身世打鈴 ― 2006/09/01
> 朝鮮人の身の上話=身世打鈴(シンセ タリョン)好きはとても有名
そうですね。私自身は、第48題に 「私は在日朝鮮人一世の二十人以上から直接に話を聞いてきた。当然なぜ日本に来たのかということも聞かせてもらってきた」 と書いている通り、様々な身世打鈴を聞かせてもらってきました。
> それも成功話でなく、苦労話が多い。 > どうしてここまで私が苦労しなければならないのかというのが中心 > こうして<恨>を語る。他人に転嫁するのではない。自分の不運を嘆くのだ。
その通りなのですが在日一世については、私の体験からするとこれは日本の年寄りとあまり変わらないと思います。じっくり聞いてあげると、これまで聞いてくれる人がいなかったのでしょうか、色々な身世打鈴をしてくれます。日本人とは違う苦労ですので、非常に興味深く参考になります。 なかには誰かに吹きこまれたのか、日本の悪口ばかり言う方がおられます。活動家たちが好んで聞く一世の生き様はこのような方で、ごく一部だということを知りました。 また若い二・三世の身世打鈴は、これを日本人に聞かせて優位に立とうとする心根が見えるので、私には嫌なものでした。
> 巫女が鈴を打ち鳴らして、わが身のこの世の恨みを嘆く。 > これが「身世打鈴」
金銭やイデオロギーを伴わない、本当の意味での身の上話=身世打鈴はなかなかいいものです。 皆様には、もし一世のお年寄りと知り合う機会があれば、是非聞いてみて下さい。
コメント
_ あまねこ ― 2006/09/03 10:06
_ マイマイ ― 2010/03/06 09:55
実は父が戦中の「強制連行」を目撃する「微妙な立場」でいたこともあって、話しも若干聞いているので、第48題「強制連行」考はおおむね同意できます。私は、あの時代の日本人なら「お国のために」と身も心も国家のために捧げることができたのに、「志願兵」の問題を含めて、どうして「朝鮮半島出身の日本人」はスムーズにできなかったかということに強い関心を持っています。
とにかく在日問題を考える際には、「強制連行」は直接的な関係はないということを改めて実感しています。
で話しを戻しますが、在日一世や若い世代の身世打鈴を多少聴く機会はあったのですが、「日本人向けのもの」に演出されていることと、人間なら誰でも涙腺が緩みがちになるので、自分がそうなるのも人がそうなるのを見るのもいやで敬遠しています。
1980年代数百人の教師がホールに集まって在日朝鮮人の教育問題を考える「恒例行事」の集会に聴衆の一人として参加する機会がありました。在日の若者が壇上で思春期の葛藤を語っていました。身振りも加え、話しの間も上手に使い、聴衆の私語は無くなります。内容は同時代をすごした私もよくわかるところもあり、多少こみあげてくるものも当然あります。しかし語り手の方は感極まって話しに詰まるわけではなく、平然としているのが私には不思議で、相当慣れていらっしゃるという印象を持ちました。集会が終わると、教師たちはたいてい「予定」がありそこへ流れていきます。遠目に私を見つけると、涙を流していく知人もいました。それなりの成果はあったということでしょうか。
女優新屋英子さんの「身世打鈴」も「公共の場」で果たしてきた役割を考えると、複雑なものがあります。もう本音をいえる歳になりました。
「私はいやだった!」
身世打鈴に違和感を持ったあの時代を、感傷的な気分で振り返る機会を持てました。
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。