韓国で今も使われる「京城」―朝日の間違い2012/10/03

 「京城」「鮮」は差別語でないことは、拙論で繰り返し論じてきました。しかし朝日新聞はこれらが差別語で、使っていけない言葉としています。2009年11月11日付け。

http://adv.asahi.com/modules/shinsa/index.php/content0016.html

 今日はこのうちの「京城」を取り上げます。   朝日は京城について、「もしソウルを京城と表記したら、韓国や北朝鮮の人たちに不快感を与えるはずです。」と、差別語であることの理由を書いています。

 それでは韓国では「京城―ハングルでは경성(キョンソン)」は使われていないのか?調べてみれば正解はすぐに見つかります。今なお堂々と使われているが正解なのです。「京城」「경성」で検索すれば、かなりヒットします。

 まず韓国ドラマ「京城スキャンダル」があります。   http://www.koretame.jp/k-scandal/  このドラマの制作・発表は2007年、日本での放送は2008年です。上記の朝日の「新聞広告審査講座」の1年以上前ですから、朝日がこれを知らなかったはずはありません。

 次に最近韓国の학교법인 홍익학원(学校法人 弘益学院)が経営している八つの小・中・高校で、補助金の横領事件が発生しました。この学校のうちの一つが校名が「홍대부속경성중학교(弘大付属京城中学校)」です。   http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2012/09/27/2012092700027.html

 つまり韓国では「京城」を何の違和感もなく使っているのです。朝日新聞は古くから韓国に特派員を送っていますし、韓国語の達者な記者もいますから、こんな事実を知らないわけがありません。従って朝日が「もしソウルを京城と表記したら、韓国や北朝鮮の人たちに不快感を与える」としていることは明白な間違いです。

 これはもはや誤解のレベルではなく、歪曲・虚偽といっても過言ではないでしょう。

【拙稿参照】

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuyondai 

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuunidai

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuukyuudai  

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyaku11dai

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/29/1827082

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/20/1861618

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/06/07/3565930

生活保護―最低限の文化生活2012/10/07

 生活保護に関するニュースが多いようです。私自身も、在日の家庭で生活保護を貰っていた人、あるいはかつて貰っていた人を知っていました。     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/19/6449827     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/26/6457698

 また私自身がかつて革新系団体に関係していた時、生活保護者の生活を守ると称して行政闘争をしていたのを横で見ていた経験もあります。このような次第がありまして、生活保護については自分なりの考えを持っています。

 ニュースでは、不正受給を取り上げて削減を主張する人と、これ以上の削減は餓死、孤立死を招き、そして犯罪の増加にも繋がると主張する人がいます。

 大手新聞社はおおむね削減に反対する主張をしています。生活保護を貰っても、生活はこれほど苦しいんだという記事が目立ちます。そのなかで、子供に新幹線を乗せてあげたい、あるいは週に1・2度の飲みに行くのが贅沢か!とかいうのがあって、ビックリさせられます。

 必要もないのに子供を新幹線に乗せてあげたい、というのは贅沢そのものでしょう。また飲み屋に行くのはもちろん、お酒を飲むこと自体が贅沢でしょう。「最低限の文化生活」ではあり得ません。

 生活保護を貰う人は、何故これが我慢できないのか? いつも不思議に思います。

 生活保護のお金は、その人の収入ではありません。税金そのものです。

 公務員が自分の収入のなかでお酒を飲むのは構いませんが、そうではなく税金を使ってお酒を飲むのは、無駄遣いどころではなく税金泥棒でしょう。これと同じことです。  公務員は業務として予算を執行(税金を使う)しますが、何を、どういう手続きで、どのように使ったのか、それをいつも明確にし、記録を残し、監査を受けねばなりません。

 生活保護も同じく税金を使うのですから、何に使ったのかを明確にしなければならず、監査も受けねばならないと思うのですが、そういうことはありません。受給者は保護費を自分の収入のごとく考えて使っているのが現状です。

 生活保護受給者が毎日のようにパチンコに行ったり、しょっちゅう酔いつぶれる姿を見ると、何とかならないものかと思っていました。彼らの生活を守るために行政闘争していた革新系の活動家たちは、こんな現状には見て見ぬふりでした。それどころか、彼らは弱肉強食の資本主義の犠牲者だ、と擁護するのでした。こんな人のために「闘争」するなんて、私には馴染めず、一歩引いたものでした。     40年以上も前のお話です。

『週刊朝日』が「親の因果が子に報い」を主張2012/10/17

 『週刊朝日』が、大阪の橋下市長について 「救世主か衆愚の王か 橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶりだす」 と題する記事を出して、ちょっとした話題になっています。

 内容は橋下市長の父親のことです。父親が同和出身でヤクザであったということで、その関係者を取材したりして記事にしています。

 橋下市長がまだ物心もついていない幼児時代に、この父親とは縁が切れているのですが、そのDNAは受け継いでいるというのが記事の趣旨のようです。「親の因果が子に報い」の思想そのものですねえ。

 いくら橋下憎しとはいえ、ここまでやるのか!と、ビックリです。この論理によれば、橋下市長の子供もこのDNAを受け継ぐので、とんでもないことをするだろう、となるでしょう。

 またDNAはすべての人間が持っていますから、悪人のDNAを持つ人間は子々孫々末代に至るまで悪人ということになりかねません。

 『週刊朝日』という雑誌はそんなに低俗ではないのですが、今回ばかりはねえ。

「親の因果が子に報い」と「自己否定論」2012/10/18

 「親の因果が子に報い」という考えは、かなり古臭い封建的思想と思われがちですが、拙稿でたびたび論じているように、革新・左翼系人士において現在も横行しているものです。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/10/17/6605358    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/09/25/6584335 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuuhachidai

 この何故こんな思想が先進国のこの日本に根強く残っているのか?    これについて、1960年代末から1970年代にかけて広まった全共闘・新左翼運動の「自己否定論」が影響しているのではないかと思っています。これについてはWikipedia で要領よくまとめられています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%90%A6%E5%AE%9A%E8%AB%96

学生運動をしている自分たちも、実は「学生」という「恵まれた」身分に胡坐をかき、社会的弱者を抑圧しているのではないかという疑問から生じた理論である。      そして遂には、自らが所属している「学生」の立場をも否定することで「加害者性」を克服し、弱者の立場に立たなければならないとする。この自己否定論の登場以降、新左翼は「社会的弱者との連帯」を掲げて反差別闘争に力を入れるようになった。[1]      しかし、この理論は後に「日本人=犯罪民族=民族浄化されるべき民族」という反日亡国論の論理へと行き着くことになった。というのも新左翼活動家の父や祖父は、一部の徴兵免除者を除き、かつては日本軍兵士(中には下士官や将校)として「日本帝国主義の侵略」に加担しており、そんな「侵略者」の子孫である自分たちは、弱者である「アジア人民」に対する原罪を負っている日帝本国人に他ならない。そんな自分たちが為すべきことは、自らが所属する「犯罪国家・日本国」と「犯罪民族・日本人」を徹底的に断罪し抹殺しなければならない。そうしない限り「アジア人民」に対する贖罪は永遠に成立しないとする[1]。     日本国及び民族は償いきれない犯罪を積み重ねてきた醜悪な恥晒し国家・民族であり、その存在価値が全くないので、積極的に民族意識・国民意識を捨て去って「非国民」になり、反日闘争に身を投じよと説く[2]。

 このなかで「そんな『侵略』の子孫である自分たちは、弱者である『アジア人民』に対する原罪を負っている日帝本国人に他ならない。」とあるのが、まさに「親の因果が子に報い」の思想です。

 本田靖春という作家は  「私の亡父は、初め朝鮮総督府の役人をしていて、後に新設の重工業会社へ移り、敗戦時には本社の筆頭課長をしていた。その次男である私は植民地支配に直接手を下したわけではないが、自分のことを朝鮮への侵略者であり、朝鮮民族に対する加害者であったと思っている。   その罪は四十七年間くらいでは消えない。私の子も、そして孫も背負うべきであろう。それが歴史認識というものではないか」(『時代を見る眼』講談社) と堂々と発表するほどでした。

 当時は「DNA」は一般的に通用する言葉ではなかったので、「DNA」という言葉はありませんでしたが、今だったら日本人は侵略者=差別者=悪人のDNAを持っている、となるところでしょう。

 先の『週刊朝日』は、「親の因果が子に報い」を「DNA」という科学的用語を使って立証しようとした、と思われます。

『朝鮮日報』のお粗末記事―歴史資料の誤読2012/10/22

 10月15日付の『朝鮮日報』A13面に

独島強制編入3年前である1902年 日本の公文書では‘独島は欝陵島に付属する島’ 日本の外務省史料館で発見

という見出しの記事が掲載されています。日本語版では次のように翻訳されています。

「独島は鬱陵島の付属島しょ」 日本の公文書に記録       日本が独島(日本名・竹島)を島根県に強制編入する3年前の1902年に独島を鬱陵島の付属島しょと認識していたことを示す日本の公文書が初めて公開された。     問題の文書は、1902年5月に釜山の日本領事館が本国に送った「釜山領事館報告書」と題する文書で、独島を「松島」「リャンコ島」など呼び、鬱陵島を独島の本島だと認識する内容だ。この史料は在日韓国・朝鮮人史を研究する朴炳渉(パク・ビョンソプ)氏が日本の外務省外交史料館で発見したもので、世宗大の保坂祐二・独島総合研究所長が入手したものを14日、本紙に公開した。     報告書の「第七、漁業の状況」(原文は歴史的仮名遣い、以下同)という部分には「本島(鬱陵島)の正東(真東)約五十海里に三小島あり俗に之(これ)『リヤンコ島』と云(い)い、本邦人は松島と称す」とした上で、同島では多少のアワビが取れるため、本島より出漁する者があるが、島には飲料水がないため、長期の出漁は不可能であり、4-5日で本島に戻るという記述があった。     これまで日本は1905年の島根県告示で、無主地だった独島を編入したと主張してきた。         蔚山大のシン・ヨンハ碩座(せきざ)教授(寄付金によって研究活動を行えるよう大学の指定を受けた教授)は「1900年に大韓帝国が政令第41号で、鬱陵島を本島として、竹島、石島を含む鬱島郡を領土として公表している。02年の日本の警察による報告書でも鬱陵島を本島と呼び、独島を付属島しょとして記録している。これは当時の独島が韓国の領土であることを間接的に証明するものであり、大きな意味を持つ」と指摘した。     全炳根(チョン・ビョングン)記者

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/10/15/2012101500966.html

 要するに、欝陵島は「本島」、竹島(独島)はその付属島嶼と書いている日本の公文書が見つかった、日本も竹島を韓国領と認めていた資料だ、というものです。そしてその資料の写真が添付されていました。(↑)参照

    この資料は写真では分かり難いので、活字に直しますと以下の通りです。ついでに現代語訳もしてみました。

第七、漁業ノ状況     本島ノ漁業季節ハ例年三月ヨリ九月迄ニシテ収穫物ハ鮑、鯣、天草、若芽ノ数種ニ過キス、漁業者ハ多ク熊本ノ天草、島根ノ隠岐、三重ノ志摩地方ヨリ渡来ス。而シテ韓人漁夫ハ皆無ノ有様ナレトモ、毎年全羅道三島地方ヨリ多数ノ漁夫等渡来シテ海岸ニ満生スル。若芽ヲ採収セリ。本年天草隠岐ノ漁業者都合水潜器船八隻、道洞ヲ本據ト定メ、又志摩ノ蜑船二隻、天草ノ海士舟一隻ハ苧洞ニ仮小屋ヲ構ヘ、何レモ全島ノ海岸ヲ巡漁セルモ今年ハ昨年ニ比シ余程不漁ナルニヨリ利潤多カラサル見込ナリト云エリ。又本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ。俗ニ之ヲ「リヤンコ島」ト云ヒ、本邦人ハ松島ト称ス。仝所ニ多少ノ鮑ヲ産スルヲ以テ本島ヨリ出漁‥‥

「第七、漁業の状況     本島の漁業の季節は例年3月より9月までで、収穫物としてはアワビ、スルメ、テングサ、ワカメの数種しかない。漁業者の多くは熊本県の天草、島根県の隠岐、三重県の志摩地方からやってくる。そして朝鮮人の漁夫は全くいないのだけれど、毎年全羅道の三島地方より多数の漁民がやって来て、海岸に陣取り、ワカメ採りをする。本年は天草と隠岐の漁業者が潜水道具付きの船8隻で、道洞を本拠地として出漁し、また志摩の海士舟二隻、天草の海士舟一隻は苧洞に仮小屋を作って出漁する。どちらも全島の海岸を回って漁をするのだが、今年は昨年に比べてかなり不漁なので、利潤は多くない見込みと言える。また本島の真東に約50海里行ったところに三つの小島がある。俗に「リヤンコ島」と言い、日本人は「松島」と言う。ここには多少のアワビを産するので、本島より出漁‥‥」

 読めば分かりますように、この資料では「本島」は「諸島のなかで中心となる島」という意味ではなく、「今話題にしているこの島」という意味で使われています。

「本」には「主要な」「中心となる」という意味と、「この」「我が」という意味で使われる場合があります。例えば学校では「本校」と「分校」がある場合、「本校」は「中心となる学校」という意味ですから前者です。一方裁判なんかで「本件は原審差し戻しとする」の「本件」は、「この件」という意味ですから後者です。 今回ここで論じている資料における「本島」の「本」は、後者であることは明らかです。

 しかし朝鮮日報は前者の意味で解釈して、欝陵島が本島なら竹島はその付属島嶼ということだ、としたのです。全くの誤読です。資料の一部分ではなく、もう少し全体を読めば誤読することはなかったでしょう。

 従ってこの資料は、竹島が韓国領であるとする根拠には全くならないものです。

 こんな恥ずかしくなるような誤読をして提供した研究者が、朴炳渉と保坂祐二という方だそうです。学生がこんな間違いをしたら笑いながら「この馬鹿!よく読め!」と叱りつけるだけですが、日本語資料を読みこなせるはずの研究者がこんなことではねえ。朝鮮日報も、検証もせずに記事化するとはねえ。

朝鮮日報(↓)お粗末記事の写真資料2012/10/22

先に論じた 「『朝鮮日報』のお粗末記事―歴史資料の誤読」 の写真資料です。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/10/19/6606593

이방자 씨의 무덤 (李方子さんの墓所)2012/10/27

(以下の原文〈日本語〉は、本ブログの直後記事を見てください。)

 3년 전에 한국에 갔을 때 이방자 씨의 무덤을 참배하고 왔습니다.

 이방자 씨의 일본명은 나시모토노미야 마사코(梨本宮方子) 씨입니다. 이 분에 관해서 좀 이야기를 하겠습니다.

 우선 조선의 역사를 조금만 공부합시다. 조선은 1910년에 일본에 의해 병합되어 식민지가 되었는데 그때까지는 대한제국이란 나라이어서 황제와 황태자가 있었습니다. 조선은 일본의 식민지가 되어서 제국이 아니게 되었지만 왕실은 존속되었습니다.

 식민지화된 조선과 지배자측인 일본과는 감정적으로 많은 대립이 있었는데 이 사태를 어떻게든 해결해야 한다, 일본과 조선이 사이 좋게 지내야 한다고 해서 당시의 말로 ‘내선융화’ 가 큰 과제가 되었습니다. 그 때 조선 왕실 분과 일본 황실 분이 결혼하면 좋다고 해서 조선 왕실 측은 최후의 황태자이었던 이은(李垠)씨, 일본 황실 측은 나시모토노미야 마사코(梨本宮方子)씨가 뽑혔습니다.

 두 분은 三一독립운동의 이듬해에 결혼했습니다. 나쁜 말을 쓰면 정략결혼입니다. ‘나시모토노미야 마사코’ 씨는 결혼 후 ‘이방자(李方子)’ 씨가 되었습니다.

 두 분은 황족에 준하는 취급을 받으면서 도쿄에서 살고 있었으며 두 아들을 뒀지만 그 중 한 아들은 태어난 지 얼마 되지 않아 죽었습니다. 1945년 일본은 패전하고조선은 해방 독립이 되었습니다. 조선 북부는 사회주의를 선택했으므로 군주제의 부정은 당연한데 남부에 생긴 한국의 이승만(李承晩) 정권도 군주제를 부정했습니다. 이승만 정권은 조선 왕실의 재산뿐 아니라 왕족의 개인재산마저 다 몰수했습니다. 대신 생활비를 지급해야 하는 법이 있었는데 이승만 정권은 한 푼도 주지 않았습니다. 그리고 도쿄에 있는 이은씨 내외의 귀국을 거부한 것입니다.

 당시 일본에서는 황족과 귀족의 신적강하 (臣籍降下-일반국민과 같은 호적에 들어가는 것) 가 이루어져서 이은씨 내외도 일반인이 되었습니다. 그러나 조국에 돌아갈 수 없고 또 그때까지 황족 대우를 받았던 사람이 갑자기 일반사회에 들어갔으므로 사기를 당하거나 하며 많은 빚을 져서 꽤 괴로운 생활을 보냈던 것 같습니다.

 한국에서는 이승만 정권이 무너지고 박정희(朴正熙) 정권이 생긴 후 1963년에 이르자 이은씨 내외는 겨우 귀국할 수 있었습니다.

 1970년에 남편 이은씨가 숨을 거두고 과부가 된 이방자씨는 한국에서 장애인복지에 힘을 쏟았습니다. 자기가 잘하는 칠보(七寶燒)를 만들어 팔거나 칠보를 만드는 방법을 가르치거나 해서 돈을 벌고 장애인 복지시설을 지었습니다. 당시 한국은 극히 가난한 나라였으므로 장애인에 눈을 돌리는 사람이 거의 없던 시대였습니다. 이런 한국 사회 가운데 장애인 복지활동을 했으니 꽤 힘든 일이 많았던 것 같는데 그런 이방자 씨를 많은 한국사람들이 그리워했다고 합니다.

 1989년 쇼와 (昭和) 천황이 세상을 떠난 해에 이방자씨도 서거해 서울 교외 남양주에 있는 남편의 분묘에 함께 매장되었습니다.

 일본과 한국과의 복잡한 역사를 몸소 살아오시고 마지막에는 한국사회에 공헌하며 돌아가셨는데, 이 분의 생애를 알게 되니 뭔가 좀 느낀 게 있어서 성묘를 가게 된 것입니다.

 그 고장 사람의 말에 의하면 한 해 한 번의 일년에 한 번 있는 묘전제 때 일본대사관 직원이 성묘하러 오는 정도이고 그 이외에는 참배하러 오는 일본사람은 없다고 합니다.

 더 많은 일본인들이 이방자 씨 묘를 참배하게 되면 좋겠습니다.

李方子さんのお墓に参拝2012/10/27

 三年前、韓国に行った時、李方子(イ・パンジャ)さんの墓所を参拝しました。

李方子さんの日本名は、梨本宮方子さんです。この方について、ちょっとお話します。

 まずは朝鮮の歴史のおさらいです。朝鮮は1910年に日本に併合されて植民地となるのですが、その前は大韓帝国という国で、皇帝や皇太子がいました。日本の植民地となって帝国でなくなりましたが、王室は存続しました。

 植民地化された朝鮮と、支配者側である日本とは、感情的にもかなりの対立があったので、これを何とかしよう、日本と朝鮮とが仲良くしていくようにしようと、当時の言葉で「内鮮融和」が大きな課題となっていました。その時に、朝鮮の王室の方と日本の皇室の方が結婚したらいいじゃないか、ということで、朝鮮の王室からは最後の皇太子であった李垠(り・ぎん イ・ウン)氏、日本の皇室では梨本宮方子さんが選ばれました。    お二人は1919年の三・一独立運動の翌年1920年に結婚されました。悪い言葉でいうと、政略結婚です。梨本宮方子さんは李方子(り・まさこ)あるいはイ・パンジャさんとなりました。 お二人は皇族に準ずる扱いを受けて、東京に住まわれて、お二人のお子さんを設けられました。そのうちのお一人は生まれてまもなくお亡くなりになりました。1945年に日本の敗戦、朝鮮の解放独立となりました。

 解放後、朝鮮の北では社会主義を選択したので君主制の否定は当然ですが、南の韓国、李承晩政権も君主制を否定しました。朝鮮王室の財産だけでなく王族の個人財産も含めてすべて没収したのです。代わりに生活費を支給しなければならなかったのですが、李承晩政権は一切出しませんでした。そして東京におられた李垠・李方子さんの帰国を拒否したのでした。当時日本では、皇族・貴族の臣籍降下が行われて、李夫妻は一般人になられました。しかし祖国に帰ることもできず、皇族待遇だった人がいきなり一般社会に入られましたので、詐欺師にあったりして、多額の借金を作ってしまい、かなりの苦労をされました。

 韓国では李承晩政権が倒れ、朴正熙政権になって1963年にようやく帰国することができました。

 1970年に夫の李垠氏が亡くなり、お一人になられた李方子さんは、韓国で障害者福祉に力をお入れになられます。自分の得意とする七宝焼きを作って売ったり、教えたりしてお金を稼ぎ、障害者福祉施設を作られました。当時の韓国は非常に貧しく、障害者に目を向ける人がほとんどいなかった時代です。そういう韓国社会のなかでの障害者福祉活動でしたから、非常に苦労されたようですが、李方子さんは韓国の多くの人々から慕われました。

 1989年、昭和天皇が亡くなられた年に逝去され、ソウル郊外の南楊州という所にある李垠氏のお墓に一緒に葬られました。

 日本と朝鮮との複雑な歴史のなかを、翻弄されるように生きてこられ、最後は韓国社会に貢献しつつお亡くなりになったのですが、こういう方の生涯を知ると、ちょっと思うところがありましてお墓参りしたというわけです。

 地元の方に聞くと、年に一回の墓前祭に日本大使館の方が参る以外は、日本人が来ることはないということでした。

 多くの日本人が、李方子(イ・バンジャ)さんのお墓参りをしてあげてほしいと思います。

(以上を韓国語に翻訳したものを、本ブログの直前記事に掲載しています)

【参考】 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/09/5075877