在日の本名とは?2012/07/01

 新たな出入国管理及び難民認定法(入管法)に伴い、外国人登録がなくなります。中長期滞在などの外国人は、外国人登録証でなく在留カード、特別永住者は特別永住者証明書が発行され、各市町村で住民票が作成されます。

 外国人の通名は一つだけ作ることができますが、入管法には規定がないため、在留カードには本名のみが記載されます。 いわゆる在日韓国・朝鮮人=特別永住者も、これまで外国人登録証に記載のあった通名がなくなり、本名のみとなります。

 通名は住民票に記載されることになるようです。

 ところで在日は、他の外国人とは違ってパスポートを持って来日したのではありません。普通はパスポートの名前が本名になるんですが、在日の場合はこれまで日本の役所に届け出て外国人登録された名前が本名になります。しかしこれが本国で戸籍等で登録・記載されている名前と同一かどうかは分かりません。

 つまり日本の外国人登録における本名と、本国の戸籍等における本名とが一致しない場合が、時々出てきます。

 例えば、戦前の創氏改名で日本名にした在日が、戦後にこの日本名で外国人登録した人がかなりの数に上ります。この場合、日本名が本名となりますが、本国(韓国・北朝鮮)では創氏改名が当初より無効としましたから、日本名が本名ではあり得ません。

 つまり日本での本名と、本国での本名とが違うことになります。

 有名人では金嬉老。寸又峡事件で逮捕されて調べてみたら、本国での名前は権嬉老だったと分かりました。それまでの逮捕では、本国の本名なんて調べていなかったようです。

 在日の本名というのは、ややこしい場合が時折出てきます。

通名を本名と自称する在日2012/07/04

 在日の本名問題をややこしくするのが、法律上の正式の名前を本名とするのではなく、通名を本名と自称する在日がいることです。

 例えば、民団新聞に次のようなことを語る在日がいます。

光本允さん(摂津市立鳥飼小学校)は在日3世。 日本人の母親の籍に入っているが、「本名は金です」と自己紹介した。 「3年前、祖父の住んでいた故郷の役場を訪ね、そこにも私のつながりがあることがわかりました。今はつながっていることがうれしい」と話した。

http://www.mindan.org/shinbun/news_view.php?page=13&category=2&newsid=16110

 この人は日本人の母親の籍に入っていますから、立派な日本国籍人です。そして文章の脈絡から、韓国の国籍は有していない、つまり二重国籍ではなく、日本の単一国籍でしょう。

 この方が「本名は金です」と、法律上には存在しない名前、つまり通名の方を本名と考えているということです。

 このように戸籍名ではなく、通名の朝鮮名を本名としている方は、在日の活動家では意外に多いものです。自ら朝鮮名を名乗り、在日の青年・子供たちに本名を名乗れと迫った活動家が、実は日本国籍で、朝鮮名は通名であるという話はよくあることでした。

 これは自分のアイデンティティを表す名前だけが本名なのであって、法律なんか関係ない、という考えです。朝鮮民族主義的観点からすると当然なことなのかも知れません。しかし公的証明ができない主観的名前を本名と称するのは、やはり違和感が大きいものです。

 本名を呼び名乗る運動は1970年代から盛んになりましたが、その時の本名とは一体何だったんだろうか? 今でも疑問に思っています。

郵便ポストを設置させた解放運動2012/07/07

 昔の解放運動の思い出を書きます。もう何十年も前の話です。当時私は解放運動の集会に参加したりして、それなりに大きな関心を寄せていました。

 解放運動の成果として次のようなことがありました。

 ある同和地区では郵便ポストがない、これは差別だ!と郵政局に対し闘争を行ない、地区内にポストを設置させることになった。これは解放運動の成果の一つとして報告された。 

 ところがこの地区の郵便配達を担当する方が、設置されて1年経つが、郵便ポストに郵便が入っていたことがほとんどないと、ぼそぼそと語り出した。

 これは当時の同和地区の実際を知る人にはすぐに分かることで、彼らには手紙を書く習慣がなかったということです。これは全部ではありませんが、この傾向は非常に強かったのです。

 こんな状況ですから当然手紙を書くことはありません。解放運動の趣旨からすれば、郵便ポスト設置の闘争を行ない獲得したのだから、次はこの成果を生かしてみんなで手紙を書いて出そう、と自分たちの生活の質を高める運動に繋がらなければならないと思うのですが、そんなことはありませんでした。ポストの設置だけで終わったのです。

 つまり解放運動は、他に対しては果敢に闘いながら、内に対しては地道な努力をしない運動だった、ということです。

 解放運動は人間の解放ではなく、闘いが目的だったと思っています。

『前進プロレス』対『解放実話』2012/07/14

 「前進プロレス」とか「解放実話」という言葉を知っている人は、おそらくほとんどいないでしょう。    『前進』とは過激派の一つ、中核派の機関紙です。『解放』とは中核派と対立する革マル派の機関紙です。

 1970年代は、ミニコミ誌を扱う書店があちこちにあって、『前進』や『解放』も置いていました。私は買うことはほとんどなく、立ち読みでしたが、知人がよく買っていました。

 『前進』の特徴は、何と言ってもその表現の極端なほどの過激さでした。実際はそんなに大したことがないのに、それこそ一帯が大量の血で染まったかのような表現が多かったものです。当時はプロレス全盛時代で、プロレス新聞がまさにそんな言葉を繰り返す新聞でした。『前進』も、これに負けず劣らずというもので、周囲は『前進プロレス』と揶揄したものでした。  最初のうちは言葉の遊びのような感覚で読んでいたのですが、革マルとのそれこそ悲惨で残忍極まりない内ゲバ殺人が本格化すると、過激な言葉をそのまま実践する中核派に戦慄を覚えたものでした。

 一方の『解放』。革マル派は情報収集能力に定評があります。10何年前でしたか、警察のデジタル無線を盗聴していたことが判明し、大きな話題になりました。1970年代も、敵対する中核派など、狙った人物を組織的に探偵し、その情報を『解放』に掲載していました。その情報にはスキャンダラスなものが多かったのです。当時のスキャンダル雑誌『週刊実話』をもじって、『解放実話』と揶揄されていました。  情報が確かなだけに、敵対する中核派を殺したというような話は、実にリアリティのある内容で、これもまた戦慄を覚えたものでした。

 日本の過激派は、以上だけでなく社青同や共産同等々、様々な党派が内部分裂・離合集散していました。どの機関紙の内容も似たり寄ったりでした。

 1980年頃でしたか、パレスティナ支援に行った過激派の人が、自分たちの機関紙を持っていって、忠実に訳して向こうの人に読んで貰ったら、あの平和で繁栄している日本がこんなに混乱しているのかとビックリして、よくよく聞いてみたら中身が全くないものと分かり、かえって信頼を失った、という話を聞いたことがありました。

 日本の過激派は歴史の藻屑に消え去るしかない存在です。彼らがいまだ生き残っていることに、生きた化石のような感想を持ちます。それでもその生きた化石が今の世の中でも時々悪さをするのは、困ったものです。

赤松啓介の思い出(続き)2012/07/22

 久しぶりに、故赤松啓介氏の思い出です。彼から聞いた話については、下記の拙論で書いていますので、参考にしてください。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/02/02/2596000

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/09/17/5351878

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/11/07/5479466

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/04/23/5821893

 赤松啓介氏は共産党員として逮捕され、特高から厳しい拷問を受けたのですが、非転向を貫きました。そんな彼でも、1945年の戦争末期ともなると、何時までも牢屋に閉じ込めていくわけにはいかなくなりました。 彼は治安維持法ではなく、行政執行法で何年も警察の豚箱(留置場)にいたのですが、警察の人手不足のせいだったようで、釈放されました。しかし下っ端とはいえ、非転向の共産党員です。

 彼は出獄後、軍需工場(といっても軍服を作る工場)の監督として働くことを命じられました。そこでは、芸者や売春婦(当時の言葉では「淫売屋」)が戦時動員されて働きに来ており、それを監督する仕事だったのです。    ここからが、民俗学者としての赤松啓介は本領を発揮します。芸者と淫売屋の性格が明瞭に違っていることを記録し、資料化していくのです。

 芸者は芸を習ってお金を稼いできた女性で、売春もやりますが、やはり芸の習い事をしてきたというプライドがあります。従って負けん気が強いのです。少しでもいい軍服を作ろうと、お互いに競争するようになります。

 しかし淫売屋は、全く働かない。言われたら言われただけのこと以外は、しようともしない。少しでも楽しようと、監督に言い寄ったりすることもあったとのことでした。

 この全く違う性格を有する女性たちを監督して軍服を作らせるというのが、彼の仕事だったわけです。戦争末期の短い期間でしたが、彼はそれでも民俗学徒として、あらゆる人間活動現象を観察し分析することを怠らなかったということです。

 ところで、戦時動員された芸者や淫売屋たち、今で言うところの「強制連行」「強制労働」させられた人たちとなるのでしょうかねえ。

これは砧ではない2012/07/25

 (朝鮮日報日本語版) ロシア沿海州の渤海遺跡から砧が出土  朝鮮日報日本語版 7月25日(水)11時1分配信

 東北アジア歴史財団(鄭在貞〈チョン・ジェジョン〉理事長)は24日、ロシア科学アカデミー極東支部の極東諸民族歴史学・考古学・民族学研究所と共同で、ロシア沿海州クラスキノ(渤海時代の名称は塩州)土城のオンドル遺跡を発掘した結果、長さ67センチ、幅18センチ、高さ8センチの直方体をした砧(きぬた)=写真=を発掘したと発表した。これまでも渤海の帰徳将軍・楊泰師の詩などの文献により、渤海にも砧があったと推定されてきたが、実物が出土したのは今回が初めてだ。

 発掘団は砧のほか、塩州城では初出土となる、渤海時代の鉄製の「やり」2点(それぞれ長さ25.9センチ、24.1センチ)も発見した。今回改めて発掘されたオンドルは、渤海が高句麗の伝統を継承していたことを再確認させた、と財団側は説明した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120725-00001008-chosun-kr

 古代の渤海時代の遺跡から「砧」が発見されたというニュース。これは砧を研究してきた私には見逃せません。  しかし写真を見ると、四角柱の形状をした石で、一見砧の台のように見えないことはありませんが、つるつるした面がないようです。  なぜこれが「砧」なのかの説明がありません。私にはただの角柱にしか見えません。  そもそも朝鮮半島における砧の具体像が分かる資料は、19世紀末の英人女性旅行家のイサベラバードの記録が初見で、それ以前に遡るものがありません。満州・沿海州は、さらに資料が不足します。

 こんな状況なのに、千数百年も前の渤海遺跡で出土品を「砧」と判断するには、余りにも拙速だという印象を持ちます。

【参考】 砧については拙稿で論じております。

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/07/1377485

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/14/1403192

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/12/22/2523671

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/01/05/2545952

  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/11/5080220

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/12/5082741

 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai

 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuudai

 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuusandai

 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakurokudai

 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakunanadai

 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakuhachidai

 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakukyuudai

同和地区の貧困化2012/07/29

 『こぺる 233号』(2012年8月)に石元清英さんの「全国水平社九〇周年に思うこと」と題する論考があり、いわゆる同和地区で貧困化が進行していることを報告しています。

1960年代以降、全国各地の部落で実施された生活実態の結果をみると、年齢が若くなるにしたがって就労状態は安定化する‥‥安定的な就労状態を獲得しているということである。    しかし、1990年代になると‥‥年齢が若くなるにしたがって、逆に不安定になっていることが明らかとなった。こうした30代、20代の年齢層における就労の不安定化は、1990年代以降、部落から経済的安定層が大量に流出するようになったためである。    部落の外に広い住宅を求めることができるような経済的に安定した世帯が流出しているのである。典型的には、子どもが小学校に入った、小学校の高学年になったので子ども部屋をもたせたいという、夫婦と子どもからなる核家族世帯が流出していった。そして、大学進学率が上昇するなかで、大学進学時に部落から流出し、卒業後も戻ってこないという若年層が目立ってきている。つまり、高学歴層の部落からの流出が目立ってきたのである。    こうした安定層の流出が20代、30代といった若い年齢層での就労の不安定化をもたらしているのである。安定層が流出する一方で、不安定層が部落に流入してくる‥      1990年代以降、安定層の流出と不安定層の流入によって、都市型部落の貧困化が進行した。‥‥この貧困化はさらに加速しているといえる。    都市型部落では、貧困化が着実に進行しているのであり、そのもとで子どもの虐待とDVが増加している‥    子ども虐待とDVは、深刻で重大な人権侵害である。部落解放運動は、この部落内における人権侵害に真正面から取り組むべきではないだろうか。

 拙稿でも、同和地区では高学力家庭が流出し、かわりに低学力家庭が流入していると論じたことがあります。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/18/1515064

 同和地区は国民が住みたくなるような場所ではなく、生活が安定したら出て行きたくなる場所であり、近年その傾向がさらに強く現れてきているようです。 

 同和対策では、30数年の間に15兆円という膨大な公費が投入されました。解放運動はこれだけの同和対策をさせたという成果を誇り、さらに今だ差別は残っているとして、同和対策の打ち切りに反対していました。  しか し、現在の状況をみると、同和対策や解放運動には根本的なところに誤りがあったのではないか、と思っています。