被差別正義2010/08/06

 1970年代、差別問題に取り組む団体において、部落民・在日・障害者等々といった社会的に差別されているとされている人間に対して、神化というか聖化というか、正義そのものだとする風潮がありました。

 被差別者の言うことは何でも正しいとして、差別者側に立つ人は自分の罪におののいて、ただ聞くのみ、という関係でした。

 差別者の立場に立つ人は、被差別者側に土下座しつつ、すり寄ろうとする状況になるのですが、それはさらに自分を被差別者の立場になりたいという考えを持つに至ります。

 ある団体では、その構成員の一人(健常者)が、自分の耳に棒を刺し、さらに自分の目をつぶそうとしました。自分を障害者にして、被差別側の立場になりたいということだったのですが、さすがにこれは周囲の人が止めて、事無きを得ました。しかし、当時の差別問題に関わったことのある私には、これを愚かだと決めつけることは出来ません。

 差別問題に取り組む団体では、こんなことはあっても全くおかしくない風潮というか、体質があったのです。  被差別者=善=正義、 差別者=悪=不義という考えに溺れ込んでしまうと、差別者は卑屈になって自分の肉体を傷つけることもある‥‥そのような風潮・体質です。

 そして被差別者は、自分の存在そのものが正しくて、周囲は最初からすべて悪だと思考方式ですから、傲慢になっていきます

 解放運動は罪作りな運動をしていたものだ、というのが今の私の感想です。

コメント

_ 流れ者D ― 2010/08/15 11:49

この記事を読んで、今、
小浜逸郎『「弱者」とはだれか』(PHP新書’99)を読み返しています。
 ご存知とは思いますが、この論考では、マイノリティの問題について感じる「言いにくさ」や「遠慮」の構造を洗いなおすことで、それまでステレオタイプに語られていた差別・被差別の関係を見直す試みが行なわれています。

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