朝鮮人の子供たちは同化されたのか(1) ― 2026/01/02
戦前に来日した朝鮮の子供たちの教育について、日本当局は当初は方針を特に定めていませんでしたが、1930年代に入ってからようやく対策を打ち出しました。 それは朝鮮人自身がそれまで自分たち子弟のために行なっていた教育を否定して、日本の学校に誘導することでした。 それで子どもたちの多くは昼間の学校に通ったのですが、一方では当時の在日朝鮮人家庭の貧窮状況により各地に設けられていた夜間小学校に行く子供も少なからずいました。
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/09/9815943 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/15/9817244
しかしそこは日本の学校であり、朝鮮人の民族教育をする場ではありません。 朝鮮人の子供たちには日本語を覚えさせ、日本社会に早く馴染ませようと、いわゆる同化教育(当時は皇民化教育)を施すことになります。
(1936年以降)すべての朝鮮人を管理する目的でつくられた協和会の活動が活発になると、公立学校に入学させる方向で皇国臣民化教育が徹底されるようになり、朝鮮語はまったく教えられなくなり、皇国少年がつくり上げられていく。 1936年の協和会体制強化以降に育った子供たちは、この強い日本人化=皇民化教育の影響を受けることとなったのである。 (樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社2002年6月 83頁)
このような同化教育がどういうものであったか。 それは朝鮮人の民族性を否定するものであったため、次のような状況になっていたとされています。
1930年代半ばに朝鮮人の自主的な教育機関が閉鎖された後、朝鮮人の子どもたちは日本の学校に通うことになった。 当局は学校教育を通じて日本への同化、日本精神の注入を図るために、それまでの放任姿勢を改め朝鮮人の子どもを積極的に学校に受け入れて「協和教育」「皇民化教育」を施す方針に転換した。 しかし、朝鮮人の子どもたちを待ち受けていたのは、学校での差別的な扱いであり、自己否定を強要される教育内容であった。
1938年に下関の学校が作成した資料は、全校児童の約20%を占める朝鮮人児童の性格を「無気力、不熱心、勉学心乏し、積極的気風を欠く」「剛情強いところがあるかと思うと軽率、雷同的」「不道徳行為を平気でやる」「虚言を何とも思わず、羞恥心に乏しい」など、あらゆる否定的言辞で貶めた上で、それを矯正するには「日本人意識日本精神」を持たせ、「日本人の真の力を敬仰景慕せしめ日本児童たることを至高とし感謝する情念を養う」ことが必要であるとしている。
このような教育方針のもと、子どもたちは朝鮮人であることを徹底的に否定され、自らもそれを否定しなければならない状況に置かれた。 (以上、水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』岩波新書 2015年1月 63~64頁)
これは実際の学校現場では、同化教育がうまくいっていなかったことを示しています。 このことは日本の司法当局側から次のように報告されており、それを裏付けています。
日本の官憲は朝鮮人の子どもたちの日本社会への同化を期待したが、かれらの民族への愛着を抹殺することはできなかったようである。 例えば1939年に福岡地方裁判所と検事局が主催した、県下朝鮮人に関係している日本人の座談会で、ある日本人はつぎのように報告している。
「私が一つ意外に感じた事例がありますので参考までに申し上げます。 私は従来成人は同化ということは困難だろうということは考えておりました。 しかし子供はそうではないだろうと思っておりました。 ところがある機会に尋常6年か5年の子供ですが、男だったか女だったかを記憶しておりませんが、内地がよいか朝鮮がよいか尋ねたところ、その子供が、どうしても朝鮮がいい、卒業したら朝鮮に帰るのだ、という答えをきいて、実に意外の感に打たれたのであります。
けれども子供等はほとんどこちらで育っておって、朝鮮にはお正月に二度か三度親に連れられて帰った程度でしょうが、それにも拘わらずどうしても内地はいやである、朝鮮に帰りたいということをいう。 こういうことを聞きました時、私どもは従来、今の成人がなくなってしまって、今の子供が成人して次の時代になったら、内地に同化できるのじゃないかと思っておったことを自ら危ぶまねばならぬという感じを受けたのであります。 これは従来ひそかに抱いていた危惧の念をいっそう深くした次第であります」(司法調査課『福岡県下在住朝鮮人の動向に就いて』) (以上 姜在彦・金東勲『在日韓国・朝鮮人―歴史と展望』労働経済社 1989年9月 71~72頁より再引)
(続く)
【拙稿参照】
戦前の夜間小学校―朝鮮人子弟の教育(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/09/9815943
戦前の夜間小学校―朝鮮人子弟の教育(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/15/9817244
第64題 朝鮮人学校閉鎖令 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuyondai
朝鮮人学校閉鎖令 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/12/18/1036201
在日の低学力について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638
在日の低学力について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374169
親の靴職人を継いだ在日子弟―『抗路9』座談会 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/24/9466872
朝鮮人の子供たちは同化されたのか(2) ― 2026/01/09
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/02/9827716 の続きです。
これまでの在日の同化・将来の外国人の同化
日本の教育当局は1930年頃から在日朝鮮人子弟の教育に力を入れ始め、いわゆる同化=皇民化教育を施しました。 しかし子供たちの多くは通わされていた日本の学校に違和感を有していたようです。 朝鮮の子供たちの日常会話は多くが日本語になっており、普段の立ち居振る舞いはどんどん日本化していくなどある程度の同化が進んでいたのですが、多くが日本の学校に違和感を持ちました。 しかし熱心な皇国少年になった子も少なくなかったようです。 そして1945年に日本の敗戦=朝鮮の解放を迎えました。 子供たちは戦後すぐに各地に開設された朝鮮人学校に入学して、それからわずか3年後の1949年にその学校が閉鎖されてまた日本の学校に戻されるという、時の流れに翻弄されながら学校に通ったのでした。
その後、1950年代に総連系の朝鮮学校(他に民団系の韓国学校があるが僅か)が開設され、子供たちは朝鮮学校に行くか日本の学校に行くかで、分かれることになりました。 このうち日本の学校に通う朝鮮人の子供については、優秀な成績を修めて有名大学や医学部に進学するような子もいましたが、日本の教育に不適応を見せる子が少なくありませんでした。 1970年とかなり後になりますが、大阪の校長会の内部文書で在日生徒を次のように評価していたことが明らかになりました。
大阪市立中学校長会「昭和45年度研究部のあゆみ」
朝鮮人子弟は、一般的に利己的・打算的・刹那的・衝動的な言動が多く、それが情緒不安定、わがまま勝手、ふしだらな傾向、実行の伴わないみせかけの言動となってあらわれる。 罪悪感に欠け、性的早熟、自己防衛的でその場限りのウソも平然とし、同じあやまちや不注意も繰り返す。 半面、外国人ということを卑下して、日本人のように振る舞おうとし、無気力になったり、荒々しくなったりする。 (永井萌二『見知らぬ人 見知らぬ町』1971年7月 五味洋治『高容姫』文春新書 2025年6月 65・65頁より再引)
日本の学校に通う在日韓国・朝鮮人の子供たちの多くは戦後(朝鮮解放)25年経った1970年になってもなかなか同化せず、荒れた学校生活だったようです。 彼らが同化して落ち着いてくるのはそれ以降で、民族コミュニティ(いわゆる朝鮮部落)の縮小・解体とともにしていたのではないかと私は思っているのですが、どうでしょうか。(下記の拙稿参照)
一方、同化に抵抗して民族を強調してきた朝鮮学校では、校内では日本語が禁止されて朝鮮語のみが使用されましたが、そこで交わされる朝鮮語は「在日朝鮮語」という日本語に大きく影響された言語であり、また子供たちは一旦校外に出れば日本語をしゃべって日本人と変わらない生活を送っており、あるいは日本の学校生徒との凄まじい対立・抗争はかなり以前から聞かなくなりました。 いま朝鮮学校に通う在日の子供たちは一部の「赤い人」でさえ祖国に帰らずに日本で生活する選択をしています。
ですから2026年の今では、ほとんどの在日は同化の最終段階に向かいつつあると言っていいでしょう。 戦前に日本の教育当局が目論んだ在日の同化は、100年近く経ってようやく成就したということになります。
なお以上は在日全体の大ざっぱな流れを論じたものであり、個々人を取り出せば同化の度合いが違うのは当然のことです。 名前も国籍も何もかも全てが日本人化した在日もおれば、同化しているといっても名前や国籍、生活の一部に民族の痕跡を残す在日もおり、あるいはまた日本人から受けてき差別の歴史を根拠に〝同化されてたまるか”と頑張る在日もいます。
以上に論じてきた在日韓国・朝鮮人の子供たちについての知見は、今の日本の当面の大きな課題となっている外国人子弟の教育問題の解決に寄与するのかどうかについて、あまり参考になっていないように思えます。 全ての外国人の子供たちが、遅い早いはありますが、同化していってくれればいいのですが、出身国や民族によっては世代を越えて日本語をなかなか覚えず、そして日本社会に馴染もうとせずに反社会的行動に突き進む場合があります。 ここは性急に結論を求めず、在日の場合のように100年単位で考えるべきところと思うのですが、どうでしょうかね。
ただ日本史を振り返るならば、日本列島には朝鮮半島からの多くの渡来人が定着してきました。 古代にあっては渡来系氏族であり、そのうち最高位に上り詰めた百済王氏(くだらのこにきし)が有名です。 彼らは平安時代までには名前も含めて日本に完全に同化し、祖先伝承に痕跡が記録されるだけになりました。 また豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰倭乱)の際に朝鮮から陶工たちが渡ってきて、日本の陶磁器文化の発展に大きな貢献をしてくれましたが、彼らも日本に同化する歴史を歩みました。 現在の在日外国人も同じ渡来人ですから、将来は同じ道をたどるだろうと考えます。(下記の拙稿参照)
こんなことを書けば、〝外国人が同化しなければどうなるのか?” 〝このまま外国人が増え続けて多数派になるのではないか?”という質問が来ますね。 世界史をひもとけば、4~7世紀のヨーロッパで「民族大移動」が起こりました。 ある民族が移動してきて先住の民族を追い出して代わりにその地に居住し、追い出された民族は他の地に行ってそこの先住民族を追い出して居住するという民族集団行動が繰り返されたのでした。 地域を区切って言えば、民族の置換ですね。 今の西欧・北欧において都市の一部に住民全てが移民となっている地区が出現しており、また国民と移民との間の激しい葛藤も起きているところを見ると、「民族大移動=民族の置換」が再現するかも知れないと思えるほどです。 日本ではこんな歴史にはならないと思うのですが‥‥。
楽観的希望の観測を言えば、在日外国人は最終的に日本に同化し、彼らがもたらす文化は日本に溶け込んで日本文化の深みと幅を大きくしてくれるだろうということです。 (終わり)
【民族コミュニティ(いわゆる朝鮮部落)に関する拙稿】
「朝鮮部落」を探訪したユーチューブ動画 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/04/9773065
「朝鮮部落」の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262
「朝鮮部落」の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331
神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772
「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/21/9811055
「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/27/9812859
小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502
戦前の朝鮮部落の状況 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806622
【古代渡来人に関する拙稿】
第20題 「古代渡来人」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuudai
韓国の伝播論と日本の由来論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/04/26/342428
在日の古代史(1)―古代渡来人と広開土王碑改竄 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/01/9598436
【中・近世の朝鮮人陶工に関する拙稿】
朝鮮人陶工の歴史(1)―こうして歴史は作られる https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/15/9701351
朝鮮人陶工の歴史(2)―ハンギョレ新聞を読む https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/20/9702696
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/10/9699962
『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/02/9647749
『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/09/9649336
東郷茂徳が名前を変えた理由 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/21/1453694
韓国語の雑学―東床礼(동상례 足叩き) ― 2026/01/15
朝鮮民族の独特な風習として〝足叩き”を挙げることができます。 おそらくほとんどの日本人は知らないだろうし、在日でもこれを実際に見て知っている人は60代以上のお年寄りでしょう。 私は〝足叩き”と覚えていたのですが、最近になって『ポッタリひとつで海を越えて』という本で、「東床礼」という言葉であることを知りました。 そこでは次のように説明されています。
新婚旅行を終えて新婦の家に戻って来た新郎を裸足にして足首をくくり動けなくして、新婦の親戚や友人たちが質問攻めにする。 「何しに来た?」と聞いて「嫁を貰いに来た」と答えると「泥棒だ!」と、寄ってたかって新郎の足の裏を乾いた明太や棒で叩き、なれそめや新婚旅行でのあれこれを白状しろと迫り、答えられないと「答えろ」と叩き、曖昧に答えると「はっきり答えろ」と叩き、うそを言うと「正直に答えろ」と叩く。 最後に新郎を救うのは、新婦の母で「そろそろ許してあげなさい」と皆に料理をふるまう。 幸せな新婚の二人をからかって親睦を図る「賀礼」の一つだ。 在日朝鮮人のコミュニティーでも1980年代ころまで行なわれていた。
かつて朝鮮半島の北側、平安道地方では新郎に漢詩を詠ませ、うまく詠むとまたほかのお題を呈示して何度も詩を作らせた。 そのためこの地方では新郎に漢文が得意な親戚が同伴するのが常だったという。 詩を披露した後、新婦の家では知識の豊富な婿を得たと料理をふるまった。
東床は婿のことで、この呼び方は中国の故事に由来し、朝鮮語では婿を「東床」とは言わない。 (以上、小泉和子編著『ポッタリひとつで海を越えて―在日コリアンの生活誌』合同出版 2024年9月 218・219頁)
「新郎を裸足にして足首をくくり動けなくして‥‥寄ってたかって新郎の足の裏を乾いた明太や棒で叩き」とあるのが、正に〝足叩き”です。 こういう説明を読むと、おふざけでやるものだから大したことないと思われるでしょう。 確かに悪ふざけなのですが、叩き方が半端ではありません。 逆さ吊りにして本当に思いっきりの力で叩くのですから、まるで暴力沙汰のように見えます。 そして新婦側が「もう止めて!」と頼むまで叩き続けるのです。
新婦が〝足叩き”風習を知らない時があります。 その場合、新婦はその暴力沙汰に驚いて泣いてしまって「止めて!」と言えず、今度は〝足叩き”している男どもがいつまでも叩き続けるしかなかった、というような話もありました。 また足を叩かれた新郎は何日も歩くことができず、何ヶ月経っても足を引きずっていたという話もありました。 10年ほど前にヒットした韓国映画『国際市場で逢いましょう』には、〝足叩き”の場面が出てきましたね。
『ポッタリひとつで海を越えて』では、在日の結婚での〝足叩き”を実際に見た人の話が出てきます。
(1951年)結婚の祝いは三日三晩続き、余興も出た。 ‥‥余興は新郎を酒の肴にして冷やかし、足の裏を叩いたりする遊び(東床礼)をした。 三日三晩も自宅で宴をすると料理作りや後片付けが大変なので、今は専用の式場を使うようになり、東床礼の遊びもなくなったが、昔は娯楽が少なかったから、大変だと言いながら、結構楽しんでいた (同上 219~220頁)
(1976年)結婚式では東床礼という余興も行なわれた。 トンサン(東床)とは新郎を指し、新婦が西側に立つ慣習からきている。 式に参列した独身の若者たちが新郎をやっかみ、「どこで知りあったか」「いつ手を握ったか」などと聞きながら、細い枝や、紙を細い棒状にしたもので新郎の足を叩き、告白させるものである。
きわどい話になると新郎はなかなか言い出せない。 それで新婦が助けに入る。 するとますます足叩きが始まる。 そこで新郎は新婦の母に助けを求め、かわいい婿を救うため、新婦の母がさらに客に酒や肴を勧めるという趣向である。 (以上、同上 221頁)
もう今では〝足叩き”なんてやっていないようですが、韓国一部では残っているらしいです。 ただし優しく軽く叩く程度で和気あいあいとやるようです。 あの暴力的風習は受け継がれなかったようですね。 また若い在日は〝足叩き”を全く知らないし、もし知ったら大いに驚くことでしょう。 まあ〝悪習”と言ってもいいものですから、無くなったのは幸いです。
在日の結婚式は今や日本人と同じように式場かホテルでやるようになりました。 しかも在日は日本人との婚姻が多くなってきて、日本人側は当然ながら〝東床礼”なんか知りません。 こういったことも〝足叩き”がなくなった要因の一つのようです。 しかし式場やホテルでの結婚式の余興として、〝悪習”とはいえ民族の伝統である〝足叩き”は当人には大変なことですが、見る分には面白いので復活すればいいのにと密かに願っているのですが‥‥どうなんでしょうかねえ。
参考までに、韓国では「東床礼(동상례)」はどう説明されているか、ウィキペディアを訳してみました。 https://namu.wiki/w/%EB%8F%99%EC%83%81%EB%A1%80?uuid=6e041a03-5092-4693-a841-ad257495cfdd
1.紹介
結婚式が終わって、親戚や友人たちが新郎をいじめた風俗をいい、신랑다루기(新郎いじり)ともいう。 東床というのは、新しく来た婿を意味する漢字語だ。
2.やり方
一番有名なやり方のうちの一つである「足の裏叩き」。 新婦の実家で新郎の足を縛って逆さに吊るし、手と足、特に足の裏を棒でぶっ叩く。 この時、新郎は妻の家族らに助けてくれと哀願し、妻の家族らはもう参ったという振りをして御馳走の席を用意する。 そして酒宴を始める。 足を叩く風習のために、打足掌ともいう。(注1)
新郎と同年輩たちが集まってきて、漢詩の一節を詠んで、これの対句を作れという。 作れなかったら無知な奴だといい、上手に作っても剽窃だとか拙作だとか非難する。 また新郎に漢詩を作れといって、新郎が上手に作っても作れなくてもやはりぶっ叩く。
3.問題点と衰退
このように過酷な暴行を受けると、歩行が困難になったり、極端な場合に障害者になって社会生活ができなくなったり、死亡する場合もあった。 このような副作用により、政府が禁止しようとしたが、返ってさらに盛んになった。 そして時代が段々変化していくと、人々の認識も変わったこともあって次第に衰退し、現代社会ではほとんど見られなくなった。
東床礼は、度が過ぎれば害になるが、適当にやれば村や家族間の親睦を深める機会になる。
(注1) 足の裏にぺこんと凹んだところにツボがあるが、このツボの穴を開けてやれば男性の性機能が強化されるという韓方医学の俗説があって、足の裏を叩くということである。
「歩行が困難になったり、極端な場合に障害者になって社会生活ができなくなったり、死亡する場合もあった」というところに驚く方が多いでしょう。 かつての韓国での東床礼はこれほど過激だったようです。 そういえば、ある在日が自民族の野蛮性の根拠として〝足叩き”を挙げていました。
【韓国語の雑学―これまでの拙稿】
韓国語の雑学-공수래공수거(空手来空手去) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/28/9785334
韓国語の雑学-고려장(高麗葬) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/18/9740391
韓国語の雑学―客妾(객첩) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/10/9666292
韓国語の雑学―남부여대(男負女戴) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/14/9634052
韓国語の雑学―전산이기(電算移記) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/06/17/9594956
韓国語の雑学―賻儀 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/26/9543701
韓国語の雑学―将棋倒し http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/15/9235466
韓国語の雑学―下剋上 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/22/9237987
韓国語の雑学―「クジラを捕る」は包茎手術の意 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/10/9325273
韓国語の雑学―내로남불(ネロナムブル) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/04/9334079
韓国語の雑学―東方礼儀の国 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/17/9388692
韓国語の雑学―동족방뇨(凍足放尿) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/02/9418323
日本への悪口言葉―韓国語の勉強 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/19/6907092
在日の葬送の歴史―火葬の受け入れ(1) ― 2026/01/22
イスラム教はその教義から火葬を嫌い、土葬を旨としています。 今イスラム教徒が多く来日しており、彼らは亡くなった時に多くが土葬を望んでいます。 しかし今の日本では、30年ほど前まで各地に残っていた土葬風習がほとんど消え去って火葬となってしまいました。 すると今度は日本人の土葬へのタブー視が非常に強くなりました。 そのために、イスラム教徒たちが土葬を求める動きに対する日本人側の反発が激しく、物議を醸しているようです。
今の日本で起きているこのような外国人の土葬問題を知ると、古くからの外国人である朝鮮人は亡くなった時に葬送をどのようにやってきたのかが気になります。 そこで在日韓国・朝鮮人の葬送の歴史について、調べてみました。
実は朝鮮民族の葬送は儒教式の「土葬」あるいは古代からの伝統を継ぐ「草墳」で、「火葬」は仏教僧侶だけでした。 すると植民地時代に来日した朝鮮人は亡くなった時、民族の伝統である土葬・草墳にこだわることはなかったのだろうか、という疑問が湧きます。 なお草墳は植民地時代にかなり抑制されて一部に残るのみとなり、ほとんどの朝鮮人は儒教式土葬となっていました。 草墳については後日に紹介しますので、今ここでは土葬だけを扱います。
昔の日本は地域によって違いが大きいですが、おおむね都市部では大半が火葬、農村部では地区(当時は「部落」と呼ばれていた)の多くが土葬でした。 ただし土葬の場合、埋葬地は地区の共有地であり、その地区の住民のみが土葬できるのであって、よそ者は土葬できませんでした。 120年以上前の1900年頃の日本では火葬率30%ぐらいで、残りの70%は土葬でした。 その後火葬が増えていきましたが、それでも40年前の1970年代で火葬率85%、土葬は15%ほどでした。
朝鮮人も土葬は故郷の土地で行なうものでした。 たとえ来日した朝鮮人が日本で土葬しようとしても、よそ者ですから土葬する場所がありませんでした。 つまり朝鮮人は日本では土葬することができなかったのです。 しかし死はいつか必ずやってきます。 それでは彼らはどうしたのでしょうか。
金賛汀さんの『在日コリアン百年史』という本の中に、次のような記述があります。
在日朝鮮人が日本に居住するようになり、彼らは、朝鮮の風俗習慣を日本に多く持ち込み、とりわけ冠婚葬祭は異国の生活の中でも遵守された。 朝鮮は儒教の国である。 儒教は形式を固く守ることによって成り立つことが多い。 儒教の強い影響下にあった人びとは、葬儀においてもその形式を守ろうとした。
当時、日本の都市部では火葬だったが、朝鮮では多くが土葬であった。 特に済州島では、土葬が固く守られていた。 1920年代後半頃から、済州島の人々は、日本で亡くなった人の死体を箱詰めにして、島まで搬送していた。 そのため定期航路の船会社とのトラブルが多かったという。 死体の搬送には何日間も親戚縁者が同伴するため経済的な負担も大きく、葬儀を終えて日本に戻るまでには一ヶ月もの日時を必要とし、戻ってきたときは、仕事を失っていた。
そのうえ、当時、日本政府は朝鮮人の渡航を厳しく制限していたため、葬儀で帰国したまま日本に戻れなくなったケースも珍しくなかった。 (以上、金賛汀『在日コリアン百年史』三五館 1997年11月 101頁)
「朝鮮では多くが土葬であった」とあります。 上述したように朝鮮人ほとんどが土葬でしたが、僧侶は火葬で、また一部地域に古代からの伝統である草墳が残っていました。 「多くが土葬」という表現はこのことを指すようです。
この本によると、在日朝鮮人が発行していた1935年の『民衆時報』(ハングル新聞)に、次のような投書があったといいます。
【火葬を励行しよう】 私は読者の一人として、一つ問題を提起しよう。 もちろん、私が提唱する改良的な問題よりも、さらに進歩的な問題があることは知っている。 しかしながら、最も進歩的な問題でも生活改善を除くということはないのであるから、関西地方在住の労働者、常民(朝鮮の階級、平民)たちの、重大な利害関係に関する問題として私は火葬励行を提唱する
水の中でも、土の中でも、人の死骸は結局土になる。 全てに綺麗な火葬が、どうして土葬よりも悪いといえるのか。 土地の値段が高い日本で、土葬を行なうのは経済的に見ても大変なことであり、だからといって故国に土葬のために死体を送るというのは、済州島出身者以外は問題にもならない。 その島出身者の労働者は怒るかもしれないが、はっきりと目を見開いて生きようとする労働者ならば、地方熱と懐郷病を投げ捨てるべきである。
働き、生きているところが故郷であり、生まれ故郷は、必ずしも故郷ではない。
葬儀を行なうため死体を搬送して故郷に帰り、日本に戻ってきたときに仕事を失い、悔やんでいる親友たちがいかに多いことか、それらを軽視することはできない。 貧しければ貧しいほど、自由渡航が止められれば止められるほど、わずらわしい土葬から解放されなければ、一個の死体のために何人もの生命が飢餓線上で脅威にさらされる。 土葬から解放されよう。 火葬を励行しよう。 (以上、同上 100~101頁)
ここで注目すべきは「土葬を行なうのは経済的に見ても大変なことであり、だからといって故国に土葬のために死体を送るというのは、済州島出身者以外は問題にもならない」という部分です。 朝鮮人が亡くなって土葬しようとした時、日本では土葬できませんから遺体は故郷に送るしかありません。
済州島人の場合、当時大阪―済州島間に定期航路があって、済州島では一周して各地の港に寄港していました。 ですから遺体を船で搬送する場合、大阪港まで運んで定期船に積み込んで運送し、済州島の各港で下ろして故郷まで運ぶことになるのですが、やはり多額の費用がかかります。 一方、朝鮮半島本土(陸地)の人の場合は故郷へ行くのには関釜連絡船しかありませんが、その連絡船が遺体の運搬を禁じていました。 「済州島出身者以外は問題にもならない」とは、朝鮮本土の出身者はやろうにも出来なかったという意味のことです。
いずれにしても従来の葬送方式である故郷での土葬にこだわっても、朝鮮本土の場合は不可能です。 また済州島の場合は可能でしたが遺体搬送に大変な費用がかかるし、当時のことですからおそらくは冷蔵できず密閉も不十分な搬送となりますので腐敗の進む遺体にはトラブルが多くなるし、故郷で土葬を含む葬儀にはかなりの日数がかかります。 不安定な仕事をするしかなかった朝鮮人は故郷まで家族の遺体を運んで葬儀をすれば、その間に仕事を失う可能性が高くなります。 そこで『民衆時報』の投稿者は、在日は火葬をしようと呼びかけたのでした。 (続く)
【土葬に関する拙稿】
土葬と火葬 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/27/9310074
京都高麗寺の国際霊園 土葬墓地 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/20/9564102
在日の葬送の歴史―火葬の受け入れ(2) ― 2026/01/29
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/22/9832164 の続きです。
植民地時代の在日朝鮮人は葬送を実際にどのようにしたのか、作家の金達寿は著書『わがアリランの歌』に父親の死の際のことに触れています。 金達寿の家はもともと地主で資産家でしたが、父親は遊郭に入り浸って散財したため先祖からの土地を手放し、先に日本に行っていた叔父を頼って日本で働いて故郷に仕送りすることになりました。 その時、父親は長兄と妹を日本に連れていき、次兄と達寿の二人の子は祖母に残したといいます。 1925年の時でした。
祖母と私とは間遠になった日本からの仕送りを待って暮らしていた。 そして次兄の良寿が死んで半年か、1年たったであろうか、するとこんどはその日本から、「チチシンダ‥‥」という電報が届けられてきた。 父たちが日本へ渡って3年ほどがたった、1928年9月のことだった。 ‥‥1年もたっていなかったつい先には孫(次兄の良寿)を亡くし、ついでこんどは、一家離散となって日本に渡っている息子にまで死なれた祖母は、一夜のうちに髪が真っ白になってしまった (金達寿『わがアリランの歌』中公新書 昭和52年6月 14頁)
しばらくすると、それまでは知らなかった親戚で叔父にあたるという人が、日本から遺骨を運んで来た。 次兄の良寿のときと同じように、また集落の人たちや、あちこちの親戚たちが集まって葬式がおこなわれ、父は馬山の近くにあった檜城の先山(ソンサン―祖先の墓があるところ)に葬られた。 (同上 14~15頁)
金達寿の父親は日本で亡くなり、火葬されたことが分かります。 そして遺骨が故郷に帰り、通常通りの葬儀が執り行われたのでした。 そこには土葬に対する強いこだわりというものがありません。 つまり土葬か火葬かについて、朝鮮社会は柔軟な考え方になっていたと言えるでしょう。 しかし祖母は少し違っていました。
祖母はまえからも言っていたことであるが、日本へ行って死ねば「死体は焼かれるから」と言って聞き入れなかったのである。 (同上 30頁)
祖母は〝日本では死ねば火葬されるから”といって日本行きを拒否したのでした。 このあたりの話を聞くと私は30年ほど前の1990年代ですが、近くの農村地帯で周りはすべて火葬となっていたのに一人のお年寄りが「自分は死んだら土に返る、火葬は絶対にイヤ」と遺言したので土葬となったという話を思い出します。 死んだらどういう世界に行くかという死生観は時代とともに変化するものですが、個人は年を取ってもなかなか変わらないものだということなのでしょう。
在日は戦後(朝鮮の解放後)、葬送をどう行なっていたか、小泉和子『ポッタリひとつで海を越えて』には、次のように記されています。
解放後は葬儀社に頼んで、地域内の寺や葬儀場を会場に葬儀が行われるようになっていく。 その場合、大阪や東京など在日の多い地域では同胞が経営する葬儀社に頼み、朝鮮の伝統にのっとった葬儀を行なう人もいるが、多くは、日本の葬儀社や葬儀場を使い、内容の一部に朝鮮式を入れるというのが一般的であった。 例えば遺族は白喪服を着たり、哭をしたり、朝鮮の供物を並べたり、戒名をつけないなどである。
墓については、故郷の墓に納骨する人もいたが、しばらく日本にある朝鮮寺や日本の寺に遺骨を預ける人が多かった。 その後、1970年代半ば以降になると次第に日本に建てる人が増えていく。 形は日本の墓と同じものが多いが、側面に族譜を綴ったり、墓誌が本名であるいは通名だったり、あるいは家族の中でも祖父母は本名で、両親は通名など、さらには今もまだ寺に預けたままの人も少なくないなど、墓にも在日の置かれている状況の大変さが現れている。 (以上、小泉和子『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 227~229頁)
白喪服は在日の葬儀で昔にあったと聞きますが、私は見たことがないですね。 祖国の韓国では喪服は今ではほとんど黒になっていますが、伝統を色濃く残す地方では近年まで白喪服、喪主や遺族は麻製の薄黄色の喪服を着たようです。 なお喪主は昔から儒教の伝統により長男に限られます。
今の在日は日本人と同様に黒の喪服を着ており、また女性の喪主も誕生しているという話を聞いたことがあります。 そして日本人と同じく在日もほとんどが火葬となりました。 火葬と喪服、在日はこの点でも日本に同化していると言えそうです。
しかし民族の伝統の土葬にこだわる人がごく僅かにいるようで、そういう人のために土葬も可能な霊園を経営している韓国系のお寺が京都にあります。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/20/9564102 なお本来の民族伝統では、土葬する時に棺担ぎ(상여꾼)が鐘や太鼓を叩いて歌(상여소리)を歌いながら棺を運んで埋葬するのです(下記参照)が、この韓国系寺院の霊園でもやっていることなのか、そこはよく分かりません。 しかし今どき棺担ぎはいくら民族を大事にするとしても、在日には存在しないだろうと思います。
以上見てきたように、今の在日韓国・朝鮮人は葬送儀礼でも民族の伝統をそのまま持ち込まず、一部の民族主義者が寿衣(死装束)などに民族の痕跡を残す程度で、大まかに言って葬礼は日本に同化してきました。
とすると今の日本で物議を醸しているイスラム教徒たちの土葬を含む葬送問題を考える上で、在日の葬法の100年の歴史は参考になるのではないでしょうか。 この問題は早急に結論を求めるのではなく、100年単位で考えながら、最終的に彼らが同化する方向で解決を探るべきだというのが私の考えです。
ありていに言えば、イスラム教徒に土葬を禁止して火葬を要求することは、彼らには宗教を捨てることを強要されているという意味に受け取られて摩擦が生じ、時には対立するまでに至ります。 しかし彼らも日本で亡くなれば、たとえ嫌であっても経済的な理由などで今のところ火葬するしかないことを理解しています。 なにしろ日本では外国人が土葬できる霊園が余りにも少なく、また遺体を故国に送るには多額の費用がかかりますから。
ということで私の考えでは、彼らには今の日本の現状を説明して火葬を自然に受け入れてもらえるように気長に待つしかないだろう、ということです。 イスラム教徒が土葬できる霊園がもっとたくさん増えればいいのですがねえ。 あるいはシンガポールのように、土葬は認めているが埋葬期間を15年と定め、それを過ぎると掘り起こして火葬等に改葬する方式(再埋葬もあるが、やはり15年という期限がある)が参考になるかも知れません。
要するに、イスラム教徒は日本人にも受け入れられるような葬送文化に変わることが求められており、そうなれば日本人はその新たな葬送文化も自文化の一つとして受け入れて文化の幅を広げるようになるだろう、というのが私の主張です。 (終わり)
【参考】
韓国伝統の葬礼(土葬の棺担ぎ行列)の動画。 喪主や遺族は薄黄色の喪服、参列者は白喪服を着ている。
https://www.youtube.com/watch?v=6w9dXoqTF3E&t=1439s https://www.youtube.com/shorts/77oAR3Ktiwk
【土葬に関する拙稿】
土葬と火葬 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/27/9310074
京都高麗寺の国際霊園 土葬墓地 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/20/9564102