神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞2022/08/11

 拙ブログ7月12日・19日の二回にわたって、昔に私が見た「朝鮮部落」について思い出を書いてみました。  

「朝鮮部落」の思い出(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262

「朝鮮部落」の思い出(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331

 それから10日ほどして、毎日新聞に「源平町かいわい(神戸市長田区) 知られざる共生の歴史」と題する、朝鮮部落(記事では「在日コリアン集落」)の記事が出ました。(2022年7月29日付け)   https://mainichi.jp/articles/20220729/ddf/012/040/001000c  有料記事なので、関心ある方は図書館にでも行って頂ければ幸い。

 記事はこの朝鮮部落の成り立ちと、そこには日本人との「共生の歴史」があったことを報告するものです。 このうちの日本人との「共生」に目が行きました。 その部分を抜き書きします。

在日2世の女性(79)から話を聞いた。 「集落は隔絶されていたわけではなく、日本人コミュニティーとも活発な往来があり、助け合って暮らしていましたよ。 子どもたちが『朝鮮村や』と興味本位で言っていたのも覚えていますが、偏見はごく一部で、仲良うやってましたよ」。 45年3月17日の神戸大空襲後、沿岸部で焼け出された被災者が多く避難してきた所でもあったという。

「喫茶・赤倉」‥店長の小竹雅子さん(84)は、かつての在日コリアンのコミュニティーや丸山地区のにぎわいを知る一人だった。‥‥「通学時に、リヤカーに乗せていた豚たちが逃げ出して、こちらに走ってきてね。今となってはいい思い出やね」と懐かしそうに語った。

以前に集落で暮らしていた女性は繰り返した。「未来を担う韓国と日本の若者たちにお願いがありますよ。源平町のように仲良く暮らしてほしい」。時代の中で消えていった在日コリアン集落は、共生社会を体現してきた集落であった

 この記事中でまず驚いたのは、子供たちが言っていたという「朝鮮村」です。 私の経験では「朝鮮部落」であって、「朝鮮村」なんて聞いたことがありません。 「朝鮮部落」は周囲の日本人だけでなく、そこに住んでいる朝鮮人も自分たちの住所を「朝鮮部落」と呼んでいました。 また関西から遠く離れた地域でも「朝鮮部落」という言い方が普通でした。

 としたら「朝鮮村」は、神戸の独特な呼称なのでしょうか。 神戸では湊川等々で不法占拠の朝鮮部落が点々と存在していましたが、やはり「朝鮮部落」であって「朝鮮村」ではなかったと記憶しているのですが。

 日本語では「村」と「部落」とでは昔から意味が違っているのであって、互いに言い換えることのできない言葉です。 ですから「朝鮮村」という言葉には、私には違和感が非常に大きいのです。

私の考えでは、1970年代以降の解放運動の活発化とともに「部落」が差別語とされてきたために、記事では「朝鮮部落」と書くことに躊躇いが生じて「朝鮮村」に言い換えたのではないかと思います。 とすれば歴史用語の捏造だと考えるのですが、どうなのでしょうか。

 次に「集落は隔絶されていたわけではなく、日本人コミュニティーとも活発な往来があり、助け合って暮らしていました」とあります。 つまりここの「在日コリアン集落」には「日本人コミュニティー」が存在しており、朝鮮人と日本人は「助け合って暮らしていた」というのです。

 実際にどのような「助け合い」だったのかに関心があるのですが、記事では書かれていません。 私の経験では、朝鮮部落に日本人が混在する例は、河川敷の部落でした。 戦後の混乱の中、住居に困り果てた日本人も多く、さまよった末に河川敷に住むようになり、朝鮮人と混住状態になったというものです。

 そこではどんな「助け合い」があったのかと言いますと、私自身の知識の範囲内で答えます。 そこには行政の末端としての住民自治会というものがありませんでした。 多くの場合朝鮮人は朝鮮総連の分会に集まり、そこが朝鮮人同士の助け合い組織として機能します。 当然ながら日本人は全く関わりがありません。

 つまり朝鮮人と日本人とは隣人同士でありながら、その地域の問題を両者で話し合う場所がなく、ですから共同して行政に何かを要求することもありませんでした。 つまり朝鮮人と日本人が「助け合う」ということは難しかったと言わざるを得ません。

 また火事が起きた場合、市役所からは毛布等々の支援物資が自治会を通して被災者に支給されるのですが、自治会に加入していない朝鮮人には総連分会を通して支給されるということでした。 日本人にはどうなるのかについては、朝鮮部落に住む日本人が火事に遭ったという例が私の経験では寡聞にして知りません。 しかし、それぞれが市役所に行って支援物資を受け取るという話を聞いたことがあります。

 ところで河川敷の朝鮮部落に住んだことがあるという日本人から話を聞いたことがあります。 朝鮮人の家では夫婦ケンカが激しく、時に刃物を振り回すような大立ち回りもあった、そんな時にケンカの仲裁によく行ったものだったという思い出話でした。 その方は中学時代に柔道をやっていて、身体も大柄だったので、そんな激しいケンカでも仲裁できたと言います。 しかし朝鮮人との付き合いというのはそれだけで、あとはせいぜい道端で出会えば会釈するくらいで、仲良く過ごしたなんてことは全くなかったそうです。 しばらくして公営住宅に当選したのでそっちに引っ越しし、その後その朝鮮人たちがどう暮らしているかなんて全く関心がない、ただあの激しい夫婦ケンカだけはよく覚えている、ということでした。

 なお当時の公営住宅の入居資格には国籍条項があり、朝鮮人には応募資格がありませんでした。 日本人は応募して当選すれば、さっさと引っ越したといいます。 ですから朝鮮部落の日本人は生活していた年月は短く、逆に朝鮮人たちはますます取り残されていったと言えるかも知れません。

 朝鮮部落をいくら思い出してみても、「朝鮮人と日本人との共生」というような〝ほのぼのした関係″があったとは私には考えられません。 単に住む場所がたまたま同じであったことに過ぎず、何か生活上で助け合うこともなかったし、ましてや例えばキムチの漬け方とか洗濯の仕方とかを教え学ぶような文化交流は全くなかったのでした。 (キムチ漬けと洗濯は女性の家事労働において、朝鮮人と日本人の違いがはっきりと見えるものでした ―下記【拙稿参照】)

 しかし毎日新聞の記事では、神戸の源平町という朝鮮部落では「朝鮮人と日本人共生社会」を「体現」していたというのですから、私には大きな驚きでした。 本当にそんなことがあったのか?という疑問ですね。 おそらくは、単にケンカやもめ事を起こしていないだけの関係を「共生」と表現したのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

【拙稿参照】

「朝鮮漬け」の思い出(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/17/9327581

「朝鮮漬け」の思い出(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/22/9329211

砧を頂いた在日女性の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297618

砧を頂いた在日女性の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/07/9303008

砧を頂いた在日女性の思い出(3)―先行研究 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/12/9304894

砧を頂いた在日女性の思い出(4)―宮城道雄 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/22/9308333

砧を頂いた在日女性の思い出(5)―宮城道雄(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/11/02/9312276

マッコリ(タッペギ)とシッケ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/28/9331179

「原子力ムラ」は差別語では‥  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/09/22/6580751