「賄賂は腐敗ではない」民本主義と法治主義―趙景達2014/02/28

 朝鮮近代史研究者として有名な趙景達さんの『近代朝鮮と日本』『植民地朝鮮と日本』(ともに岩波新書2012、2013年刊)を購読。

 日本による植民地朝鮮の歴史について、歴史発展段階説の「近代」という視点を批判して、「儒教民本主義」という古き良き政治文化が日本の侵略によって葛藤を強いられたという観点からの朝鮮近代史の通史です。 読んでみて、こんな歴史認識もあるのかとちょっとビックリするとともに、歴史の本のなかに「傲慢」「破廉恥」「露骨」「残虐」「悪辣」のような感情的な表現が随所にあるのはいかがなものかという印象を受けました。

 ところでこの「儒教民本主義」という聞き慣れない言葉について、趙さんは近代の「法治主義」と比較して次のように説明しています。

儒教民本主義にあっては、教化主義が優先されて規律主義(法治主義)が従とされた。(『近代朝鮮と日本』8頁)

儒教民本主義の論理は教化中心であり、近代国民主義の論理は規律中心である。(『近代朝鮮と日本』162頁)

 趙さんによれば、朝鮮はもともと「規律主義=法治主義」ではなく、「儒教民本主義=教化主義」だというのです。 つまり日本は植民地を支配によって近代的な法治主義を強制することによって、朝鮮の伝統である教化主義との葛藤を醸し出したという歴史観です。 それではこの「民本主義(教化主義)」というのがどういうものであり、対する「規律主義(法治主義)」とはどういうものか。 趙さんは『植民地朝鮮と日本』の最後で次のように簡潔にまとめています。

独裁時代(1987年の民主化以前のこと)には賄賂で交通違反を許すことが結構あった。だがそれは、単に腐敗というものではなく、違反者の事情を斟酌してのことでもある。 韓国社会というのは、本来規律よりも教化を重視する社会なのだ。人々は優しく、それでいて時にしたたかである。     近代化というのは規律化であり、こうしたことは許されないはずである。 日本の植民地支配は確かに厳烈な規律化を推し進めた。 だが、朝鮮人の行動規範が植民地化によって徹底的に規律化されたなどとは到底思えない。 そもそも、近代の規律化を西欧史の文脈から発見したフーコーの議論が、そのままアジアの近代に適用できるのか疑問である。 近世日本はすでに高度な規律社会であったが、民本主義においては朝鮮よりはるかに後進的であった。 ある意味では、日本の植民地支配とは規律主義と民本主義(教化主義)のせめぎあいであったと言える。 (『植民地朝鮮と日本』244頁)

 趙さんによれば、役人に賄賂を贈って黙過してもらうことは「腐敗」ではなく「斟酌」だということです。 そしてこれを腐敗だとして否定する西欧の「規律主義(法治主義)」はアジアには適用できないそうです。 賄賂を容認するのが「民本主義(教化主義)」ということなのです。 そしてこの民本主義において日本は朝鮮よりはるかに後進的だったと論じています。 もうビックリ仰天するしかありません。

 法治主義は西欧の近代思想の一つとされています。趙さんは西欧近代主義を批判する余り法治主義を否定し、ついには賄賂を肯定するにまで至ったということでしょう。 賄賂が蔓延する「民本主義(教化主義)」よりも、それを否定する西欧近代の「規律主義(法治主義)」の方がはるかに優れたものとするのが常識だと思うのですが‥‥。

 趙さんによれば、日本は植民地支配した朝鮮において、この法治主義を「確かに厳烈な規律化を推し進めた」としています。ですから民本主義の立場からすると日本の植民地支配は、

朝鮮の儒教民本主義は、日本の植民地支配によってどのような葛藤を強いられ、にもかかわらずいかに自己を貫徹しようとしたのか。‥‥ 植民地朝鮮がそうした苦闘から生み出した思想や、あるいは逆に屈服していった人々の精神懊悩とその論理なども抉り出しつつ、植民地の本質である暴力の問題について考えてみたい。(『植民地朝鮮と日本』まえがきⅰ頁)」

となるのですが、民本主義を否定して法治主義を施行することを「屈服」「暴力」と表現するのは、いかがなものでしょうか。

 ところで趙景達さんは日本の国立大学の教授だそうです。 学生が趙先生に「斟酌」を求めて賄賂を贈ろうとしたら、先生は「民本主義」を発揮されるのでしょうかねえ。