『言葉のなかの日韓関係』(3)2013/04/11

 尹東柱は「序詩」という10行ほどの詩が最も有名です。韓国の教科書に掲載されてきており、韓国人なら誰でも知っている詩です。日本では何人もの人が日本語訳をしていますが、その中で朝鮮文学研究の第一人者である大村益男さんが「最高のできだ」とする宇治郷さんの訳(156頁に掲載)を紹介します。

  死ぬ日まで天を仰ぎ   一点の恥なきことを、   葉かげにそよぐ風にも   わたしは苦しんだ。   星をうたう心で   すべて死にいくものを愛さなくては   そして わたしに与えられた道を   歩みゆかねば。

  今夜もまた 星が風にふきさらされる。

 私は、この詩は作者の生き方、つまり将来への強い希望(星)と同時に、この希望に対して揺れ動き悩み苦しむ心(葉かげにそよぐ風・星が風にふきさらされる)を詠ったものと思いました。

 ところで小倉紀蔵さんはこの本のなかで、この詩について「木の葉(葉かげ)」「風」は「はかなく、うつろいやすく」、また「星」とは「永遠に変わらず輝くもの、硬質で堅固なもの」であり、この詩が「不動で不変で永遠であると思われる星もまた、ひとひらの木の葉と同じように実は搖動しつつ風に吹かれて滅びゆくものなのだ、といっている」と論じています。(18頁)

 成程、そういう解釈ができるんだなあと感心するのですが、次に小倉さんはこの解釈に対して多くの韓国人が「強い不快感を表す」(19頁)と記しています。韓国人は「ここでいう星というのは、韓国人という民族を指しているのだ。どんな風にも揺らぐことなく耐え、抵抗する確固たる民族の魂を、尹東柱はうたっているのだ。日本によってずたずたにされてしまったが、決してこわれることのない民族の言葉、心、生というものを、星という言葉に託してうたっているのだ」と言うのです(19頁)。

 小倉さんはこのように解釈する韓国人が 「(自分の解釈が)この『序詩』に対する大韓民国的な『正答』であると威圧的かつ声高に主張」 「『道徳的正答』という暴力的な概念をふりまわして、それ以外の解釈や思考を威圧したり排除したり」(19頁)すると指摘します。そして 「(尹東柱の)言葉を特定の政治的・道徳的立場に本質化して吸収することは、詩への冒瀆」(23頁)と厳しく批判します。

 小倉さんが、「尹東柱は韓国人ではない」と強く主張するのも、このような韓国人の解釈への批判です。http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/09/6772455

 尹東柱の詩を素直に読めば、政治的・民族的・イデオロギー的なものはありません。しかし韓国では尹東柱は「民族的抵抗の詩人」「悲劇の詩人」であることを繰り返し教えられてきているのですから、その詩は「(日本に)抵抗する確固たる民族の魂」となるのです。

 ここは小倉さんの批判が正しいと思うのですが、おそらく韓国では受け入れられないでしょうねえ。

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