「同情は差別」か? ― 2010/08/13
わが職場にはアルバイト学生がよく来ます。雑談でいろんな話を聞くのですが、ある時、学校の必修科目である人権授業で、障害者である講師が、「障害者を可哀そうだと同情するのは、自分を高みにおいて障害者を差別するものだ」と言ったそうです。授業を受けていた学生たちはみんなビックリ。
その講師は、普段は車椅子を使うのですが、学校内では杖をついてヨタヨタ歩くそうです。階段では、ほとんどコケそうなぐらいなのですが、授業で「同情は差別だ」と言いましたから、そんな姿を見た学生はみんな見て見ぬふり。だれも「手を貸しましょうか」と言わなくなったとのことです。
また街で障害者を見かけても、出来る限り近づかないようにしたとのことです。もし何か同情的なことを言ったりしたら、「差別だ!」と怒られるかも知れないからです
これが「人権授業」の成果なのでしょうか? 疑問に感じたものでした。
コメント
_ 流れ者D ― 2010/08/13 23:43
_ 辻本 ― 2010/08/14 05:48
〉その障害者の講師は、当事者として、どんな認識で障害者問題に関わってきたのでしょうか。
学生から聞いた話なので、どのような認識を持った講師なのか分かりません。
差別問題で「同情は差別だ」という主張は、以前からありましたし、今も強く主張されているようです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1415999689
http://wiki.blhrri.org/jiten/index.php?%A1%F6%C6%B1%BE%F0
〉 まさか「足を踏むものは踏まれた者の痛みが分らないのだ」という有名な「朝田理論」の援用なのでしょうか?
これがいわゆる「朝田理論」とどのような関係にあるのか? 関係がありそうとは思いますが、ちょっと分からないですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E7%94%B0%E7%90%86%E8%AB%96
学生から聞いた話なので、どのような認識を持った講師なのか分かりません。
差別問題で「同情は差別だ」という主張は、以前からありましたし、今も強く主張されているようです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1415999689
http://wiki.blhrri.org/jiten/index.php?%A1%F6%C6%B1%BE%F0
〉 まさか「足を踏むものは踏まれた者の痛みが分らないのだ」という有名な「朝田理論」の援用なのでしょうか?
これがいわゆる「朝田理論」とどのような関係にあるのか? 関係がありそうとは思いますが、ちょっと分からないですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E7%94%B0%E7%90%86%E8%AB%96
_ 流れ者D ― 2010/08/15 11:24
例えば、こういう見方もあるのでは…
最近の若い連中は…とステレオタイプにものを言うことは好みませんが、
どうも「草食系」などと呼ばれている若い男は、
ややこしいことには最初から関わり合いになりたくない、
お年寄りの荷物すら持つことを避ける…傾向があるのではないか、というのが今週号の週刊ポストに載っていた
金 美齢氏のコメントにありましたが…
あっしがその若い学生の立場なら、いきなり「同情は差別につながるからするな!」と教壇の上から言われたら
「じゃ、どうすればいいんだ」という気持ちにはなりますね。
あっし自身も、言葉に軽い障害を持っているのですが、やはり自分より重い障害を持っている人たちを見たら、どうしても同情してしまいますね。
ただ、学生時代にある在日の学生活動家との対話の中で、
「差別を受けている俺らに同情するな!」や「お前らに俺らの気持ちが分るのか!」という言葉は、実は
「俺らのことを分って欲しい」という思いの裏返しなんだ、
ということを、ある在日の学生活動家は話してくれたのを思い出しました。
最近の若い連中は…とステレオタイプにものを言うことは好みませんが、
どうも「草食系」などと呼ばれている若い男は、
ややこしいことには最初から関わり合いになりたくない、
お年寄りの荷物すら持つことを避ける…傾向があるのではないか、というのが今週号の週刊ポストに載っていた
金 美齢氏のコメントにありましたが…
あっしがその若い学生の立場なら、いきなり「同情は差別につながるからするな!」と教壇の上から言われたら
「じゃ、どうすればいいんだ」という気持ちにはなりますね。
あっし自身も、言葉に軽い障害を持っているのですが、やはり自分より重い障害を持っている人たちを見たら、どうしても同情してしまいますね。
ただ、学生時代にある在日の学生活動家との対話の中で、
「差別を受けている俺らに同情するな!」や「お前らに俺らの気持ちが分るのか!」という言葉は、実は
「俺らのことを分って欲しい」という思いの裏返しなんだ、
ということを、ある在日の学生活動家は話してくれたのを思い出しました。
_ たまたま拝見しました。 ― 2010/11/23 06:09
「障害者を可哀そうだと同情するのは、自分を高みにおいて障害者を差別するものだ」
辻本さんは、コンプレックスが無いのでしょうね。
障害者の人は自分がそうなりたくてなったのではないと思います。
だから自分が可哀相と思われたくないのだと思います。
可哀相というのは気をつけないと侮辱にもなる言葉です。
「学校内では杖をついてヨタヨタ歩くそうです」
ヨタヨタ歩くと書くこと自体、その方には侮辱になると思いますよ。
その方は、必死に同情されたくないから頑張っているのだと思います。
きっと誇り高く、自分はなんとか障害を乗り越えようと
努力されているのだと思います。
だから可哀相と思われるのは屈辱的なことだと思います。
そんな努力をされている方には、その方に自身が
障害者と感じさせないよう、周りも察してあげるのが
本当の優しさではないでしょうか?
同情は努力してる人には屈辱的なものだと考えます。
辻本さんは、コンプレックスが無いのでしょうね。
障害者の人は自分がそうなりたくてなったのではないと思います。
だから自分が可哀相と思われたくないのだと思います。
可哀相というのは気をつけないと侮辱にもなる言葉です。
「学校内では杖をついてヨタヨタ歩くそうです」
ヨタヨタ歩くと書くこと自体、その方には侮辱になると思いますよ。
その方は、必死に同情されたくないから頑張っているのだと思います。
きっと誇り高く、自分はなんとか障害を乗り越えようと
努力されているのだと思います。
だから可哀相と思われるのは屈辱的なことだと思います。
そんな努力をされている方には、その方に自身が
障害者と感じさせないよう、周りも察してあげるのが
本当の優しさではないでしょうか?
同情は努力してる人には屈辱的なものだと考えます。
_ 辻本 ― 2010/11/23 09:33
>そんな努力をされている方には、その方に自身が
障害者と感じさせないよう、周りも察してあげるのが
本当の優しさではないでしょうか?
障害者であることを知りながら察してあげる、というのは、これこそ同情でしょう。
同情が屈辱的であるなら、「察してあげる」必要もないです。
障害者と感じさせないよう、周りも察してあげるのが
本当の優しさではないでしょうか?
障害者であることを知りながら察してあげる、というのは、これこそ同情でしょう。
同情が屈辱的であるなら、「察してあげる」必要もないです。
_ 在特会 ― 2010/11/25 19:45
>「障害者を可哀そうだと同情するのは、自分を高みにおいて障害者を差別するものだ」
糾弾されてもかないませんから。
頼まれた時以外は知らん顔してます。
在日は見てもわかりませんから、
全く関係ありませんねえ。
差別されてると思うなら、祖国へ帰ったらいいんじゃありませんか?
糾弾されてもかないませんから。
頼まれた時以外は知らん顔してます。
在日は見てもわかりませんから、
全く関係ありませんねえ。
差別されてると思うなら、祖国へ帰ったらいいんじゃありませんか?
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一人は脊髄損傷の車椅子の法学生で、もう一人は近くのムラから遊びに来る、小児麻痺で足がダメな当時高校生の女の子でした
あっしらは彼らの車椅子を押したり、彼女の荷物を代わりに持ったり、まぁ普通に違和感無く付き合ってましたがね。
辻本様の例ですが、その障害者の講師は、当事者として、どんな認識で障害者問題に関わってきたのでしょうか。
まさか「足を踏むものは踏まれた者の痛みが分らないのだ」という有名な「朝田理論」の援用なのでしょうか?