「植民地分裂症」とは?2018/06/05

 韓国人が反日と親日という相反する感情を同時に有していることについて、韓国人自身がどう分析しているのか、なかなか見当たらないとしました。 ところが尹海東『植民地がつくった近代』(三元社 2017年4月)が次のような二つの例を記述しているのを見つけました。先ずは自分の母親です。

私の母親は1927年生まれで、植民地期に高等普通女学校(通称「高女」)を卒業した。成人する前に植民地統治は終わったものの、帝国日本のもとで中等教育を受けたため、今でも日本語を母国語のように駆使できるし、日本式の生活様式にもかなり慣れている。 幼いころからの日本の植民地統治期に関する話を聞かされたが、いぶかしく思ったことがひとつあった。 それは、かなり矛盾しているように思えるいくつかの事実が、ごく自然に語られることであった。

日本人の植民地統治や教育のあり方は朝鮮人にとってきわめて悪辣で差別的なものだった、とかさねがさね語りながらも、ほとんどの日本人はたいへん正直で、勤勉・誠実な生活を営んでいたと、きまって言い足すのである。 植民地統治の差別と過酷さについては非難を浴びせながら、かれらの合理性には敬意を表するこうした態度を、どう理解したらいいのだろうか。 日本人は植民地を運営する資格と能力を備えていたとでもいうべきか。学校教育を通して形成された植民地像をもっていた私には、じつに理解しがたいことだった。(33~34頁)

 次に韓国のある知識人のエピソードです。

大学に入ってからは、植民地期に高等教育を受けた上層部の人たちが、公式の場で日本人と会うと日本語を使ったり、晩餐後の酒の席では日本の軍歌を歌ったりした、という話を幾度も耳にするようになった。

学界の権威として知られているある教授が、公的には非常に反日的な態度をとり、学生たちが日本語書籍を読むことを禁じながら、自分は大量の日本語書籍を購入して読むどころか、かれの知識の源泉そのものがじつは日本にある、という噂を又聞して、私はさらに複雑な気持ちになった。 知識層のこのような二律背反の態度は、いったい何を物語っているのだろうか。(34頁)

 この二つを例示しながら、論者は次のように分析します。

植民地を回想する私の母親の態度が、二律背反でありながら無意識的なものであったとすれば、公的な地位についている知識層の態度は意識的なものであり、きわめて偽善的だといわなければならない。 しかしながら、双方に共通しているのは、植民地について非常に分裂的な認識をもっていることである。 これこそが植民地分裂症なのである。 植民地期を専門にして勉強するなかで、私はかれらの態度について以下のような結論をくだすことになった。 韓国人の内面は、無意識において植民地化されているのだ、と。 私は、それが植民地近代を構成する特性であるとみるようになった。(34~35頁)

 「植民地分裂症」というのは、言葉は過激ですが成程そうだろうなあと思いました。 「韓国人の内面は無意識において植民地化されている」とは、植民地化(=日本人化)が自らの血肉となっていることを意味しているものと思われます。

 だから韓国人は自分の体からその血肉の切除を叫ぶことによってアイデンティティを確認しようとしているわけです。 実際には血肉は切除できるものではありませんから、大声で叫ぶのです。 これがすなわち冒頭にある「反日と親日という相反する感情を同時に有していること」であり、内面と外面の「二律背反」=「植民地分裂症」になりましょうか。

 これを分かりやすく言おうとすれば、どう言えばいいのかが難しいです。 私は「厄払い」「魔除け」と考えればどうだろうかと思います。 この「厄」や「魔」が自分たちの身を巣食っている日本であり、それらを払い除けるために唱える呪文が「日本は歴史を反省していない」「忘恩背徳の日本」なのです。 「植民地分裂症」とは、この呪文を唱えていることと考えればいいように思えます。

 ところで上述の引用部分だけを読むと、この論者は保守系と思われるかも知れません。 実はこの方は、次のような活動をしています。

2007年の秋、韓国で日本の平和憲法を守る会、「韓国九条会」が創立された。「韓国九条会創立準備大会」において、私は「日本の平和憲法を守ることの意味」という題で基調報告をおこなった。‥‥要するに、私にとって日本の平和憲法を守るということは、日本の戦争責任と植民地支配の責任を問うことであり、それをもって自国の平和や世界の平和を鼓吹することでもある。(326頁)

 「韓国九条会」なんてどんな会なのか調べてみましたが、今は活動していないようです。 他国の憲法を守ろうという主張が、私の理解できないところです。 自国の憲法に九条を作ろうというのなら理解できるのですが。

【拙稿参照】

矛盾               http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/31/8862743

韓国の対日感情は理解が難しい   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/29/8813934

韓国人の対日感情         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/12/8317218

韓国人のアンビバレントな感情   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/01/8690297

韓国の反日感情はいつ形成された? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/08/8698008

反日意識はどのように継承されたか―植民地時代  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/03/8817737

世界で唯一日本を見下す韓国人   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/06/8216253

日本を見下す韓国(2)      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/12/22/8285733

コメント

_ A.OTA ― 2018/06/05 10:13

鄭大均氏が大邱で教鞭を執られていた頃、私は留学生として同じ大邱で暮らし始めたという縁で氏の著作を興味深く読んだ記憶があります。韓国人のアンビバレントな対日感情というテーマについては氏が非常に問題視して取り扱っていましたね。しかし、一世代若い私が実際に韓国社会の中で暮らしてみるとそこでの「日本」という国家の持つ意味が日本人や在日が自意識的に感じるほど重くないのではないかと思うようになりました。もちろん私が韓国で暮らし始めたのは87年の民主化以降で韓国社会が国家的なプライドを取り戻した時期に当たったこともあるでしょう。しかし、当時はまだ植民地時代の人達も現役で彼らの対日観に接しても(もちろんアンビバレントな面は多々ありましたが)分裂症的と形容するほど深刻なものには思えませんでした。しかし、当時は反日感情というより日本に対しての公的抗議行動が勢いを得た頃でテレビの画面を通して見る彼らのアピールがヒステリックな表出方法に依存しているなとは確かに思いました。感情と言えば日本語では説明や論理を超えた好き嫌いの心の作用というような意味で使われますね。だから日本人なら「反日感情」などと言われればこれはどう反駁したところで仕方のないものだろうなと心の中で思う。しかしそう思って半分諦めているところに突然好意を示されたりすれば当然首を傾げる。一体こいつは何を考えているのかと....。私の考えでは韓国人の「反日感情」というのは実は「感情」ではなくその反対の「理性」なのではないかと思います。理性と言ってもそれは所謂カントが言ったような定言命令的な徳目に無条件従うか従わないか選択する人間の実践理性みたいなものですね。韓国社会は日本に比べると今もある種の伝統的徳目が人心を強く規制している道徳ファースト社会ですよね。それは多分家族道徳に起源を持つ人間の生の力や欲望を否定する精神だと思います。それは結局自らの惨憺たる近現代を招いた西欧近代化への漠然とした反感という形で今に継承されている。ウリ民族ッキリというスローガンのもとでの今の北朝鮮への急接近も結局はその反近代精神の発露ではないでしょうか。一方で日本社会は千年にわたる封建制を経て近代的自由の観念を内在的なものとして受容し易かったゆえに反近代精神の色彩が薄い。言わば徳目とは離れて能力や利益で物事を考えられる仮言命令的世界です。彼ら韓国人が敵視しているものは本当は現実的に存在する日本ではなく、彼らが排斥しようとしている近代を表徴する記号としての日本じゃないでしょうか。だから、彼らとて仮言的命令で秩序と発展が進行する現実に戻れば、日本をまったく異なる目で捉えるということになる。しかし現実的価値という面ではアメリカと中国の方がさらに優先する。せいぜい日本の進んだ消費文化でも楽しんでおればそれでいいじゃないかという彼らの対日認識、日本人の立場からすれば多少ふしだら、不真面目に感じますがそれが現実ではないでしょうか。

_ 辻本 ― 2018/06/06 01:50

>惨憺たる近現代を招いた西欧近代化への漠然とした反感
>彼ら韓国人が敵視しているものは‥‥近代を表徴する記号としての日本じゃないでしょうか

 「近代」を「法治主義」と考えるならば、下記の拙論で論じております。 ご参考いただければ幸甚です。

「賄賂は腐敗ではない」民本主義と法治主義―趙景達 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/02/28/7233914

「賄賂は腐敗ではない」民本主義と法治主義(続)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/02/7235833

法治主義と儒教         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/23/7500552

_ A.OTA ― 2018/06/06 21:04

趙景達氏の著書読んでみます。それにしても「教化主義」「規律主義」という言葉による対比は言い得て妙ですね。西欧思想史を紐解けば分かることは規律=法の本質とは市民個人や集団の所有権など自己主権的自由領域に中央政府の権力が干渉できないようにその力の及ぶ範囲を限定するルールですね。法治主義とは古典的自由主義の必須条件と言ってもいい。長い封建制に育まれた日本社会はこの所有や自己主権の市民的自由、消極的自由の感覚を受容し易かった。しかし、大陸の王朝国家は市民社会に所有権も自己主権もを認めなかった。家産制官僚専制国家ってやつですね。地域勢力も中間集団も否定され社会は家門ごとにバラバラにされ統治された。その秩序を支えるものは規律ではなく所謂牧民や徳化教化だった。これは結局、社会関係に根深いパターナリズムを形成し全体主義的社会の方向へ舵が取られやすい状況が作られやすい。今、韓国では朝鮮半島の赤化統一の危機などという言葉が主に保守派を中心に語られていますが、そうした長期間にわたる民族性的経路依存状況にあるとすれば流れを変えることは並大抵のことではないでしょうね。

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