金時鐘氏への疑問(10)―北朝鮮批判と擁護代弁2025/05/14

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295 の続きです。

⑮	北朝鮮を批判しながらも擁護し代弁

 金時鐘さんは早い時期から北朝鮮に対し批判的だったといいます。

その頃(1955年)から、僕の北朝鮮への敬慕にも、北朝鮮への憧れにも、黒い雲がかかっていきました。 ‥‥ 僕も1960年代初頭までは金日成将軍の神格化に見るような国家体制には疑問をもちつつ (金時鐘・佐高信『「在日」を生きる―ある詩人の闘争史』集英社新書 2018年1月 94頁)

金日成の『パルチザン回想記』というのを朝から晩まで勉強させられ‥‥ 幼児以外信じないようなストーリーを作り上げて、こういう虚偽を押し立てて組織活動すること‥‥ そういう形で作られた共和国に対して、その虚偽というのは早くから覚った。 虚像ではなくて、これはもう虚偽だということを。 (金時鐘『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 166頁)

たくさんの挫折をへて生きとおすのが人生だが、ぼくの大きな挫折は北と金日成の実相を知ることだった。 総連組織の官僚主義もわかったし。 ‥‥ 当時のぼくは北の共和国は正義の最たるもので、それを信じ切って4・3事件から生き延びたのに、北の実態を知るにおよび‥‥ (『在日一世の記憶』集英社新書 2008年10月 574頁)

 金時鐘さんはこのように北朝鮮に対して「疑問をもちつつ」「もう虚偽だ」「実態を知るにおよび」と大きな違和感を抱き始め、1950年代の後半に朝鮮総連の権威主義・官僚主義を批判したために、北朝鮮・総連から「民族虚無主義」「民族反逆者」「思想悪のサンプル」などと糾弾されました。 

 彼はそれ以降も北朝鮮に対して厳しく批判しています。

私はあの北の特異すぎる政治体制を、生理悪寒と言っていいほど好きではありません。 (『わが生と詩』 15頁)

北共和国のあの、世界に類をみない絶対君主制の体制 (同上 170頁)

「将軍さま」を称えてきた北共和国の尊崇者たちの志の低さ、人としての卑しさ (同上174頁)

北は一族主権体制だけれど‥‥ 北朝鮮の国民は神がかり的な金王朝体制、それを純血継承と言わされていますが、その絶大な権威がなくては国家は成り立たないと、信じ込むまでに至っています。 (『「在日」を生きる』 161頁)

一族王権の閉鎖的な北朝鮮 (同上 176頁)

 

 ところがこのように北朝鮮を厳しく批判してきた金時鐘さんが、今世紀になって北朝鮮を擁護し代弁する発言をします。

核の問題だけは北朝鮮に理がある (『「在日」を生きる』集英社新書 2018年1月 160頁)

まかり間違えば、水爆のきのこ雲が極東の空の一角を覆うかも知れない。 そのただ中に日本も存在している‥‥ 好き嫌いを先立てず‥‥日本には話し合いの糸口をつける有効なカードが手許にある (同上 162頁)

ありていに言って、こと核の問題に関する限り、北朝鮮に道理があります。 金日成主席の生存時から、北朝鮮はアメリカに対して、朝鮮戦争の休戦協定を平和協定に締結し直そうと、ずっと提起してきました。 そうなれば北朝鮮が核を持つ理由がなくなる、とも言い続けています。 金日成から金正日に代わったときも同じことを言ってきたし、今の金正恩も、話し合いをするなら私たちも核の問題を考える、それはお祖父様の遺言だとも言っています。 (同上 162~163頁)

 金時鐘さんは一方では「生理的悪寒と言っていい‥‥世界に類をみない絶対君主制の体制」「一族主権体制‥‥神がかり的な金王朝体制‥‥純血継承」などと批判しておきながら、そんな国の三代世襲支配者の言うことを信じているというのが不思議ですね。 「お祖父様の遺言」云々を最初読んだ時は皮肉と思ったのですが、前後の文脈からそうではなく、本当に信じておられるようです。

北朝鮮からすると、米韓合同の大軍事演習が、あの敏感な軍事境界線ぎりぎりのところで砲煙を噴き上げてきたのです。‥‥挑発はむしろアメリカ側がしている‥‥ 北朝鮮が全身ハリネズミのようになって身構えるのは無理からぬことですよ。 だから核の問題を言うなら、北朝鮮側からの平和協定の提案がアメリカに対してあるということ、そして北朝鮮の提案をアメリカにつなぎ得る最も有効な存在が日本であることを踏まえて、北朝鮮の“脅威”に対処すべきです。 (同上 163~164頁)

もしも日本やアメリカが、北朝鮮の体制を物理的な方法で潰そうとしたら、北朝鮮を壊滅させるのはたやすいことかもしれない。 しかし北朝鮮はひとりでは死にませんよ。 必ず日本を道連れにする。 岩国あたり、日本海寄りの原子力発電所、横須賀の米軍基地は当然狙われる。 北朝鮮が水爆を保持しているのは、冷厳なる事実ですから。 (同上 165頁)

北朝鮮は腹を括(くく)っている。 自分らだけで死ぬはずがない。 絶対に日本を道連れにしますよ。 彼らの思いのなかでは、日本との抗争状態、決着を見ない植民地支配はまだ続いているんです。 (同上 166頁)

 金さんの「核の問題に関する限り北朝鮮に道理がある」という北朝鮮擁護の発言は、1960年代に革新・左翼系の人たちが〝アメリカの核は戦争のための汚い核、ソ連の核は平和のためのきれいな核”と言っていたのと同じ発想で、核廃絶の理念に反するものです。 ですから一般には理解されないでしょう。 「生理悪寒」を感じるような「神がかり的な金王朝体制」が核兵器を開発し所有しているというのは、脅威そのものです。 しかもそれは「絶対に日本を道連れにする」くらいの脅威なのです。

 しかし金さんは北朝鮮にはそんな脅威はないと言います。

「北朝鮮の脅威」を挙げるガセネタ (『在日一世の記憶』集英社新書 577頁)

そして北朝鮮に対抗するのではなく、日本の方から国交を提言せよと主張します。

北朝鮮との間でまず国交正常化の話をしようと、日本から提言すべきです。 (『「在日」を生きる』 165頁)

 これは要するに、〝北朝鮮はこれほど威嚇しているのだから日本は恐れおののいて北朝鮮の言うことを聞き、どうしたらいいでしょうかとお伺いして、国交を結べ”と主張していることになります。 別に言えば〝日本は北朝鮮という悪魔に土下座しつつ擦り寄り屈従したら、北朝鮮は国交を結んでくれる”ということです。 彼は「一族王権の閉鎖的な」北朝鮮の代弁者になったと言うほかありません。

 金時鐘さんは古くから北朝鮮を厳しく論難してきたのですが、結局は擁護・代弁しました。 この心情がなかなか理解できないところです。 金さんにとって北朝鮮は「正義の象徴」「正義の拠りどころ」(『朝鮮と日本に生きる』268頁)だった気持ちが残っていて、今なお「生理的悪寒の神がかり的金王朝体制」に魅せられているのかも知れません。 似た例を探すなら、オウム真理教の元信者が決別したと宣言してもなお麻原に魅かれる姿ですねえ。       (続く)

【参照】

 金さんが北朝鮮を擁護し代弁する発言していることについて、以前にも拙ブログで論じたことがあります。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/23/9653071  ご笑読くだされば幸い。

金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認2025/05/09

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477 の続きです。

⑭	「韓国」建国選挙を否定しながら、「北朝鮮」建国選挙は容認

 1948年は「大韓民国(韓国)」を建国するための選挙と「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」を建国するための選挙、この二つの選挙が実施されました。 言い換えれば、南北を分断する選挙が「南」と「北」で行われたのです。

 まずは「韓国」建国に至る経過を簡単に記しますと、

・1948年2月:   国連は全朝鮮での選挙を企図したが、ソ連の占領下にある北朝鮮への立ち入りを拒否されたので、南朝鮮での単独選挙を決議。

・同年3月1日:   5月10日に選挙実施と公告。

・同年3月15日:  南朝鮮労働党(南労党)済州島委員会は選挙を阻止するために4月3日に武装蜂起すると決定。

・同年4月3日:   武装蜂起(4・3事件)勃発。

・同年5月10日:   選挙実施。 ただし南朝鮮のなかで済州島の北済州郡だけが選挙無効となる。

・同年5月31日:   制憲国会を開く。

・同年7月29日~:  第二次世界大戦後初のロンドン五輪に朝鮮代表として出場。 直後に建国される「韓国」が国際的に承認されたことになる。

・同年8月15日:   「大韓民国」樹立を宣言。 李承晩が初代大統領となる。

 国連は当初は朝鮮全土で選挙を実施するつもりが北朝鮮側から拒否され、南朝鮮だけでの単独選挙となりました。 そして金時鐘さんは南労党の党員としてこの単独選挙に反対する4・3事件に参加し、済州島の北済州郡での選挙を無効とすることに成功しました。 (なお翌年5月に再選挙が実施されたので、結果的に「成功」とは言えません)

 

 ところが金時鐘さんは同時に進められていた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国の選挙について、全くと言っていいほどに言及していません。 「北朝鮮」建国に至る経過を簡単に記しますと、

・1948年5月:     民族統一政府樹立のために朝鮮全土で選挙すると決定。

・同年7月:      南朝鮮のなかの南労党支配地域で、「人民代表者会議」の代表者を選ぶ地下(秘密)選挙を実施。 済州島でも同様に実施され、金達三ら南労党幹部が選出される。

・同年8月初~中旬:  選ばれた代表者が南朝鮮を抜け出し、北朝鮮へ行く。 済州島からも金達三ら6人が向かった。

・同年8月21~26日: 北朝鮮の黄海道海州で「南朝鮮人民代表者会議」が開かれる。 金達三は済州島における4・3事件の戦果を報告。 この代表者会議で「最高人民会議」代議員を選ぶ。

・同年9月2日~:   平壌で「最高人民会議」を開き、新政府の樹立と政府要員を決定。

・同年9月8日:    朝鮮民主主義人民共和国憲法を制定・

・同年9月9日:    「朝鮮民主主義人民共和国」建国を宣言。 金日成が首相に就任。

 このように当初は朝鮮全土での選挙を目指したのですが、南朝鮮では米軍政下にあって全面的に実施できず、南労党支配下のごく狭い地域に限っての地下(秘密)選挙となりました。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国のための選挙は以上のような経過であり、金時鐘さんがおられた済州島でも地下選挙を実施するなど、北朝鮮の建国過程に沿っていたことが分かります。 

 なお金時鐘さんの岩波新書『朝鮮と日本に生きる』によれば、彼は1948年5月末に起きた中央郵便局火炎瓶襲撃事件に関わって警察に追跡され、知り合いの協力で逃亡し、米軍基地内の兵舎に9月末まで潜伏していたといいます。(225~227頁) このためか7月の地下選挙に関わらなかったようですが、

月に2度くらいは、厳戒の街のなかを連絡を取りに、指定場所の〝定点”と道立病院にK君のジープで出向くこともできました (227頁)

とあるように、南労党との連絡は保っていました。 そもそも南労党員なのですから、地下選挙については知らされていたはずです。

 ところで金時鐘さんの著作では、南の単独選挙阻止のための4・3事件について詳しく書いておられますが、「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」建国のための地下選挙については全くと言っていいほどに触れておられません。 つまりあの時、祖国の分断をもたらす選挙が「南」だけでなく「北」でも行なわれ、南では「北」の選挙に合わせて地下選挙まで実施されたのに、彼は「南」の単独選挙だけを取り上げて、身近で行なわれていた「北」の地下選挙には黙っておられるのです。 少なくとも南労党員として党と連絡を取っていたのですから、地下選挙の情報はあったはずなのですが‥‥。 書かれて当然のものが書かれていないとなると、何故なのか?と疑問となります。

 どちらの選挙も当初は朝鮮全土で実施するつもりだったのものが、それぞれの事情により不完全な選挙となり、祖国が分断されたまま二つの国家が成立したのでした。 金さんは「南」による分断選挙に否定する考えを今でも維持しておられますが、もう一方の「北」による選挙について何も語らないところをみると、その裏に何かがあるのではないか?という疑問を抱きます。        (続く)

 「北朝鮮」建国と南朝鮮地下選挙に関しては、下記の拙ブログをご参考ください。

朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056 

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国日は本当か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/10/9723031 

 

【追記】

 南労党指導者の朴憲泳は、南朝鮮の現地南労党員からの〝南朝鮮の全域で地下選挙が実施された”という報告を受けて、これを金日成とスチコフ(北朝鮮駐屯ソ連軍司令官)に伝えました。 この最終報告書には実施率77.52%と信じられないような数字が出ています。 南労党員たちは成果があったように捏造の報告をしたものと思われます。 済州島ではさらに高い85 %の投票率だったといいますが、これも信じていいものかどうか‥‥。 ただ権力側は鎮圧する際に地下選挙の投票用紙等を押収しており、それによればほとんどが白紙の委任投票で、民主的な選挙とは言い難かったようです。

 南北分断の元となったのは、「南」の単独選挙と「北」の選挙の二つの選挙でした。 金時鐘さんは「南」の単独選挙だけが分断の元凶のように語っておられますが、「北」の選挙もまた分断の元凶だったのです。

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477

「朝鮮部落」を探訪したユーチューブ動画2025/05/04

 「ふじわらのみい」という若い女性の方が発信するユーチューブに、「まだ人が住んでる在日コリアン集落に行ってみたら衝撃な光景が」と題する動画がありました。 https://www.youtube.com/watch?v=MlluQUdGgY8&t=1099s 

 岡山のある「朝鮮部落」を探訪したものですが、在日に知り合いもいない日本人がこういった場所を単に興味本位で見て回るのはどうかと思います。 そこの住民や周囲の人たちは、おそらくはその存在自体を恥と考えて公開されたくないと考えているでしょうから。 在日の歴史と生活について勉強して、できればその部落の出身者と知り合いになって一緒に歴史記録を残すという考え方というかスタンスを持ってほしかったですね。 

 しかしそれはともかく、かつて日本の各地にはこういった「朝鮮部落」が散在し、今もその痕跡が残っているという記録は貴重なものです。 ユーチューブでは他にも各地の「朝鮮部落」を探訪する映像が時々出てきますね。 またちょっと古くなりますが、1960年前後の北朝鮮帰国運動のニュース映像に「朝鮮部落」が出てきます。 内容は、朝鮮人たちは日本でこれほど劣悪な生活をせざるを得ず、だからこそ祖国の北朝鮮に帰って幸せに暮らそうと考えている、というものでした。

 近代日本の経済発展の陰で貧民層が醸成され、都市や近郊、時には農村地帯にもスラムが形成されました。 「朝鮮部落」はその一つです。 何十年か前まではそこに朝鮮総連の分会があって、それを中心に住民の朝鮮人たちが助け合って生活する場合が多かったです。 今はおそらく総連分会はなくなり、若者は部落から出ていったきり帰って来ず、長年住み慣れた家を維持できなくなりつつあるようです。 不法占拠して建てた不法住宅の集合ですから仕方ないのですが、その歴史の記録だけでも残してくれればいいと思っています。 在日の歴史の本はいくつかありますが、それは〝民族受難とそれに対する闘い”に終始する歴史で、「朝鮮部落」のような日常生活に関心が向かないのは残念ですね。

 「朝鮮部落」について拙ブログでは下記のように取り上げたことがありますので、ユーチューブを見る際に参考にしていただければ幸甚。

「朝鮮部落」の思い出(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262

「朝鮮部落」の思い出(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331

神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772

小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502

【追記】

 ユーチューブで、「コリアン集落」などで検索すると、「朝鮮部落」を撮影した動画が出てきます。

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団2025/05/02

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478 の続きです。

⑬	 金時鐘さんの父親は西北青年団と親しかった

 4・3事件の前後、反共右翼団体の「西北青年団」はかなりの横暴を働いたようで、評判が極めて悪いですねえ。 金時鐘さんは次のように記します。

済州島4・3事件の前章に位する極右団体、「西青」(西北青年団)の横暴きわまりない〝アカ狩り”テロ‥‥ (北朝鮮からの)越南者のほとんどが反共主義の権化となって警察や右翼団体の先頭に立ち、済州島にも支部を作って島民への迫害をほしいままにしました。 (『朝鮮と日本を生きる』岩波新書 126・27頁)

(米軍政は)専ら共産党とその同調者を「策出」する治安維持の総責任者に、極め付きの趙炳玉を当てたのです。‥‥ その一方で「民間突撃隊」と恐れられた大韓民族青年団(族青)、西北青年団(西青)、大同青年会(大青)を育成、後押しをして左翼の集会になぐりこみをかけ、ピケラインを襲ってスト破りをし、白色テロを日常茶飯事のようにはびこらせました。 (同上 136・137頁)

反共が身上の極右団体が大々的に台頭したのも、半年ほど前の夏ごろ(1946年)からです。‥‥(11月には)北朝鮮を追われた人たちが若者らによる「西北青年団」を結成しました。‥‥ 金日成社会主義体制への怨嗟を梃子に超過激な反共の突撃隊をもって任じた社会団体が西北青年団です。 支部結成時はまだ小さな団体でしたが、日を追って続々と本土から移入してきて傍若無人な振る舞いを常套化していきました。 ゆすりたかりから難癖をつけての暴力沙汰は日常茶飯事の出来事で、職務規定など持ち合わせない彼らは、警官すらできないことを平気でやってのけました。 (同上 158・159頁)

済州島を「アカの島」と決めてかかっているべロス軍政長官と、極右の性向をむしろひけらかしてやまない柳海辰知事とが相俟って、西北青年団、大韓青年団等の右翼勢力がより強化され、白色テロが白昼堂々横行するまでになりました。 言いがかりを付けられたが最後、誰もが「赤(パルゲンイ)」にされて半死半生の目に遭いました。 とりわけ西青(西北青年団)の横暴ぶりは目に余るものがありました。 (同上 180~181頁)

 ところが金時鐘さんの父親は、この暴虐な西北青年団と親しくしていました。

父は西北青年団済州島支部のみぎり、顧問就任を要請されていながら体調を理由に辞退したことがありました。 邑内には当時北朝鮮出身者は父ひとりだったようで、私と同年輩ぐらいの西北の青年たちが何かにつけ、食事によばれにちょくちょく家にやってきていました。 (同上 173~174頁)

ぼくの家が北出身だからか、西北会の若い青年たちがその日暮らしが出来なくて、よく家に来てたんですよ。 (金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか』 平凡社 79頁)

 父親は西北青年団とかなりの親交があったようで、「顧問就任を要請され」たり、「西北の青年たちが何かにつけ、食事によばれにちょくちょく家にやってくる」ほどでした。 息子が共産主義者(南労党員)でありながら、一方では反共極右の青年たちと親しくしていたというのですから、心穏やかでなかっただろうなあと想像します。 そして父親は、息子のためにその西北青年団に頼みごとをします。

(1947年3月ゼネストに関連して金時鐘さんが逮捕)私も検挙されて2週間に及ぶ留置場体験を生まれて初めて味わいました。‥‥私は通院加療中の患者であるとの証明と、職務に忠実な教員養成所の嘱託であったことが幸いして、特例の形で釈放されました。 正直に申しますと、北朝鮮出身の父のつてで、西北青年団の口利きがあったことも、あとでうしろめたく知りました。 ‥‥ 西北青年団と父の関係をくどくど問いただしてきました (『朝鮮と日本を生きる』岩波新書 170~171・173頁)

(釈放後)母は眼が落ちくぼんでいたほど憔悴していて、父は以前にも増して無口になっていましたが、私の党活動について意見がましいことは何ひとつ口にしませんでした。 ただ「お母さんを心配させるな」とは、そっぽを向いての直言でした。 (同上 181頁)

 金時鐘さんは警察に逮捕された時、「職務に忠実な教員養成所の嘱託」だったから釈放されたと思っていたら、実は違っていました。 父親が西北青年団の知り合いを使って、「特例で釈放」されたのです。 父親は息子の共産主義活動を黙認し、息子が逮捕された時にその息子と対立関係にある極右団体に「口利き」を頼んだのでした。 だから金さんは、「うしろめたく」なったというわけです。

 また金時鐘さん自身が家に来る西北青年会の若者と話を交わして、彼らへの同情を語っていました。

その話を聞くのよ。 なぜ北を離れてきたということをね。 ‥‥ あやまって米軍政のお先棒を担ぐ暴力団のような奴らだと思っていたけど、個別的に会うと悲哀もあるし、流離、故郷を離れたもののかげりもあるわけよね。 ‥‥ 個別的に知っている若い何人かの思い出を考えると、悲哀、憂いもただよってくるのよ。 (『なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか』 平凡社 79頁)

 金時鐘の父親が西北青年団と親交があったことや、また金さん自身がその青年団の若者と親しく話をしていたことは、上述のように著書でわずかに触れているだけです。 青年団を激しく糾弾調に非難しながら、一方ではその青年団に同情を寄せるような一文を書く‥‥ この落差をどう理解したらいいのでしょうか。 金さんは4・3事件について各地で講演をしておられますが、このことに言及しないようです。           (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)2025/04/28

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375 の続きです。

⑫	4・3事件の一面しか語らない

 4・3事件がどういうものだったのか、金時鐘さんは『朝鮮と日本を生きる』(岩波新書 2015年2月)に詳しく書いておられます。 ただし彼は共産主義者(南労党員)でしたから、書かれている内容は武装蜂起を肯定する立場からの記述です。 また彼の講演でもこの立場で語っておられます。 そのためでしょうか、事件は〝島民らが祖国の分断に反対するためにやむにやまれず立ち上がった”というようなイメージになっています。 それは〝善”は蜂起した「南労党」「島民」であり、〝悪”はこれを過酷に弾圧した「米軍政」「軍警察」と単純に二分化するものです。 しかしそれでは事件の真相が見えてこないと考えます。

 金時鐘さんは著書『朝鮮と日本を生きる』で、4・3事件が自分の身内に及ぼした殺人亊件を語っています。 まずは身内の南労党員が軍・警によって殺害された事件です。

狂乱の虐殺はついに、私の身近な従姉の夫にまで及んできました。 惨殺された屍体をまじまじと見たのは、この時が初めてです。 ‥‥日本から引き揚げてきてまだ3年も経たない、高南杓という実直な40がらみの男でした。 (220頁)

 次に金時鐘さんが4・3事件に関与して警察から逃げ回り、叔父の家で匿われていた時、その叔父が南労党によって殺害されました。

かくまってくれた叔父貴(母方の)があろうことか、武装隊(遊撃隊)の手によって殺されてしまうのです。‥‥ 区長の家ですので‥警察の上役あたりがしょっちゅう出入りします。 そのつどちょっとした酒食をもてなしてもいたようです。  それが武装隊には討伐隊(軍・警)に肩入れしているように見えたのでしょう。‥‥ 明け方に襲ってきた武装隊に腹部を二ヶ所も竹槍で刺された叔父貴は、腸をはみださせたまま裏の石垣をよじのぼって裏の小道に落ちました。 それでもすぐには死ななくて、七転八倒の苦しみが3日も続きました。 (228~229頁)

 以上のように、金さんの身内のうち従姉の夫が南労党、叔父が警察関係者として、この二人が犠牲になったわけです。 

 ところで大部分の身内の方は、南労党とか警察とかの関係者を抱えながら、普段はそんなことと関係なく過ごしてきていたでしょう。 特に女性たちはなぜ彼らが殺し合うほどに対立せねばならないのか、理解できなかったはずです。 しかし身内の中にそういう人たちがいて、どちらも惨殺されるのをただ見るしかなかったのです。 その時、金時鐘さんもまた南労党員として逃げ回っていて、周囲の身内は彼を匿わざるを得ませんでした。 そして自分たちもいつ巻き込まれて殺されるかも知れなかったのです。

 朝鮮民族はよく知られている通り家族・宗族の絆が強く、祖父母・父母・伯父・伯母等々の本家分家一族が数十人単位、遠い親戚を含めると「八寸=八親等」ですから数百人となるかも知れない、そんな血縁共同体を形成しているのが一般的でした。 4・3事件の当時、この大家族共同体=身内のなかで、ある青年は南労党に入り、別のある青年は警官になり、地元の有力者である家長は選挙管理人になり‥‥。 こういった身内がテロの対象になって、自分たちもそのテロに巻き込まれていくのでした。

 ここまできて、金時鐘さんが語る「4・3事件」は共産主義者(南労党員)の立場から語っているもので、そんなものとは関係ない〝身内から見た事件”というものが語られていないことに気付きました。 それは、殺し合いをしている南労党と軍・警の両方が身内にいるという中で、ただひたすら右往左往するしかなかった身内のことです。 南労党による「赤色テロ」も軍・警による「白色テロ」も、どちらも家族をも対象にしていたのです。

 金時鐘さんが語る4・3事件は、事件の一面にしか過ぎないものです。 事件から76年も経ったのですから、今は冷静になって、周囲や相手の立場も踏まえた上で事件の説明をしてほしいと思うのですが‥‥。         (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

 

【4・3事件に関する拙稿】

世に出ている4・3事件の説明は権力側による白色テロばかりがクローズアップされているのに疑問を感じて、下記のように反権力の南労党側による赤色テロを取り上げました。 赤色テロの残酷さに言及する人があまりにも少ないと思えたからです。

残虐非道な殺害は権力側の白色テロだけでなく、反権力側の赤色テロにもありました。 何万人もの島民が犠牲となった責任は権力側だけでなく、反権力側にもあります。 下記拙ブログをお読みいただければ幸い。

済州島4・3事件の赤色テロ(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890

済州島4・3事件の赤色テロ(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/18/8896622

済州島4・3事件の赤色テロ(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/23/8900976

済州島4・3事件の赤色テロ(4)-警官家族へのテロ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/30/8906338

済州島4・3事件の赤色テロ(5)―右翼家族へのテロ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/05/8909472

済州島4・3事件の赤色テロ(6)―評価は公平に http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/10/8912907

4・3事件-南労党を隠ぺいする読売解説 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/11/19/9000560

4・3事件 南労党を隠ぺいする毎日新聞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/02/29/9218957

南労党を隠ぺいする韓国マスコミ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/04/04/9055271

4・3事件―ハンギョレ新聞も南労党を隠ぺい https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/03/9537878

韓国映画『チスル』      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/01/7332806

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)2025/04/23

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221 の続きです。

⑩	4・3事件で蜂起した南労党の軍事力

 4・3事件はどのように始まったのでしょうか。 金時鐘さんは次のように言います。

遊撃隊のみすぼらしいいでたちも目に焼きついて離れません。 捕えられて処刑された遊撃隊員は、誰彼なしにだぶだぶのパジを膝下までくくった屍体でした。 せめて戦闘服くらい着せてやりたい素朴な勇士たちでした。 竹やり、鎌、鉈で闘った、一揆の範囲をでない〝暴徒”たちです。 これを共産暴動と強弁して殲滅を図ったのですね。 米軍政の横暴と単独選挙に反対して、止むにやまれず立ち上がった農村の青年たちです。 (『金時鐘コレクション11』藤原書店 317~318頁)

 これにはビックリ。 世間では「島民の蜂起」なんていう言葉が広まっているからでしょうか、〝一般島民が怒りのあまり身近にあった武器で立ち上がった”というようなイメージがあるようです。 金時鐘さんも「止むにやまれず立ち上がった農村の青年たち」のように、そのイメージで語っておられます。 事件の当事者だから事実であるかのように思えますが、実は全く違うものです。

 南朝鮮労働党(南労党)は1948年3月15日に武装蜂起を決定し、準備した上で、4月3日を期して警察や右翼人士宅等への奇襲攻撃を始めました。 つまり4・3事件は先ずは南労党が仕掛けたものでした。 島民が「止むにやまれず立ち上がった」のではなく、武装蜂起し暴力闘争を展開した南労党に多くの島民が同調・協力したのです。 それでは武装闘争を始めた南労党の軍事組織である遊撃隊は、どれほどの武力を持っていたのでしょうか。

 軍・警(権力側)は南労党(反権力側)を鎮圧していく過程で、南労党の文書資料を押収していきます。 これを「鹵獲文書」といいます。 その文書によれば、南労党は自分たちの武力がどれほどか、ちゃんと数えて記録していました。 玄吉彦『島の反乱』という本では、この鹵獲文書から次のように記しています。

> 最初(4月3日)に整備された組織は遊撃隊100名、それを補助する自衛隊200名、特殊な目的を遂行する独警隊20名など、総計320名で構成されていた。 武器は九九式小銃27丁、拳銃3丁、手榴弾(ダイナマイト)25発、煙幕弾7発で、その他は竹槍しかなかった。 (玄吉彦『島の反乱、1948年4月3日 済州4・3事件の真相』同時代社 2016年4月 44頁)

 4月3日、遊撃隊はこの軍事力で警察支署12ヵ所と右翼宅等を襲撃し、警察官4人、右翼人士等の民間人8人(うち2人は女児)を殺害し、これに対して遊撃隊の死者は2人にとどまりました。 そしてその後、遊撃隊は軍事力の増強を図ります。

> 第五次の組織整備は6月18日に着手し、7月15日に完了した。 その時の兵力は、各級指導部35名、通信隊34名、遊撃隊120名、特務隊312名で、総計501名だった。‥‥ MI小銃6丁、カービン小銃19丁、九九式小銃117丁、四四式4丁、30年式2丁、総計147丁の小銃があった。‥‥ 弾丸としては、MI弾丸が1396発、カービン1912発、九九式3711発、四四式721発など総計7740発で、軽機関銃1丁、擲弾筒2門、手榴弾43発、ダイナマイト69発、信号弾2個、軍刀16丁、拳銃は6連発1丁、8連発6丁、10連発1丁で総計8丁だった。  (玄吉彦『島の反乱』同時代社 44頁)

 わずか3ヶ月余りで、これほどに軍事力を増強しました。 兵員は320名→501名、兵器は小銃27丁→147丁、拳銃3丁→8丁、手榴弾・ダイナマイト25発→112発等々です。 大きく増えた要因は、遊撃隊が軍・警を襲撃して武器を奪取してきたことと、軍兵士が南労党側に寝返ったことです。 金時鐘さんは次のように書いています。

連隊長に不満をもった第九連隊所属の兵士41人が、5月18日、大量の武器弾薬と装備をたずさえて脱走し、山の部隊に加担します。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 217頁)

 このようにして、南労党遊撃隊は軍隊なみの兵器・兵員を有する武装集団となりました。 それでは、どれほどの戦果を挙げたのか。 鹵獲文書には、7月末までの4ヶ月足らずの間の戦果報告があります。 殺害者数だけを抜き出してみますと、

> 警察官殺害74名、警察官家族殺害7名。 反動殺害223名、反動家族殺害12名。 (『島の反乱』同時代社 56頁)

 これは南労党から鹵獲した記録によるもので、どれほど正確なのか分かりませんが、当時の南労党はこれだけの戦果があったと認識していたという資料にはなるでしょう。

 家族は偶然に巻き込まれたのではなく、遊撃隊の当初からの狙いでした。 「反動」は右翼人士および選挙管理委員会関係者などを指します。 「警官」「警官家族」よりも「反動」「反動家族」の殺害数が非常に多いことに目が行きますね。

 武装暴力闘争を担ったのは、金時鐘さんが言うような「一揆の範囲をでない〝暴徒”たち」「止むにやまれず立ち上がった農村の青年たち」の集まりで決してありません。 4・3事件の主体は、あくまで南労党の軍事組織である遊撃隊でした。

 

⑪	村人たちを強制移動させて選挙拒否するも弾圧を招く

 金時鐘さんによると、南労党は単独選挙を阻止するために、村人たちを投票所に行かせないように南労党の根拠地へ強制的に大挙して移動させたといいます。

「山部隊(遊撃隊)」は、これがのちのち4・3事件の悲劇を惨劇に変える因となった出来事ですが、投票拒否の証として村人たちを大挙入山させたりしたのです。 それは胸痛くも、無理強いの説得と脅しによってなされた行為でした。 (『朝鮮と日本に生きる』 201頁)

 金さんは「胸痛くも」と書いておられますので、「無理強いの説得と脅しによってなされた行為」に関与したと考えられます。

 北済州郡には甲乙の二つの選挙区があって、選挙当日(5月10日)にここの中山間部の大部分の村人が南労党の指示により村から出て、投票を拒否しました。 このためにこの二選挙区では投票率が過半数に至らず、選挙が無効となりました。 これによって権力側の軍・警は選挙から逃亡したこれらの村々を「パルゲンイ(赤)の村」と見なし、大量虐殺へ繋がることになるのでした。 

 済州島という孤立した島で他からの応援・支援がない中で、圧倒的武力を有する軍・警を相手とした武装暴力闘争は選挙無効という成果を勝ち取りましたが、多くの島民の犠牲者を出しながら最後まで闘い抜いて、結局は「無惨な敗北」に終わりました。

 南労党は早い段階で、〝全ての責任は我が党にある、島民には罪はないから島民を殺すな”として投降すべきだったのではないでしょうか。 何万人もの島民が犠牲となった責任は権力側(軍・警・右翼等)だけでなく、反権力側(南労党)にもあると考えます。

 私はこの事件について、権力側も反権力側も悪魔と化して残忍な暴力を応酬し合ったのですから、今となっては両者を区別せずに、犠牲になった多くの島民も含めて、すべての人々を平等に扱って慰霊するべきものと思っています。       (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件2025/04/18

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588 の続きです。

⑧	密入国後わずか7ヶ月で日本共産党入党

 金時鐘さんは1949年6月に密航で来日しました。 彼は著作でその時の様相を思い出話として記しています。 それによれば、日本には知り合いが一人もいませんでした。

私が日本に来たての頃は‥‥一人の縁故者もないところへ来たものですから (『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 76頁)

 ですから当初は行き当たりばったりだったようです。 彼は自分の故郷である済州島の出身者が多い大阪の猪飼野で暮らし始めます。 

 ところが彼は、それからわずか7ヶ月後の1950年1月に日本共産党に入党しました。 そしてすぐさま共産党傘下の民戦(在日朝鮮民主主義統一戦線の略称)で働き始めます。

(1950年)一月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員のひとりになりました。 ‥‥中川本通り(生野区)近くにあった民族学校跡の、民戦大阪本部臨時事務所に非常勤で詰めるようになりました。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 248頁)

そちら(生野区の南生野町にあった鶏小屋)に辿り着いて早ばやと日本共産党に、自分の心の責めもあって集団入党の一員として入党しました。 入党するとなると、ビラ貼りから『アカハタ』配りを経ないと正党員にはならしてもらえないんですが、私は国での何がしかの党活動、南労党、南朝鮮労働党の組織活動に加わっておったという実績を買われて、すぐさま、一種のオルグ格の仕事を受け持ちました.(『金時鐘コレクション11』藤原書店 2023年8月 264頁)

 当時の共産党が国際共産主義を掲げていたとしても、また党員資格に国籍条項がなかったとしても、海外での党活動実績を自称する外国人、しかも日本に縁故のいない人間の入党を許し専従職員にしたということです。 わずか7カ月前に来日したばかりの人が海外でどんな実績を残しているのか、またそれをどうやって確認したのか? 拙ブログでは、彼は日本語も朝鮮語もきれいな標準語を使っていたためにマルクス主義に詳しい知識人として通用し、信頼を勝ち得たからではないかと、想像を交えながら論じてみました。 ご参考くだされば幸い。

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/09/9707790

  

⑨	4・3事件で韓国を否定しながら「晴れて」韓国の国民に

 1948年の済州島4・3事件は、南労党(南朝鮮労働党)済州道委員会が人民を盾にして起こした暴力闘争で、パルチザン方式とかいわれるものでした。 〝南北分断反対”を呼号し、具体的には5月10日に南朝鮮だけで実施される単独選挙を阻止して「大韓民国」の建国を許さないことが目的でした。 暴力闘争を担った南労党の組織は、「人民遊撃隊」「武装隊」「山部隊」「パルチザン」などと呼ばれていました。 ここでは主に「遊撃隊」を使います。

 つまり「大韓民国」建国を否定するために南労党遊撃隊は武装蜂起して暴力闘争を敢行し、これに多数の島民たちが同調し協力したのに対し、南朝鮮(同年8月から「大韓民国」)の軍・警が過酷で大規模な弾圧を加えて南労党のみならず多くの島民も犠牲になったのが4・3事件です。 近頃は「島民の蜂起」などのように、南労党を隠蔽するような言い方が多いですね。 中には「南労党」という言葉を全く使わないで4・3事件を解説するものがあって、驚かされます。

 金時鐘さんは南労党の党員として、大韓民国建国に反対する4・3事件に参加しました。 金さん自身が「〝共産暴徒”のはしくれの私」(『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 290頁)と言っておられます。 事件は〝大韓民国は存在してはならない”と否定するもので、金さんはその考えを日本へ密航した後も変えず、日本の外国人登録は〝統一された祖国”を意味する「朝鮮」籍を続け、「韓国」籍は分断を意味するものとして否定してきました。

 ところがそんな彼が55年後の2003年に韓国の戸籍(今は家族関係登録簿)を取得し、韓国国籍になられたのです。 つまり彼は「朝鮮」籍を捨てて「韓国」籍に切り替えて、「晴れて」大韓民国の国民の一員になられたわけです。 「晴れて」と強調したのは、彼の著書『朝鮮と日本を生きる』の287頁に「新たな戸籍と大韓民国国籍を晴れて取得しました」とあったからです。 ですから彼は〝韓国の否定”から〝韓国の肯定”へと、「晴れて」立場を変えられたのです。 

 とすれば、韓国を建国してはならないと否定した4・3事件は一体何だったのでしょうか? 今は晴れて大韓民国の国民となられたからには、〝あの時に韓国が樹立されて良かった”というように評価を肯定的に変えねばならないと思うのですが‥‥。 しかし彼は韓国を否定するために蜂起した暴力闘争の事件について、次のように闘争の正当性を訴え続けておられるのです。

4・3事件は無惨な敗北だった。 しかし民族の解放後歴史をたぐるとき、「無惨さ」として記録されるのではなく、誇りとして記録されると思う。 韓国だけで単独選挙をするということは、永遠に国が分割されるということだ。 選挙を成り立たさないための武力闘争だった。 酸鼻を極めた無惨な敗退を喫したけれど、「目の前で歴然と民族が分断される」ことに力を傾けて反対を唱えた人たちがいたことを誇りとして記録されるべきだ。 (『在日一世の記憶』集英社新書 2008年10月 568頁)

 金時鐘さんは晴れて韓国の国民になられたのに、その韓国を否定する4・3事件を今なお「誇りとして記録されるべきだ」と言っておられます。 しかし結局は「無惨な敗北」に終わりました。 これを「誇り」とするところに大きな違和感があります。       (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

夫婦別姓―毎日新聞の読者投稿2025/04/13

 4月12日付の毎日新聞の「みんなの広場」欄に、「選択的夫婦別姓に異議なし」と題する投稿がありました。 https://mainichi.jp/articles/20250412/ddm/005/070/064000c 

選択的夫婦別姓制度の導入に異議ありません。反対する根拠に説得力を感じません。 結婚で姓を変えることで不利益を被る人がいるのであれば救済すべきでしょう。 子供の姓は二人で相談して決めればよいこと。子供の名前を決めるのと同じではないでしょうか。 別姓が嫌な夫婦は同姓にすればよいだけです。

中国でも韓国でも夫婦別姓が普通ですが、家族のきずなが弱いとは思えません。 私は韓国に駐在していた経験がありますが、韓国の家族や親族のきずなは大変強いものがありました。 お母さんは、何々ちゃんのお母さんで通っていました。 日本でもそもそも家庭内で姓を呼び合うことは、まずないでしょう。 ‥‥

 韓国の夫婦別姓について触れていますので、ちょっと一言します。 「韓国の家族や親族のきずなは大変強い」というのは事実ですが、この場合の「家族」「親族」は父系を中心とするものであることに注意が必要です。 韓国の伝統的家族観では、女性は結婚(嫁入り)しても夫側の家族の一員になるわけでなく、男子を生んで初めてその子の母として夫家族で存在を認められるというもので、徹底した父系重視です。 だから女性は結婚しても姓を変えないのです。 韓国の夫婦別姓は、元々は女性差別の結果だということを踏まえてほしいものです。

 韓国の夫婦別姓については、拙ブログでは5年ほど前に少し詳しく論じたことがありますので、ご参照ください。  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/02/17/9214762

 なお韓国では2007年に戸籍制度が廃止されて、父系家族制度ではなくなりました。 ですから今は法的には男女対等の夫婦別姓制度ですが、父系重視の伝統的家族観は強固に残っています。 ですから生まれる子供の名は、父から受け継ぐのがほとんどです。

 ところが近年の韓国の若者たちは、結婚・出産そのものを忌避する傾向が強くなってきています。 つまり「家族」を否定する考え方ですね。 今までは父系重視の「韓国の家族や親族のきずなは大変強い」のですが、将来はそんな伝統的家族観はもちろん、男女平等の近代的家族観すらも離れて、「家族」そのものの存在が薄れていく社会になっていくのではないかと思われます。

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名2025/04/11

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006 の続きです。

 ⑥	「流麗な日本語がしゃべれる」のに「いびつな日本語」

 金時鐘さんが講演等でしゃべっておられる日本語は、私の知る在日一世の朝鮮訛りの日本語と違っているし、1970~80年代に韓国旅行中に出会った韓国人のお年寄りたちが話すきれいな日本語とも違っていて、私には違和感がありました。

 彼は植民地時代、小学校(当初は普通学校、後に国民学校)で朝鮮語が禁止されるなかで日本語を徹底して教え込まれ、「皇国少年」としての日々を過ごし、さらに光州師範学校で日本語普及の教師になるための教育を受けました。(『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 67頁) ですから読み書きはもちろんのこと、会話でも完璧な日本標準語を駆使できたはずです。  

ところがそれから数十年経って、彼がしゃべる日本語を実際に聞いてみると、 そんな日本語ではありませんでした。 これについて以前に拙ブログで論じたものがあって、これを改変・追加して改めて論じます。

 2019年6月8日付けの『ハンギョレ新聞』に、「在日70年は〝4・3への痛恨” 胸に秘めて生きてきた抵抗の歳月だった」と題する金時鐘氏取材記事があります。 https://japan.hani.co.kr/arti/politics/33623.html  この記事の冒頭で、金さんは次のように発言しておられます。

「私の日本での〝在日”暮らしは、流麗で巧みな日本語に背を向けることから始まりました。情感過多な日本語から抜け出ることを、自分を育て上げた日本語への私の報復に据えたのです」

 ここに「流麗で巧みな日本語に背を向ける」とあるように、きれいな日本語が使えるのに使わない、それが「日本語への私の報復」なのだそうです。

 次に、2024年7月27日付の『毎日新聞』に、「詩人 金時鐘さん/下 祖国、民族、在日 日本語で書く」と題する連載記事があります。  https://mainichi.jp/articles/20240728/ddm/014/040/005000c (ただし有料記事です)    このなかで金時鐘さんは、自分のしゃべる日本語について次のようにおっしゃっています。

「植え付けられた抒情は日帝(大日本帝国)の後遺症だ。 小野さんの作品と出合い『流されない言葉』への執着が生まれ、自分は何者か、民族、祖国とは何か、問い直しました」。 詩こそ人間の生き方そのものと気づき、「問い直し」は自分の内に巣くう抒情的な日本語を洗い流すことでかなうと考えた。 「流ちょうでない私のいびつな日本語は、日本語への報復です」

 ちょっと以前のものでは、次のような発言もあります。

あくせく身につけたせちがらい日本語の我執をどうすれば削ぎ落とせるか。 訥々しい日本語にあくまで徹し、練達な日本語に狎れ合わない自分であること。 それが私の抱える私の日本語への、私の報復です。 (『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 29・30頁)

 以上の三つの記事から言えることは、彼は元々「流麗で巧みな日本語」「練達な日本語」がしゃべれるのに「流ちょうでない私のいびつな日本語」「訥々しい日本語」をあえて使っており、それは「日本語への報復」だということです。 彼の口から出る日本語にかなりの違和感があるのは、彼が意図的に「いびつな日本語」「訥弁の日本語」を使っているからなのですねえ。 しかもそれが「日本語への報復」だというのは、どういうことなのでしょうか。

 また彼は、「日本の支配から解放するために、日本語に報復する」とも言っておられます。 https://book.asahi.com/article/11576563  

日本に渡ったことで日本語を使って生きざるをえなくなった私は、個人としての私を日本の支配から解放するために自らの日本語に報復する必要がありました。

 「日本に渡って日本語を使って生きる」ことは即ち〝日本の支配を受け入れて日本語を使う”ことに他ならず、またそれを自ら選択したことになります。 そうであるのに何故「日本の支配から解放のために日本語に報復」となるのか? これも疑問となるところです。

 日本という土地で、日本語ばかりの環境の中で、日本人(在日を含む)を相手に繰り広げる日本語作品の数々、そしてその作品を売って得る収入と生活。 それらの作品が毎日出版文化賞や大仏次郎賞などの日本の文学賞をいくつも受賞し、彼は今の名声と地位を築いたのでした。 ですから書き言葉の日本語は完璧です。 そうであるなら先ずは日本語への愛情と感謝から始まるべきだと思うのですが、そうではなく「日本語への報復」だとして、しゃべる言葉は「いびつな日本語」「訥弁の日本語」を敢えて使う‥‥。 なぜそうなるのか? 疑問ばかり出てきます。

 近年、金時鐘さんを研究する論文がいくつか出ており、この「日本語への報復」が彼の思想の核心のように論じられています。 彼らは理解できるようなのですが、私には「日本語への報復」が〝ウケを狙った決まり文句“ように感じられて、違和感ばかりが残ります。

【拙稿参照】

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/09/9707790

 

⑦	創氏改名の日本名は「光原」なのか「金山」なのか

 金時鐘さんは、著作で記される思い出話では植民地時代の自分の日本名は「光原」だったとしています。 しかし玄善允さんという方が金さんの母校と思われる済州島の小学校を訪ねた時、1943年卒業者名簿に「金山時鐘」という名前を発見しました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877 とすれば彼は「金山」と創氏改名したことになります。 彼の思い出話に出てくる「光原」とは違います。

 これが指摘されて数年ほどが経ちます。 しかし金時鐘さんはこれにコメントすることはなく、また彼に関する記事を多く書いてきた各種マスコミもこれには言及していないようです。 果たして彼の創氏改名は「金山」なのでしょうか、「光原」なのでしょうか。

 この文を書いている途中、金時鐘さんの創氏改名について、2018年5月28日付の5chで神戸新聞記事が取り上げられているのを見つけました。 卑猥な広告があって不快になるでしょうから、開く時はご注意ください。 https://itest.5ch.net/lavender/test/read.cgi/news4plus/1527492394/

 私の近在の図書館にはローカル新聞のバックナンバーや縮刷版を置いておらず、確かめていないところです。 しかしここで出てきている金時鐘さんの発言は当時の彼の発言内容と一致しており、おそらく神戸新聞に掲載された記事は間違いないだろうと思います。

 この中で彼はご自分の創氏改名について、次のように言っておられます。

創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に。

 「金谷(かなや)」は「金山(かなやま)」の言い間違い(あるいは聞き間違い)と考えることが可能です。 一方の「光原」は姓ではなく名であり、しかも訓読みで「みつはら」となっています。 姓で「みつはら」ならまだ分かりますが、名が「みつはら」となると違和感が残ります。 これが創氏改名した日本名だというのなら、本当かな?という疑問を抱きます。        (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

 

【創氏改名に関する拙稿】

第12題 創氏改名とは何か  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai

第30題 創氏改名の残滓   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai

第70題 創氏改名の手続き  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai

朝鮮名での設定創氏が可能な場合  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596

宮田節子の創氏改名論       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557

民族名で応召した朝鮮人      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/14/7491817

民族名での人探し三行広告     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/24/7807103

辺見庸さんの創氏改名論      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/06/1838919

朝日の創氏改名論         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/03/15/2753298

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職2025/04/05

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 の続きです。

④	教員免許がないのに「正規教員」

 金時鐘さんは日本植民地時代に光州師範学校に通っておられましたが、在学中に日本の敗戦=朝鮮の解放を迎えてそのまま退学(あるいは除籍)してしまいました。 ですから教員免許はありません。 日本への密航後も学校に通ったことはなく、従って教員免許を取得しませんでした。 

 ところが彼は1973年に兵庫県立湊川高校の「正規教員」として就職し、定年まで「教師」として勤めたとしておられます。 教員免許のない人がこのような経歴を持つことができたのは何故か? 疑問が湧きます。

 実際は「実習助手」という形だったようですが、「教師」の仕事をしてこられました。 教師ならば生徒に〝ウソをつくな! 本当のこと言え!”と指導すると思うのですが、教員免許がないのに「教師」だとしていることをどう説明しておられるのでしょうか。 また本当の本名である「金時鐘」ではなく、「林大造」という不正入手した名前を使っていることをどう説明しておられるのでしょうか。 あるいはまた教師ならば、悪事を犯した生徒がおれば警察に出頭して正直に話すように指導するものと思うのですが、不法滞在状態であるご自分についてどのように説明しておられるのでしょうか?      (続く)

金時鐘氏が正規教員?―教員免許はないはずだが‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/16/9651219  

 

⑤	自分が公務員でありながら、朝鮮人は公務員になるな

 金時鐘さんは1973年に日本の公立高校の教育公務員(実習助手)に就職されました。 ところがしばらくして、この県の教育界では在日朝鮮人生徒の就職先として公務員を選ぶことへの疑問の声が上がり、議論となりました。 彼はこの議論のなかで、朝鮮人が日本の公務員になってはいけないと主張されたのです。

在日朝鮮人が日本の公務員になることは、日帝時代の夢を彷彿させる。 1945年8月15日まで、朝鮮人の青少年たちの夢は、町村の吏員になることがすべてだった。 いま、日本人化する風潮がつよく、帰化運動を推し進める動きが阪神間で起こっていることを合わせて考えるなら、官吏になることは同化の道行きだ。 言うまでもなく、在日朝鮮人の鉄則は、日本の内政に干渉しないことである。

公務員というなら、朝鮮語を教えることで公務員になっている私の場合のような、知識労働者としての面が開発されるべきだ。 公務員への就職を食えるからとか、金になるからというだけの、市民的権利の拡大だけに短絡させてはいけない。 そのような職場開拓は問題がある。 (以上、兵庫県高校進路指導研究会「在日朝鮮人諸団体の評価」にある金時鐘さんの一文 ―金宣吉「歴史をふまえた『異者』との共生」52~53頁より再引)

https://miccskyoto.jp/miccskyoto_cms/wp-content/uploads/2023/07/intersection_01_04_interview.pdf 

 “自分は「知識労働者」だから日本の公務員になっていいが、朝鮮人は公務員になってはいけない”という主張です。 さらに地方公務員に就職していた在日朝鮮人の子たちに対して、次のようにおっしゃいます。

(朝鮮人が)下っ端というか、木っ端役人ですが、ともあれ行政権力から給料をもらえるということが一番の夢だったのです。 少年の夢として、青少年の描く夢として何と、わびしい限りではありませんか。 そのようなことが、在日朝鮮人の労働権の開発という正当な運動の闘い取る遺産の中で、在日世代のさもしい夢として育てられるのでしたら、これは何ともやりきれない話です。 (「民族教育への私見」 『金時鐘コレクション10』藤原書店 2020年6月 204頁)

 金時鐘さんは自分が公務員となっているのに、在日の子供たちが公務員を目指すのは「わびしい限り」「さもしい夢」で、「何ともやりきれない」気持ちになったそうです。 しかし、ご自身はそんな公務員を定年まで16年間も勤め上げられました。 彼の論理を理解できる人は果たしてどれほどいるのでしょうかねえ。 私には疑問ばかりが出てきてきます。       (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818