金時鐘氏が正規教員?―教員免許はないはずだが‥2024/01/16

 金時鐘さんの著作の読んでいると、次のような話が出てきて、驚きました。

兵庫県で始まっていた「解放教育」運動のあと押しも受けて、正規教員としては在日外国人初の公立高校教員となり、人権教育実践校の兵庫県立湊川高校(定時制)に社会科の教員として赴任しました。 1973年夏、43歳のときでした。 (金時鐘『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 286頁)

 何度見ても「正規教員」とあります。

 金時鐘氏は、戦前は朝鮮全羅南道の光州師範学校に通っていて、夏休みに故郷の済州島に帰省していた際に8月15日の「日本の終戦」=「朝鮮の解放」を迎えました。 そしてそのまま学校の授業を受けず、卒業しませんでした。 ですから彼は教員免許を取得していません。 その後、彼は済州島で南朝鮮労働党に加わり、1948年の4・3事件に関わって弾圧を受けたため、翌1949年に日本へ密航してきました。 そして日本でも学校に通ったことはなく、従って教員免許がないままでした。

 つまり彼は教員免許がないのに、日本の公立高校の「正規教員」として就職したというのです。 そのあたりの事情について、彼は『「在日」を生きる』という本の対談で次のように語っています。

兵庫県高等学校教職員組合のある先生から、あなたが教員になってはどうかという話がきました。‥‥金時鐘をぜひ、在日朝鮮人初の正規の公立学校教員として県教育委員会に推挙したい、との趣旨でした。

40を過ぎた者が今さら学力認定の資格試験を受けるということは、かなり以上の精神的重圧でしたが、意を決して応じることにしました。 当時は教員組織も強い時期で、解放教育運動を支援する気運も県全体に広まっていましたので、差別を許さない教育を目指すなら、在日朝鮮人の教員が現れてもいいじゃないかということがアピールにもなったんです。 一人で特別計らいの資格試験を受けて、短期大学卒業同等の学力認定にぎりぎり受かりました。 国籍条項の制約から教諭に準ずる社会科の教員となって、44歳の時、県立湊川高校(定時制)に赴任しました。 (以上 金時鐘・佐高信 『「在日」を生きる』 集英社新書 2018年1月 122~123頁)

   「学力認定の資格試験‥‥ 一人で特別計らいの資格試験を受けて、短期大学卒業同等の学力認定にぎりぎり受かりました」ということは、大学等で授業を受けず、教育実習もしていないにも拘わらず、教員になる資格を取ったことになります。 こんなことは今ではあり得ませんが、1970年代にあり得たのでしょうか。 どんな「資格試験」だったのか、気になって身近の本を探してみました。

金時鐘は自分の湊川高校への就職の経緯について次のように語っている。 ‥‥ 植民地下の朝鮮で師範学校中退だったので、現代日本の法律では、中等教育の教員にふさわしい学歴とはみなされず、採用されるにあたって苦労した。 例えば、受験者は自分一人なのに、七科目それぞれに一名の担当教師が試験の監督と採点を行なうといった大そうなことになった。 そして試験結果は、日本語以外は散々だったにもかかわらず、社会科教員として採用された。 (玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』 同時代社 2021年4月 115頁)

資格など何一つ持ち合わせていない自分一人のために、たいへん大掛かりな特別の試験まで設定され、試験の成績は散々だったのに採用された。 (同上 117頁)

 どうやら学校では金さんを採用するために、彼一人だけをアリバイ的に試験を受けさせたものと思われます。 「試験の成績は散々だった」とありますから、結果は本来の合格点には程遠かったと思われます。 おそらくは、採用権限を有している教育委員会に〝試験を実施した、教員としての資格がある″と報告して採用させたものと思われます。

金時鐘(林大造が外国人登録名であり、公的にはそれが正式名)は実習助手として任用された。 教員免許がなければ教諭になれないからである。 (同上 116頁)

 教員免許がないので教諭ではなく「実習助手」という形で採用し、教員の仕事をさせたということになりましょうか。 しかし、なぜこれが「正規教員」なのでしょうかねえ。 「正規」とは〝任期付や臨時でない正規の雇用″という意味なのでしょうが、「正規教員」と言われると違和感が大きくなります。

 ただ1970年代前半は解放運動による同和教育介入が激しかった時代で、同推校(同和教育推進校)では運動側の推薦で簡単に採用が決まることが多々ありました。 こういう学校に、当時盛んだった学生運動の活動家が就職できたのでした。 いわゆる底辺校でも教職員組合の力が強い学校では、活動家が教員採用試験を受けずに就職した場合が少なくありませんでした。 金時鐘さん採用も、当時のこの流れのなかにあって実現したのではないかと思ったのですが、どうなんでしょうか。

 ところで湊川高校では朝鮮語授業担当者の後任に、方正雄さんという方が任用されました。 彼はその時の思い出を次のように語っています。

私が神戸市にある兵庫県立湊川高校の教師になったのは34歳、1985年4月からである。 ‥‥ 見知らぬ二人が‥「湊川高校の朝鮮語の先生になってくれ」というキツネにつままれたような話に「ええっ」と目を見開いた。 まずは朝鮮人で、高校の教員免許があり、朝鮮語が分かる人、その検索に私がひっかかり、「白羽の矢」が舞い込んできたらしい。

「卒業証明書だけでもいただけませんか」と言う。 教員免許は未申請だと告げたので、卒業証明書だけでも、ということらしい。 後から分かることだが、2週間もすれば新学年度の授業が始まり、次の教師が見つからないと「朝鮮語」が先細りとなり、いずれ閉鎖されていく、そういう危機感があった。 校長には私がすでに承諾していると伝え、綱渡りの心境で来ていたそうである。 

当時湊川高校の朝鮮語教師は金時鐘先生と劉精淑先生の2名だったが、劉先生が急遽退職されるという事情だった。 (以上 方正雄「湊川高校・朝鮮語教師の物語」 抗路舎『抗路8』 2021年3月 172~173頁)

 湊川高校が教員免許を持った在日朝鮮人を必死になって探していた、という話はリアルですねえ。 1973年の金時鐘さん採用の時は教員免許なんてどうでもいいという感じでしたが、1985年になるとやはり教員免許が絶対に必要となったようです。 

【追論】

 拙ブログでは金時鐘氏を批判ばかりしているように思われるでしょうが、実は彼の「差別」に対する考え方には共感しています。 数年前のものですが、下記の拙稿をご参照ください。

武田砂鉄の被差別正義論―毎日新聞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/24/8810463

社会的低位者の差別発言      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244588

【追記】

 昔は教員採用試験には国籍条項があり、日本国籍でないと受験できませんでした。   これは民族差別だとして、国籍条項撤廃を掲げる運動がありました。

 こういうことで活動しておられた田中宏さんは1970年代終わり頃に、教員免許を持っている在日を募集して、教員採用試験の受験の申請をさせようとしていました。   当然受理されないのですが、すぐさま裁判に持ち込んで、闘争していこうという戦術です。

 この時に田中さんに呼びかけられた在日を知っています。  大学では勉強の一環として教員免許を取っただけで、実際に教員になるつもりはなくて民間企業に就職していた、それなのに教員採用試験を受けろと言われて困った、と言っていましたねえ。