英親王李垠 ― 2010/12/05
英親王李垠氏は朝鮮李王室の最後の皇太子です。日本の梨本宮方子(李方子)さんと結婚。ご一家は、日本と朝鮮の複雑な歴史のなかを翻弄されるように生きて来られました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9E%A0
ところで、ご一家が解放=日本の敗戦後、どのように生きて来られたのか、よく知らなかったのですが、最近韓国で出版された英親王李垠の伝記を読んで、かなり辛い生活を送られたのだなあ、という感想をいだきました。
解放=日本の敗戦後、北朝鮮は社会主義を選択したので王制の否定は当然ですが、南の韓国も王制を否定しました。韓国では王室財産はもちろんのこと、王公族の個人財産まですべて接収して国有としたのです。しかも接収と旧王室財産管理を担当した韓国人職員らはかなりの不正を働いたようです。
韓国政府は財産を失った王公族に生活費を出すこととなっていたのですが、李承晩大統領は一銭も出しませんでした。また日本で解放=日本の敗戦を迎えた英親王李垠氏の帰国を許さず、またパスポートの発行も拒否したのです。
韓国に残された王公族は朝鮮戦争で逃げまどい、その後もかなり苦労されましたが、日本に残された英親王李垠一家も、臣籍降下でいきなり一般社会に入られたので、詐欺師にひっかかったりして、かなりの借金を抱え、辛い生活を送られました。それでも、日本では応援する方が多かったので、何とか生活できたようです。
英親王李垠一家が韓国に帰国できたのは、解放後18年も過ぎた1963年、朴大統領の時代になってからでした。その時は英親王李垠氏はすでに重病(脳血栓)で寝たきりとなり、ほとんど意識もなくなっておられました。1970年、ご逝去。
嫡子の李玖氏も2005年に亡くなられました。この方には継嗣がおられませんので、李王家は名実ともに滅んだことになります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%8E%96
ごく簡単に記述しましたが、ここで疑問なのは、なぜ韓国は500年の歴史を持つ王室を否定したのか、ということです。
日韓併合によって朝鮮は主権を失い、日本の植民地となりました。韓国の独立運動家たちはその9年後に上海で亡命政府を立ち上げたのですが、その時にはすでに王制を否定しているのです。そして、この王制否定の考え方を解放後の韓国も引き継いだことになります。
国の最高権威として長い伝統を有してきた王室をいとも簡単に否定したのですが、王制を守ろうとするいわゆる王党派がいなかったのは何故か?
韓国の強烈な民族主義を見る度に、この疑問が出てきます。
在日が自分の民族の言葉を身に付けようとしなかった言い訳 ― 2010/12/12
1980年代のことですが、民族差別と闘う活動をしていた在日活動家たちは、自分たちの民族の言葉について、ごく初歩の段階で止まってしまって、更に学ぼうとしなかったことが、ほとんどでした。
その理由付けは、「我々は韓国人でもなく、日本人でもない、在日なんだ。だから朝鮮語を勉強する必要はない。」 というものでした。
日本に同化された在日にとって、朝鮮語は外国語でしかなく、それを勉強するにはかなりの努力が必要です。ましてや身に付けるという段階に達するには、多大な時間とお金、そして持続的な熱意が必要です。
在日の活動家の多くは、その努力をしたくなかった言い訳を考え出したのが1980年代だったなあ、と今になって思い出します。そんな苦しい努力をするよりは、日本社会に対する民族差別反対の闘いははるかに楽なものだったのだろうと思います。
だったらそれ以前はどうだったのか?ということになりますが、1970年代は、北でもなく南でもない、第三の道を歩むのが在日だ、という主張でしたねえ。それは祖国から距離を置くというものでしたが、少なくとも民族の言葉ができないことにコンプレックスを持っていました。
それが80年代になって、言葉ができなくてもいいんだと居直るようになった、という経過でした。
民族の言葉すら学ぼうとせず、日本との関係性のなかだけで自らのアイデンティティを見出そうとする‥‥。民族差別と闘う在日活動家たちはそれを志向していました。その傾向は今も変わらないように思えます・
差別の現実から学ぶとは? ― 2010/12/19
昔のことですが、同和問題の授業や研修のなかで、「差別の現実から学ぶ」ということが強調されていました。これは今でもやっているようです。ネットで「差別 現実 学ぶ」で検索すると、たくさんヒットします。
ここで学ぶべき「現実」とは、清く正しく生きている被差別者が差別という不条理のために苦労している、ということと思われます。少なくとも私はそのように理解しました。
ところが、このような考えで実際に「同和」を名乗る人と接することが多くなると、このような人の何を学べというのか、という気持ちが強くなりました。
どんな本か忘れましたが、差別がなぜ悪いのかという解説のなかで、差別というのはその人の人格を破壊するからだ、だから差別してはいけない、というのがありました。
それを読んで、成る程その通りだ、「オレは同和だ」と名乗って圧力をかける人は差別によって人格が破壊された人なんだろう、とすると自分はそのような人がいるという現実からどのように学べばいいのだろう、と思ったのです。
人権問題をやっておられる方と、私的に話をする機会がありました。
彼はある講演のなかで、部落に関する差別事象として「あの地区内を車で走って犬を轢いたらトンデモナイことなる」という根拠のない噂が飛び交っている、という話をしたら、講演後に誠実そうな中高年男性がやってきて、実は私は地区内で犬を轢いたことがあって、すると自分が飼い主だという人が3人も現れて、その人たちは犬に餌をやっているからというだけだが、結局は3人に20万円ずつ渡して解決した、という話をしたというのです。
またある店で解放運動団体と飲食した際、その店の主人が「あそこ(同和地区のこと)ヤツか」などとつぶやくのを聞きつけて、さっそく確認会を行なったところ、こちらは穏やかに話しているのに店の主人はすっかり怯えきってどうも様子がおかしい、何か隠していることがあるだろうと、別に私的な席を設けて聞いてみた見たところ、実はこの人はかつて「同和」の人から些細なことで脅されて多額の金品を取られた経験者だと分かった、ということでした。
差別の現実から学ぶということは、こういう現実からも学べばなりませんが、一体どのように学べばいいのでしょうか?
1934年に「募集・徴用」の「強制労働」?? ― 2010/12/26
『こぺる』の最近号(2011年1月号)に、国籍条項撤廃を考える会の森さんという方の 「ある無縁仏のこと―島根の聞き取り調査から」 と題する短文が掲載されている。
彼は地方公務員採用における国籍条項について、「戦争責任を曖昧にしてきた日本人の問題あり、永住外国人の国籍条項撤廃作業は日本人の手で成し遂げなければいけない大切な作業でもある。」(14頁上段)と主張する方である。
内容については私と意見を異にするところが多い。それはともかく、歴史事実の記述において間違いがあるのは、いかがなものかと思う。
>雲南地域には大正時代から鉄道建設(現在のJR西日本木次線)にあたって朝鮮半島から多くの人々が「募集・徴用」の名目で強制労働に駆り出された。資料によれば、その数は1934年(昭和9年)には447人にのぼる>(11頁下段)
「募集・徴用」とは、国家総動員法(1938年)に基づいて翌1939年に朝鮮で施行された「朝鮮人労働者募集要項」、および1944年に朝鮮でも施行された「国民徴用令」のことであろう。そうでなければ、「強制労働」ということにはならないからだ。「強制」か否かについては異論も多いが、少なくとも「強制労働」と言うからには、1939年以降の数年間の時代を指すのが、朝鮮史における初歩的知識である。
とすると、彼はそれより5年も前の1934年の数字を何故出したのか?ということである。つまり、彼が強制でない時代のことを「強制労働で駆り出された」と表現したのであるから、虚偽の歴史なのである。
ところがその彼が次に、「現在、木次線にはトロッコ列車が走り、紅葉の時期には観光客を運んでいるが、その内、どれだけの人がその歴史を知っているだろうか。」(12頁上段)と、人の歴史無知をあげつらうような言い方をしているが、いかがなものかと思う。
同和教育が差別意識をもたらす ― 2010/12/29
『こぺる』2011年1月号に、「なぜ学生は部落に対してマイナスイメージをもってしまうのか」(石元清英 関西大学)という論文が掲載されています。筆者は長年部落問題を講義してこられた方です。
それによれば学生たちがそれまでの小中高で受けてきた部落問題教育は、 >あるところにA地区という部落があって、そこは周囲から強く差別されている、部落の人たちは結婚に際して未だに相手方からの反対に遭い、差別されるなどといった、非常に抽象的な言い方で部落問題を教えられるという。‥‥‥その結果、こうした教育を受けた児童・生徒たちは、現在も部落が周囲から強く差別されているのだから、部落というところは周囲に比べてよっぽど異なったところなのだろうと思ってしまう。そして、歴史の話だけで終わるという部落問題教育は、児童・生徒たちに部落というところは江戸時代の賎民身分であった子孫が代々住み続けている特異なコミュニティであるかのような印象を与えてしまう。>(6~7頁)
というもので、現在の実際の部落(同和地区)とは全く懸け離れたイメージを持つようになっている、と論じておられます。
これはおそらくその通りだろうと思います。小中高の同和授業で、部落の悲惨さを何遍も聞かされ、あるいはそのようなビデオを何回も見させられ、そして部落差別はしてはいけませんと繰り返される、そのような授業を強制的に受けてきた子供たちが、その結果、部落に対してどのようなイメージを持つようになるのか? ということです。
筆者は授業で、学生たちに部落に対してどのようなイメージを持っているかのアンケートをしたところ、「暗い」「怖い」「遅れた」貧しい」「閉鎖的」という答えが多く、逆に「明るい」「やさしい」「進んだ」「豊かな」「開放的」という答えはほとんど0に近いという結果を出しています。(3頁)
同和教育は差別の解消ではなく、逆に何も知らない子供たちに差別意識を植え付けているのではないか? という深刻な問題を提起する論文だと思います。