「韓」という国号について(3)2015/05/19

 現在の大韓民国の国号である「韓」の直接的淵源は1897年に成立した「大韓帝国」です。 それまで「朝鮮国」として中国の清の属国であったのですが、この年に正式に独立して「大韓帝国」となり、朝鮮の王であった高宗は「皇帝」を名乗ります。

 「朝鮮」から「韓」に国号を変えたのですが、この時に朝鮮内ではどのような議論がなされたのでしょうか。 ちょっと調べてみました。

 木村幹『高宗・閔妃』(ミネルヴァ書房 2007年12月)の274頁では、次のように記されています。

(1897年)九月三〇日には総理大臣から名称を改めた議政大臣沈舜沢が、古代における馬韓・弁韓・辰韓の三韓統一の大業を受けた朝鮮半島の支配者が皇帝と称することは当然である、と発言する。 ある者が皇帝に就任するためには、その支配する王朝が「帝国」に相応しい歴史を有していなければならない。 沈舜沢はそれを遠く古代の新羅による三韓統一に求めたわけである。 そして、その新羅の「統」を高麗を通じて受け継いだ朝鮮王朝は、帝国たるに十分な存在だと主張したのである (『朝鮮王朝実録』高宗三四年九月二五日、九月二六日、九月三〇日)

 そこで『朝鮮王朝実録』の該当日付けの記事を探したところ、このような内容は書かれていませんでした。 木村幹氏に直接お尋ねしたところ、菊池謙譲と承政院日記だったという回答をいただきました。 それから直ぐにこれらの資料を探し求め、該当部分を得ることが出来ました。 先ずは菊池謙譲『近代朝鮮史』を紹介します。

大韓国号  皇帝式(皇帝即位式のこと)は滞りなく挙行され、慶雲靄々として溢るの状あった。 文武百官未だ退辞せず、重臣等侍座せるを見て皇帝曰く朕は今ま卿等と議定せんと欲するもの一つ残れり是則天下の号である。 大臣諸卿宜しく議を定めよと、沈舜沢、趙秉世は答ふるに天下の名を新に定むるは今日にありと、帝いわく我邦は乃ち三韓の地にして我国初命を受けて統合一とした今其号を名づけて大韓と称しても不可ならずと、沈舜沢は大韓の国号は之を稽ふるに帝繞の国旧統を襲ぐものに非ざれば聖旨切当にして敢へて賛辞を陳奏せずと述ぶるや、趙秉世も一言陳して曰く各国人は朝鮮を以て韓と称し居れり、其祥兆已に平昔よりあるを以て今後政治は天命維新の覚悟で行はねばならぬと、皇帝には恰かも集議に於ける議長の如く天下の号は已に定った、大韓を以て之を書せをあった。   皇帝号も、大韓の名称も、一瀉千里の勢を以て進行し、朝鮮有史以来の慶典も滞りなく挙行されて目出度限りである。 (菊池謙譲『近代朝鮮史 下』大陸研究所 昭和12年12月 クレア出版復刻 484頁)

 『承政院日記』の方は「光武元年丁酉九月十八日 陽暦十月十三日」付けの記事にあります。 これに基づいて正史である『朝鮮王朝実録』が作成されますので、こちらの方を紹介します。 「高宗 巻36 丁酉光武元年10月」条です。 『朝鮮王朝実録』は韓国の国史編纂員会がインターネットで公開しており、原文(漢文)の入手は容易ですのでご参照ください。私なりの現代語訳をしてみました。

十月十三日‥‥皇帝は次のように詔を下した。  朕が思うに、檀君と箕子以降に領土が分かれて、それぞれが一つの地域に拠って互いに覇権を争ったが、高麗の時代になって馬韓・辰韓・弁韓を一つにした。これを三韓統合(統一)という。 我が祖先である太祖が王位に就いた最初の時は国土をさらに広げて、北方では靺鞨の境界まで至り、歯牙や皮革、絹糸を得るようになり、南の方では済州島を併合して蜜柑や柚子、海産物の貢納を得るようになった。 四千里の広さの国土を統一するという王業を成し遂げ、礼楽や法律は唐繞や虞舜を引き継ぎ、国土を強固に固めて、我が子孫に万世を長く伝える盤石の基礎を残してくれた。  朕に徳がなく、難しい時代に遭遇したが、上帝の残してくれた徳のおかげで危機を脱し、安定したので、独立の基礎を作り、自主の権利を行使することとなった。 これに全ての臣下や百姓たち、軍人や商人たちが声を一つにして数十回も朝廷に上訴して、必ずや皇帝の称号を上げようとした。 朕は何度も辞退してきたが遂に辞退することが出来ず、今年9月17日(新暦では10月12日)に白嶽山の南で天地を祭って奏上し、帝位に就いた。国の号を定めて「大韓」といい、この年を「光武元年」とし、宗廟や社稷を「太社」「太稷」と改め、王后の閔氏を「皇后」に、王太子を「皇太子」とする。

 この時の「三韓」についての高宗の歴史認識は、三韓は馬韓・辰韓・弁韓であり、これを統一したのは「高麗」だとしている点が注目されます。 すなわち「三韓統一」は7世紀の新羅による統一ではなく、10世紀の高麗による統一の意味だと考えられていたということです。 しかし古代の正史である『三国史記』の新羅本紀では三韓を統一したのは「新羅」だとしていますから、高宗の歴史認識は自国の正史と矛盾していることになります。

 また馬韓・辰韓・弁韓は4世紀までには実質的になくなり、消滅してしまいます。 ですから高宗が馬韓・辰韓・弁韓の「三韓統一」を10世紀の高麗による統一としたとする歴史認識自体が、歴史事実と矛盾することになります。

 高宗ばかりを批判したように思われるかも知れませんが、これは李朝時代に当時の知識人たちの共通の認識であり、高宗はそれをなぞったものです。 李朝時代の知識人たちは、これを矛盾とは考えていなかったということです。

「韓」という国号について(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「韓」という国号について(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/14/7633517

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/19/7636889/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。