二人のアンダーウッド2014/09/28

 アンダーウッドは近代朝鮮史に出てくる西洋人として、最も有名な人物の一人です。 平凡社『新版 韓国・朝鮮を知る事典』(2014年3月)では、この人物について次のように説明しています。

アメリカのプレスビテリアン派宣教師、言語学者、教育家。朝鮮名は元杜尤。ロンドンに生まれ、アメリカに移住し、ニューヨーク大学を卒業。1885年に朝鮮へ渡り、宣教活動に従い、平安道地方への伝道旅行、孤児院の経営を行ない、朝鮮最初の教会や救世学堂(のちの儆新学校)を設立した。また伝道上の必要から朝鮮語を研究し90年《韓英事典》《韓英文法》を出版、97年には教会新聞《キリスト新聞》を創刊。1887年以来、聖書翻訳委員会に所属し、1911年までに聖書の朝鮮語訳を完成させた。15年には儆新学校大学部(延世大学校の前身)を設立。著書はほかに《朝鮮の呼び声》(1908)、《東アジアの宗教》(1910)がある。  (14頁)

 彼は1916年にアメリカで没したのですが、本人の希望によりソウルで埋葬されました。

 ところで、この『事典』の「堤岩里事件」の項のなかにもアンダーウッドが出てきます。

1919年4月15日、現在の京畿道華城郡郷南面堤岩里で起こった三・一独立運動弾圧事件。水原を中心としたこの地域の独立運動鎮圧のため差し向けられた日本軍が、訓示をすると称して同里内の運動参加者を礼拝堂に呼び集め、堂内に閉じ込めて射殺。建物もろとも焼き払った。死者はキリスト教徒、天道教徒合わせて29名。日本軍は近隣の村々でも虐殺、放火をほしいままにした。この事件は▼アンダーウッドらアメリカ人宣教師の証言で有名になった。 (322頁)

 アンダーウッドは1916年没ですから、1919年の三・一事件より3年前です。だから彼が「堤岩里事件」を報告できるわけがありません。 しかしこの事典の説明では1916年没のアンダーウッドを該当項目として▼印まで付けています。

 どういうことなんだろうかと気に掛かっていたのですが、実はアンダーウッドには息子がいたのですねえ。 歴史上有名なアンダーウッドは「Horace G Underwood」で、その息子の名は「Horace H Underwood」。 堤岩里事件を証言したのは息子の方だったということです。 

 けれどもこの『事典』では息子がいたことを全く記しておらず、3年前に死んだ人が事件証言をした、としか解釈のしようのない記述となっています。

 ほんの些細なことでしょうが、こんなことが気に掛かっていて、今改めて調べてみて解決したというのは気持ちのいいものです。 これを機会にソウルに行った時にアンダーウッドの墓を参拝してみようかな、とも思っています。

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