韓国は大韓帝国を承継したか ― 2006/10/05
> これに対して、韓国は1965年の日韓条約で1910年の併合条約などを無効としたこと(第2条)から、1910年当時の朝鮮半島全域を支配していた大韓帝國がそのまま存続し、それを韓国政府が承継したこと、
このなかの「(大韓帝国)を韓国政府が承継した」という部分が疑問です。 現在の大韓民国は、憲法前文において1919年に上海で樹立された「大韓民国臨時政府」という亡命政権を受け継いだとされています。またどちらも王制を否定していますので、大韓帝国とは断絶しているはずです。 そうでないならば、韓国はかつての帝国をどのように承継したのでしょうか。資料が浅学ゆえに見当たりませんでした。
> 法理的にいえば、この主張は十分に成り立ち得るところです。 >つまり、日韓基本関係条約第2条で日韓併合条約などを無効としております。 >無効とは当初から法律効果が発生しないことになります。 >したがって、日韓併合は成り立ち得なかった=なかったことになります。
基本条約原文には「無効」の前に「もはや(already)」という一語が入ります。これを韓国側は、併合条約当初から無効と考え、日本側は併合条約は有効だが今は意味のないものとなり無効である、ということで解釈の違いを残したまま妥協されたものです。
> 併合条約が無効ということは、当時の大韓帝國が存続していたことになります。 > 韓国がこれを承継したと主張するのは、成り立ち得る考えです。
日本側から見ると、韓国はきっとこう考えているだろうと推測されるでしょう。ところが拙稿のように、韓国は憲法で大韓民国臨時政府を継承した、という主張をしています。今の盧大統領もそのような演説を行なったと思います。 私が欲しかった資料は、韓国側に、我が国はかつての大韓帝国を承継したという具体的な根拠となるものがあるかどうかです。 なお現在の韓国の法律は、朝鮮総督府の制定した制令等の法律を継承しており、断絶していません。つまり韓国は建前では併合条約は無効としながら、実務では有効を前提に機能させてきました。
>むしろ、あなたがご指摘のような<1919年に上海で樹立された 「大韓民国臨時政府」という亡命政権を受け継いだとされている>という考えは、日韓併合から大韓民国臨時政府の樹立までの間の韓国の状態は何だったのかという疑問が生じます。 > まさか、日韓併合を認めたわけではないと考えますから、この空白期間 の説明がつかないと思います。 > 大韓民国臨時政府が大韓帝國を承継し、その後、王制を否定したので しょうか。大韓民国臨時政府が大韓帝國を承継したのでしょうか? 御教示ください。
ご指摘の通り、韓国は矛盾した歴史観を持っていると思います。しかし矛盾はこちらが思うところであって、彼らはそれなりに一貫性を主張しているはずです。ところが彼らはどのようにそれを主張しているのかが分からないというか、それを書いたものが見当たらないのです。
> 大韓民国臨時政府が大韓帝國を承継したとしても、また王制を否定したとしても、臨時政府がそれをなし得たかという疑問があります。 > つまり、臨時政府の権限と実態に疑問があるということです。
臨時政府はこちら側から見ると、弾圧を逃れた三一運動の活動家たちが上海に集まって立ち上げたものです。李王族は入っておらず、王制を否定し、また朝鮮人民の意思を確認する形式をとっていませんので、正当性に欠けます。激しい内部抗争に明け暮れ、日本に対しテロを繰り返すものでした。
韓国側にはそれなりの理屈があり、総督府ではなく臨時政府を承継したと主張しているようです。しかし上述のように、これは単に建前・口先だけで、実際の法実務では総督府を継承しております。
(大韓民国臨時政府 略史)
上海の臨時政府の歴史について、古田博司さんが次のように簡潔にまとめられています。
「この臨時政府の初代大統領は李承晩、副大統領は李東輝であった。李東輝は朝鮮共産主義運動の父というべき人物であるが、反共が国是である韓国ではこの事実はふつう伏せられている。 臨時政府では、民族主義者たちと共産主義者たちの内紛がつづき、李承晩でさえ二年後には追放されてアメリカに渡った。その後、臨時政府は中国国民党の指導下に入ったが、当時の中国政府の勧める金元奉を主導者とする朝鮮民族革命党との合同に失敗し、国際的な承認を得ることができず、テロリズム以外で日本と戦うことはなかった。そして国民党政府の強い圧力によってかろうじて維持されてきた臨時政府は、日本の降伏後急速に統率力を失い、事実上外地で崩壊したのであった。 以上の事実は建国神話の形成により被覆され、韓国では教科書などで彼らが日本と軍事的に戦い、反日の伝統を培ったことになっている。」 『韓国学のすべて』(新書館 2002年5月)16頁
韓国の「建国神話」は、北朝鮮の金日成建国神話とレベルが近いようです。
金銅弥勒菩薩半跏思惟像 ― 2006/10/09
韓国の国宝で著名な半跏思惟像は、よく日本の広隆寺や中宮寺のそれと比較されます。 http://sca.visitseoul.net/korean/buddhism/i_buddhist_image07010.htm しかしこの仏像は朝鮮のどこの寺にあったものなのか、それとも出土品なのか、あるいは中国にあったものなのか、ひょっとして日本から持ち運ばれたものなのか、全く分からないものです。つまり由来が余りにも不明で、実は朝鮮産かどうかも定かではありません。 この仏像は、日韓併合直後の1911年か12年に、朝鮮人骨董商が李王室に売り込みに来て、購入されたものです。従って植民地時代は李王職博物館の所蔵となっていました。 この骨董商がどこから入手したのか、経緯が不明なのです。朝鮮半島内のどこかで出土したものだろうと推測されています。
久野健『古代朝鮮佛と飛鳥佛』(山川出版社)に次のような記述があります。
>韓国には、この宝冠弥勒(広隆寺の半跏像のこと)ときわめて近い金銅弥勒半跏像が、徳寿宮美術館に伝えられていた。本像は現在ソウル中央博物館に陳列されているが、まことに宝冠の形式から面相まで広隆寺像に近い。この金銅弥勒像の出土地は、あまりはっきりしない。 この像について本像を朝鮮総督府で購入することを勧めた関野貞博士は、慶尚北道の五陵廃寺より出土したと記しているが、確証があるわけではない。この問題について、1969年10月に朝日新聞社の講堂で行なわれた黄寿永教授の「韓国における半跏思惟像の研究」と題する文化講演会は、この金銅弥勒像の出土地についても、一歩進める発表であった。同氏は、従来の諸説を紹介したあと、本像については、1918年に韓国から出た「仏教新報」に稲田春峰という人が「この像は、1910年に忠清南道の僻村から出土したものである」と述べている。黄寿永氏は、先年忠清南道の僻村を調査している時に、ある寺で、稲田氏を知っている高齢の僧に出あい、稲田氏のいっていることなら信用してよいということを聞いた。忠清南道の僻村というと、昔の百済に属するという研究を発表し、興味を惹いた。しかし、最近教授にお目にかかり、この点をたしかめたが、あれは大分前の考え方だと言葉をにごしていた。>
結局、朝鮮半島から出土したらしいが、どこかは分からない、ということのようです。 日本ではあり得ないことですが、朝鮮では何十cmもある仏像が完形で出土する例があります。従って1mの大きさのこの弥勒像も破損しないまま出土してもおかしくはないのですが、出土場所が不明というのは、どういうことなのでしょうか。
韓国ではもう少し研究が進展していると思ったのですが、そうでもないようです。 この仏像が朝鮮産、しかも新羅の仏像と断定することは躊躇すべきではないかと思います。
李氏朝鮮時代の社会 ― 2006/10/14
文國柱著 高峻石監修『朝鮮社会運動史事典』(1981年 社会評論社)より、李朝時代の社会をどう説明しているか、引用します。
>李朝になってからも、農業生産力は、顕著な発展はみられず、中国または日本から比較的発達した農業技術が輸入はされたが、はかりしれない収奪によって極度に困窮におちいった一般農民たちは、改良された技術を習得することができず、また、それを実際に応用する余裕などなかった。 工業にかんしても、特殊な一部手工業だけが、貴族と官僚の需要に応じて、孤立的に発達を示したのにすぎず、一般的な社会需要に立脚して広範に発達したものではなかった。 李朝末期にいたるまで、一般農民は「堅く閉鎖された範囲の諸欲望が自給自足を目標にした伝統的生産様式」をほとんどそのまま維持してきた。 このようにして、商業の発達は制約され、貨幣の流通は微々たるものであった。 ‥‥‥ このように、農業生産力は停滞し、これにしたがって商工業の発達が阻止され、朝鮮の経済社会は、文化民族中、その類例が稀なほどに沈滞した歴史的過程をたどってきた。>(22頁)
この本は解放直後の1948年にソウルで出版された『社会科学大事典』が原本です。題名から分かるように、極めてイデオロギー的で、李朝時代も植民地時代も両方ともに暗黒に描くものです。しかし当時の左翼歴史家たちは、李朝時代に限ると上述のようにかなり冷静に事実認識していたと思います。
植民地時代の暗黒を強調するために、それ以前の李朝時代には近代の萌芽があったと薔薇色に描く昨今の歴史像とは違っています。
浅川晃広さん ― 2006/10/20
浅川晃広さんという元在日韓国人の方が、『諸君!』『正論』等で活躍しておられます。至極真っ当な持論を展開されており、これからの研究に期待するところが大きいものです。
拙論では http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/07/22/455680 でそのうちの一つを紹介しましたが、疑問点も提示しておきました。
次に彼のエッセー「私が『在日』をやめた理由」(別冊『正論』2006年4月所収)に、生い立ちに触れる部分で次のような記述があります。
「当時の外国人登録法では、十五歳になると登録が義務付けられており」(60頁)
外国人登録法は1982年10月に改正され、それまで14歳であったのが16歳に登録が義務つけられることとなりました。 彼は1974年生まれですから、1990年の16歳時に登録をしたはずです。 従って「十五歳になると登録が義務付けられる」は誤りです。
些細なことかも知れませんが、こういった事実関係に誤りがありますと、論敵からの格好の攻撃材料となるものです。
以上の点が彼の言説の中で疑問とするところです。
「邪馬台国の女王 卑弥呼」の誤り ― 2006/10/27
日本史の参考書に「邪馬台国の女王 卑弥呼」と書かれているのを見た。 これはちょっと困ったというか、誤りの表現である。 魏志倭人伝の該当部分を呈示すると、
「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」
このように邪馬台国は女王が都を置いた場所であることを明記している。 卑弥呼は「親魏倭王」に叙せられているから、倭国の女王である。従って倭国の首都が邪馬台国であって、そこに女王卑弥呼の宮殿があったということである。
卑弥呼は邪馬台国が首都である倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではない。 現在の例で言えば、エリザベス女王はイギリスの女王であって、ロンドンの女王ではない。 これと同じである。
「邪馬台国の女王」という言葉からの連想であろうか、邪馬台国を盟主とする連合国家だなどと言う研究者がいる。 しかし邪馬台国は倭国内の一地域であって国家名ではない。邪馬台国・奴国・伊都国等々の三十数カ国(「国」があるが地域名)を支配したのが女王卑弥呼であり、その全体の国家名が「倭国」である。 邪馬台国が他の国を支配していたことは、魏志倭人伝を読む限り、あり得ないことである。