芥川賞受賞者 李良枝 ―韓国人を美化する日本人はおかしい2018/04/08

 在日朝鮮人作家である李良枝は、1989年に小説『由熙』で芥川賞を受賞しました。 ただし彼女は子供ときに家族帰化していますので、国籍は日本です。 1980年代にソウル大学に留学し、次々と小説を発表して注目されたものでした。 芥川賞受賞の際に『朝日ジャーナル1989年4月21日号』でインタビュー記事があります。 興味深かったので紹介します。

受賞作品『由熙』のあらすじは、朝日ジャーナルの記者が次のように記しています。

在日韓国人である李由煕はソウルのS大に留学したガリ勉学生。 憑きものにつかれたように母国語(ウリマル)と格闘するが、文章は書けても、話すと発音は不正確で、文法も間違える。上達しない韓国語にいら立つ由煕は、とうとう卒業を目前にして韓国随一の大学を中退し、日本に戻ってゆく。 その軌跡と悩みがインテリの韓国人女性二人を語り手として描かれる。

 李良枝の簡単な紹介の後、インタビューが始まります。 抜粋します。

―在日韓国・朝鮮人のアイデンティティは中ぶらりんだ、と在日の作家でさえ言う人がいる。 李さんが韓国に居続けているのは、存在証明を確認するためだったのですか。

そういう面もなくはないけれど、ふつう在日韓国人であるということは、あくまで人間の生の一面でしかない。 そのへんが私の中で片付かなかったから韓国に居続けてきた ‥‥ 『由煕』を中心にいいましょう。私の分身でもある由煕はウリナラに大変な思い入れをしていたのに、韓国の現実を見て、韓国の文化や慣習に適応できず、韓国語にすら嫌悪を覚えて、自分の内部で葛藤を続ける。

私が『由煕』でいいたかったことは、自分も他人も、事物も、あるがままに見る力を持とうということだった。 語り手のお姉さんに「由煕はケチンボ」と非難されているでしょう。 由煕はソウルでの生活、勉強に挫折して日本に帰ってしまった。 けれど、由煕はまたいつか韓国に戻ってゆく、と思う。 それは在日である以上、母国を愛し続けなきゃいけない、ということではない。由煕があのまま日本に戻り、それっきりだったら他人を愛せないまま生きることになるような気がします。‥‥

―『由煕』を書き終えて振り切れたものはありますか。

‥‥目の前にある人間、事物、すべてを、判断を下す前に、そのまま引き受け、許容する力を持ちたいと、きょうまで願ってきたけれど、それを持ち得なかったがための葛藤が私の中にあった。  で、『由煕』を書いたことで、私の中の弱さを暴露し、埋葬したのです。 以前であれば、ソウルの生活で私の神経を逆撫でするような光景を見ても怒らなくなりました。

 李良枝が『由煕』を書いた理由というか経緯について説明でした。 この次に、へー! 1980年代にこういうことを言っていたのか!と感心する、あるいは考えさせられる話になります。

―大学に行くと韓国人の学生が床にツバを吐いたり、貸した洋服が返されないとか‥‥。

それらを含めていろんなこと。 日本でも東京人が関西に移り住むと、「大阪人はなんでこうなんだろう」と悪口を言う。 それと同じですよ。

―その程度のこと?

その程度って、どういうことですか。 そういう発想はとても危険で、同時に人間という存在に対してとっても失礼ですよ。在日韓国人が直面する差別やら言葉の問題が、日本人同士の間で抱えている苦しい問題よりも大変だなんて、そんなことは絶対に言い切れない。 韓国問題が“偉い”とでもいうのですか。

―そうは言っていません。

あなたの中に、ちょっと先入観があるのではないかしら。 人間はざまざまな属性を抱え、さまざまな場面を生きているという意味で、対等な生きものだと私は考えています。  私は、基本的に差別は大嫌いなの。あなたが、日本の東から西へ行った人が抱くカルチャーショックよりも在日問題のほうが深刻、あるいは“程度”が高いと考えているなら、それは在日に対する差別だともいえるのですよ。 差別って何だと思いますか。

―在日韓国人と自然に付き合っているつもりでも、ひょっとして心の奥底に差別感があるんじゃないかとおびえることがあるのですが‥‥。

戦前の日本は36年も韓国を支配し、韓国人を差別してきた。そしていまも社会構造的に差別しているという事実があるから、日本人は在日の前で何もいえない、口を閉ざすしかない、というのも逆の差別よ。

―在日の旧世代の作家たちは、日本社会の在日への差別を背景に書かないと、小説を書けなかった、という人もいます。 ところが、李さんの『由煕』を読むと、古い定型突き抜けた感じを持つ。

日帝による36年の(朝鮮支配)、日本社会の差別性はさびしく悲しい歴史であり現実です。 けれども人との付き合いは、個人と個人との出会いから始まる。性が合わないものは合わない。    韓国人を美化する日本人はおかしいし、逆差別にのっかってアグラをかく在日もよくない。   問題は山積みされています。けれどもどんなに政治的、あるいは社会的な問題でも、結局は人の心のありように行きつくことなのだ、と私は考えています。 ‥‥

 日本人と在日について、“差別と被差別”という関係で考える記者と、それに対する李良枝の反論ですね。 1980年代は、「日本社会からの被差別」に自らのアイデンティティを確認しようとしてきた在日社会の中から、李良枝のようにそこから抜け出ようとする人が現れ始めた時代だったなあと思い出されます。

 李良枝の「韓国人を美化する日本人はおかしいし、逆差別にのっかってアグラをかく在日もよくない」という発言は、当時の在日の差別反対運動への鋭い批判ですね。