックを受けるのですねえ。

 鄭大均さんは『在日韓国人の終焉』(文春新書 平成13年4月)という本のなかで、次のように書いています。

多くの在日韓国人にとって韓国とは、父母や祖父母たちの故郷であり、単なる外国の一つというよりは因縁のある地だとしても、肯定的な関心が作用する地ではない。 (135頁)

母国にある種の同一化を期待してやってきたような在日韓国人にはむしろ違和感を覚えさせるような経験  (129頁)

実は、在日韓国人にとって、ニューカマーの韓国人は付き合いやすい相手ではない。 在日韓国人が韓国籍を維持しながらも韓国や韓国の文化には無関心であるのに対し、ニューカマーの韓国人は韓国人としての自己を、韓国や韓国文化とのつながりの中で確認し証明しようとする、いいかえると、ニューカマーの韓国人は彼らが韓国人らしさと考えることを実践しない者を韓国人とは見なさない。 在日韓国人のように、韓国語を失い祖国に無関心という人間はもはや韓国人とはみなされないのである。 (145頁)

これは在日韓国人が長い間維持してきた心の均衡が揺り動かされるような体験である。 ‥‥ 在日韓国人はニューカマーの韓国人と見られることを嫌うし、在日韓国人が喋る韓国語は韓国人からバカにされる。 在日韓国人が長い間維持してきた心の均衡が、ニューカマーの韓国人によって揺り動かされる‥‥ (145~146頁)

 在日が1970年代ころからよく言うようになった「自分は日本人でもなく韓国人でもない、在日なんだ」は、鄭さんのいう「心の均衡が揺り動かされる」、すなわち心のバランスが崩れることなのです。 それは〝韓国人でありながら中身は日本人と同じ″という矛盾の現れと言うことができます。

 かつて〝在日は日韓の橋渡し″だとか、〝在日をどう扱うかによって日本社会の国際化が問われる″とか言われたことがありましたが、実は今の在日にはそんな存在意義がないのでした。 「日本人でも韓国人でもない」と言った時点で、もはや〝日韓の橋渡し″なんか出来ないことを意味し、また今の日本での在日外国人問題において自分たち在日の役割がないことも意味するので〝日本社会の国際化″に貢献することもありません。 

 これから在日はどのように生きていくのか。 ある者は〝もはや韓国人であり続けたくない″と帰化し、またある者は〝今のままでいい″と韓国籍を維持し、時には〝本国の韓国人と同じにするな!″と言い、そしてまたある者は民族に覚醒して〝日本にはまだまだ民族差別がありこれと闘う″等々‥‥。 どの道を選ぶかは個々の在日がぞれぞれで決めればいいだけで、これこそが〝在日の正しい道″なんてものはありません。 周囲の日本人は本人の選択を尊重するだけです。

 ただ大きな流れは、韓国人としての在日の存在は縮小していきます。 ただし一部の在日は自分が〝日本人でない″ことを強く意識するあまり日本への批判・非難(反日)を激しくしており、これからも続けるようです。 「日本人でも韓国人でもない」と言いつつも日本人化している現状、だからこそ危機意識を持つ一部の在日活動家は反日をさらに激しくしていくと予想します。

 なお朝鮮総連系では、朝鮮学校で〝祖国は北朝鮮″であるという民族自覚を持たせようと必死の努力をしてきました。 私自身は総連系の方との付き合いがなくっていて今はよく分かりませんが、聞くところによるとやはり日本への同化は止みがたいようです。 だから総連系でも大半は更なる同化への道を歩み、ごく一部が北朝鮮の影響下のまま同化を拒もうとして自分たち同士で固まり閉鎖的になっていくだろうと、私は予想しています。

 総連や朝鮮学校では、このような人たちは「赤い人」と呼ばれているそうです。 「赤い」といっても「リンゴ」(皮は赤いが中身は白い)のようですが‥‥。 つまり総連系の一部の「赤い人」は、せめて皮だけでも赤い「リンゴ」に固執すると思われます。 しかし北朝鮮の本国人は〝中身まで赤い″でなければなりませんから、本国人との間に障壁があると思われます。 

【拙稿参照】

韓国人でも日本人でもない―しかし同化する在日韓国人  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/14/9562752

在日コリアンと本国人との対立      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/11/20/6208029

在日コリアンの「課題」         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/08/6282960

姜信子『棄郷ノート』を読む    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/19/8977899

「同化」は悪だとされた時代    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/15/8018723

水野・文『在日朝鮮人』(21)―同化  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/23/8197450

在日は日韓の架け橋か          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/07/11/5212322

在日が民族の言葉を学ぼうとしなかった言い訳  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/12/12/5574193

35年前も変わらない在日の状況     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/01/10/5631713

在日は「生ける人権蹂躙」?-『抗路』巻頭辞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212