韓国の文化伝播論2015/11/03

 韓国では、自民族の優秀な文化が日本に広まったという「文化伝播論」の考え方が強くあります。 これについて伊藤亜人『アジア読本 韓国』(河出書房新社 1996年7月)では、次のように解説しています。

韓国における文化伝播論への関心は、実は日本との関係の関係に限定されているのである。 日本でも、一時自らの文化に独自性や創造性が欠けているというようなことが強行された時期がある。 何が独自で創造的かということ自体が本来は問わなければならないが、ともかく文化伝播論にもとづく日本文化論は韓国では広く普及している。 このことが韓国においていまだに日本文化の研究が遅れている大きな一因となっていることは確かである。(303頁)

日本の文化のうちで韓国人が関心を持つのは、韓国との類似性や共通性が見られるもので、しかも明らかに韓国からの伝播が想定されるものに限られるといっても過言ではない。 韓国に類例のないものについては眼中にないのか、意図的に避けてしまうのか、とり上げようともしないことが多い。    韓国における某「日本文化研究所」が企画して、某新聞社が支援した現地調査もこうした体質をよく反映するものであった。 それは日本研究の現地調査と称していながら、実際にはいわゆる「日本の中における韓国文化」の確認と発掘をめざすものであり、それ以外の日本の文化伝統についてはほとんど関心を示さなかった。 韓国の新聞や雑誌はあいも変わらずこうした趣向の論文や旅行記を好んで特集して掲載しており、それは韓国民衆の日本観に迎合しているというよりも、それ自体が韓国人の日本観をそのまま代表しているというべきであろう。(303~304頁)

一方、日本においても自身の文化伝統が、まるですべて大陸からもたらされたもののように考える人たちが意外に多い。 ‥‥興味深いのは、韓国では、日本人がこのように自らの伝統の起源を朝鮮に求めることをもって、「日本人がわが国(韓国)に対して拭いきれない劣等感を持っている」と受け取っていることである。 逆に、韓国人はかつて日本人に文物を教えもたらしたことによって、今日なおたいへんな優越感を持っているようである。 韓国では日本と違って、教えることは優越感と結びつき、学ぶことは自尊心を傷つけ劣等感をもたらすことのようである。 だとすれば、韓国人は中国に対して拭いきれない劣等感を持っていることにもなる。(304頁)

 韓国をフィールドにして長年資料収集と研究を重ねてきた研究者の言ですから、その中身は重いものです。 しかしこのような批判的見解は、本来は韓国人自身が自省的に書くべきものだと思うのですが、ほとんど見当たりません。 おそらく外国人からのこのような批判は、最初から読もうともしていないようです。ちょっと寂しいですねえ。

 ところで韓国の文化伝播論については、拙論においても10年ほど前に論じたことがあります。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/04/26/342428

 ここで再録します

 韓国人の歴史の関心の対象は、わが民族の文化が日本にどのように伝播したか、である。 来日する観光者だけでなく研究者も、この観点でやってくる。 日本各地で、ここにも韓国文化がある、あそこでもわが先祖が活躍した、といった歴史を確認しようとする。 極端な場合は、日本の文化はすべて朝鮮からのものであるとまで言う人もいる。       一方日本人の主な関心は、わが文化の由来は何か、どこからの影響があったのか、というところである。 様々なところからの影響があってより高い文化が成立していくと考える。 その由来場所の一つが朝鮮半島である。 それはいくつかあるうちの一つである。      日本人なら、韓国の文化は中国からも日本からも影響があったはずだから、彼らも自分の文化の由来を我々と同じように関心があるはずだ、と考えるだろうが、実際にそういうことはない。韓国人は自分の文化の由来にほとんど関心を持たない。関心があるのは、自分たちの優秀な文化がいかに広まったかの伝播論である。          韓国の伝播論と日本の由来論とは妙に一致するところとなるが、両者の歴史認識の根本は全く違うものである。 日本と韓国の歴史認識の一致は極めて困難である。

韓国のインテリと民衆2015/11/08

 伊藤亜人『アジア読本 韓国』(河出書房新社 1996年7月)によれば、韓国人の日本に対する意識が知識人と民衆の間で違っていることを指摘しています。

日本に対する意識には、インテリと一般民衆の間にかなりの差があるように思われてならない。 かつて文人たちが日本を自分たちより劣るものと見なして両者の差異を強調したように、今日でも全般的に言えば、いわゆる知識人ほど日本に対する見方は観念的であり、思い込みが激しいように思われる。 解放後の教育を受けた世代では、日本を一度も直接に体験したことがないにもかかわらず、日本に対する固定的な観念にたいへんな自信をもつ者が少なくなかった。 自分が仕入れた知識を披露することが優越感をもたらすのであろうか、私に対して日本文化の本質を講義したがる知識人に何度も出会ったことがある。(304~305頁)

韓国の伝統的知識人は、もともと書物をとおしてしかものを考えなかったためであろうか、自身の体験をおろそかにする傾向すら見られた。 これに対して一般民衆は必ずしもそうではない。 とりわけかつて日本で生活した体験のある人々の場合には、観念に妨げられることなく自分の体験に基づく生活感覚によってものを感じ取り考えたようである。 言いかえると、自分の身の回りの文化の延長上・連続性のもとで日本を位置づけようとする傾向が見られ、したがって適応性にも富んでいたように見受けられる。体験によっているため個人差も大きいが、概して彼らが下す判断や評価には具体的な根拠がある。(305頁)

 伊藤さんは韓国では知識人と民衆とでは意識が違っていると言っておられます。 このように感じ取るのは、韓国に長く直接に関わった人にかなり共通することのようです。

 かつて拙論でもこれについて論じたことがありますので、ご参照して頂ければ幸いです。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/15/7245000

やはり韓国政府には当事者能力がない―慰安婦問題2015/11/13

 韓国の『朝鮮日報』に、在韓日本大使館前にある慰安婦像撤去の要求に対して韓国政府が拒否したというニュースがありました。(11月12日付け)

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/11/12/2015111202838.html

日本側の慰安婦像撤去要求は「本末転倒」=韓国外交部       【ソウル聯合ニュース】韓国外交部の趙俊赫(チョ・ジュンヒョク)報道官は12日の定例会見で、旧日本軍の慰安婦問題などをめぐる韓日外交当局の局長級協議で日本側がソウル・日本大使館前の慰安婦を象徴する少女像を撤去するよう求めたことについて、「民間レベルで自発的に設置したもの」とした上で、日本の要求を「本末転倒だ」と批判した。       趙報道官は「日本側が先に(慰安婦)被害者が受け入れることができ、韓国国民と国際社会が納得できる解決策を提示しなければならない」と強調した。         韓国側は11日の局長級協議で、日本側の要求に対し、「民間で自発的に行っているもので、政府が関与できない」として、「慰安婦問題がうまく解決できていれば、こうしたことが起きたのか」と反発したとされる。            趙報道官は局長級協議については、「韓日首脳会談の成果を具体化するための外交的な動き」と説明。 「首脳会談での両国間の合意により、慰安婦問題の早期解決に向けた深くて有意義な協議を行った」と伝えた。 また、「首脳会談から9日後に開かれたこと自体にも意義がある」とした上で、「(両国は)10回にわたる協議を通じて接点を模索する努力を続けてきており、少しずつ目標に向かって動いている」と述べた。

 慰安婦像が日韓の外交問題になっているのですが、韓国側は「民間が勝手に作ったものだから、政府には関係ない。 そもそも日本側が解決しようとしないからこうなったのだ」と日本側の要請を拒否したのです。

 この慰安婦像は公道上に許可なく建てられたもので、今の韓国の法に照らしても違法な設置物なのですが、それにも拘らず韓国政府は撤去しないと回答したのです。 そこには慰安婦問題について市民団体に振り回されるだけで、自ら解決しようとしない韓国政府の姿が見えます。

 半年ほど前に、拙稿で「慰安婦問題―韓国政府には当事者能力がない」と論じました。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/03/09/7586932

 今回の件でも、やはり韓国政府は自分に当事者能力がないことを改めて表明したことになりましょう。

韓国の小説の翻訳に挑戦(5)―孔枝泳(2)2015/11/18

 また韓国の小説の翻訳に挑戦しました。  前回に続いて、孔枝泳です。

 孔枝泳「存在は涙を流す」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/sonnzaihanamidawonagasu.pdf

 『存在は涙を流す』という題名の小説です。 内容はかなり難しいものでした。 逐語訳していっても、なかなか意味が取れず、おそらくこういうことなんだろうと考えながら訳しました。

 また意味がすぐに分からず、何べんも読むうちに原文の韓国語に感化されて、その訳が韓国語風の日本語になってしまう場合も多々ありました。

 今読み返しても、やはり不自然な日本語が多いようです。 今の私の語学力ではこれが限界ですので、ご容赦を!

【これまでの韓国小説の翻訳】

韓国の小説の翻訳に挑戦ー殷熙耕         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/04/7626475

韓国の小説の翻訳に挑戦 (2)ー申京淑       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/02/7722604

韓国の小説の翻訳に挑戦 (3)ー申京淑(2)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/15/7792887

韓国の小説の翻訳に挑戦(4)-孔枝泳  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/10/11/7835346

朝鮮に封建時代はなかった2015/11/23

 古田博司さんが最近「まるでインカ帝国なみ‥‥古代に回帰する韓国」(『歴史通 2015年11月号』所収)という論考を発表しています。 そこでは朝鮮と中国に封建時代がなかったことを論じています。

そもそもわずか百五十年前まで、中国も朝鮮も古代国家でした。 中世の封建時代を経ずに古代から直接近代に移った国々です。 韓国はそのことを認めませんが、韓国に封建制があったわけがない。 封建社会には各地方に領主がいましたが、中国でも朝鮮でも王宮は一つだけ。 地方の土地もすべて王土でした。これが古代国家の特徴です。(13頁)

 これについては拙稿でも論じたことがあります。 ここで再録します。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/14/7274402

 日本と朝鮮の中世社会の比較について、封建制に絞って簡単に分かり易く概説します。 ちょっと極端にモデル化していますので実際とは違う部分がありますが、大まかなイメージをつかむにはいいと思います。

 日本の封建領主は、江戸時代では各「藩」の「大名」と言っていいでしょう。 大名は、自分の領民が豊かになれば年貢が増えて我が藩の財政も豊かになることを学びました。 だから領民が豊かになって年貢をきちんと納めることが出来るように、各村へ水を配給するための水路の整備や川の堤防建設など、いわゆるインフラ構築事業をしました。 また藍や塩などの地方特産物の生産奨励もしたりしました。

 領国経営といって、小さいながらもいわゆる殖産興業政策を実施していたのです。 藩が繁栄するということは、領民の経済活動が活発で生活も豊かだということです。 ですから大名と領民は共に生きる存在となります。つまり地域社会が生まれたのです。

 しかし朝鮮の李朝時代には、このような封建領主や地域社会がありませんでした。 中央(朝廷)から牧使や郡守が任命されて各地方に派遣されるのですが、両班(貴族階級に相当する)がこの職に就くためにはかなりの費用(賄賂と同じ)が必要です。

 そして一旦牧使や郡守になると、この費用を取り返すために、そして更には自分を頼ってくる親戚連中のために、赴任先で領民から租税をたくさん取り立てねばなりません。 任期は数年ぐらいです。 その間に出来る限り稼いで蓄財せねばなりませんから、領民に対して苛斂誅求することになります。 日本の大名のように殖産政策を施したら租税が増えて自分も得するというような発想はなかったのです。

 領民も心得たもので、自分が豊かになっても租税として取り上げられるだけですから、最初から必要最小限の生産だけにしてしまって、より豊かになろうとする工夫・努力を放棄します。 つまり苛斂誅求されても、もうこれ以上取られるものがないという生活スタイルをするわけです。 李朝時代の農村社会はこのようなイメージをしても差し支えありません。

 李朝時代はこのように地縁共同体が成立せず、また封建領主もいませんでした。 ということは中世=封建社会にも至らなかった時代という意味で、「古代社会」と言って間違いありません。 古田さんは次のように記しています。

明治時代に朝鮮を調査した経済史学者の福田徳三は、マルクスの影響を受けていなかったので、李朝末期の朝鮮を見て「まるで平安の藤原時代のようだ」と言った。極めて正しい判断だったのだが、戦後のマルクス主義者の朝鮮研究者は、それは差別だ、偏見だと排撃し続けたのだった。     私は若い頃から彼らとは接触せずに朝鮮史研究を始めたのだが、研究すればするほど福田徳三の見解に近づいていく(190頁)

 李朝社会が古代社会であったとする古田さんの説は正解です。 なお古代社会といってもギリシア・ローマ時代の奴隷制ではなく、そのより以前の段階である「アジア的」古代社会です。 封建制どころか奴隷制にも達していなかったのです。

李朝はインカ帝国なみか?2015/11/28

 古田博司さんが最近発表した論考「まるでインカ帝国なみ‥‥古代に回帰する韓国」(『歴史通 2015年11月号』所収)では、李朝時代の朝鮮を「インカ帝国なみ」と表現しています。 古田さんはこれまで何回かこれと同じことを論じています。 これについて一年半ほど前の拙稿で疑問を呈したことがあります。 その部分をピックアップして再録します。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/20/7289374

 古田さんは、インカ帝国はどの段階に相当するのかと問うておられます。 「原始的」よりは高い段階であるのは確かですが、貨幣がなく奴隷売買がなかったようですから「奴隷制」よりも低い段階と言えます。 とすると「アジア的」なのか、或いはそれより低い「アフリカ的」なのか。 それとも思い切って「インカ的」なるものを新たに設定した方がいいのか、という話になります。 なお一方では古田さんは李朝とインカ帝国とが同一段階だったと説きます。

李朝は、いわば世界が中世期の頃に、古代国家として発生したインカ帝国に近い存在として特筆される。(93頁)

朝鮮中世経済史で有名な横浜国立大学の須川英徳教授‥‥その須川氏に、長い間秘めていた直感を恐る恐る聞いてみたのである。 「あの、ちょっと怒らないで聞いてほしいのだけれど、李朝ってインカ帝国に似ていないかな?」  須川教授は怒ることも、躊躇することもなかった。  「うん、実は僕もそう思う」と、即答だった。(196頁)

 古田さんは一方ではインカ帝国はどの段階にも入りようがないと言いながらも、他方では李朝(=アジア的段階)と同じとしていますので、矛盾していると考えられます。

 ちなみに日本の江戸時代は、各藩の大名を封建領主と言っていいものだし、蘭学や和算学など近代社会を準備するだけの学問が発達していましたから、西欧の中世=封建制に相当すると考えられます。 日本はギリシア・ローマのような奴隷制を経ることなく、近代=資本制の直前段階である中世=封建制に到達していたと言えます。 このように既にその段階になっていたのですから、明治時代になって近代社会にスムーズに移行できたのです。

 逆に中国や朝鮮は封建制に至らず、はるかそれ以前のアジア的段階にとどまったまま、いきなり資本制に巻き込まれたのですから、近代社会への移行がスムーズにいかなかったのです。

【参考拙稿】 朝鮮に封建時代はなかった  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/11/23/7919936