閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報2024/06/01

 閔妃の写真の真偽や存否について、韓国ではかつて論争がありました。 私も関心があって、20年ほど前に拙HPで書いたことがあります。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai      http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai

 結局、閔妃の写真は存在しないで決着したものと思っていました。 ところが韓国紙の『中央日報』2024年4月6日付けで、〝閔妃の写真は存在したのに日本がその写真を変造して、閔妃を「宮女」にしてしまった″という記事が出ました。 https://www.joongang.co.kr/article/25240631

 論争をまた蒸し返すつもりなのでしょうが、どのような主張なのか気になります。 日本語訳が出ていないの、ここで訳してみました。 

抗日闘争触発を憂慮、王妃の写真を宮女に変身させた 王妃弑逆事件の真実

王妃閔氏(明成皇后)を弑逆した日本人たちは、殺害現場で確認用に使用した写真に「宮女」という名前をつけて流布した。 「宮女」のフレームは今日に至るまで、王妃の写真の真偽論争を巻き起こし、百家争鳴の中、王妃の写真不在論まで登場させた。 なぜそうなったのか、調べてみよう。

1892年11月、フランス系アメリカ人記者であるA.B.ド・ゲルヴェルが朝鮮に入国した。 1893年にシカゴで開かれた万国博覧会の広報大使の資格であった。 記者はアメリカの公使館を通して乾清宮(景福宮内)で王と皇太子に謁見し、王妃が参席するなかで広報映像を回した。 帰国後、フランスの有名な写真雑誌『フィガロ・イリュストレ』1983年9月号に、謁見と放映のいろんな事を「朝鮮の李王家(Yi, Roi de Coree)」欄に文章を載せた。

ド・ゲルヴェルは「マジック・ランタン(幻灯機)」で、200枚にもなる場面をスクリーンに映した。 ワシントンのホワイトハウス、シカゴのビル、ナイアガラの滝、鉄道施設、そして博覧会場の大きな建物が次々に出た。 王妃は慣例により御簾の後ろに座っていた。 最初の写真が映ると、そっちの方でざわめく気配がして、二番目の映像が映ると王妃は我慢できずに前に出て来て、写真について「数千の」質問を浴びせた。 近代文明の「魔術の灯火」が朝鮮の王妃の心をとらえた。 乾清宮では、アメリカのエジソン照明会社と契約して1887年に電灯が点くようになったが、幻灯機に移るアメリカの風景は初めてであった。

ド・ゲルヴェルは王室の人たちに好評であった。王は白い顔に聡明さと優しさを漂わせ、すべての政事を直接処理するのに優れ、勤勉な王様として定評が出ているとした。 この部分で、王の夜行性の業務スタイルが出てくる。 王は暗殺を恐れて、大臣たちと一番熱心に働く時間は夕方6時から朝6時までで、昼は休息を取るという。 最近、ある総選挙出馬者が歴史上の人物たちを性的な陰口の材料にし、高宗の「夜の宴会」を主張したことがあるが、とんでもない主張であることはこのアメリカ人記者の証言でも知ることができる。

 最後の部分は、民主党のキム・ジュンヒョク候補がかつてユーチューブで、〝高宗は女に目がなく毎晩パーティをして、これが国を滅ぼした″と発言していたことについて、〝王室の冒瀆″〝歴史の歪曲″と批判されたことを指すようです。

ド・ゲルヴェルは、また王妃は背が低く、きれいな顔立ちだったと言う。彼女は非常に聡明に見えて、王の国政を助けているという記憶を思い出していると書いた。 ド・ゲルヴェルの文章に、王と皇太子が一緒になった(写真①)と、王妃の(写真②)が載った。それぞれ「李氏、王と皇太子」「閔氏、王妃」というキャプションが付いている。 王はこれ以前に写真機の前に立ったことがあるが、王妃は初めてだった。 朝鮮王朝は歴代の王の姿を御真(御真影を描いた絵の額)に入れたが、王妃にはこの伝統が適用されなかった。 最初の王妃の姿の公開であった。 文明の衝撃がもたらした変革であった。 

写真①:http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②:http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

1894年7月31日付けで、日本の東京で発行された「国民新聞」に「宮女」というキャプションが付いた挿図が載った。(絵画①) 新聞の創刊者である徳富蘇峰はもともと自由民権運動家だった。 1890年、明治天皇の「教育勅語」頒布で天皇制国家主義が大勢を占めるや、これに合わせて新聞を創刊し、国粋主義の拡大に一翼を担った。 外務省の財政支援を受け、ソウルに支社として「漢城新報」を創設することあった。 この新聞社の記者たちが王妃弑逆に加担したことは、よく知られている事実だ。 日清戦争が起きてから6日目になる日に載った挿画「宮女」と関連する記事は、紙面のどこにも探すことができない。 編集事故なのか? 見て描いた原画写真を追跡してみる。

絵画①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku31dai.jpg

ニューヨーク発行『ディモリスト ファミリー マガジン』1894年11月号の表紙に「王妃の尚宮」の写真が載った。(写真⑤) 国民新聞の「宮女」挿画より3ヶ月後だ。 アメリカ人ジャーナリストのフランクGカーペンターが、この年の夏に日本を経て、戦場となったソウルに来て、王と皇太子にインタビューした記事に関連する写真である。 写真の主人公の姿は、挿画「宮女」と服装が似ていて、原画である素地がある。 身分を宮女のうちの最上位である「尚宮」に替えたことが何か変である。 一般的な宮女の実際の姿は(写真③)のようだ。 先の「宮女」や「尚宮」とは雰囲気がまったく違う。 宮中で侍る宮女が椅子に座っているのは、とんでもないことだ。

写真③: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku34dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg

 最後のところで「宮中で侍る宮女が椅子に座っているのは、とんでもないことだ」とありますが、写真撮影場所はおそらく宮中ではなく、写真屋さん(当時は〝写真館″とか言われていました)にあるスタジオだと思うのですがねえ。

(写真⑤)で注目すべきことは、頭の装飾のトグジ(かつら)が(写真③)の宮女のものよりはるかに大きく、品位があるように見える点である。 トグジの下で横に挿している二つのかんざしも注目すべきものだ。 二つのかんざしは、朝鮮の地で王妃以外には誰も使用できない装飾である。 1894年12月22日、井上馨公使が王に謁見した場面の絵にも、同席した王妃はトクジを被り、かんざし二つを挿していた。(2024.2.3. 「近現代史特講」) 「尚宮」ではなく王妃の写真であることが確実である。

同じ王妃の写真で、(写真②)と(写真⑤)の関係はどうか? (写真②)は편복(普段着)の姿、(写真⑤)は礼服の姿で区分される。 顔の様子がどこか違って見えるのは、化粧のためだという解釈が出ている。 2007年7月24日の聯合ニュースは、アメリカLAで英国人収集者のテリー・ベネット氏所蔵の朝鮮王室人物写真4点が公開されたと報道した。 ド・ゲルヴェル記者の文に載った(写真①)と(写真②)に大院君の写真2点が加わった4点である。 (写真②)には、ドイツ語で「殺害された王妃」という説明が筆記体で書かれている。

写真①: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku32dai.jpg

写真②: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku33dai.jpg

写真⑤: http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku36dai.jpg      

 記事は、写真②を王妃の「편복」姿としています。 これは漢字で「便服」と書くもので、日常の普段着というような意味です。 王妃たる者が普段着姿を公開するものなのでしょうかねえ。 世界各国の人が見るものなのですがねえ。(続く)

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