長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(3)2026/03/27

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/21/9843303 の続きです。

―韓国では、過去の歴史問題は大変敏感だ。

「もちろん1965年の日韓条約で日本は〝最終的に解決した”という立場を取ってきました。 しかしあの時は、長生炭鉱はもちろん徴用工問題も出てくるより以前です。 それ以降に明らかになった日本の間違いの一つ一つが未解決として残っているというのが、私の認識です。 慰安婦や徴用工など、生きて韓国に戻った人たちが自らの尊厳を守る闘いを続けてきました。 彼らが謝罪を求め補償を求めるのは、当然なことです。」

―日本政府の謝罪と賠償を要求する声が大きいのだが。

「今までの日本の政治情勢を見れば、補償を前面に掲げて闘うことは非常に困難な状況です。 私は〝遺骨”に焦点を合わせました。 遺骨さえ元に返さない日本は変ではないか、遺骨を誠意もってお返ししようと言っているのです。 取りあえずはこれを中心に闘いを進めねばなりません。 そうでなければ、今の日本政府に補償のことを言えば、話をしてくれません。 そこで終わってしまうのです。 遺骨という人道的問題を掲げて〝何もしないとは言えない状況”をつくりたい。 その次に日本の加害責任とか謝罪があるのであって、まずは日本が遺骨を返還する道理がなければ、謝罪のようなものを受け入れることはできません。 ですから日韓両国に遺骨返還を優先してくれと呼びかけているのです。」

 彼女の主張をまとめると、〝日本に加害責任があるのだから日本政府が補償や謝罪するのが当然なことだが今すぐは無理だ、我々が遺骨の発掘と返還を進めることによって政府が補償や謝罪へと動かざるを得ない状況を作るのだ”ということですね。 「人道的問題を掲げて」「加害責任」「謝罪」「補償」という言葉が、この運動の方向性を示しているようです。

―人道的次元のことからやろうという意味なのか。

「在日朝鮮人たちは80年経っても堂々と生きることができずに差別されています。 その原因は何でしょうか。 日本人が加害の歴史を十分に勉強しなかったためです。 長生炭鉱の事故を通して、日本がどれほど悪いことをしてきたのか分かります。 これを知った人は「朝鮮に帰れ」のような言葉を絶対に言わない市民、国民として育ちます。 日本社会の不合理性を遺骨の力を借りて変えようというのが私の考えです。」

 〝日本人は自分たちが犯した加害の歴史を勉強していないために在日朝鮮人差別がある、遺骨の発掘を通してこの差別という不合理性を打破しよう”ということですね。 1970年代ごろから民族差別問題を訴える韓国・朝鮮人活動家は、〝日本人は歴史の勉強をしていない、日本がどれほど悪辣非道であったかを勉強しろ”とよく主張していました。 私もよく聞かされたものです。 長生炭鉱では日本人の井上さんからこの言葉が出てきました。 〝昔の私もそのように考えていたなあ”と感慨にふけりました。

―日本人として韓国人のために尽力しているわけだ。 韓国人に伝えたいことは。

「韓国人たちの要求(謝罪と賠償)は当然なことだと私も考えます。 日本がきちんと加害責任に直面し、その方向で行ってもらいたいです。 しかし日本の右傾化した政権では正面でぶつかってもビクともしません。 自己満足で終えることはできません。 確実に一歩前に出たいのです。 そのために遺骨の力を信じてくれと言いたいのです。 遺骨が出てくるたびに、その遺骨が誰なのか、なぜここで亡くなったのか、どんな遺族がいるのか、どんな歴史的背景があったのか、明らかにするのです。 それを積み上げていって日本の世論を盛り上げ、政府を圧迫するのが今の私ができる最善のことです。」

 日本人が韓国人のために働くということですね。 遺骨の発掘によって世論を喚起し「日本政府を圧迫する」と主張しておられます。 政府に謝罪や補償などをストレートに要求するのではなく、遺骨発掘という地道な作業から先ずは始めようとするところに「刻む会」の特徴があるようです。

―これからの目標は?

「とりあえず遺族一人にでも、もっと遺骨を返してあげることが一番大きな目標です。 韓国におられる方たちも、この目的を理解して協力していただけたら、と思います。 遺骨の返還のためにみんなが力を合わせることが重要です。 日本政府が何も関与しないというなら、アジアから信頼を得ることのできない政府になるでしょう。 私たちは本当に一生懸命にやりますので、あきらめずに見守ってほしいです。 日韓の市民の力で日本政府を変える状況をつくりたいです。 支援をお願いします。」 (以上、『週刊朝鮮』2897号2026年2月16日 30~32頁)

 このままでは自国政府が「アジアから信頼を得ることのできない政府になる」という言い方は、1970年代に〝アジア人民と連帯して侵略を目論む自民党政府を倒そう、そうしてこそ日本はアジアから信頼される”と叫んだ左翼運動と共通するものでしょう。 また「日韓の市民の力で日本政府を変える」は、左翼・リベラルが〝韓国の民主化勢力と連帯して韓国軍事独裁政権を支える日本軍国主義を打倒しよう”と唱えた1970~80年代を想起しますね。 長生炭鉱の「刻む会」市民運動は炭鉱事故犠牲者の遺族を探し出して遺骨発掘事業を行なってきたのですが、そんな純粋な人道問題の裏に〝反政府・反権力の左翼運動があるんだなあ”という感想を持ちました。 それはかつて左翼側に立っていた私には郷愁を感じさせるものです。

 遺骨の発掘は2月7日に捜索に参加していた台湾出身のボランティア潜水夫が事故死するというアクシデントが発生したために、中断しました。 遺骨発掘はやはり大きな危険が伴うようです。 歴史を振り返ってみれば1942年の水没事故の際、危険だからという理由で遺体収容をあきらめたといいます。 それから80年以上が経ちました。 複雑な坑道は崩壊し水没したままですから、今はその時以上に危険であることは明らかでしょう。 「刻む会」はこれからどのように安全を確保しながら遺骨発掘事業を続けるのか、注目しています。 

 それから気になるのは、これまで発掘してきた遺骨、そして将来も発掘発見されるであろう遺骨を最終的にどうするのかという点です。 どこかの専門機関にDNA鑑定を依頼して身元を調査し、それが判明した遺骨は遺族に引き取ってもらって終わりますが、それは少数であろうと考えられます。 遺骨は事故で亡くなった183人のうちの誰かであることはほぼ確実と思われますが、80年以上も経っていて遺族のほとんどは孫や曾孫世代でしょうから判明率が落ちます。 またこれまで集めた遺族のDNAは80人分といいますから、半分以上がまだ収集できていないことになります。 ですから発掘された遺骨の多くは、遺族の確定が困難と思われます。 また朝鮮人か日本人かの区別もできませんから、韓国側に引き取ってもらう訳にもいかないでしょう。

 今のところ遺骨は警察が預かっているようですが、事件性がない限り警察にいつまでも保管する義務はありません。 最終的な保管責任は遺骨発掘作業の主体者であり遺骨発見者でもある「刻む会」にあると考えられます。 ですからDNA鑑定しても身元不明となった遺骨、あるいは遺族が引き取りを拒否したような遺骨は「刻む会」に戻されることになるでしょう。 そして「刻む会」は日本政府の関与を要求しています。 しかし身元不明などの遺骨について政府がどのように関与できるのか、ちょっと疑問に感じます。

 80年以上前に起きた長生炭鉱事故の犠牲者の遺体は、その時にそのまま埋没させることで終わったとされています。 もともと海底の炭鉱現場にあった遺骨を取り出してきて結局は所有者・帰属先不明となったのだから元の現場に戻せばいいと考えることは可能ですが、今さらそういう訳にはいかないでしょう。 また遺跡からの出土文化財と同様の取り扱いをすればいいのではないかとも考えられますが、わずか80年ほどの昔の話ですからそういう訳にもいきません。 政府が関わることができるとすれば地元自治体に引き渡し、最終的には無縁仏として処理してすべてが終わることになるでしょう。 しかし日本政府への圧力を企図する「刻む会」は、歴史を反省しない政府を追及するために身元不明等の遺骨をいつまでも保管し続けていくのかも知れません。            (終わり)

長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/16/9842328

長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/21/9843303

【日韓の歴史に関する拙稿】

第16題 「歴史」を学ぶことの疑問    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuurokudai

第48題 「強制連行」考         http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuuhachidai

第91題 実証なき歴史研究        http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuuichidai

第94題 『在日コリアンの歴史』の間違い http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuuyondai

第95題 (続)『在日コリアンの歴史』の間違い http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuugodai

第80題 在日の歴史認識          http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuudai

日韓市民運動の悲観的記事-ハンギョレ新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/04/9721593

李青若『在日韓国人三世の胸のうち』(1)―強制連行 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/30/9544668

日韓歴史共同研究委員会の回想―北岡伸一  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/05/11/9683297

韓国・朝鮮の歴史批判に向かわない日本歴史研究者 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/13/8850175

学術集会に荒唐な現代政治を持ち込む https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/18/8828880

朝鮮植民地史の誤解 ―毎日の読者投稿 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/03/9404045

長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(2)2026/03/21

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/16/9842328 の続きです。

―「刻む会」を設立した当時、目標は何だったのか。

「最初に、海の墓地と呼ばれるあの『ピヤ(排気孔 Pier)』を保存すること。 二番目は日本人としての反省の意と犠牲者全員の名前が書かれた追悼碑を建てること。 三番目は歴史を十分に発掘し、証言資料を収集して本を出版することでした。 ところで犠牲者たちの名前を刻もうとすると、創氏改名された名前しか把握できませんでした。 大変無礼なことでした。 結局、韓国で使われていた住所に手紙を送りました。 17通の返事が来て、その手紙を通して初めて日本で父が亡くなったという事実を知ったという方もおられましたよ。 1992年から遺族会ができて、追悼集会を毎年開くことができました。」

―事故現場の近所に追悼碑と追悼広場をつくるのに22年かかった。

「土地を確保するのに大変な困難がありました。 やっと探したのが2009年でした。 二階建て住宅が売りに出されました。 これを壊して2013年、今のような形につくったのです。 私たち関係者が100万円ずつ出したりして、1600万円を集めました。」

―遺骨の発掘が元々の目標ではなかったと知った。

「韓国の遺族たちが1993年から日本でチェサ(法事のこと)をするようになりました。 この時、遺族たちが県庁に、政府に対する要求書を提出しました。 一番重要な項目が〝水没したまま放置された遺骨を故郷の地に奉還しろ”ということでした。 私たちも討論しました。 遺骨を収容(発掘)しようと言ったのは私だけでした。 27人だけの小さな市民団体がこれをやるのは無理だし、目標に掲げたら遺族たちを失望させることになるという意見が強かったです。」

―追悼碑を建てた後、活動が終わるところだったと聞いた。

「私たちとしては、もうすべてやったという気持ちでした。 ところがその後、集会(追悼式)の時に、遺族の方々から〝日本人はこれで運動を止めようというのか、我々は遺骨を収容して故郷に持って帰る時まで闘う”と言っていることを聞きました。 非常に大きな衝撃でした。 追悼式を建てて感謝の言葉を聞くと思っていたからです。 10年以上かけた仕事が大変でなかったというのか‥‥。 その時、山口先生がこのようにおっしゃいました。 『みなさん、これが自分の両親ならばどうしますか? 時間もかかり、お金もかかりますが、この事業を完遂してこそ、この仕事が終わるのではないですか』」

 顔を見たこともない赤の他人でしかも民族も違う朝鮮人犠牲者を「自分の両親」のように思うべきだという考え方は、一般の人にはちょっと理解が難しいでしょう。 しかし差別問題に取り組む活動をしている人には、こういう考え方が受け入れられます。 自分は差別者であると規定して、被差別者に寄り添う人間であろうとすればするほどこの傾向が強くなりますね。

 日韓の歴史問題でも〝私たちは韓国に加害責任を負わねばならない”〝踏んだ側は忘れるが、踏まれた側は忘れない”〝われわれ日本人はただ日本人というだけで韓国に対して原罪を有している”といって韓国側に寄り添おうとする日本人が存在し、韓国から〝良心的”と高い評価を受けています。 そして“自分は他の日本人と違って韓国人の痛みが分かる良心を持っているのだ”という意識になっていきます。

 こういう日本人が〝朝鮮人犠牲者を自分の両親のごとく考えよ!”と言われると、それを受け入れるようになります。 「刻む会」もそういう人たちの集まりのように思われます。 ただ〝両親のごとく考える”というのは〝無限の責任を負う”という意味になりますから、「この事業を完遂してこそ、この仕事が終わる」というのは最後の最後まで責任を持つということでしょう。 私なんかは感心すると同時に、そこまで言って大丈夫なのかな?と思います。

―遺骨を発掘するようになって、大いに注目された。

「長生炭鉱の事故について、日本人たちは何も知らなかったです。 私たちが運動を始めたのも事故から50年後だったのです。 しかし、この運動がここまで来た原動力というか、日本人たちの支えも大きかったです。 遺骸発掘のために四回のクラウドファンディングを実施して7000万円(約6億5000万ウォン)近くのお金を日本の市民たちが出してくれました。 年金生活をしているお年寄りがお金を送ってくれるなど、〝日本人もまだまだ捨てたものではない”という気持ちになりました。 そんな力が一つになったと、すごく感じています。」

 マスコミにも報道されたからでしょうか、寄付を7000万円も集めることができました。 これはすごいと感心します。 ただし3月15日付の毎日新聞記事「長生炭鉱遺骨収容」では「4回のCFで集まった約3700万円を資金として調査を続けてきました」とあり、金額に違いを見せています。https://mainichi.jp/articles/20260315/ddm/005/070/092000c (有料記事です)

 いずれにしても、すごいお金ですね。 拙ブログでは1年半ほど前に、〝歴史問題における日韓市民運動の将来は暗い”と論じたことがあります。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/04/9721593  しかし長生炭鉱を見れば、〝まだまだ元気なんだなあ”と感じました。 ここは私の見通しに誤りがあったと言わざるを得ませんね。

―運動を引っ張ってきて、一番しんどかった点は?

「刻む会内部で意見を集約することでした。 ちゃんとした法律をつくろうという人がいたり、私のように運動で変えていこうという人もいたりして、その差の調整が大変でした。」

―日本の当局者が去る1月30日、初めて現場を訪ねた。 日本政府が遺骸の収拾に協力することに期待しているのか。

「今は考えられません。 今やっとDNA共同鑑定を始めようとする段階まで来ました。 私たちが遺骨を収容して鑑定していけば、韓国にお返しすることができます。 そうなれば、日本政府が関与しないわけにはいかないのです。 遺骨が一体、また一体と返していけば、日本社会に訴える場が広がるでしょう。 今から遺骨がたくさん出てくるのですから、その過程で〝本当に市民だけに任せてもいいのか”〝日本政府は何もしないのか”という世論をつくって、政府を追いつめていきたいのです。」

 〝遺骨を発掘することによって世論を喚起し、政府が関与せざるを得なくなるくらいにまで追い込むのだ”ということですね。 意地悪な言い方で申し訳ないですが、遺骨発掘を反政府闘争の材料にしようとしているのではないかと思ってしまいます。

 何故こんなことを言うのかというと、1970・80年代の私的な思い出ですが、民族差別と闘う運動や部落解放運動などでは自分たちの運動を反政府・反権力闘争に繋げねばならないとして対政府・対行政要求するのを見てきたからです。 彼らの考え方と今度の「刻む会」の主張とが重なって見えます。 これを思い出してしまうのです。        (続く)

長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(1)2026/03/16

 太平洋戦争中の1942年、山口県宇部市沖の海底下で操業していた長生炭鉱で水没事件が起こり、183人(うち136人が朝鮮人)が犠牲となりました。 この事件の歴史を記録し追悼しようと「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(以下「刻む会」)という市民団体が1991年に発足し、2024年より犠牲者の遺骨の発掘作業をしてきました。 これはマスコミに報道されて、広く知られるようになりました。 そして今年の2月7日にこの作業をしていた台湾人潜水夫が事故死するという事件が発生しました。

 この痛ましい事件が起きた二日前の2月5日に韓国の『週刊朝鮮』記者が「刻む会」の代表者にインタビューしていて、そのインタビュー記事が『週刊朝鮮2897号』(2026年2月16日)に掲載されましたので訳してみました。 市民団体の活動の理念や意図が何であり、どのような活動をしてきたのかが分かります。 翻訳文の途中で、私の感想を挟みます。

「刻む会」井上洋子 代表理事 「遺骨から探さねば謝罪も補償も要求できない」 イ・ヨンギュ記者

長生炭鉱の遺骨発掘を主導する人物は、井上洋子「刻む会」代表理事だ。 今年76歳の井上代表は子どもの時から朝鮮人強制労働に関心を有してきた人物として、日本で差別を受けていた在日同胞を助ける市民団体にも関係した。 彼女は自分が暮らす所で起きた惨劇に目を背けることが到底できなかったと打ち明けた。 40年余りの活動の末、遺骸の発掘と奉還を目の前にした井上代表は、韓日間の過去の歴史問題について「すぐにでも謝罪と賠償を受けたいとする人がいるのは分かるが、一歩ずつ進んでいきたいという気持ちを理解してほしい」と語った。 彼女とは去る2月5日、日本の山口県宇部市の現地で会った。

―故郷が山口県ではないと聞いた。

「そうです。 終戦の5年後である1950年生まれで、長野県下伊那郡天龍村という大変貧しい村で生まれました。 近くの天竜川という大きな川に平岡ダムがありましたが、朝鮮人2300人、中国人400人、戦争捕虜400人など、3000人余りの強制労働者で作られたダムでした。 子どもの時、クラスに日本名を使った朝鮮人の子どもたちが何人かいましたが、私は彼らが朝鮮の人であることを知らずに卒業しました。」

 井上さんは1950年生まれですから、小学校時代は1950年代後半~60年代前半です。 とすると、その時その村にいた朝鮮人の生業は何だったのかが気になるところです。 戦争中にダム建設工事に従事していた朝鮮人がそのまま村に残ったのでしょうか。 ダム建設は戦後の1951年まで続いたとされるので、その可能性はあります。 しかし工事が終われば仕事を求めて都会へ流れるものなのに、朝鮮人はその後10年もその村に残っていたことになります。 また元々の村の主たる産業は農業と思われるのですが、工事に従事していたよそ者が農業することは普通は考えられません。 農業以外の仕事に従事していたのでしょうか、それとも何か特別な事情があったのでしょうか。

―当時は自分の故郷が強制動員の現場であったという事実を知らなかった。

「東京での大学時代、友達が『朝鮮人強制連行の記録』という本を貸してくれました。 自分の故郷の名前がそこに出てきました。 私が自慢のように思っていた天龍村が数多くの人々を強制労働させた村だったことを初めて知るようになりました。 山に遺骨がずっと捨てられたままであるという文が書かれていました。 あまりにも大きな衝撃でした。 高校の先生に「なぜ教えてくれなかったのか」という手紙を送ったくらいでした。 後に山口県に引っ越してきて、海に捨てられた遺骨があるって。 私の心の中に抱いていた〝山に捨てられた遺骨”と〝海に捨てられた遺骨”が私の中で一つに繋がったのでした。」

 井上さんは1950年生まれですから、大学時代は1960年代末~1970年代と思われます。 ちょうど全共闘運動が盛んな時期でしたから、多くの学生が左翼へ流れていっていました。 朝鮮問題にも関心が高まっていて、〝朝鮮人は強制連行・強制労働の犠牲者である”というような本がよく読まれていたものです。 彼女もその一人だったようです。 

―若い頃に、在日僑胞の「指紋押捺拒否運動」も応援した。

「犯罪者のような扱いをするのだから、若者たちが集まって指紋を拒否する抵抗運動を始めたのです。 私たち日本人もこれを通じて、言ってみれば〝目を覚ませ、日本人”のような勉強をするようになったのです。 この闘争が政治的に解決した頃、長生炭鉱の悲劇を知るようになりました。 (事実上在日僑胞を狙った政策だった外国人指紋押捺義務制度は1993年に廃止された) 在日朝鮮人の歴史を勉強した際に、近場でこんな悲劇があったことを知るようになり、これを歴史に刻もうという気持ちで始めたのです。」

―日本の代表的な労働組合連盟である「連合(日本労働運動組合総連合会)」の常勤者として長年勤めてきたことが運動のきっかけだったのか。

「30年以上、書記として勤めました。 ところで日本の労働運動は政治・社会の議論には目を向けません。 在日朝鮮人に視線を向ける組合ももちろんありませんでした。 私はそんな組合の風土に疑問を抱いていました。 職場の中ではこんな活動をしていることは一切言わなかったし、言ってもムダな組織でした。 だから60歳で定年を迎えた時、さらに5年働くチャンスもあったのですが、解放されたかったのです。 直ぐにこの運動に専念しました。 そして10年の間、広島から山口を行き来しながら運動しました。」

 井上さんは労働組合の専従書記をしながら、在日朝鮮人問題に関わって指紋押捺問題などに取り組んだというのですから、左翼活動家の典型ですね。 ただ労働組合は社会党系の総評でも1980年代以降に体制内化し左翼運動ではなくなっていったので、彼女のような活動家には「組合の風土に疑問を抱く」ことになったと考えられます。 だからこそ、組合活動と関係ない在日問題に首を突っ込んだということでしょうか。 

 彼女は労働組合の専従をしながら長生炭鉱の問題に関わってこられたのですが、退職してからはこの長生炭鉱問題に専念することになりました。 私もかつて左翼がかっていたので、彼女の経歴は理解できます。 しかし55年以上経った76歳になっても左翼を続けておられるところに、驚きとともに執念を感じますね。 私なんかは1989年の東欧、続けて1991年のソ連の共産主義崩壊で、左翼を離れました。 だからこそ、彼女の経歴に驚嘆するのです。             (続く)

【追記】

 2026年3月15日付けの毎日新聞に、「なるほドリ・ワイド 山口・長生炭鉱遺骨収容」というタイトルの記事が出ています。 ただし有料記事です。https://mainichi.jp/articles/20260315/ddm/005/070/092000c

【関連論稿】

第47題 指紋押捺拒否運動への疑問 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuunanadai

古代から続く伝統的葬法「草墳」(5)2026/03/11

東国新続三綱行実図

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/05/9840035 の続きです。

 古田博司さんの『朝鮮民族を読み解く』という本の中で、「草墳」が触れられているのを見つけました。 李朝時代の「草墳」がどういう状況であったかが書かれています。 参考までに紹介・引用します。 ↑はその93頁にあった挿図で、「草墳に仮庵を設け喪に服す孝子『東国新続三綱行実図』1618年」というキャプションが付けられています。

死ぬと遺体を薦にくるんで、野辺にはこび、あるいは虎や狼の餌食になるのを避けて樹上に放置した。 これを草墳という。

なぜかといえば、そのまま土に埋めると骨が黒く腐ってしまい、霊力が落ちて、子孫に繁栄をもたらさないと信じられていたからである。 乾いてあめ色になった骨が取りたくて放置乾燥したのであった。 この葬法は今日でも、韓国は全羅道の西南海岸部や島嶼などの限られた地域に残っているが、李朝時代は全国的な風習であった。‥‥

さて、人死して、遺体を厳重に薦でくるみ野辺に安置すると、子孫たちは死者を悼んで数日の宴会をした。 これは飲酒肉食の饗宴であった模様である。

約3年後、肉や皮が落ちて遺体が骨だけになると、これを棺桶に入れて初めて埋葬する。 これは今日の韓国では洗骨葬と言っている。 現在の全羅南道西南島嶼部では、入棺のとき、実際に骨を洗い、これをきれいに並べて包むからである。 李朝初期には、このときシャーマンを呼んできて紙銭(これは中国のものと形が異なり、日本神道の御幣のようなものであった)を使って、招魂する。 そして埋葬後、子孫たちはまた大宴会をした。 (以上、古田博司『朝鮮民族を読み解く』ちくま新書 1995年1月 94~95頁)

 「そのまま土に埋めると骨が黒く腐ってしまい、霊力が落ちて、子孫に繁栄をもたらさないと信じられていたからである。 乾いてあめ色になった骨が取りたくて放置乾燥したのであった」というのは、どういう資料に基づいているのか分かりません。 ムーダン(巫堂 무당 朝鮮のシャーマンのこと)からそんな話を聞いたのでしょうか。 或いはひょっとして古田さん独自の考え方かも。

飢饉のひどかった1671年、ソウルの藁葬(薦でくくって野辺に曝した遺体。つまり草墳)は6,969体と報告された。 王朝はこれを役夫と僧軍を派遣して全部埋めさせた。 怨磋の声が巷に満ち、民衆は役夫の袖にすがって哭いたと『実録』にある。 翌年にはソウルにあった藁葬を10里の外に出して、埋め込んだ。 その数3,060体。 このたびは役夫に賄賂をやり、埋葬を遅らせるものも出て来たとある。

民衆はついに、年月をかけてよい埋葬地を選べないと悟ると、王陵に隠れて埋め込むようになった。 権勢のある王様の墓は縁起のよい吉地に決まっているからである。 これを偸葬という。 (以上、同上 99~100頁) 

 『李朝実録』という出典が明記されているので、年代や遺体数といった数字は確かでしょう。 李朝時代半ばですが、草墳がどのような実態だったのか、想像するとちょっと怖いですね。

 最後に出てくる「偸葬(투장)」の「偸」は、「盗」と同じ意味です。 王陵だけでなく、領議政(日本の太政大臣に相当)などの権勢家のお墓でも勝手にこっそり埋葬します。 〝李朝時代の庶民のたくましさ”と言えるかも知れませんね。 これは〝父母は「吉地」に葬ってあげてこそ子孫は繁栄する”という儒教の親孝行思想に基づくそうで、それに加えて土地の排他的私権が確立していなかった時代のために〝墓地は自由に定めることができたから”と考えられます。 〝先祖のお墓は子孫が常時管理しておくべきもので、それを怠れば他人に偸(盗)まれる”ということでしょうが、王様や時の権勢家のお墓に自分の親の墓をつくるとは、ちょっと想像を絶する世界ですね。             (終わり)

古代から続く伝統的葬法「草墳」(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/15/9836684

古代から続く伝統的葬法「草墳」(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/21/9837659

古代から続く伝統的葬法「草墳」(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/27/9838734

古代から続く伝統的葬法「草墳」(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/05/9840035

 

【拙稿参照】

在日の葬送の歴史―火葬の受け入れ(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/22/9832164

在日の葬送の歴史―火葬の受け入れ(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/29/9833521

土葬と火葬            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/27/9310074

京都高麗寺の国際霊園 土葬墓地  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/20/9564102

古代から続く伝統的葬法「草墳」(4)2026/03/05

村山智順『朝鮮の風水』

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/27/9838734 の続きです。

 民俗学者の村山智順は朝鮮総督府の嘱託職員となって朝鮮の民俗を調査し、報告書を執筆します。 総督府から発行された『朝鮮の風水』がそれで、そのなかに「草墳」を報告しています。 ↑はその報告書に掲載された草墳のスケッチ図です(368頁)。 なお村山は報告書本文では草墳とは書かず、「トク葬」「風葬」としています。 

トク葬(덕창) 

朝鮮語の허덕が草屋、仮小屋の意味であるから、このトク葬は小屋葬とでも云うべきものであろう。 これは多くの場合、下賤の人とかまたは遠く故郷から離れておる者が、死者を埋葬する土地もなく、またこれあるも吉地のない場合、或いはやがてその骨になる時を待って、その骨だけを納めて故郷に持参せむとする者が行なう葬法であって、山野の一部に木、竹、萩などを組み立て、または編み合せて小屋をつくり、草をもってその上を葺き、その中に死体を入れた棺を安置し、その骨だけになる時を待って土中に埋めるとか、あるいは故郷に持ち運ぶとか適当の処置をするのである。 (村山智順『朝鮮の風水』朝鮮総督府 昭和6年2月刊 1972年5月復刻 国書刊行会 366頁)

 小屋掛けの草墳は、『朝鮮の風水』の↑の図の最下段に描かれていますね。 またその写真も367頁に「トク葬の一種」というキャプションを付けて掲載されています。 その写真が近年の韓国の論文の中に再掲されていましたので、URLを張り付けておきます。 https://m.blog.naver.com/PostView.naver?isHttpsRedirect=true&blogId=telience92&logNo=221370961497 なお、ここでは草墳の別名である「草殯(초빈)」としています。 

 なお「トク葬(덕창)」という言葉は今の韓国語辞典に採録されておらず、また「葬」は「장」です。 この「トク葬」は現在の全羅南道島嶼部に残っている「草墳」に繋がるものと考えられます。 近年まで残っていた「草墳」はYAHOOで「초분」の画像を検索すれば多く見ることができます。

 村山智順の説明を続けます。

風葬

これは死体を菰包として樹上に置き、樹に縛りつけ、吊るしまたは木架を組みてその上に載せ、木架に横木を渡して水平に吊り、或いはそのまま地上に起きて、その上に草をかけ、人通りなき山野の中に放置するのであるが、これは永久にこうして置くのではなく、その脱肉解骨(骨だけになる)を待って、その骨を他の土中に埋葬するのである。

この風葬をなすものには二つの種類がある。 一つは下賤の身分の者で、死体をそのまま埋葬すべき山を持たない場合、骨になるのを待ってその骨だけを北邱山(死捨山とも見なすべき、誰の墓地とも決まっていない墓地で、貧賤にして私有墓地を定め得ない者または幼少の死人を埋めるところである)に移して埋めるが為であり、

一つは痘瘡とはチフスとかの悪疫で死亡した者の場合である。 この場合には、死体はこれを直ちに埋葬すると疫神の怒りに触れて一層その悪疫が猖獗を極めるので、この死体を供物として疫神に供し、もってその容恕を乞い、他に患者の出でざる為に犠牲に供する意味からのものと、疫病で死亡した者は疫神の祟りで死亡したのだから、疫神の許しを得て、その祟りが解ければ再び甦ることもあるのであろうから、しばらく風葬となし(直ちに埋めないで)一方疫神の祟りを解く祝祷をするものとの二つの動機から致されるのである。 (同上 366~370頁)

 ↑図の上段と中段に、木架に載せたものと樹木に縛り付けたもの、および木に吊るしたものの「風葬」が描かれています。 このうち吊るしたものは前回ブログで紹介した本間九介の『朝鮮雑記』にも出てきますが、本間は子供が亡くなった場合にする葬法としています。 しかし今ここで紹介する村山は、身分の低い者の場合と痘瘡(天然痘)などで病死した場合にこの葬法(樹上に置いたり縛り付けたり吊るしたり)をするとしています。 いずれにしても、今の韓国民俗学では「草墳」の一種とされています。 https://www.hiks.or.kr/HonamHeritage/8/read/1778 

 風葬は植民地時代に総督府が禁止したとされていますが、1931年発行の『朝鮮の風水』で報告されているところを見ると、まだ残っていたようです。 1945年の解放後の韓国では途絶したようで、全く聞きませんね。      (続く) 

古代から続く伝統的葬法「草墳」(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/15/9836684

古代から続く伝統的葬法「草墳」(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/21/9837659

古代から続く伝統的葬法「草墳」(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/27/9838734

古代から続く伝統的葬法「草墳」(3)2026/02/27

本間九介『朝鮮雑記』

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/21/9837659 の続きです。    本間九介なる日本人が明治時代中期の1890年代前半に朝鮮半島を旅行して、その旅行記を1894年に『朝鮮雑記』として出版しました。 その本の中に、朝鮮人の葬礼が報告されており、それに添付されている挿図が↑です。  なおその現代語訳が10年前の2016年に祥伝社より出ており、容易に入手できます。 その「葬礼」の部分を紹介します。

葬礼

葬礼は、すべて儒教の方式にそって行なわれるため、僧侶が厳めしく死者に引導を渡すようなこともないし、葬式に参列することもない。

棺槨(ひつぎ)の制度は、儒礼に基づいている。 親戚や知人がこれをかつぎ、棺のうしろを、麁服(質素な衣服)に身を包んだ喪主が随って、棺の前後を、三・四の灯籠で囲み、「アイゴー、アイゴー」とむせび泣く声をあげ、はかない野辺送りをする。 (以上、本間九介『朝鮮雑記―日本人が見た1894年の李氏朝鮮』祥伝社 平成28年2月 56頁)

 「はかない野辺送り」は土葬ですね。 儒教式ですから、葬式の後で出棺して埋葬地に向かいます。 韓国の葬式は、地方では近年まで基本的にこの儒教式を踏襲していました。 一方現在、ソウル等の都会では韓国ドラマに出てくるように火葬が普及して、遺骨はロッカー式の納骨堂に収められるなど、葬礼はかなり変わってきています。

 「麁服」というのは麻で作られた素朴な喪服と帽子で、薄い黄色をしています。 儒教の教えにより、息子は親の死を悲しむあまり粗末な喪服を着なければならないと言われています。 近年までの韓国の葬式でも、喪主がこの喪服を着ていたようです。 ただし最近韓国から来日した方によると、〝田舎の葬式ならあるだろうが自分は見たことがない”と言っておられました。

幼い子どもが疱瘡で死んだ場合は、その屍を埋めることもなく、俵に盛って、縄で縦横に縛り、これを野外の木の枝にかける。

そのため、三伏(盛夏)の炎天ともなれば、屍は腐乱して、その臭液が地上にしたたり、日中は烏(からす)や鵲(かささぎ)がさわぎ、夕暮れには鴟(とび)や梟(ふくろう)が叫ぶのである。 死者の霊は、寂として知るよしもないであろうが、はなはだ無情といわねばならない。

私はかつて、慶尚道の密陽の市外の栗林で、三個の屍を吊るしてあるのを見たことがある。  (『朝鮮雑記』 57頁)

 遺体を蓆や俵に入れて吊るすという、今ではちょっと信じられないような葬法です。 ↑の図では上段に、カラスがたかっているところまで描かれています。 植民地時代の民俗研究者である村山智順はこの葬法を「風葬」としています。(後述)

 なお今の韓国の民俗学者はこのような遺体を吊るす場合を報告せず、樹木に縛り付ける場合を報告しており、これを「樹葬」と名付けて「草墳」の一種としています。 https://www.hiks.or.kr/HonamHeritage/8/read/1778 

黄海・平安の両道では、屍をすぐに埋葬するという。 しかし、三南(忠清道、全羅道、慶尚道)や京畿道においては、屍を山麓や野外に担いでいき、あえてすぐに埋葬せず、丸木で造った十字架を二・三個並べ、その上に棺を横たえる。 そして藁でこれを覆い、周囲を葦で包み、雨露にさらし、その肉が腐食し、白骨となるのを待ってから、方位を選んで改葬するのである。

そういえば、内地(朝鮮半島内陸部)の村はずれ、山麓や野外で、数個の屍が並んで雨露にさらされているのを見なかったことはなかった。 これこそ、奇俗というものだろう。 (『朝鮮雑記』 57頁)

 「あえてすぐに埋葬せず、丸木で造った十字架を二・三個並べ、その上に棺を横たえる。 そして藁でこれを覆い、周囲を葦で包み」とは、上述の韓国の民俗学論文の中では「木乗葬」「平台葬」と名付けているもので、草墳の一種としています。 『朝鮮雑記』では、藁や葦は腐敗・消滅して、中の遺体が露出していたようです。

 なおこの本では、↑図の下段にあるような小屋掛けの草墳を図示していますが、本文では記していませんね。 上述の韓国の民俗学論文では「築台葬」「樹附葬」としています。 植民地時代の民俗学者村山智順は「トク葬」として報告しています(後述)。  この「築台葬」「樹附葬」が前回紹介した青山島の草墳ですね。       (続く)

古代から続く伝統的葬法「草墳」(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/15/9836684

古代から続く伝統的葬法「草墳」(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/21/9837659

古代から続く伝統的葬法「草墳」(2)2026/02/21

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/15/9836684 の続きです。

 20年ほど前にヒットした韓国ドラマ『春のワルツ』をご存知でしょうか。 その第二話の最初の方に、主人公の男の子が父親と一緒にお祖父さんの墓参りをする場面があります。 そのお墓が「草墳」でした。 舞台は全羅南道の青山島です。 熱心な韓流ファンが『春のワルツ』のロケ地を訪ねたそうですから、ご存知の方はおられるでしょうね。

 この青山島で最近まで残っていた「草墳」の築造過程を記録したユーチューブ映像があります。 https://www.youtube.com/watch?v=SwluibolgFQ この映像のハングルを訳しましたので、「草墳」とはどういうものか、ご理解できるものと思います。 

青山島の草墳 試演(0:00)

草墳はお墓の一種で、青山島を含めた島地域で行なわれてきた葬礼の風習である。 遺体を土に埋めないで、藁などで編んだ藁束で覆って、2~3年後に墓を立てる。 このような葬法は一般的な儒教儀式である葬礼がたった一度の単葬制であるのに対し、二度の埋葬をする複葬制である。(0:04)

・正月や2月に土を触って墓を立てれば、村に憂患(悪い事)が起きる。 ・村に伝染病が流行ったとき、草墳をする。 ・肉がまだ無くなっていない遺体を先祖の墓地に埋めれば、腐った臭いが祖先に漂い、憂患がやって来る。 ・墓は先祖に対する孝を象徴するもので、父母が亡くなって直ぐに埋葬すること不孝だと考えられていた。 ・草墳は真心を込めてつくるので、親の生前にしてくれたことを親孝行としてお返しする道でもあった。(0:11)

 なぜ草墳をつくるのかについて、「肉がまだ無くなっていない遺体を先祖の墓地に埋めれば、腐った臭いが祖先に漂い、憂患がやって来る」 「墓は先祖に対する孝を象徴するもので、父母が亡くなって直ぐに埋葬すること不孝だと考えられていた」ということです。 前者は複葬制=洗骨の説明であり、後者は儒教の影響を受けた説明ですね。

草墳をつくるために、幅50㎝、長さ200㎝ほどの石の土台をつくる。 周辺の土地をよく均してから、石を水平になるように地面に並べる。(0:21)

石の台の上に松の枝をぎっしり敷いて、その上に縄を横に五本、X字に二本を置く。(0:28)

棺を固定するための蓆(むしろ)を敷く。(0:41)

敷いた蓆の上に棺を置く。 この時、棺は足が海の方に、頭が山の方に向かうようにするのが原則だ。(0:45)

蓆を棺の角が斜線になるように切ってやり、左右から畳んで上下に畳む。 下に置いておいた縄を結んで固定させる。(0:53)

雨や風から棺を保護するために、藁束を奇数にして、藁の根の部分が地面に付くように右側に回して編む。(1:09)

藁束の上にヨンマルム(藁束を組んで作った覆い)を置いて、編んでおいた藁束の重心を取って、草墳を固定させるようにする。(1:17)

縄の端を石で結んで、風で飛ばないようにして、ヨンマルムの両側に縄を回して縛り付けて、格子模様に固定させる。(1:25)

家族が別れの挨拶をする。(1:43)

松の枝を地面に向けて編んだ縄の間に挿す。 これは病虫害の予防の役割をし、また家族が墓を参ったことを表示するものである。(1:51)

 このように、「草墳」は棺を藁で覆って小屋掛け状にして遺体を保管するものです。 そして遺体の肉を2~3年かけて削ぎ落として(肉は自然と腐乱してなくなる)骨だけにし、その後にその遺骨をきれいにまとめて棺に入れて埋葬します。

 日本では古代の『古事記』『日本書紀』や中国歴史書の倭国伝などに、人が死ねば「殯(もがり)」をしてから墓に埋葬することが記録されています。 詳しくは「殯(もがり)」を検索してお調べください。 「殯」は死の直後から埋葬までの間に遺体を保管しておくことですから、肉は腐敗して消滅し骨だけが残ることになります。 ですから「殯」が草墳に相当する可能性があります。 また沖縄では「洗骨」した骨を墓に収める慣習があり、この洗骨が草墳に相当するとも考えられます。 とすると「草墳」は遺体から肉を削ぎ落として白骨化させてから埋葬する「複葬」の一種で、「殯」や「洗骨」と同様のものと言えるでしょう。

 以上から考察するに、「草墳」は東アジアに非常に古くから存在した葬法である「複葬」に由来するのではないか、そして日本古代では「殯」だったのではないかという推測が成り立ちます。 それがその後の儒教や仏教の普及によりそれぞれの民族によって葬法が変化していくのですが、韓国や日本の一部の地方に「草墳」「洗骨葬」として残存したことになるでしょう。 ただし、これはあくまで仮説であり、そう考えることもできるということにご留意ください。        (続く)

古代から続く伝統的葬法「草墳」(1)2026/02/15

 以前のブログ https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/22/9832164 で、「草墳については後日に紹介します」と予告しました。 今回はこの「草墳」について、お話します。

 今の韓国では火葬が増えてきて土葬を上回るほどになっていますが、植民地時代にはほとんどが儒教式の土葬であり、火葬は仏教僧侶ぐらいとされていました。 ところがそれ以外に「草墳(초분)」という古代から続く伝統的な葬法があり、李朝時代ではその伝統が全国的に残っていたことはあまり知られていないようです。 植民地時代に抑制されたために「草墳」は減り、全羅南道の島嶼部に残るだけとなりました。 それでは「草墳」とはどういうものなのか、先ずは10年ほど前に刊行された『新版 韓国・朝鮮を知る事典』にある説明を見ていきしょう。

초분(草墳)― 韓国南西部・全羅南道の多島海地方で広く行われていた葬制。 草殯(초빈)などともよばれ、複葬制・洗骨葬の一種と考えられる。 遺体を納めた棺はすぐに埋葬せずに、山林や海岸、耕地の隅などに移し、地面や石、床几などの上に安置する。 上を藁や樹皮などで覆い、1~3年間置いてから、肉の落ちた遺骨を取り出して浄め、正式の墳墓に埋葬する。 類似の葬法は《三国志》魏書東夷伝や《隋書》高句麗伝などにも散見され、朝鮮時代までは全国的に行なわれていたとされるが、全羅南道の南西海岸・島嶼地域では、この地方独特の巫俗とも結びついて遅くまで残り、2000年代に入ってからも、実例が記録・報告されている。 起源については、南方文化の伝播など、いくつかの説がある。 (平凡社『新版 韓国・朝鮮を知る事典』2014年3月 377頁)

 「草墳」は、遺体に藁や草で覆っておいて2・3年ほどかけて肉を削ぎ落として骨だけにし、その遺骨をきれいにして土葬するというものです。 これは日本で刊行された辞典での説明ですので、韓国ではどのように説明されているのか、『韓国民俗大百科事典』 https://folkency.nfm.go.kr/kr/topic/detail/461 を訳してみました。 なおこれには草墳の写真が掲載されていますので、是非URLを開いてご参考ください。

草墳

【定義】 遺体をすぐに土に埋めるのではなく、石や木の上に棺を置いて、藁で作った小屋のような形態の臨時的な墓。

【歴史】 遺体を埋葬する前に臨時に安置する殯葬の一つの形態として、古代社会の時から行なわれたものと推定される。 一部の文献記録に草墳についての記録が見えるが、具体的な事例と痕跡を見つけることは難しい。 朝鮮時代末期と日帝強占期の初期までは全国的によく作られていた。 しかし日帝強占期以降、衛生法の制定と火葬の奨励、および草墳の禁止で徐々に消えていった。 1970年代、セマウル運動の影響でほとんどが消えた。 しかし2000年代の初めまで、西南海地方の一部の島嶼で草墳が作られ続けた。

【内容】 草墳は村の近くの山の麓や畑で作られる。 人が死ねば、遺体を正式に土に埋めるのではなく、入棺した後に石や木の台の上に棺を置いておいて、藁などで覆って作る。 藁などで棺を覆った上に、ヨンマルム(藁束を組んで作った覆い)を覆って草ぶき家の屋根をあげるように縄で組んで縛り、四方の端に石を結んで風で飛ばないようにして仕上げる。 そして松の枝を組んだ囲いを周囲に回して、獣が接近しないようにした。

草墳は毎年藁を交換して補修した。 草墳を作ってから2~3年あるいはそれより長い歳月の後、肉が腐ってなくなっていたら、骨だけ取り上げてきれいに洗ってから、また棺に入れて土に埋める。 すなわち草墳は遺骨を処理する前に身の肉を処理する方法で、洗骨葬の一種である。 また本格的な葬礼を執り行なう前にする殯葬の一種であり、複葬制の遺習である。

草墳を作る理由は、祖先崇拝と関連が深い。 草墳は祖先に対する礼儀を果たすことで、生きている親のように誠意をもって面倒見なければならないと信じ、名節や忌日などの特別な日には草墳に来て祭事を行なう。 このような風習は朝鮮時代末期まで全国的に行なわれた。 しかし1970年代のセマウル運動の一環として草墳が行政的に禁止されると、主に西南海の島嶼地方で維持された。 特に全羅南道の莞島、青山島、麗水の金鰲島・安島・蓋島、高興の羅老島、新安の曾島・都草島・飛禽島、霊光の松耳島、群山の巫女島、扶安の界火島などの全羅道の南海岸と西海岸の島嶼地方に草墳が残っていた。

草墳は、本葬を執り行なう前に長い期間管理せねばならないので厄介であり、経済的に余裕がない人は作るのが難しかった。 草墳の様子は風葬に似ていて混同される場合があるが、違うものだ。 風葬は、それ自体で遺体を処理する完結した儀礼であるが、草墳は本葬を行なう前にやる一次葬の性格を持っていて、根本的に違う。

【特徴および意義】 遺体を土に埋める前に、身の肉を腐らせて骨をきれいにするために、藁などを編んでつくる草ぶきの家の形態の一時的な墓だ。 本葬を執り行なう前に行なう殯葬であり、複葬制の一次葬である。

       (続く)

岩波『世界』の論稿に抜け落ちた資料2026/02/08

 岩波書店の『世界』2026年3月号に、「外国籍職員の採用を廃止?―三重県知事発言を問う」と題する柏尾安希子さんの論稿があります。 このなかで次のような一文がありました。

1972年には大阪市が中国人職員の採用に踏み切り、翌1973年には尼崎市、西宮市など兵庫県の六市一町で国籍条項が撤廃された。 その後、全国でも国籍条項の撤廃を目指す地域がでてきた。 (『世界』1003号 2026年3月 119~120頁)

 これに付け加えますと、実際に翌1974年、在日朝鮮人卒業生が教師たちの推挙で尼崎や川西市などに地方公務員として採用されました。 ところがその翌75年度末、その教師たちが一転して「在日朝鮮人生徒の公務員就職を凍結する」と言い出したのでした。

兵庫県進路指導研究会ニュース1976年3月『新しい出立のために』第18号に、「朝鮮人生徒の進路保障 在日朝鮮人生徒の公務員への就職―当面凍結する意味を進指研で討議―」が発表された。 そこには次のように記されている。

「在日朝鮮人生徒の公務員への就職については、私たちは今後これを凍結する。 在日朝鮮人生徒を公務員として送り込んだ阪神間の高校では、いま、彼らをすみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合いが続けられている。 在日外国人の門戸を開放し、地方公務員として受け入れてきた側の自治体の、民族問題に対する理解がまったくないことがその後明らかになってきており、このままでは在日朝鮮人法的地位に抵触する危険も生じる恐れがある。 また、このことで、私たち日本人が同化に手をかすことがあるとすれば、なおのこと見過ごすわけにはいかない」

「自治体当局ばかりではなく、労働組合もまた(在日に関する知識や認識)に乏しい‥‥公務員のストが禁じられているいま、(外国人公務員が)労働運動をすれば、生命に危険があることすら分かっておらず、在日朝鮮人を日本人の責任で守り切れる保障がない限り、彼らを労働組合に加入させるべきではない」

「(在日朝鮮人生徒の公務員就職は)凍結するが、<国籍条項>撤廃の要請は続ける。 そのわけは私企業が在日朝鮮人、中国人生徒を採用しない口実として、<公務員>も外国籍生徒を採用しないといったようにして就職差別を正当化しようとする風潮が現に存在するからである」  (以上、玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社2021年4月 157~158頁より再引)

 もう少し詳しく言うと、進路指導研究会(進指研)とは公立高校の教師たちの集まりで、生徒らの就職について情報を交換し、時には企業等に働きかける組織でした。 外国人の公務員採用について昔から〝公権力の行使”の点から採用しないことが〝当然の法理”とされてきたのに対し、それは民族差別を正当化するものとして批判し、1973年に阪神間の地方公務員就職について採用条件にある「国籍条項」を撤廃させて、実際に在日朝鮮人子弟を公務員として採用させるという成果を挙げたのでした。 ところがそれが間違いだったとして、在日の公務員就職活動を凍結させるだけでなく、前年度に公務員採用された在日の子を「すみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合い」をしているのだというのです。 まさに〝手のひら返し”です。

 この〝手のひら返し”をさせた人物が金時鐘さんのようです。 彼が兵庫県進指研を動かしたと思われます。 彼は1973年に兵庫県立湊川高校に教師(ただし教員免許がないので、実際は実習助手)として就職しており、当時の日本社会において民族差別問題ですでに大きな影響力を有する人物でした。 その彼の発言を拾いますと、

在日朝鮮人が日本の公務員になることは、日帝時代の夢を彷彿させる。 1945年8月15日まで、朝鮮人の青少年たちの夢は、町村の吏員になることがすべてだった。 いま、日本人化する風潮がつよく、帰化運動を推し進める動きが阪神間で起こっていることを合わせて考えるなら、官吏になることは同化の道行きだ。 言うまでもなく、在日朝鮮人の鉄則は、日本の内政に干渉しないことである。

公務員というなら、朝鮮語を教えることで公務員になっている私の場合のような、知識労働者としての面が開発されるべきだ。 公務員への就職を食えるからとか、金になるからというだけの、市民的権利の拡大だけに短絡させてはいけない。 そのような職場開拓は問題がある。 (以上、兵庫県高校進路指導研究会「在日朝鮮人諸団体の評価」にある金時鐘さんの一文。 金宣吉「歴史をふまえた『異者』との共生」52~53頁より再引)

(植民地時代に朝鮮人が)下っ端というか、木っ端役人ですが、ともあれ行政権力から給料をもらえるということが一番の夢だったのです。 少年の夢として、青少年の描く夢として何と、わびしい限りではありませんか。 (現在の日本で)そのようなことが、在日朝鮮人の労働権の開発という正当な運動の闘い取る遺産の中で、在日世代のさもしい夢として育てられるのでしたら、これは何ともやりきれない話です。 (「民族教育への私見」 『金時鐘コレクション10』藤原書店 2020年6月 204頁)

‥‥そのこと(在日朝鮮人の公務員就職)を凍結するといったことの裏には、初めて兵庫で地方公務員に入ったのは県立尼崎工業高校の卒業生たちでありましたが、その生徒たちの一部に、勤めていっても続かなかった子供がいたという実情があったのです。 ‥‥又は姫路の西播磨地区でも女生徒が一人、やはり地方行政に入っていますが、聞くところによりますと、その生徒は、入ったとたんに日本人らしく振舞っているといいます。 親まで加担したそうだといいます。 朝鮮人の痕跡をなくす側に立っていく。 そういうことがあって、行政側に推挙することを凍結するというふうに兵庫の解放研ではいったのです‥‥ (「民族教育への私見(下)」『朝鮮研究』172号 1977年 -玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社2021年4月 176頁より再引

 民族差別に反対する側である金時鐘さんが、〝在日朝鮮人の子を公務員に就職させてはならない”という主張をしていたのでした。 植民地時代の朝鮮の若者は総督府の吏員となることに憧れて親日派=日帝の手先となり皇民化を推進したという歴史を振り返るならば、現代に在日朝鮮人が日本で公務員になることも同じことだとする考え方です。 朝鮮人は日本人に同化して権力の走狗になっていいのか、ということのようです。

 このたびの三重県の公務員採用に外国人を除外しようとする動きに対し、岩波の『世界』が反対の意見を載せました。 しかしそこには上記の金時鐘さんや兵庫県進指研の主張が全く取り上げられていないことに疑問を感じ、本ブログでこの時の資料を呈示するものです。

 外国人の公務員就職問題は〝当然の法理”で反対する意見もあれば、民族差別と闘う者からの反対意見もあったことは、記憶に留めてほしいものです。

【拙稿参照】

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

第100題「国籍条項撤廃運動」考   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakudai

毎日新聞の創氏改名記事の間違い2026/02/03

 2月1日付けの毎日新聞の「サンデーコラム」に、ソウル支局長の福岡静哉さんが創氏改名の記事を出しています。 https://mainichi.jp/articles/20260201/ddm/007/030/033000c 内容にはかなりの間違いが見られるもので、これはちょっと困ったものと思いました。 そこでここに批判していきたいと思います。 なお有料記事ですので、関心ある方は図書館にでも行ってみてください。 またここで論じるのは、記事の前半部分だけです。

「創氏改名」を拒否して死んだ男

日本は韓国を植民地統治した時代、日本式の名前に変えるよう朝鮮人に強いる「創氏改名」を1940年2月から行った。 先祖伝来の姓を重視する朝鮮半島の人々はどんな思いだったのか、以前から気になっていた。 知人から「創氏改名を拒否し命を絶った人がいた」との話を聞き、一族が住む集落を訪ねた。

韓国南西部・光州からバスで約1時間。 田園が広がる淳昌(スンチャン)郡は「薛(ソル)」姓の人が多い。 この地域の名士として知られた薛鎮永(ジンヨン)は40年5月、創氏改名を拒否し、石を抱えて井戸に身を投げ、70年の生涯を終えた。

「ここが井戸があった場所です」。 一族の取りまとめ役である薛明煥(ミョンファン)さん(81)が案内してくれた。 今は水田の一部で、井戸は残っていない。 

鎮永は若いころ、反日闘争に参加。 晩年は私塾で若者らに漢文を教えた。 井戸の跡地近くには私塾の建物が残る。

鎮永を題材に作家の梶山季之は小説を書いた。 これを原作に韓国で映画が作られ、日本でもジェームス三木が舞台作品をてがけた。

明煥さんは次に自宅を案内してくれて、書庫から古びた書物を取り出した。 「これは1848年に作られた薛氏の『族譜』です」

 「薛鎮永」という人物について付け加えますと、この名前は一族の家系図である『族譜』にある名で、戸籍では「薛鎮昌」です。 号は「南坡」で、上記に出てくる「私塾」は「南坡書室」といいます。

姓、家系図 命懸け

族譜とは、始祖から現在に至る一族の家系図だ。 韓国では多くの一族が所有する。 同じ姓でも、一族の発祥地「本貫」が異なると別の一族になる。 例えば金(キム)氏でも、南東部・慶州をルーツとする「慶州金氏」や、釜山近郊・金海(キメ)が本貫の「金海金氏」などがある。 金海金氏は韓国最大の一族で400万人以上いるとされる。

鎮永の一族は、慶州と淳昌にゆかりがある「慶州・淳昌薛氏」。慶州に首都を置いた新羅(紀元前57~935年)の建国に功のあった豪族を始祖とする、伝統のある家系だという。 一族でつくる「慶州・淳昌薛氏中央大宗会」の名誉会長も務める明煥が力説する。 「韓国人にとって先祖から伝わる姓やそれを証明する族譜は、死ぬほど大切なもの。 鎮永先生はそうした伝統を守るため、命懸けで創氏改名を拒否したのです」

 薛氏の門中(一族のこと)は1940年5月10日に長老たちが集まり、「玉川」と創氏することを決議しました。 しかし鎮永は先祖から受け継ぐ姓や族譜を否定するものだと反対して拒否を貫き、同月19日に井戸に身を投じて自殺しました。 だから記事のタイトルが「『創氏改名』を拒否して死んだ男」となっています。 しかしそもそも創氏改名は姓を否定するものではなく氏を新たに定めることで、姓には変更はありません。 また族譜は私的文書ですから、これも変えることはありません。 ですから姓も族譜も守られるものでした。 鎮永はそれを誤解して自死に至ったのでした。

 その後この薛家の創氏改名はどうなったかですが、亡くなった鎮永の後を継いで戸主となった息子の泰洙が三ヶ月後の8月8日に「玉川」と創氏を届け出て、受理されました。 父の鎮永は文字どおり「命懸け」で創氏改名を拒否したのですが、結局は鎮永の家族は門中の決議に基づいて日本名を届け出たのでした。 創氏改名の届け出は戸主のみの権限で、鎮永は亡くなって代わりに息子が戸主となっていましたから、法的に問題がありません。 息子の「薛泰洙」さんは「玉川泰洙」さんとなり、「薛」という姓は本貫欄に移すという形で戸籍に残ったのでした。 ですから先祖から伝わる「薛」という姓は、戸籍でもって証明することができたのです。

「天皇中心を徹底」

日本が創氏改名を行った背景にあったのが、こうした大規模な氏族集団の強固な結びつきだ。 朝鮮総督の南次郎は当時、創氏改名の目的をこう語っている。 「(朝鮮人を)血族中心主義から脱却させ、国家中心の観念を培養し、天皇を中心とする国体の本義に徹せしめる」

 南次郎朝鮮総督がこのような話を本当にしたのか、調べてみましたが見つかりませんでした。 朝鮮総督府は1940年2月に創氏改名を解説する『氏制度の解説―氏とは何か 氏は如何にして定めるか』という冊子を発行するのですが、そのなかに南次郎総督の談話が出てきます。

(注)「国家中心の観念」「天皇を中心とする国体」は、南総督の言葉にあるとの指摘がありました。 出典はコメント欄をご参照ください。 この部分を削除します。 2026年2月5日 記

氏族集団を解体し、天皇に属する「皇国臣民」を作る意図がうかがえる。 法施行日の2月11日は「日本書記」などで神武天皇が即位したとされる「紀元節」だった。

 ここに「氏族集団を解体し」とあります。 私は30年前に発表し25年前に拙HPに掲載した「創氏改名とは何か」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai で、「創氏改名は男系の血のつながり重視する朝鮮の家族制度を否定し、血のつながりよりも『家』の存続を重視する日本の家族制度を導入しようというものであった。これが分かってくると、血のつながりを示す不変の『姓』ではなく、自分の所属する家を示す『氏』を創れとする創氏改名も、同じ意図からの政策であることが容易に理解できるだろう」と論じました。 私のこの考え方が今度の記事では受け継がれているようです。 しかし創氏改名は上記の薛氏がそうであったように氏族集団である門中で決めることが大半であり、総督府もそれを認めていました。 ですから「氏族集団の解体」の意図があったのかどうか、今は疑問に思います。

 そしてまた記事では「天皇に属する『皇国臣民』を作る意図がうかがえる」ありますが、そこまで言えるのか疑問です。 そもそも1910年の日韓併合により全ての朝鮮人は、法的には「皇国臣民」になったのですがねえ。 また「皇国臣民」という言葉自体に「天皇に属する」という意味が含まれているので、二重表現となっています。

だが日本式の名字に変えた人は3月末までで1.5%にとどまった。 京都大の水野直樹名誉教授の調査によると、公務員や教師、経営者らの割合が高かった。 日本当局との関係から「率先垂範」を求められたとみられる。

そこで総督府が主導し、各地方の役所などを通じて創氏改名を迫る運動を展開する。 制度を強く批判する人を治安維持法違反で逮捕するなど、強制的なものとなっていく。 薛氏の族譜などによると、創氏改名に抵抗した鎮永は「伝統が私の代で絶たれれば、天下の罪人だ」との遺書を残し、命を絶った。

 記事を書いた福岡さんは、創氏改名には「設定創氏」と「法定創氏」の二種類があることを知らないのではないかと思われます。 「設定創氏」は日本名を届け出て氏を新たに設定するもので、もう一方の「法定創氏」はそんな届け出をせずに先祖から受け継いできた姓をそのまま氏とするものです。 前者は日本名となりますが、後者は民族名が残ります。 どっちの創氏を選ぶかは自由でした。 しかし「設定創氏」だけを取り出して、創氏改名は朝鮮人に日本名を強制するものとする俗説が広まっています。 福岡さんもこの俗説を信じておられるようです。

 総督府は当時〝創氏改名は内地人式の名前(日本名)を強制するものではない”と宣伝していましたが、末端の行政機関では設定創氏の届け出率の低さを問題と思ったのでしょうか、住民らに創氏の届け出をかなり強引に勧めたようです。 これが日本名を強制されたように受け取られて、創氏改名の誤解につながったと考えられます。

 薛鎮永がもし自殺せずに生き残りさらに役場に創氏の届け出もせずに放置していたら、戸籍の事項欄に「氏の届出を為さざるに因り、昭和十五年八月十一日、薛を氏とする」という旨が記載され、戸主の「薛鎮昌」と息子の「薛泰洙」という民族名は変更されずにそのまま残ったはずなのですがねえ。 なお上述したように「薛鎮永」は族譜上の名前で、戸籍上の名前は「薛鎮昌」でした。

 

【創氏改名に関する拙稿】

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423913

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/30/8425667

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/01/8436928

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (4)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441238

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (5)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444253

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447420

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/09/8451992

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457633

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (9)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478676

朝鮮人戦死者の表彰記事―1944年  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716160

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (11)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/11/9346012

創氏改名とは何か (00年4月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai

創氏改名の残滓 (01年6月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai

創氏改名の手続き(04年10月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai

創氏改名の誤解―「世界史の窓」  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421515

朝鮮名での設定創氏が可能な場合 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596

宮田節子の創氏改名論      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557

石破茂さんのデタラメ創氏改名論  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/06/9161642

朝鮮名での設定創氏が可能な場合  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596

金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/03/9779836

尹東柱の創氏改名―ウィキペディアの間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/11/8939110

尹東柱の創氏改名記事への疑問   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954

「尹東柱」記事の間違い―中央日報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/17/9464967