孫基禎が学徒兵志願を訴える―親日行跡2021/03/09

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/05/9353642 の続きです。

 ベルリンオリンピックのマラソン優勝者である孫基禎にちょっと関心があって、中公新書『孫基禎―帝国日本の朝鮮人メダリスト』(金誠 2020年7月)を読んでみました。 そのなかに彼が戦時中に、朝鮮人学徒兵志願を呼びかけていた事実がありました。 ちょっと引用してみます。

1943年10月、日本で学徒出陣の壮行会が催されている頃、朝鮮・台湾では陸軍特別志願兵臨時採用規則が公布・施行され、植民地からも学徒志願兵が駆り出されることになっていた。 孫は明治大学の卒業生として学徒先輩中堅団という組織の一員となり、朝鮮人学徒志願兵の募集を呼び掛けていく。

孫は咸鏡北道に出かける前に以下のようにその抱負を述べている。

われら若き半島青年が今こそ起って大東亜戦争に直接身をもって戦わなければ、何時またこんな絶好の機会があるでしょうか、大いに血を流し、血をもって、若き日の熱誠を願わねばなりません。いま、半島はあげて学徒の出陣を励行しているのです。全く□(判読不明)然です。未だ曾てこんなに2500万が総決起しえその熱と誠を一つの点に集中させたことがあったでしょうか、私はこのような気持ちを学徒やその家族を訪れて伝え志願を乞うと共に、微力ながら大いに激励するつもりです。 (『京城日報』1943年11月14日) (以上は147~149頁)

 孫基禎は朝鮮の北東端にある咸鏡北道に行って学志願兵の応募を訴えるのですが、この本に載っているのは行く前に書かれた上記の決意表明ですね。 現地で実際にどのような呼びかけをしたのか関心があるのですが、この本ではそこまで書かれていません。 咸鏡北道は今の北朝鮮ですから、今は資料収集が難しいのでしょう。

 孫は当時の朝鮮人社会で超有名人となっており、非常に影響力の大きかった人です。 従って日本は彼を利用して、戦時動員=軍国主義に協力させようとしました。 そして孫はそれに応じたということになります。

 1945年の解放後、孫はこの当時のことを次のように回顧したといいます。

学徒志願兵の呼びかけについて自責の念に強く駆られ、晩年には「映画『ホタル』のなかで、特攻で死んでいった金山少尉を生んだのは、私の責任である」と述べ、深く後悔していたという。

映画『ホタル』は、アジア・太平洋戦争末期の鹿児島県知覧を舞台に特攻機の搭乗員に触れた物語である。 その重要な登場人物は光山文博、朝鮮名を卓庚鉉といった。

彼を志願兵として神風特別攻撃隊に送ったのは孫基禎ではなかったが、その死を悼む思いは彼が募集に携わった朝鮮人青年たちに向けられていたのだろう。

朝鮮人学徒志願兵で最初に戦死した「光山昌秀」は咸鏡北道の出身であったという。孫が学徒先輩中堅団として訪れた地の朝鮮人青年であった。 (以上は151~152頁)

 日本の敗戦=朝鮮の解放後、彼はこのように後悔したのですが、日本軍国主義に協力したという「親日行跡」の事実は残ります。 しかし韓国では彼を「親日派」と糾弾する人はいません。 韓国において「親日派」と「親日派でない」との違いは何か、理解できないところです。

【拙稿参照】

孫基禎は植民地支配に抗議したのか?  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/03/9352492

孫基禎の写真   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/05/9353642