「韓」という国号について(6)2015/06/03

 前回で、大韓民国の成立について「どんな国名にするか議論されたというのであるから、大韓民国はかつての臨時政府とは断絶していることを示している」と論じました。 当時、大韓民国と臨時政府との関係についてどのような議論がなされたのでしょうか。 次のような資料を見つけました。 新聞記者が臨時政府主席であった金九に対して行なった質問と答です。

問 国会開会式の時に、李承晩博士が大韓民国臨時政府の法統継承を言明したが、これに対する主席の見解は?         答 現在の議会の形態としては、大韓民国臨時政府の法統を継承する何の条件もないと思う。 (国史編纂員会『資料 大韓民国史7』260・261頁 なお資料集ではこれを李承晩との問答としている。錯誤があったようである)

 これによれば、李承晩は国会開会式で「臨時政府の法統継承」を言ったが、臨時政府主席であった金九は「法統の継承ではない」と言ったということです。 「法統」とは聞きなれない言葉ですが、法的正統性という意味です。 従って、これから建国しようとする大韓民国が臨時政府の「法統の継承」かどうか、当時の韓国の有力政治家間では見解が違っていたのです。

 それでは韓国の憲法では臨時政府との関係についてどのように書かれているのでしょうか。 韓国の憲法はこれまで九回にわたって改正されました。 そこで1948年の建国時の最初の憲法から今まで、この部分がどのように変わったのかを調べてみました 。直訳ですが、日本語として特に違和感のないものと思います。

1948年7月12日(最初の憲法)~1960年11月29日(第四次改憲)    「悠久の歴史と伝統に輝く我々大韓国民は己未3・1運動で大韓民国を建立し世界に宣布した偉大な独立精神を継承し」

1962年12月26日(第五次改憲)~1969年10月21日(第六次改憲)     「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は崇高な独立精神を継承し、4・19義挙の理念に立脚し」

1972年12月27日(第七次改憲)     「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は3・1運動の崇高な独立精神と4・19義挙の理念を継承し」

1980年10月27日(第八次改憲)     「悠久の民族史、輝く文化、そして平和愛護の伝統を誇る我が大韓国民は悠久な歴史と伝統に輝く我が大韓国民は3.1運動の崇高な独立精神を継承し」

1987年12月29日(第九次改憲―現在の憲法)     「悠久の歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し」

 以上のように、該当部分は九回にわたる改憲時に書き換えられたものもあれば、書き換えられなかったものもあります。 結局は全部で四回書き換えられたので五種類の条文となります。

 この五つを読むと大韓民国について、最初の憲法は3.1運動で建立された「臨時政府の独立精神の継承」、1962年の五次改憲は単に「独立精神の継承」、1972・80年の七・八次改憲では「3・1運動の独立精神の継承」であるように、すべて「独立精神の継承」です。 そして1987年の最後の改憲において初めて「大韓民国臨時政府の法統の継承」が出てきて現在に至っていることが分かります。 整理しますと韓国の国家理念は、1987年までは ‘精神の継承’であったのが、1987年以降は‘法統(法的正統性)の継承’へと変化したのです。

 従って1948年の大韓民国建国は、当初は独立精神を継承しつつ新国家を樹立したという評価でしたが、1987年になって臨時政府の継承・延長という評価に変わって現在に至っているということになります。 そして問題は、この新しい評価が新国家の樹立とは言えないとなり、1948年の建国だけでなく現在の韓国をも否定することに繋がっていることです。

 1948年8月15日に時の李承晩大統領が大韓民国の建国宣言を行なった建物(旧朝鮮総督府庁舎)は、金泳三大統領が1995年に解体撤去しました。 この建物は韓国の一般歴史書にも「大韓民国政府の樹立」と題してその写真が載っているぐらいですから、韓国の国家的アイデンティティの原点とも言うべき重要な建物であるはずです。 しかしこの建物が韓国政府自身によって解体撤去されたのですから、自らの建国の歴史を否定しようとする方向に進んだことを示したと言えるでしょう。

 また大韓民国の建国のための選挙(1948年5月10日実施)に反対して武装蜂起した済州島4・3事件に対して、韓国政府(盧武鉉政権)は武装蜂起側で亡くなった人たちを慰霊し、鎮圧側の軍・警察で亡くなった人たちを無視しました。 つまり韓国政府はこの武装蜂起に正当性があったとしているのです。 しかしこの選挙に基づいて最初の憲法を制定して大統領を選出し「大韓民国」という国家が樹立されたのですから、これに反対する武装蜂起の正当性を認めるということは、韓国の建国さらにはその存在そのものをも否定していることになります。

 政府自身が自国を否定するということになるので理解し難いのですが、韓国の国民たちは矛盾とは感じていないようです。

【拙稿参照】

「韓」という国号について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「韓」という国号について(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/14/7633517

「韓」という国号について(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/19/7636889

「韓」という国号について(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/24/7645246

「韓」という国号について(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/29/7657652

韓国建国の原点となる建物  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/07/26/3651951

韓国映画『チスル』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/01/7332806

「三韓」の用例(1)―中国古代2015/06/08

 中国の古代の歴史書で「三韓」の用例を集めてみました。とりあえず唐時代までのもので限定します。  

①『後漢書(范曄)』東夷伝      「韓には三種がある。一を馬韓といい、二を辰韓といい、三を弁辰という。‥‥[韓の中では]馬韓がもっとも強大で、[三韓]はともに[馬韓の]種族をたてて辰王とし、目支国を都とし、三韓の地をことごとく支配した。[三韓の]諸国の王の先祖は、すべて馬韓種族の人であった。」 (189~190頁 平凡社東洋文庫『東アジア民族史1』)

②『太平御覧』 ―ここに所引される『後漢書(謝承)』      「三韓の俗は、臘日をもって家家祭祀す。」

③『翰苑』―ここに所引される『魏略』      「三韓‥‥魏略曰く、三韓に各長師あり」

④『南斉書』加羅国伝      「加羅国は三韓の種族である。[南斉の高帝の]建元元年(四七九)、[加羅]国王荷知が遣使朝貢した。」 (274頁 『東アジア民族史1』)

⑤『隋書』列伝      「[隋の]二代目の煬帝は[先代の]基礎を承けつぎ、その志は宇宙を包むほどで、しきりに三韓の地域を践み躙り、千鈞もの巨大な弩をしばしば打ち込んだ。[そのため]小国の[高句麗]が滅亡を恐れることは、敢えて言えば、追いつめられて苦しむ獣と同じようであった。」 (24頁 『東アジア民族史1』)

⑥『旧唐書』百済国伝       「 [唐の高宗は]璽書(親勅)を[使者に託して]義慈に与え、‥‥その結果、三韓の民衆の生命は、[危険な]刀爼(包丁とまないた)のもとに置かれている。」(245頁 『東アジア民族史2』)

 ① 『後漢書』東夷伝は、3世紀に陳寿が記した『三国志』東夷伝に基づいて5世紀に范曄が記した文です。 元の『三国志』には「三韓」という文言はありません。 「三韓」は范曄が書き加えたものと推定されます。 従ってこの『後漢書』が「三韓」の初見資料と言えます。 ここでの「三韓」は馬韓・辰韓・弁辰(弁韓)の三つの領域を示しています。

 ②・③は所引資料に出てくる「三韓」です。 原文に元々「三韓」があったのか、それとも引用者が「三韓」と書き改めた(或いは書き加えた)のかどうかは確認のしようがありません。 またこの「三韓」が馬韓・弁韓・辰韓なのか、それとも百済・新羅・高句麗なのかも不明です。

 ④ この「三韓」は①の『後漢書(范曄)』東夷伝に拠っているので、馬韓・弁韓・辰韓の意味です。 加羅国はこのうちの弁韓に相当します。

 ⑤ 隋が高句麗を攻めた時の記録です。 つまりこの『隋書』の「三韓」は高句麗を意味しています。 従ってこの時の「三韓」は朝鮮半島南部の馬韓・弁韓・辰韓ではありません。 「三韓」は朝鮮半島北部~満州を跋扈した高句麗地域まで拡大しており、百済・新羅・高句麗の三国の地域全体を「三韓」と称しているのです。         別に言えばこの三国が「三韓」として一括できる地域と認識されています。 「三韓」は「三つの韓」というような複合語ではなく、「三韓」の二文字で一つの言葉なのです。 このように理解すれば、隋は高句麗だけを攻撃して新羅や百済は攻撃していないのに、なぜ「三韓の地域を践み躙り」と表現されるのかが分かります。

 ⑥は百済の義慈王が新羅を攻撃したことに対し、唐の高宗皇帝が651年にこれを抑えようと百済王に下した勅文です。 この「三韓」は百済・新羅・高句麗の三つの国という意味にもとれますが、中国の皇帝が百済という一国の王に対して他国である高句麗・百済の民に言及するのはあり得ません。 従って「三韓」は三つの国ではなく、これだけで朝鮮全体という意味になります。

 以上の中国の歴史書資料から、「三韓」は5世紀の范曄が編纂した『後漢書』では馬韓・辰韓・弁韓の「三つの韓」という意味で使われたのが、7世紀後半には百済・高句麗・新羅を含めた朝鮮全体の意味に使われるようになったと言えます。 あるいはこの7世紀後半期までに、百済・高句麗・新羅の枠組みを越えて、この三国を一体視する見方が出てきたとも言えるでしょう。

【関連拙稿】

「韓」という国号について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「三韓」は朝鮮の国家と民族を表す http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/10/6977764

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矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/04/6798932

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(3)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/07/6803186

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(4)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/10/6805823

「三韓」の用例(2)―朝鮮古代2015/06/13

 朝鮮古代史を記録した『三国史記』と『三国遺事』から、「三韓」の用例を探してみました。

[1]『三国史記』新羅本紀第八        「(太宗武烈王は)生前は良臣の金庾信をえて、心を一つにして政治をし、三韓を一つに統合しました。」(258頁 平凡社東洋文庫『三国史記1』)       (原文)生前得良臣金庾信同心為政一統三韓

[2]『三国史記』百済本紀第四       「[南斉の武帝は次のようにいった。]‥‥しかるに、『三韓古記』には、牟都を王にしたことがない。(363頁 平凡社東洋文庫『三国史記2』)

[3]『三国史記』百済本紀第六        「(唐の)高宗は璽書(親勅)を与え、(百済の義慈)王を諭して、‥‥その結果、三韓の民の命を俎板にのせ[るような不安におとしいれ]、戈を用いて憤懣をほしいままにする日々がつづいている。」(399頁 平凡社東洋文庫『三国史記2』)

[4]『三国遺事』紀異第一 太宗春秋公        「王は金庾信とともに、すぐれた謀と力をつくして、三韓を統一して 国家の大功をたてたので」(109頁 三一書房『三国遺事 上』林英樹訳)       (原文)王與庾信神謀戮力一統三韓有大功於社稷

[5]『三国遺事』紀異第二 万波息笛       「(神文)王はこれを怪しみ、天文官の金春質に命じて、これを占うと『父王が今 海龍となって 三韓を鎮護し また 金庾信が三十三天[忉利天]の一子として 今 この世に生まれ変わって大臣となりました。』」(128頁 三一書房『三国遺事 上』)      (原文)王異之命日官金春質占之曰聖考今為海龍鎮護三韓抑又金公金庾信乃三十三天之一子今降為大臣

[6]『三国遺事』紀異第二 孝昭王代 竹旨郎        「はじめ述宗公が朔州都督使になって 任所に行くようになったが 当時三韓に兵乱が起っていたので 騎兵三千騎で護送した。」(131頁 三一書房『三国遺事 上』)       (原文)初述宗公為朔州都督使将帰理所時三韓兵乱騎兵三千護送之

[7]『三国遺事』紀異第二 孝昭王代 竹旨郎         「彼(述宗公)は金庾信とともに 副師になって三韓を統一して 真徳・太宗・文武・神文などの四代の王朝に大臣として使え 国家を安定させた。」(131頁 三一書房『三国遺事 上』)         (原文)與庾信公為副師統三韓真徳太宗文武神文四代為蒙宰安定厥邦

[8]『三国遺事』紀異第二 南扶余 前百済 北扶余         「『後漢書』には「三韓はおよそ七十八国で、百済はその一国である」と書いており」(159頁 三一書房『三国遺事 上』)        (原文)後漢書云三韓凡七十八国百済是其一国焉

[9]『三国遺事』紀異第二 後百済と甄萱         「しかるに さきに 三韓が災厄に会い 九土[新羅九州の地]が凶荒して」(168頁 三一書房『三国遺事 上』)        (原文)頃以三韓厄会九土凶荒

[10]『三国遺事』紀異第二 後百済と甄萱        「必ずや 三韓の主になるだろうから」(172頁 三一書房『三国遺事 上』)       (原文)必為三韓之主

[11]『三国遺事』塔像第四 皇龍寺九層塔        「この塔を建立した後、天地が安泰となり 三韓の統一がなった」(43頁 三一書房『三国遺事 下』)        (原文)樹塔之後天地開泰三韓為一

[12]『三国遺事』義解第五 円光西学         「唐の『続高僧伝』第十三巻に「新羅の皇龍寺の僧 円光の俗姓は朴氏で 本籍は三韓―卞韓・辰韓・馬韓―で、円光は即ち辰韓の人である。‥‥」と書いてある。」(103頁 三一書房『三国遺事 下』)          (原文)唐続高僧伝第十三巻載新羅皇隆寺釈円光俗姓朴氏本住三韓卞韓辰韓馬韓光即辰韓人也

[13]『三国遺事』義解第五 宝壌梨木         「新羅時代以来 当郡の寺院と鵲岬以下中小の寺院が三韓の戦乱の間に」(112頁 三一書房『三国遺事 下』)         (原文)羅代為已来当郡寺鵲已下中小寺院三韓乱亡間

 以上の通りで、[1]~[3]は『三国史記』、[4]~[13]は『三国遺事』です。これを見ると「三韓」の用例は結構あります。

 このうち[1][4][7][11]は「三韓の統一」等、[6][9][13]は「三韓の兵乱」等、[5]は「三韓の鎮護」等ですから、以上の「三韓」は新羅・百済・高句麗の三国の領域であることは明らかで、朝鮮全体のことになります。 しかも三国の統一が最終目標であるかのような表現となっていますから、三国を一体視していることが分かります。

 しかし[8]と[12]の「三韓」は『後漢書』系統の資料となるもので、馬韓・辰韓・弁韓の意味になります。朝鮮半島南部だけを指しますから、他とは違っています。

 なお『三国史記』には三韓に関連して次のような記述があります。

『三国史記』列伝第六 崔致遠         「(崔致遠の)文集に『上大師侍中状』があり[次のように]いっている。 『伏して聞きますに、海東の外に三国があり、その名は馬韓・卞韓・辰韓で、馬韓とはすなわち高[句]麗、卞韓はすなわち百済、辰韓はすなわち新羅[であります]。』 (134~135頁 平凡社東洋文庫『三国史記2』)

 馬韓=高句麗、弁韓=百済、辰韓=新羅という特異な見解です。おそらくは、崔致遠は「三韓」が朝鮮半島南部だけを指す場合と朝鮮全体を指す場合があるという矛盾に気付き、これを何とか説明しようとしてちょっと無理したという感想を抱きます。

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「韓」という国号について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「三韓」は朝鮮の国家と民族を表す http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/10/6977764

「三韓」は朝鮮でも使っていた  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/25/1533306

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/04/6798932

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(3)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/07/6803186

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(4)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/10/6805823

「三韓」の用例(3)―日本古代2015/06/18

 「三韓」という用語は『日本書紀』に次の十四例があります。 なお『古事記』や『風土記』にはありません。 『万葉集』は十分に確認していませんが、おそらくないでしょう。

(1)神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年十月)          「高麗・百済、二つの国の王、新羅の、図籍を収めて日本国に降りぬと聞きて‥‥故、因りて、内官家屯倉を定む。是所謂三韓なり。」(日本古典文学大系『日本書紀上』岩波書店 338~341頁)

(2)応神天皇即位前紀          「初めに天皇在孕れてたまひて、天神地祇、三韓を授けたまへり。」(『日本書紀上』 362~363頁)

(3)応神天皇九月四月条         「独筑紫を裂きて、三韓を招きて己れ朝はしめて、遂に天下を有たむ」(『日本書紀上』 366~367頁)

(4)雄略天皇九年五月条         「逆節を掩ひ討ちて、四海を折衝く。然して則ち身万里に労きて、命三韓に墜ぬ。哀矜を致して、視葬者を充てむ。」(『日本書紀上』 484~485頁)

(5)顕宗天皇三年是歳条         「西に、三韓に王たらむとして、官府を整へ修めて、自ら神聖と称る。」(『日本書紀上』 525頁)

(6)宣化天皇二年十月条         「是の時に、磐、筑紫に留まりて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。」(『日本書紀下』 59頁)

(7)欽明天皇十三年十月条        「且夫れ遠くは天竺より、爰に三韓に洎るまでに、教に依ひ奉け持ちて、尊ぶ敬はずといふことなし。」(『日本書紀上』 101頁)

(8)敏達天皇六年五月条         「大別王と小黒吉士とを遣して、百済国に宰とす。王人、命を奉りて、三韓の使と為り、自ら称ひて宰とといふ。」(『日本書紀下』 140~141頁)

(9)舒明天皇二年是歳条         「改めて難波の大郡及び三韓の館の修理る。」(『日本書紀下』 228~229頁)

(10)皇極天皇四年六月条         「中大兄、密に倉山田麻呂臣に謂りて曰く、『三韓の調を進らむ日に、必ず将に卿をして其の表を読み唱げしめむ』((『日本書紀下』 261頁)

(11)同条             「倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を読み唱ぐ。」(『日本書紀下』 262~263頁)

(12)孝徳天皇大化四年二月条         「壬子の朔に、三韓(三韓とは、高麗・百済・新羅を謂ふ)に、学問層を遣す。」(『日本書紀下』 306~307頁)

(13)天智天皇元年十二月条         「避城は‥‥華実の毛は、三韓の上腴なり。」((『日本書紀下』 356~357頁)

(14)天武天皇十年八月条         「丙子に、三韓の諸人に詔して曰く、」(『日本書紀下』 448~449頁)

 それでは「三韓」とは何を指すのかについて、(1)と(12)では高句麗・百済・新羅の三国としています。 なお(12)は割注ですので原資料にはないもので、『日本書紀』編纂者の追加と言っていいでしょう。 また(1)も三国の国名を記した後に「是所謂三韓なり」とありますから、これも編纂者による追加でしょう。 8世紀初めの『書紀』編纂時には、三韓とは即ち高句麗・百済・新羅の三国であるという認識であったと思われます。 この認識がどこまで遡るものかについては、残念ながら不明と言わざるを得ません。

  (1)・(12)以外の「三韓」はこの三国のことか言えば、疑問が残ります。 それは(10)・(11)です。この(10)・(11)は大化の改新で、中大兄皇子らが三韓の調の進上の儀式の際に蘇我入鹿を暗殺するところに出てくるクライマックス場面です。 ここでは三韓からの使者が天皇に「三韓の調を進る」あるいは三韓の王様からの「三韓の表文を読む」という儀式が書かれています。

 この「三韓」が高句麗・百済・新羅の三国としたら、この三国が互いに相談して代表者を選び日本の天皇に「調」と「表文」を奉ったことになります。 あるいは三国がそれぞれ使者を送り、この三人が一緒になって天皇に奉ったことになります。 いずれにしろ、これはあり得るのだろうかという疑問です。

 大化の改新時の朝鮮半島では、この高句麗・百済・新羅の三国が統一に向けて互いに戦争をし合う時代に差し掛かるところです。 とてもではありませんが、平和で仲良くという時代ではありません。 とすれば、大化の改新における「三韓」は高句麗・百済・新羅の三国ではないのは確実といえましょう。

 つまり『日本書紀』における全ての「三韓」の用例では、馬韓・弁韓・辰韓を明確に指すものは皆無です。 結局『日本書紀』では、「三韓」は高句麗・百済・新羅の三国を指すものと、三国を含んだ朝鮮全体を指すものとがある、しかし馬韓・弁韓・辰韓を指すものはない、ということになります。

 以上をうまく説明しようとすれば、推測を重ねて私見を言うしかありません。 それは、「三韓」は朝鮮全体を一つのまとまりとして表現したものだということです。 つまり「三韓」は「三つの韓」ではなく、あるいは三つの国でもなく、「三韓」で朝鮮全体を表す一つの言葉なのです。 この「三韓」が七世紀までに高句麗・百済・新羅の三国に整理され、最終的に新羅によって統一されたのです。

 大化の改新の際の「三韓の調」は高句麗・百済・新羅の各国に課した「調(貢ぎ)」ではなく、「三韓」=朝鮮全体に課した「調」であると考えています。

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「三韓」の用例(2)―朝鮮古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715

「韓」という国号について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「三韓」は朝鮮の国家と民族を表す http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/10/6977764

「三韓」は朝鮮でも使っていた  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/25/1533306

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/04/6798932

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(3)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/07/6803186

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(4)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/10/6805823

「三韓」の用例(4)―朝鮮古代金石文2015/06/22

 東アジア古代史において「三韓」の用語例として、これまで中国の『後漢書』などの歴史書、朝鮮の『三国史記』や『三国遺事』、日本の『日本書紀』を調べてきました。 古代史資料としては、これらの歴史書だけでなく石碑などの金石文があります。 古代金石文資料のなかにも「三韓」が出てきますので集めてみました。 まずは朝鮮半島の金石文です。

〈1〉 大唐平百済国碑銘

 百済の首都があった忠清南道扶余市の定林寺跡にある五層石塔に刻まれている碑文です。 中国唐の蘇定方将軍が顕慶五年(660)に百済を平定したことを記念してこの石塔の第一段の側面に刻んだものです。 この碑文に「三韓」が出てきます。 原文と私なりの現代語訳を提示します。

〈1〉(原文)逆命者則粛之秋霜帰順者則涵之以春露一挙而平九種再捷而定三韓 云々      (現代語訳)命令に逆らう者は秋霜のような厳しさで粛清し、帰順する者は春露のような恩沢で包容してやり、一旦挙兵すれば九種(東夷の九つの種族)を平定し、再度戦争に勝って三韓を平定し 云々

 唐は新羅と連合して660年に百済を滅ぼしますが、その時はまだ高句麗が存在していました。 従って蘇定方が平定したのは百済だけですが、これを「三韓を平定し」としています。 これは「三韓」が百済・高句麗・新羅を含む朝鮮全体を指称するもので、碑文ではこの三韓の領域の一部である百済を平定したという意味になります。

 同様の例が中国側資料の⑤『隋書』列伝(既出)にあります。 ここでは百済ではなく高句麗ですが、唐が高句麗を攻撃したことを「三韓の地域を践み躙り(ふみにじり)」と表現しているのです。 朝鮮全体が「三韓」であって、『隋書』の記述はこの三韓の領域の一部である高句麗を攻撃したという意味なのです。

〈2〉 清州雲泉洞新羅事跡碑

 これは1982年に忠清北道清州で発見された半欠の石碑です。 共同井戸で洗濯台として使われてきたのですが、文字が刻まれていて、新羅統一に関する石碑であることが判明しました。石碑の下半部ののみの発見ですから全体の意味は分かりませんが、残存部分には次のような文字があります。

〈2〉(原文)合三韓而広地 云々      (現代語訳) 三韓を合わせて領地を広げ 云々

   この石碑には「寿拱二年歳次丙戌」という年号が刻まれています。 これは垂拱2年(686)年のことと考えられますから、新羅統一の直後です。 従って碑文の「三韓を合わせて」は、新羅が百済・高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一したということです。 別に言えば、「三韓」の領域を新羅が一つにまとめたという意味になります。 ここでも「三韓」は百済・高句麗・新羅の区別を越えて一体視しようとしています。

 少なくとも、7世紀後半の新羅統一時期には、「三韓」が馬韓・辰韓・弁韓を意味するものではなく、朝鮮全体の領域を意味しているのは明らかです。 従って『三国史記』新羅本紀に記載のある「一統三韓」(拙論の[1]資料)も同様の意味であることを考えれば、7世紀の時代には「三韓」は朝鮮半島南部ではなく朝鮮全体であるという認識は、東アジアに広く定着していたことが分かります。

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「三韓」の用例(2)―朝鮮古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715

「三韓」の用例(3)―日本古代    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200

「三韓」の用例(5)―中国古代金石文2015/06/26

 唐・新羅が百済を滅ぼした時に、百済人が多く唐に渡りました。 そのなかには唐朝に出仕してそれなりの地位に就いた人も現れました。 彼らは「唐代百済人」というような呼び方をされます。この唐代百済人の墓誌に「三韓」が出てきます。

〔1〕扶余隆墓誌(永淳元年〈682年〉)

気蓋三韓名馳両貊        (現代語訳) その意気は三韓を覆い、名は両貊を駆けるほどだ。

 扶余隆は百済最後の王である義慈王の太子。 ここでの「三韓」は朝鮮全体を意味しています。

〔2〕難現慶墓誌(開元二十二年〈734年〉)

気蓋千古誉重三韓        (現代語訳) その意気は千年もの年月を覆い尽くし、名誉は三韓を重ねるほどだ。

 これも「三韓」は朝鮮全体を意味しています。

〔3〕祢軍墓誌(儀鳳三年〈678年〉)

汗馬雄武擅後異於三韓        (現代語訳)名馬は雄雄しく、後に三韓で異才をとどろかせた。   

 この祢軍墓誌は「日本」が初めて出てくる史料として有名です。ここでも「三韓」は朝鮮全体です。

 以上の中国出土の唐代百済人の墓誌に出てくる「三韓」は馬韓・辰韓・弁韓でもなく、また百済・高句麗・新羅でもなく、「三韓」という言葉自体で朝鮮全体の領域を示しています。 つまり三つに分裂した姿ではなく、一体視された姿です。 墓主は、自分が百済人であったと同時に「三韓」の人間だという意識を有していたのでないかと思われます。

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「三韓」の用例(2)―朝鮮古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715

「三韓」の用例(3)―日本古代    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200

「三韓」の用例(4)―朝鮮古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/22/7678138

「三韓」の用例(6)―沖縄金石文2015/06/30

 時期は1458年とかなり下りますが、沖縄の金石文資料のなかに「三韓」が出てきます。 「万国津梁の鐘」の銘文です。 その冒頭部分は次の通りです。

琉球國者南海勝地而 鍾三韓之秀以大明為  輔車以日域為脣歯        (釈文)琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て脣歯となす         (現代語訳)琉球国は南海の優れた土地で、朝鮮の優秀な知恵を集め、中国や日本とは唇歯輔車の関係にある。

 「唇歯輔車」とは、唇と歯と頬と歯茎のことで、互いに密接で助け合う関係にあることを意味します。 琉球は中国や日本と密接な関係にあることとともに、この鐘銘文にある「三韓の秀を鍾(あつ)める」が注目されます。 15世紀ですから、李氏朝鮮の初めの時期です。 この「三韓」は朝鮮を指しているのは明らかで、その千年以上前の馬韓・弁韓・辰韓の意味ではあり得ません。

 この鐘銘文は当時の琉球が朝鮮と深い関係にあったことを示しており、琉球人はこの朝鮮を「三韓」と呼んでいたことが分かります。

 このように「三韓」が朝鮮全体であって半島南部の馬韓・弁韓・辰韓ではないという認識は、東アジア全体に広がっていたと言えるでしょう

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「三韓」の用例(2)―朝鮮古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715

「三韓」の用例(3)―日本古代    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200

「三韓」の用例(4)―朝鮮古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/22/7678138

「三韓」の用例(5)―中国古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/26/7680561