東郷茂徳が名前を変えた理由2007/04/21

 東郷茂徳は太平洋戦争の開始時と終戦時の外務大臣で、戦後東京裁判でA級戦犯として懲役20年の判決を受け、その2年後に病死しました。後に靖国神社に祀られて今にいたっています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3

 この東郷が明治15年に生まれた時は「朴 茂徳」という名前で、5歳の時の明治19年に「東郷茂徳」となったことは有名です。名前から分かりますように、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津藩に拉致された朝鮮人陶工集団の子孫です。

 なぜ名前を変えたかについて、日本社会からの厳しい差別のまなざしを避けるために、他家への入籍・分籍という戸籍操作によって日本式の名前に変えざるを得なかった、という説が流布しています。この通説については、明治19年ごろに既に朝鮮人差別があったということになり、ちょっと不思議と思いながらも、そんなものだろうとも思ってもいました。

 ところが萩原延寿『東郷茂徳 伝記と解説』を読みますと、名前を変えたのはそのような理由ではないことが記されており、成る程と納得しました。

 東郷の故郷の苗代川は、上述の歴史的経緯をもった陶工人の村で、ほとんどが朝鮮姓でした。彼らは気位が高く、薩摩藩では士族と同等の扱いを受けていたと考えていました。ところが、明治5年の壬申戸籍作成の際に、彼らは平民身分とされてしまいました。これに対して「士族編入之願」を繰り返し願い出ましたが、すべて却下されました。何とか士族になろうとして、没落士族から「士族株」を購入して戸籍を変え、「士族」身分と記載されるようになった、という経緯でした。

 西南戦争後の鹿児島は貧窮士族が多く、士族株の売買が可能だったのです。   「朴」家は明治19年に「東郷」家と名前を変えました。それは民族差別ではなく、江戸時代から続く身分差別に起因するものであったということです。

 通説は疑ってかかるべし、という教訓を改めて得ました。