原始社会2014/05/11

 人類がサルから一歩踏み出した段階を「原始的」とし、近代以前の中国・インドを「アジア的」段階としたら、その間に「アフリカ的」段階を挿入したらどうかという話をしました。     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/20/7289374

 これは吉本隆明が言い始めたことです。 確かにサルに近い人類と、中華文明やインダス文明を形成させた中国・インド人との間には大きな隔絶があり、その間にさらに段階設定した方がいいかも知れません。

 ところで「原始的」段階はかつて存在したことが確かだとしても、今は近代社会と接触して変形してしまっています。 純粋な原始社会は現代ではおそらく存在していませんから、今残っている資料から類推し、想像するしかありません。 思考実験とか言うこともあるようです。ちょっと思考実験してみます。

 サルから人類への道を一歩踏み出した段階である原始社会はどういうものであったか。 これは今のゴリラやチンパンジーなどの類人猿と大きくは変わらなかったはずですが、「何か」が違い始めていました。 これは200万年前とも300万年前とも言われる太古の時代のことです。 この違い始めた「何か」が、人類の本質です。

 次に人類学の分野になると思いますが、記録に残る原始社会の情況があります。原始社会ですから文字がありません。 ですから近代になって欧米の探検家や宣教師、人類学者などがアフリカ・アメリカ大陸、太平洋諸島などで原始社会段階の人たちと接したときの記録、あるいは各民族が残した遠い昔の伝説・民話などの古典から見るしかないです。

 このなかで現代人から見ればこれは余りにも理解できないとか、ひょっとしたら気が触れていたのではないかと思われるようなところに注目せねばなりません。 何故なら、「原始的」段階は現代人が想像もつかないような社会だったからです。 それでも、想像もつかないことを想像するのが思考実験です。

 原始社会の人間は「自然」と意識が通じるという場面が出てきます。 動物はもちろんのこと、山や川、林に至るまで、原始人は自分たちと同じような意識・感情を持つと観念していました。 吉本の本に紹介されていた例では、アメリカのチェロキー族の昔話があります。

家の近くの山には白カシの木がたくさんあったんだけど、そのカシの木が興奮しておびえているって、父さんは言う。 ‥‥父さんは白カシの林に木こりが何人も入っているのを見つけた。 幹に印をつけたり、全部切り倒すにはどうすればいいか調べたりしているじゃないか。 木こりがいなくなると、白カシは泣き出したんだってさ。 だから父さんは、もう夜も眠れやしない。 それからは毎日、木こりのようすをじっと見張っていたわ。木こりたちは、馬車の通れる道をてっぺんまでつくろうとしたの。    父さんがチェロキーの仲間たちに相談すると、みんなで白カシを守ろうってことになった。 木こりたちが引き上げるのを見はからって、夜の間に総出でその道をあちこち掘り起こして、深い溝だらけにしたんだ。 女も子供も手伝ったよ。 ある日、木こりたちが道をなおしていると、突然一本の大きな白カシの木が馬車の上に倒れてきたの。 ラバ二頭が死んで、馬車はめちゃめちゃ。 とても立派で元気なカシの木だったから、倒れるはずがないのにね。    木こりたちはとうとうあきらめたよ。 ‥そうして二度と戻って来なかったんだよ。      満月の夜、チェロキーは白カシの林でお祝いの祭をしたの。 黄色いお月様の中で輪になって踊ったのさ。 白カシも歌ったよ。歌いながら、枝と枝を触れ合わせ、チェロキーの頭や肩にやさしく触ったんだ。 仲間を助けようとして命を投げ捨てたあの白カシの木に、みんなでお弔いの歌を歌ってあげたわ。(吉本隆明『アフリカ的段階について』春秋社 1998年 40~42頁)

 現代社会でこんなことが起きれば、チェロキー族の人たちは不法侵入罪、器物損壊罪、業務妨害罪等々に問われるでしょうし、犯行動機が「切られようとした白カシの木が泣き出したから」と供述されたら精神鑑定に回されることでしょう。 しかし現代人にはちょっと理解できないチェロキー族のこのような考え方と行動は、原始社会の心性が表れたものと思われます。

 原始人が自然と意識を通じ合うということは、動物の鳴き声や風や川の流れ、雷鳴、雨足など自然界に現れる音が人間の口から出てくる音声と同じように聞こえることです。チェロキー族の人には白カシが風に揺られる音などが白カシの泣き声として聞こえて、その気持ちを察したものと思われます。

 現代では非常識と言われてしまうような精神状況が原始社会にはありました。 何故このようなことを獲得したかと言えば、言葉を持つようになったからです。 人間が自分の中にある意識を外に出す時に口や喉を使って発する言葉は、サルから一歩踏み出した段階においては自然界にある音と区別がつかなかったと思われます。 とすると原始人たちは、自然の音には自分たちの発する音声と同じく意識があるものと観念していたと言えるでしょう。

 自然界のあらゆるものには意識があるという観念は、あらゆるものに神が宿っている思想(アニミズム)に繋がります。 アニミズムは原始社会のものだから我々には関係ないと突き放してはダメです。 何故なら人間も自然の一部であるという厳然たる事実があるからです。

 現代の無謀な開発に対し「これでは美しい山・川・海が悲しむ」と感じる力が歯止めをかけ、自然を保護する貴重な力になるのです。 人間も自然の一員であるからには、原始人が有していた心性は今なお僅かながらもずうっと維持されてきています。 現代人が失いそうになっている原始人の心性は、自然と共存せねばならない我々人類の知恵として大切にしていかねばならないものです。