佐藤春夫の「砧」2016/02/05

 日本近代の詩人・作家として著名な佐藤春夫が「砧(田舎のたより)」という短い随筆を遺しているのを、最近になって知りました。 日本では「絶滅種に近い砧」研究者である私には、見過ごすことのできないものです。 この随筆は1925年(大正14年)4月1日発行の『改造』(第7巻4号)にあるもので、近年では『定本 佐藤春夫全集第5巻』(臨川書店 1998年6月)に所収されていました。 この作品では砧がどのように描かれているのか、その部分を紹介したいと思います。なお引用に当たっては、現代風表記に書き直しました。

母は‥‥ごくゆるゆると石臼を廻しながら、これはお正月の餅つきの用意を、手廻しのいいことに今から米の粉をひいているのです。          ‥‥      「お母さん」            黙っている人々の間へ、私が言葉を投げ入れたのです。私は子供のころの記憶を呼びおこしたので言ったのです――        「むかしは、うちにも砧があったのう。――よくみんなが打つものだが」          「砧?」母は挽く手をちょっと休めた。       「そら、あの槌のようなものでこつこつ着物を打ったでしょう」       「洗濯ものをのう。――今でもどこぞそこらの隅にあった」        「今はあんなものを使うところはないようだが」        「さあ。気のつかんうちに、すたったのう」         「一体どうするのだろう――洗濯ものはやっぱりあるだろうに」        「それや、むかしのように糊を固くせんであろうかい。――でもあれで打つとよく目がつんで光沢(つや)が出るのじゃがのう。」        「たき子」私は妻の名前を呼んで「お前、知ってるかい、砧を」        「は?」妻は噛んでいた糸くずを指で摘(つま)み出しながら「どんなものでしょう」         「そんな事をいうようじゃ知らないのだね――あれはええ(・・)ものじゃ。静かな落ち着いた田舎らしい‥‥」         「もとはわし共の田舎などでも、ようやりおったものですがねえ」――こう、不意に話の仲間に入ったのは、自分の部屋でもう寝た筈の源さんです。母が言う――         「源さん、まだ起きていたのかい」         

 以上ですが随筆中ではこれ以外には、前に佐藤自身が「砧」を題材にした俳句を作ったことがあるという思い出があるぐらいです。

 この一文で何が興味深いかといえば、大正14年(1925)の時点で、砧は遠い昔の記憶の中にしかなく、実物はもはや見当たらなくなっていたということです。 日本では明治時代に砧を打つ風習が廃れたという事実を物語っています。

 そして佐藤は砧について「あれで打つとよく目がつんで光沢(つや)が出る」と書いています。 これは昔とはいえ実際の砧打ちを見ていたからでしょうが、砧の目的を正確に書いているのです。

 近年の砧の説明では「布を柔らかくするため」と書かれていることが多いのですが、これは間違いで、本当は「光沢を出す」ためです。 この間違いは実際の砧打ちを見たことのない人が藁打ちなどを連想しながら書いたからだと思われます。

 拙論で、日本では砧が明治時代に廃れてからは砧の正確な知識が失われて間違った説明が横行するようになったと論じたことがありました。 今回の佐藤の一文は、砧の記憶がまだ残っている大正時代末では正確な記載がされていたということになり、拙論が更に補強されたと考えます。

【追記】

 私は20年ほど前に、神戸市兵庫区に住んでおられた在日韓国人のおばあさんから砧の道具を頂き、それ以来、砧に関する資料の収集と研究に努めてきました。

 砧は在日韓国・朝鮮人の生活史を知る上で重要な遺物だと思っているのですが、個人が所蔵していても、いずれゴミになるだけのものです。

 最近になって「神戸コリア教育文化センター」が在日の遺物を収集していることを知り、ここに寄贈しました。 活用されることを願っています。

【拙稿参照】

第66題 砧(きぬた) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuurokudai

第90題 朝鮮の砧  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuudai

第106題 砧 講演  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakurokudai

第107題 砧 講(続)  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakunanadai

第108題 「砧」に触れた論文批評  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakuhachidai

第109題 ネットに見る「砧」の間違い  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakukyuudai

第114題 韓国における砧の解説  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyaku14dai

第115題 다듬이  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku15dai.htm

第118題 砧―日本の砧・朝鮮の砧 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyaku18dai.pdf

角川『平安時代史事典』にある盗用事例 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/07/1377485

「砧」と渡来人とは無関係     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/14/1403192

北朝鮮の砧            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/12/22/2523671

砧という道具           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/01/05/2545952

韓国ロッテワールドの砧      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/11/5080220

韓国ロッテワールドの砧のキャプション http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/12/5082741

「砧」の新資料(1)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/09/6655266

「砧」の新資料(2)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/10/6656721

「砧」の新資料(3)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/11/6657527

「砧」の新資料(4)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/13/6659222

「砧」の新資料(5)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/14/6659970

「砧」の新資料(6)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/16/6661166

砧ー日本の砧・朝鮮の砧      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/05/6888511

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