共同体2015/02/05

 中世朝鮮では宗族(血縁共同体)が優勢で村(地縁共同体)は成立せず、一方中世日本は村(地縁共同体)が成立したと論じました。   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/09/7270572

 まずは共同体から説明します。 共同体とはそれだけで一つの団結した存在ですから、その構成員(村人)同士は極めて親密であると同時に、構成員以外に対しては排他的になります。 構成員になるとそれぞれが果たすべき責任がありますので、勝手な行動は許されないことになります。ちょっと悪い言葉を使うと、個人の自由を認めない束縛的・閉鎖的な社会関係、これが共同体です。これが血縁関係で成立していれば宗族(血縁共同体)、狭い地域で成立していればムラ(地縁共同体)となります。

 それでは近代になってこの共同体はどうなっていったのでしょうか。

 近代は資本主義の成立と同義です。 資本制の下では大量の労働者が雇用され、いわゆる労働市場が成立するのですが、この労働市場の場所が都市です。 そして都市において労働者たちは働いて賃金を得て生活するだけですから、都市生活の最低限のルールさえ守っていれば、個人の自由が保障された空間なのです。 そこには閉鎖性・排他性がありません。 誰でも都市に入り込んで、生活することが出来ます。 都市という開放的な空間と、村という閉鎖的な空間が同時に存在する社会、この二つの空間が対立的に現れます。 そしてこの都市空間(開放的)が膨張し、逆に村空間(閉鎖的)が縮小するのが近代という時代と言えることができます。

 都市の開放性を分かりやすい例で説明しますと、都会にある分譲マンション。一戸当たり数千万円もする財産と家族が一つの建物の中に数十・数百の単位で入っています。 外見上は一つ屋根で暮らしているのですから運命共同体と言わざるを得ないのですが、入居している人は隣近所に誰が住んでいるのか、知らなくても生きていけます。 何か事件が起きたときに、え?!あの家の主人の職業は○○で、子供は△△の学校に行っているとは初めて知った、というような話はよく聞くことです。 つまり都会のマンションは、人間関係において家族のような濃密な共同体を形成しておらず、すぐにバラバラになる砂の塊のようなものです。 ある一戸がいつの間にか売却されて、代わりに知らない人が引っ越してくる、それでも違和感がない空間なのです。

 近代はそれまでの共同体を縮小させ、より開放的な社会を形成し、個人中心を志向してきたと言えます。 それでも家族という最小単位の共同体だけは強固に維持してきました。 それではこの最後に残ったと言える家族共同体は今後どのような方向に行くのでしょうか?

 共同体そのものが個人を束縛する時代遅れのもので、これからは個人の自由をさらに推し進めていくべきだとする考え方があります。 従って家族も共同体である以上、近代化とともに否定して束縛性を解消し、自由にすべきであるという考え方が成り立ちます。

 つまり家族を束縛と捉えて否定して一人で気楽に生きるのがいいのか? それとも家族が有する束縛性を心地よく思うのか? という問題です。

 共同体を否定することは、結局は人間関係全てが契約で結ばれた関係になるということです。 従って家族共同体も否定されると契約関係に過ぎなくなります。 例えば夫婦間や親子間は解消可能な契約関係になります。 極端化すれば、母さんとはもう家族でいたくないので契約を破棄して家族を止めます、なんてことが起きかねません。 排他性がなくなって開放的となり、個人を束縛せずに自由を求めることの究極はこういうことなのです。

 社民党の党首でしたか、「家族解散式」をしたと言った人がいました。 家族共同体を否定したのですが、具体的には家族は契約関係になって、個々人が所定の手続きによっていつでも契約解消できるような自由奔放の生き方をしているだろうと思います。 このような積極的な家族解体はなくても、現在の日本では家族を構成しない一人世帯が増えており、現実社会では家族という共同体の否定が少しずつ進行していると言えます。

 家族は人間社会の最小・基礎単位の共同体ですから、これが変わるというのは社会全体の根本が変わるのと同じことです。 このような歩みがいいのかどうか、或いは本当にこのまま進んでいくのかどうか。 今は見守るしかありません。 しかし今進行中のこの事態は、何百年か先の歴史研究者には格好の研究対象となっていることでしょう。

コメント

_ mahlergstav ― 2015/02/06 16:10

家族・家庭のあり方について、米国に興味深い諺があります。

父親のいなくなった家庭は困窮する。母親のいなくなった家庭は消滅する。

19世紀の米国は多数の根無し草の移民で構成されていて、厚い共同体を構成する時間がありませんでした。交通機関や情報伝達手段も未熟だったので、父親・母親が事故に遭遇して行方不明になってしまうのも珍しくなかったようです。こういう状況で生まれた諺のようです。

最終的には、父性・母性の問題にまで行き着くのでしょう。出生が母体を経ずに、人工授精・人工胎盤となれば共同体は消滅するかもしれません。

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