朝鮮で活躍した宮城道雄2012/05/05

 宮城道雄は「春の海」や「水の変態」などの名曲で有名な作曲家です。その経歴を簡単に記しますと、

 彼は明治27年(1894)神戸で出生、その直後に眼病を患い、明治35年(1902)9歳の時に失明宣告を受けた。二代目中島検校に入門して筝曲を習い、頭角を現す。明治40年(1907)14歳の時に朝鮮に渡り、邦楽で活躍し、有名となる。大正6年(1917)に日本に戻り、東京で邦楽活動を続ける。

 宮城が朝鮮で活躍したのは、韓国や朝鮮人には意外と知られていないようです。  宮城は、朝鮮李太王妃の御前演奏を行なって好評を得るなど、かなりの有名人となっており、また朝鮮の女性が打つ砧の音を聞いて、名曲「唐砧」を作曲しました。 拙論 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakukyuudai 参照

 ところで、何でも韓国起源にしたがる韓国人がこれには全く関心がないというのが、不思議ですねえ。

 その点について、演歌の古賀政雄と比べるとその不思議さが増します。古賀は朝鮮で育ちましたが、音楽で活躍を始めたのは朝鮮ではなく東京でした。

 また古賀の音楽には、朝鮮を匂わすものは何もありません。その点でも、宮城が「唐砧」を作曲したように朝鮮への関心があったのと違っています。

 古賀だけが取り上げられて、なかには彼が韓国人であったという馬鹿馬鹿しい噂まで飛び交うのに、 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/10/6285379 宮城への関心が行かないのは、何故なんでしょうねえ。

在日朝鮮語2012/05/13

 「在日朝鮮語」とは、朝鮮総連系の朝鮮学校で話される言葉のことです。

 私がこのことを知ったのは最近のことで、韓国語の通訳・翻訳者の方の経歴で、小・中・高校の12年間朝鮮学校に通い、その後通訳を志して韓国に留学して語学を勉強し直した、ということが書かれていたことでした。

 朝鮮学校で12年間も勉強してきて、しかも学校生活は日本語禁止という環境でありながら、祖国の人には通用しない言葉を教えられてきたということです。その言葉を「在日朝鮮語」と呼ぶようです。 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/zainitigo/index.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E8%AA%9E

 朝鮮学校では、北朝鮮から教師を派遣してもらうことはできないだろうし、ましてや韓国からはあり得ないでしょう。とすると、朝鮮学校で使われる「朝鮮語」というのは、日本語に大きく影響された独自の「朝鮮語」にならざるを得ません。    朝鮮学校でこのような言葉を習得する場合、我々は日本人ではないんだ、という自覚には役立つでしょうが、卒業後の社会生活でどのような意味があるのか、疑問になります。

 かなり以前ですが、朝鮮学校卒業生の方から、卒業して10年もしないうちに朝鮮語全部忘れてしまった、という話を聞いたことがありました。

ある在日の生活保護2012/05/19

昔、たまたま知り合った在日朝鮮人のハルモニ(おばあさん)。身世打令(身の上話)を聞きました。

> ハルモニは五人目の子供が生まれたちょうどその時に、主人が事故で亡くなった。事故は、酒に酔って自転車に乗り、水路に突っ込んで死んだということだった。

> 子供ができたというのに、主人が産室になかなかやって来ず、警察が来て、主人のことをいろいろ聞いてきた。この時、警察も周囲の人たちも、あまりに可哀そう過ぎて、主人が亡くなったことを言わなかった。三日ほどして、主人が亡くなったことを知って、驚いて乳が止まった。ショックで一か月近く入院した。

> 退院したら、四人の子供は近くの人が食事は出してくれていたが、 それだけで、風呂も入らず、服の着替えもせず、暮らしていたという。

> ハルモニは字の読み書きもできず、子供たちのためにがむしゃらに働いた。朝早く起きて屑ひろいをし、昼は失業対策事業で働いた。

> 子供が病気しても医者に連れて行く余裕がなかった。子供がひどい病気をして、これでは本当に死んでしまうと、思い余って近くの医者に連れて行った。医者は事情を察して、無料で診てくれて、さらに役所の手続きもしてくれて、生活保護を受けることになった。

> そして9年後、一番上の子供が中学を卒業して就職した。そこで貰う給料と、自分が何とか働いて貰うお金を足せば、生活保護で貰うお金と変わらない。そこでハルモニは生活保護を自分から打ち切った。周囲からは、せっかく貰えるのに、と反対されたそうだ。しかしハルモニは、「みじめだから」と反対を押し切った。

> 子供たちは順調に育って、みんなちゃんとした社会人になった。ハルモニは「余りに貧乏したんで、子供がヤクザになるんじゃないかと心配していたが、そんなこともせず、立派になってくれて喜んでいる」と振り返った。

 このような身世打令でした。周りの在日の方に聞いても、「うちらも苦労したが、あの人の苦労は特別やった。」と、その身世打令がウソでないと言っておられました。

 ここで一番感銘深かったのが、自ら生活保護を打ち切ったということ、その理由が「みじめだから」ということです。働かずにお金を貰うことを「みじめ」とする感覚、たとえ字の読み書きができなくても、人間としての誇りを失わないというハルモニの信念に、感動したものでした。

 今日本では、生活保護を安易に貰おうとする風潮が蔓延しているようです。そのニュースを聞くたびに、あのハルモニを思い出します。

(参考)身世打令 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/09/01/507081

もう一人の在日の生活保護2012/05/26

 1970年代の中頃、私が民族差別と闘う運動体に関わり始めた時のことです。

 ある在日一世のお宅を家庭訪問しようと誘われて行きました。その家は、バラック風の粗末な建物で、一世の夫婦と末っ子の女高生、そしてその姉が離婚して連れてきた子供二人の5人家族でした。  夫婦といってもかなりの年で、末っ子は母親(オモニ)が40をかなり過ぎてから生まれた子です。その夫(アボジ)は体を悪くして働けず、一家は生活保護を受けていました。

 行ってみて驚いたことは、この母親(オモニ)が「日本は嫌いだ!大嫌いだ!」と、事あるごとに大声で言っていたことでした。日本人からかなりの差別を受けた体験を有していたようでしたが、その詳しいことは分かりませんでした。

 その当時私は、生活保護を貰うなんて恥だ、よっぽど貧乏しない限り貰うものではない、と考えていましたから、この在日一世のオモニにはビックリというか、新鮮でした。

 そこまで日本を嫌うのなら、なぜ生活保護を貰うのか?

 こんな疑問が当然湧いてきます。後にアボジがかなりの飲んだくれで、家庭内暴力(妻への暴力)が物凄かったことを知り、ますますその疑問が大きくなりました。

 しかし周囲の活動家たちは、在日の差別の現実を見たいという人に対して、「日本大嫌い」発言を繰り返すこのオモニを紹介していたのでした。

 この時の私は、在日は日本社会で不当な差別を受けてきたのだから、これぐらいは認めてあげなければならない、として疑問を考えないことにしたのです。つまり思考停止状態にしたのです。

 この時の精神状態は、経験した人でなければ、なかなか分かって貰えないと思います。