砧を頂いた在日女性の思い出(1) ― 2020/09/21
↑は、私が神戸市兵庫区に住んでおられた在日一世のおばあさんから頂いた砧の台(다듬잇돌)と叩き棒(다듬잇방망이)です。
2020年8月21日付の拙ブログに、ある投稿者が神戸市長田の方と知り、次のようなコメントのやり取りをしました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/21/9280627
――長田区のご出身のようですね。 25年ほど前に隣の兵庫区に住んでおられた在日一世のおばあさんから、「砧」の道具をいただいたことがあります。 在日朝鮮人の民俗資料として貴重なものです。 私が個人で所蔵するには勿体なく、いずれゴミになるだけですから、長田にある「神戸コリア教育文化センター」に数年前に寄贈しました。 「辻本寄贈」ということで受け入れられました。 もしこのセンターに行くことがございましたら、「砧(다듬이) 」をご覧いただければ幸い。
翌日にこの投稿者から次のような返事をいただきました。
辻本寄贈なるもの神戸コリア文化センターに問い合わせました。確かに、10年前ごろかにツジモトタケシなる大阪在住の方から寄贈を受けたとのことでした。まんざら、あなたの言うことは嘘ではなかったようです。
砧について「私が所蔵するには勿体なく、いずれゴミになるでしょう」。とあります。そこで在日朝鮮人の貴重な民族資料として、なぜあなたが在日1世のばあさんがあなたに上げようとしたのか、そして、いずれゴミになるなるだけのものをなぜあなたが受け取ったのか、疑問ですね、廃品回収でもやっておられたのですか。
これに対して、私は次のように返事しました。
――歴史資料収集の一環として、ゴミに出される寸前に頂きました。
――1990年代までは、このおばあさんだけでなく、在日朝鮮人社会では砧はゴミとして廃棄されてきました。 私が収集して発表したのが最初だと思います。
――そのせいでしょうか、その後朝鮮学校では家に砧が残っていないか、生徒らに聞いて回ったという話を聞いたことがあります。 砧を在日朝鮮人の民俗資料として貴重だと最初に言ったのは私だと、勝手に自画自賛しています。 ――こういう資料は個人蔵のままにしておくと、相続する者がいなければゴミとして廃棄されるものです。 貴重な資料と考えて寄贈先を探していましたねえ。
――「朝鮮学校では家に砧が残っていないか、生徒らに聞いて回ったという話を聞いたことがあります」と書きましたが、2000年代初めごろに神戸の朝鮮学校出身者から、学校で家に砧があるのかどうか聞いてこいという通知が来たことがあるという話を聞きました。 その年代を尋ねると、私が砧について発表した直後の頃だったので、私の発表の影響かなと推測しました。
砧とはどういうものか、拙論 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf に図と説明がありますので、ご参照ください。
「砧って知っていますか?」と問えば、日本人なら「藁打ちをおじいさんが『砧』といっていた」「お琴の練習で『砧』を弾いた」「能で『砧』を見たことがある」「砧巻きというお菓子がある」等の答えが返ってくることが多いです。 東京の方なら世田谷区の砧を思い浮かべるでしょう。 しかし「砧」とはどんな道具でどのように使うのかなんて、まるで知らないものです。
一方、1960年代までは在日朝鮮人の女性たちは砧を打っていました。 この風景を子供の時に見て今も覚えている在日はもう70代以上のお年寄りになるでしょうが、その記憶は「おばあさんが洗濯物を叩いている」という程度のものです。 「砧」という言葉がなかなか出てきません。 「砧」という言葉を全くといっていいほど知らないからです。 せいぜい李恢成の芥川賞受賞作品「砧を打つ女」が出てくるくらいですかねえ。
日本人は「砧」という言葉は知っているが実際の砧打ちを見たことがない、一方在日朝鮮人は砧打ちを見ていたが「砧」という言葉は知らない、1990年代はそんな状況だったと思い出されます。
ところでこの投稿者は私を「廃品回収でもやっておられたのですか」と皮肉をおっしゃいました。 しかしこれは言い得て妙ですねえ。 民俗学や考古学の資料収集は、実は廃品回収と大きな違いがありません。 一般的にゴミとして廃棄されるようなモノを集め、その中からこれは貴重な資料だと「発見」して拾い、研究するのが民俗学・考古学ですから。
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