小松川事件(2)―李珍宇と書簡を交わした朴壽南 ― 2023/04/08
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/04/9574532 の続きです。
小松川事件といえば朴壽南さんを挙げねばなりません。 朴さんは獄中の李珍宇と何度も手紙を交換し合い、李の死刑執行後に書簡集『罪と死と愛と』(三一新書 旧版1963年5月・新版1984年7月)、『李珍宇全書簡集』(新人物往来社 昭和54年2月)を出版しています。 朴さんは三一新書新版本のあとがきに次のように書いています。
1962年11月16日午前10時、李珍宇は、日本国家によって首を吊られ、殺される。 あらたな韓日一体体制―韓日協定―の実現をいそいでいた国家にとって、仙台から盛岡へ確実に広がりつつあった、李珍宇を死刑から奪い返そうとする闘いは、脅威だったのである。 日米安保体制につぐ〈韓日一体体制〉は、パン・チョッパリを生み出す植民地体制の再現なのである。 孤独だった私たちの闘いは韓日協定の非人間的な本質を衝撃するものとなって展開されつつあったときである。
半・日本人(パン・チョッパリ)から反・日本人(アンチ・チョッパリ)へ、主体としての存在の復権をめざす闘いは、再び侵略を許さない闘いへ浸透し、内面化していくものであった。 国家の目は、孤立していた私たちの闘いが、ひろがり高揚していくさまを透視していたのである。 「―もし外に出られたら祖国の統一のために働くでしょう‥‥」、李珍宇が獲得した想像力は、しかし、死刑の執行によって断たれていない―。 (以上 292頁)
この闘いを不断に生きることがわが国の絶対無謬であることばを撃ち、自己の復権のために、祖国の民主化と統一のために未遂の四月革命を闘う戦列へ私たちが加わることなのである。 (293頁)
小松川事件の犯人である李珍宇は、1962年に死刑が執行されました。 この1962年という年は、韓国では前年に朴正煕が軍事クーデターを起こして政権を掌握し、日韓条約(1965年締結)へ向けて日本と協議を進めている時でした。 そういう時代背景があったとはいえ、李珍宇を救援する「闘い」は日韓両国にとって国家的「脅威」だったという主張が展開されていたのでした。
「半・日本人(パン・チョッパリ)から反・日本人(アンチ・チョッパリ)へ、主体としての存在の復権をめざす闘いは、再び侵略を許さない闘いへ浸透し、内面化していく」というのは、ちょっと説明が必要でしょう。
「半日本人」は民族的自覚を失って日本人になりかけている朝鮮人という意味で、もう一方の「反日本人」は日本を糾弾して民族的自覚を取り戻した朝鮮人という意味です。 ですから日本人になりかかっている朝鮮人を否定して、民族アイデンティティを有する反日の朝鮮人になろうというのが「主体としての存在の復権」です。
そして当時は、日本は韓国の売国奴である朴政権と手を結び、朝鮮半島を再度植民地化しようとしている、という主張が叫ばれていた時代でしたから、反日の朝鮮人は「再び侵略を許さない闘いへ浸透し、内面化していく」という論理となります。
また李珍宇を救援する「闘い」は、「祖国の民主化と統一のために未遂の四月革命を闘う戦列へ私たちが加わる」ことに繋がるのだと主張します。 強姦致死・殺人犯の救援活動にここまで政治的な意味を持たせて、新たな「闘い」へ繋げようということですね。
昔の左翼はアジビラ・パンフで、関係のないことを無理やり結びつけて反体制・反権力を叫んでいたのと似ているなあ、と思い出されます。 私のノスタルジーですかな。 (続く)
【拙稿参照】
水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243
小松川事件(1)―李珍宇救援を呼びかけた人たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/04/9574532