『韓国・朝鮮史の系譜』(1)2013/05/02

 矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜―民族意識・領域意識の変遷をたどる』(塙選書 2012年3月)を購読。

 「朝鮮」の範囲は現在のところ、北は鴨緑江と豆満江、東は日本海、西は黄海、南は東シナ海と朝鮮海峡に囲まれるところです。このうち東西南は広い海であるので、ここは古くから明確なのですが、北の境界については非常に変動が多かったものです。

 現在の北の境界は、直接的には大韓帝国を保護下に置いた日本が中国の清朝と結んだ1909年の「間島協約」によるものですが、もっと遡ると1712年に清朝が立てた「定界碑」です。

 つまり鴨緑江と豆満江を国境としたのは300年ほど前のことで、それ以前は極めて曖昧だったのです。従って「朝鮮民族(韓民族)」の範囲も、歴史とともに大きな変遷を経てきました。

 ということは朝鮮において、「朝鮮民族(韓民族)」という民族史、民族の活動空間である「朝鮮」という地域史、そして当然のことながらその政治体制である国家史はかなり食い違うものとなります。

 10年以上前の拙論『日本史の特徴』http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuunidaiで、

全世界においては、このように歴史(地域史と民族史と国家史)がバラバラであるのがほとんどであって、日本のように三つの歴史が千数百年もの間、ずうっと重なるというのは非常に珍しい例なのである。アジアにおいては日本以外では、お隣の朝鮮ぐらいであろうか。

と論じましたが、朝鮮では三つの歴史(民族史・地域史・国家史)が一致するのはせいぜい300年ほどのことだということです。

『韓国・朝鮮史の系譜』(2)2013/05/04

 朝鮮史上で「三韓」といえば、1世紀から5世紀頃にかけて朝鮮半島南部にあった「馬韓」「弁韓」「辰韓」を指します。

 現在の大韓民国の国名である「韓」はここに由来します。だから、何十年前かに「韓国」か「朝鮮」かで北朝鮮と韓国が対立した時代、北が「韓というのは朝鮮半島南部だけを言うもので、朝鮮全体を表す名前ではない。これを使うということは、分断を固定化するものだ。」という理屈で、「韓国」の使用に反対したものでした。

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuurokudai

 当時は、これを正しいと思って信じていました。ところで『日本書紀』では、馬韓・弁韓・辰韓ではなく、高句麗・百済・新羅を「三韓」と表現しています。これは日本だけの勝手な呼び方とばかり思っていました。

 ところが数年前に高麗(10~14世紀)では、自国を「三韓」と呼んでいることを知り、我が無知を恥じました。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/25/1533306

 貨幣史の本を見ても、高麗は「三韓通宝」「三韓重宝」という銭貨を鋳造していることが分かります。

 ところで『韓国・朝鮮史の系譜』では、この「三韓」についてかなり詳しく論じられており、非常に参考になりました。

三韓とは「馬韓・辰韓・弁韓」を指すが‥‥‥本来「三韓」とは別個の存在であった高句麗は、朝鮮半島への南進を契機として百済・新羅と激しく対立したため、いつしかこの鼎立する「三国」を併せて「三韓」とも呼ぶようになった。‥‥‥高句麗の「三韓」への編入によって生み出された「三国」の歴史像‥(34頁)

前近代の中国・朝鮮・日本では、高句麗・百済・新羅の三国を「三韓」と呼ぶことの方が一般的であったことは覚えておいてよい (58頁)

この三国が新羅に統一されると、いわゆる「三韓」の領域は一つとなり、「三韓」の民は一つとなって、ここにはじめて「朝鮮民族(韓民族)」の基礎が確立した。(67頁)

統一新羅の末期には「後百済」の甄萱、「泰封(後高句麗)」の弓裔など、地方の豪族が割拠したが‥‥王建が「高麗」を建国し(918年)、新羅・後百済を併合して朝鮮半島を再統一した(936年)。この王建による「後三国」の統一のことを、史料では一般に「三韓の統一」と称しているのである。(69頁)

 これでやっと高麗が自国のことを「三韓」と称している訳が分かりました。高麗は、自分が高句麗・百済・新羅の三国を受け継ぐ国だという認識があって「三韓」と称していたのです。朝鮮半島南部だけに成立していた馬韓・弁韓・辰韓とは関係ないということですねえ。

『韓国・朝鮮史の系譜』(3)2013/05/07

 新羅は高句麗と百済を滅ぼし、新羅・高句麗・百済の三国(=三韓)を統一したのですが、中国の唐朝からは大同江(今の平壌を流れる川)と龍興江(今の元山の北、永興を流れる川)以南の領有が公認されただけ、高句麗の領域の大半を占める以北は「渤海」という国の領域となりました。 新羅は渤海を次のように認識しました。

靺鞨の建てた異類の国であり、これを『三韓』の人々の『同胞』として意識することはなかった‥‥統一新羅の立場からいうと、高句麗の正統性を継ぐのはあくまでも新羅であって‥‥新羅の人々は渤海を高句麗の正統な継承国家とは認めず、あくまでも靺鞨人の建てた異類の国として位置付けたのである。  このように『渤海』を異類視する認識は、新羅人のみならず、その後の高麗時代の人々、および朝鮮時代の人々にもそのまま引き継がれていった。(82頁)

 従って新羅は高句麗の旧領域に建てられた渤海について、次のように認識することになります。

高句麗の継承国家として認めないという認識は、逆にいえば、高句麗の旧領を靺鞨人が不当に『占拠』しているという認識につながる」(83頁)

 ところで靺鞨人とは後に女真人・満州人と呼ばれる人たちです。高麗人や朝鮮人は旧高句麗領である満州地方に住んでいる靺鞨人に対する侮蔑感を持つようになります。 ところがこの靺鞨人=女真人が中国の北宋を亡ぼして「金」国を建て、高麗を服属させました。

女真人に対して伝統的に侮蔑意識をもつ高麗の人々は、しかし現実世界においては女真人の金朝に服属し、その冊封を甘んじて受けなければならなかった。この屈辱感から『金国討伐論』や『称帝建元論』などが提起され‥‥(112頁)

 高麗では自分より下等と信じていた靺鞨人=女真人の「金」国を宗主国として崇めねばならないという屈辱感から、皇帝の称号を使い、独自に年号を制定して「金」国と対抗しよう(称帝建元論)とか、あるいは「金」国を倒そう(金国討伐論)とか、およそ非現実的な議論が盛行するようになりました。これは小中華思想と呼べるものでしょう。

 朝鮮の小中華思想は、17世紀に「明」国を亡ぼした「清」国が朝鮮を服属させた時に、政治的・実質的には清国に従属しながらも、心の中では我こそはあんな野蛮とは違う文明人だ、我が国が文明の中心だと勝手に思い込むものです。これは400年前の話ですが、この小中華思想が実は更に500年も遡る12世紀の高麗時代にすでに芽生えていたのです。

 朝鮮(韓)民族の小中華思想はかなりの歴史を持つ、非常に根深いものだということです。この小中華思想は現代の北朝鮮に受け継がれていることは、以前に論じました。

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuunanadai

『韓国・朝鮮史の系譜』(4)2013/05/10

 李氏朝鮮は1897年(明治30年)に中国の清朝から独立し、「大韓帝国」となります。これについて、『韓国・朝鮮史の系譜』は次のように論じます。

1897年、朝鮮王朝は「光武」の年号を制定し、その国号を「大韓」と改め、元首の称号を「大君主」から「皇帝」に格上げした。‥‥このときはじめて「皇帝」と称することで、中国清朝からの独立・自主を内外に誇示したのである。  皇帝号の採用に伴って、その国号は二字(朝鮮)から一字(韓)へと格上げされることになったが、このとき採択された「韓」――「大韓」の「大」は単なる修飾語――という国号には、古の「三韓」から連綿と続いてきた朝鮮民族(韓民族)の民族意識・領域意識が凝縮して込められているのである。(230頁)

 国名が一字か二字かで国の格が違ってくるというのは、この本で初めて知りました。なるほど、中国の歴代王朝の国名は漢字一字であり、周辺の国々――中国から見て夷狄の国の国名は漢字二字ですねえ。この違いが国家の格差を意味するというのは、今まで気付きませんでした。「日本」という国名は、中国から見ればそれだけで格下の国となるようです。

 ところで高句麗・百済・新羅の「三韓」意識を持つ朝鮮民族(韓民族)は、この古代三国の領域が自民族の領域であるという意識を持つことになります。ここで問題になるのは高句麗です。高句麗は朝鮮半島北部と現在の中国東北地区(満州地方)を支配していたのですから、満州は元々わが民族の領土だという考えになります。

 中国と韓国の間では、いわゆる「高句麗論争」の火花が飛んでいます。『韓国・朝鮮史の系譜』では次のように説明しています。

中国吉林省の「延辺朝鮮族自治州」――かつての「間島省」の領域――に対して韓国・朝鮮に人々が抱いている伝統的な領土意識(潜在的な領有権の主張)は、近年、端なくも「高句麗論争」という形をとって世間の注目を集めることになった。‥‥‥(中国では)今日の中国は「漢族」および「五十五の少数民族」によって構成される「統一的な多民族国家」である。その中国の今日的な立場から見て、過去における高句麗人・渤海人などの周辺異民族の活動を広義の「中華民族」の歴史のなかに組み入れよとした‥‥(韓国では)高句麗・渤海の歴史を「中国史」に編入しようとする策謀の一環であるとして、とりわけ韓国の側から強い反発を惹き起こすことになった。(258~259頁)

 高句麗史を我が韓国史の一部だと考えることは、高句麗の領地は我が領土であるという考えに繋がります。

 1990年代でしたか、韓国のソウルに「満州は我が領土」という看板がハングルで掲げられていました。中国との国交樹立後、中国朝鮮族の人が多く訪韓することになります。彼らはハングルが読めますので、この看板を見てビックリ。外交問題になることを恐れた韓国はこの看板を下ろしたという話を聞いたことがあります。

 また中国東北地区(満州地方)にある博物館には、「韓国人お断り」がかなりあったようです。韓国人たちがこの博物館を見学すると、ここは我が韓国の領土だということを大声で話すからです。中国朝鮮族は韓国語を理解できますので、彼らの話を聞いてビックリ。来館禁止にしたということでした。今もそうなのかどうかは分かりませんが。

 『韓国・朝鮮史の系譜』はこの高句麗論争を次のように評しています。

高句麗・渤海の歴史をいかに位置付けるか‥‥歴史学の立場からいうと、高句麗は高句麗であって、それ以外の何物でもない。したがって、後世のナショナリズムに基づくいわゆる「高句麗論争」は、近代国家成立以前の領域に近代国家の領域観を押し付ける、極めて不毛な論争といわざるを得ないのである。(260頁)

 これは真っ当な評価です。高句麗は高句麗であって、中国でも朝鮮(韓国)でもない、とするのが歴史学では正解でしょう。

 しかし当事者は熱くなっていますから、韓国のマスコミは中国の歴史に対して「妄言」「妄説」といった厳しい言葉を使っています。韓国は満州を我が領土とすることを本気で考えているのですかねえ。昔の歴史を語る時、自分の歴史観だけが正しく、他の立場から見た歴史観は「妄言」と見えてしまうような偏狭性は困ったものです。

【拙稿参照】 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/22/1812668   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/09/28/3787613

『韓国・朝鮮史の系譜』(5)2013/05/13

  『韓国・朝鮮史の系譜』の購読をきっかけに、韓国側の朝鮮(韓国)通史の本を読んでみようと思い、大学の朝鮮史の授業で参考文献として挙げられている韓国教員大学歴史教育科著『韓国歴史地図』(平凡社 2006年11月)を購読しました。地図はもちろんのこと、絵画や写真などの図がたくさん挿入されており、分かりやすいものです。今の韓国における自国の歴史観を知るには、ちょうどいいものと思われます。

 まず一読して感じたことは、これは朝鮮(韓)民族の歴史であって、朝鮮半島という地域の歴史ではないということです。

 例えば中国の漢の武帝は、紀元前108年に衛氏朝鮮を平定して楽浪・玄莬・臨屯・真番の四郡を置きました。このうち臨屯・真番は程なく廃止され、楽浪郡が最も栄えました。楽浪郡の郡治は今の平壌で、後にその領域の一部を帯方郡として分離します。帯方郡は卑弥呼使者が往来したことで、我々には馴染み深い郡です。

 つまり朝鮮半島に西暦313年までの約400年もの間、中華文明の花が開いていたのです。当時の中華文明ですから、周囲の諸民族の文化とは違い、遥かにレベルの高いものです。従って朝鮮史には非常に重要な位置付けにならねばならないのですが、『韓国歴史地図』では24・25頁にわずかに触れるのみです。

 そこで韓国の歴史辞典『新しい国史大辞典』(教文社 韓国シャープの電子辞書に登載)を調べますと、何と!そこには「낙랑(楽浪)」がありません。だったら韓国人は楽浪をどうやって知るのかと思ったら、『世界史小辞典』(カラム企画 同電子辞書)にありました。つまり朝鮮(韓国)史において、楽浪は除外されているのです。自分たちの住んでいる朝鮮半島で400年という長い間、高度の文化を維持してきた楽浪が、韓国人には自国の歴史ではないと切り離されているのです。

 つまり楽浪は中国人のものであって、わが民族のものではないということです。ここには、朝鮮(韓国)史は我が民族の歴史であって、他民族の楽浪は我が土地にあったとしても無視しようとするものです。そこには朝鮮半島という地域史がなく、民族の歴史があるのみです。

   これがおそらく、韓国の民族主義的歴史観というものなのでしょうねえ。以前に、中国の博物館を見学した韓国の若者が、漢の領域の示す地図に朝鮮半島が含まれているのを見て、嘘だ!と怒ったという記事がありました。これは、この若者が自国の歴史を勉強してないというだけでなく、自国の学校では楽浪が教えられていないことのようです。

【拙稿参考】 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/13/5085283

南北国時代2013/05/18

 韓国の歴史を読んで、どうも理解できないものの一つが「南北国時代」という時代設定です。これは近年に出てきたようで、韓国でもまだ定着はしてないようですが、まもなく普遍化するのではないかと思われます。

 南北国時代とは7世紀から10世紀までの、統一新羅と渤海の時代のことです。

 7世紀は日本でいえば飛鳥時代に相当する時期で、大化の改新や壬申の乱のような大事件があったり、天武・持統天皇や藤原鎌足が活躍した時代です。この時代に朝鮮半島では新羅が百済・高句麗を滅ぼした後に唐の勢力を排することに成功し、三国(当時の言葉では三韓)の統一を成し遂げました。

 これ以降は「統一新羅」と呼ばれますが、この統一新羅の北側の国境線は大同江の平壌付近から、日本海側は元山湾を結ぶ線でした。つまり旧高句麗の領域のうち南端部だけが統一新羅の範囲に入り、他は後に建国された渤海の範囲となったわけです。別に言えば、統一新羅は高句麗の領域の大半を放棄することによって高句麗・百済・新羅の三国(=三韓)統一を成し遂げ、その三国の正統性を継承したのです。

 ところが現在の韓国の歴史学では、統一新羅のやや遅れて建国された渤海もわが「韓国・朝鮮」の範囲内に入れて、この時期は統一新羅と渤海が並立する「南北国時代」であるとしているのです。

 しかし当時の統一新羅は、渤海は靺鞨人が建てた異類の国だとしているのであって、同胞の国とは認識していません。新羅にとって同胞とは高句麗・百済・新羅の「三韓」の人々であり、さらに我が統一新羅だけが高句麗の正統を継いでいると認識したのです。従って渤海は視野の外にあったのです。このような認識はその後も長く続きました。

この渤海を「韓国・朝鮮」の範囲に入れようとしたのは、それから1000年程の後の朝鮮時代(李朝時代)中頃に柳得恭が『渤海考』を著してからのことになり、かなり新しい現象なのです。

 一方渤海は滅亡した高句麗の領土に大祚栄が建てた国で、高句麗の遺民と靺鞨人によって構成される国でした。そして渤海は自分たちが高句麗の後裔であると認識を持っていたのです。従って高句麗の系譜に繋がるといえば繋がる存在ではあります。

 しかし渤海と統一新羅はともに高句麗の正統性を引き継ぐとしながらも、互いに同胞意識を持つことはありませんでした。両国間に交流はほとんどなく、文化・言葉もかなり違っていたのでした。つまり渤海は高句麗の後裔であると自認しながらも、「韓国・朝鮮」の範囲に入らないと認識していたのです。

 現在の韓国の歴史学が、この時期の新羅と渤海を「韓国・朝鮮」の範囲に入れて「南北国時代」として設定するのは、無理があると考えます。

ハングルは「偉大な文字」か?2013/05/24

 ハングルは「偉大な文字」の意だという説がかなり広がり、定着しているかのようです。

 ハングルは15世紀に「訓民正音」として制定・発布されたのですが、女子供が使う文字だということで「諺文(オンムン)」とも呼ばれてきました。これを「ハングル」と名付けたのは朝鮮の言語学者である周時経(1876~1914)と言われていますが、それを確認した人はいないようです。ハングルについて最新の研究成果を分かり易く解説した野間秀樹『ハングルの誕生』(平凡社新書 2010)においても、

現在広く用いられているこの<ハングル>という名称は、近代の先駆的な朝鮮語学者であった周時経(1876~1914)が名づけたものと言われる。(22頁)

 ここで「‥と言われる」と書かれているように、確認されていないことを示しています。つまりこの方面の研究が進んでおらず、周時経の「ハングル」命名説は、根拠が不明確な情報と言わざるを得ない段階です。さらに野間さんは、続けて次のように記します。

「ハン」は「偉大なる」、「クル」は「文字」あるいは「文章」の意、「ハングル」は「偉大な文字」の意である。‥‥「ハン」を「大韓帝国」の「韓(ハン)」とする説も有力である。(22頁)

 野間さんは、ハングルは「偉大な文字」だという説を断定的に書いていますが、その直後に「ハン」が「韓」であるという説も合わせて書いています。どうやらハングルは「偉大な文字」説と「韓の文字」説の二つがあって、野間さんは「偉大」説に傾いておられるようです。

 今比較的世間に流布している説として、「韓」という漢字自体に「偉大」の意味があるのだというものがあります。従ってハングルは「韓の文字」であり、「偉大な文字」だというわけです。しかし「韓」に「偉大」の意味があるというのは、どの漢字辞典を見ても出てきません。

 また「ハン(한)」は하나(一つ)の連体形で「一つの」という意味だから、そこから「唯一の」「二つとない」更には「神聖な」「偉大な」という意味になったという説もありました。私も一時それを信じたことがあったのですが、どうも納得できません。

 最近になって矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(塙選書 2012)の184~185頁に、清朝の乾隆帝(在位1735~95)による次のような考察を見つけ、「韓」が「偉大」の意味になったのはこの皇帝の考えからではないかと思うようになりました。

「三韓」の命名については、ただ「辰韓・馬韓・弁韓」と列記するだけで、その語義を詳らかにしない。思うに、当時の三国には必ずや三人の「汗」があって、それぞれ一国を統治していたのであろう。[ところが]歴史家たちは「汗」が君長の称号であることを知らず、ついに同音の「韓」字を以て誤訳してしまったのである。(『欽定満州源流考』巻首、諭旨)

 乾隆帝は、本来は王や酋長を意味する「汗」であったのが、「韓」という表記に間違って使われたものと推測しました。「汗」は、例えばモンゴル帝国の「チンギス汗」のように「偉い人」なのですから、「汗」それ自体に「偉大」という意味が含まれているのです。また「汗」と「韓」は、中国語でも朝鮮語でも「han(ハン)」で同音であることも間違いの一因と考えたのかも知れません。

 「ハングル」とは「韓の文字」あり、「偉大な文字」の意味だとする俗説の淵源は、この辺りにあるように思えます。

 乾隆帝の説はとても信じられるものではありませんが、中華帝国の皇帝が唱えたのですから、大きな影響があったと思われます。朝鮮人には、おそらく耳触りの良いものに聞こえたのではないかと想像します。

【追記】  北朝鮮では、ハングルは韓国の「韓の文字」という説を採用し、これは自分たち「朝鮮」の存在を否定するものだとして、「ハングル」ではなく「チョソングル(조선글―朝鮮の文字)」と呼んでいます。