朝鮮に封建時代はなかった2015/11/23

 古田博司さんが最近「まるでインカ帝国なみ‥‥古代に回帰する韓国」(『歴史通 2015年11月号』所収)という論考を発表しています。 そこでは朝鮮と中国に封建時代がなかったことを論じています。

そもそもわずか百五十年前まで、中国も朝鮮も古代国家でした。 中世の封建時代を経ずに古代から直接近代に移った国々です。 韓国はそのことを認めませんが、韓国に封建制があったわけがない。 封建社会には各地方に領主がいましたが、中国でも朝鮮でも王宮は一つだけ。 地方の土地もすべて王土でした。これが古代国家の特徴です。(13頁)

 これについては拙稿でも論じたことがあります。 ここで再録します。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/14/7274402

 日本と朝鮮の中世社会の比較について、封建制に絞って簡単に分かり易く概説します。 ちょっと極端にモデル化していますので実際とは違う部分がありますが、大まかなイメージをつかむにはいいと思います。

 日本の封建領主は、江戸時代では各「藩」の「大名」と言っていいでしょう。 大名は、自分の領民が豊かになれば年貢が増えて我が藩の財政も豊かになることを学びました。 だから領民が豊かになって年貢をきちんと納めることが出来るように、各村へ水を配給するための水路の整備や川の堤防建設など、いわゆるインフラ構築事業をしました。 また藍や塩などの地方特産物の生産奨励もしたりしました。

 領国経営といって、小さいながらもいわゆる殖産興業政策を実施していたのです。 藩が繁栄するということは、領民の経済活動が活発で生活も豊かだということです。 ですから大名と領民は共に生きる存在となります。つまり地域社会が生まれたのです。

 しかし朝鮮の李朝時代には、このような封建領主や地域社会がありませんでした。 中央(朝廷)から牧使や郡守が任命されて各地方に派遣されるのですが、両班(貴族階級に相当する)がこの職に就くためにはかなりの費用(賄賂と同じ)が必要です。

 そして一旦牧使や郡守になると、この費用を取り返すために、そして更には自分を頼ってくる親戚連中のために、赴任先で領民から租税をたくさん取り立てねばなりません。 任期は数年ぐらいです。 その間に出来る限り稼いで蓄財せねばなりませんから、領民に対して苛斂誅求することになります。 日本の大名のように殖産政策を施したら租税が増えて自分も得するというような発想はなかったのです。

 領民も心得たもので、自分が豊かになっても租税として取り上げられるだけですから、最初から必要最小限の生産だけにしてしまって、より豊かになろうとする工夫・努力を放棄します。 つまり苛斂誅求されても、もうこれ以上取られるものがないという生活スタイルをするわけです。 李朝時代の農村社会はこのようなイメージをしても差し支えありません。

 李朝時代はこのように地縁共同体が成立せず、また封建領主もいませんでした。 ということは中世=封建社会にも至らなかった時代という意味で、「古代社会」と言って間違いありません。 古田さんは次のように記しています。

明治時代に朝鮮を調査した経済史学者の福田徳三は、マルクスの影響を受けていなかったので、李朝末期の朝鮮を見て「まるで平安の藤原時代のようだ」と言った。極めて正しい判断だったのだが、戦後のマルクス主義者の朝鮮研究者は、それは差別だ、偏見だと排撃し続けたのだった。     私は若い頃から彼らとは接触せずに朝鮮史研究を始めたのだが、研究すればするほど福田徳三の見解に近づいていく(190頁)

 李朝社会が古代社会であったとする古田さんの説は正解です。 なお古代社会といってもギリシア・ローマ時代の奴隷制ではなく、そのより以前の段階である「アジア的」古代社会です。 封建制どころか奴隷制にも達していなかったのです。

コメント

_ mahlergstav ― 2015/11/23 13:44

>日本の大名のように殖産政策を施したら租税が増えて自分も得するというような発想はなかったのです。

仰るとおりで、中国や朝鮮では社会インフラに投資する発想は希薄だったと思います。

社会インフラは初期投資が大きく、当初は持て余すものですが、数十年経過して効果が現れます。

江戸時代、小さな藩で割拠することによって、小さな投資でも、領内のインフラ整備の効果を数十年かけて領民が実感できたことが、日本近代化の大きな礎となったと思われます。

元台北駐日経済文化代表処代表許世楷氏が台湾の親日について興味深いことを仰っています。日本統治時代の台湾で、日本は大規模な社会資本投資を行ったが、その効果は1970年代あたりから、台湾人は実感できるようになったとのことです。だから台湾の親日は本物です。

許さんも李登輝も、日本統治時代が良かったとは言っていない。台湾では日本統治時代に苦しんだが、その後、それが何倍もの利益を生み出した。彼らも、今、台湾人に負担を与えても、後世、苦しんだ甲斐があったと思えるような政治をしたいのです。

そのためには、日本統治時代の負の側面ばかりでなく、正の側面にも光を当てて、正しく分析する必要があるのです。

朝鮮人や中国人は、それが未だに理解できないというより、理解したくないように思えます。歴史認識に拘るのは、そこなんでしょう。

_ (未記入) ― 2022/04/27 17:32

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.[初出=1908年]
「朝鮮は国土が狭い小国だが、悠久な文化を持っている。この点で朝鮮は日本の師匠である。(p. 53)」
H・B・ハルバート(岡田丈夫訳)『朝鮮滅亡-古き朝鮮の終幕』太平出版社,1973. [初出=1906年]
「新羅は比較的高度の文明の中心であって、朝鮮側の史料は、日本におよぼした朝鮮からの影響をほとんど伝えていないけれども、逆に日本側の文献は、進んだ思想や文明の影響が、海峡を越えて日本列島に絶えず流れこんできたことを示している。(上巻, p. 105)
西暦五世紀当時、朝鮮は高度の文明に達しており、半ば未開の日本の諸種族に、文化への最初の刺戟を与えた文明の宝庫であった。(上巻, p. 17)」
G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.
「陶磁器を作る方法を日本に教えた人々が日本に強制で拉致されて行き、もはや朝鮮では陶器が失われた芸術となっている事実を記憶することは、朝鮮人としてはきわめて憤痛が爆発することである。(p. 166)
グリフィス (E. Griffis) 博士がその著書『隠者の国・朝鮮』で指摘したところによると、朝鮮半島に対する日本の最後の侵略は、朝鮮の産業と芸術を死滅させ、この地に日本の芸術を復活させたという。日本人たちは撤収するとき、彼らが学ぶことができるすべての技術者たちを連れて行ったため、日本では産業と芸術の生産が復興した反面、朝鮮ではそれらすべてが消え去った。(p. 164)」
岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー
「金属活字のつくりかたは、まず木枠をつくり、その中に鋳造用の砂をかため、これに木の活字をおしつけて鋳型をつくる。そこにとかした金属をそそぎ、かたまったのをひきだして形をととのえた。このような金属活字の製造は、少なくとも13世紀には始まったようで、ヨーロッパの金属活字発明より200年も先立つものであった。金属活字の発明は、中国、日本など周辺諸国にも大きな影響を与えた。日本は室町時代、朝鮮に使いを送るたび、大蔵経や書物をねだっていたが、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略のとき、多くの活字と本、それに印刷の技術者を略奪してつれ帰っている。悲しいことだが、それによりはじめて、日本でも多くの本を印刷することができるようになったのである。(p.116) 」
と、まあ「犬は三日飼えば三年恩を忘れず」とまで言われるのに、日本には犬畜生ですらある恩義という概念がなく、再三に渡って第三者の欧米人から当の日本人までもが、朝鮮は日本に再三文明とは何かを教えてやったにも関わらず、朝鮮出兵で陶工から金属活字まで根こそぎ文化・文明を奪い尽くした、邪悪で恩知らずな強盗民族だと指摘してますからねえwww
そらこんな根本の民族性の腐った恩知らずで邪悪極まった強盗が隣に住み着いてりゃ、釈迦やイエスキリストですらも真面目に技術蓄積しようなんて思えず誰かさんを真似て盗みを働くようになりますwww
なぜなら封建制で富んでしまえば、また隣の蛮族の血を騒がせてしまいますからwww

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