『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(3)2023/08/04

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151 の続きです。

 訳しながら思うには、こんな修飾語だらけで内容のない文章を、これだけ大量に長文で書けるものだなあと感心します。

 ここでふと思い出すのは、1960年代末~70年代にかけて蠢動していた極左過激派の機関紙です。 それもまた修飾語だらけで内容のないものでしたが、例えば死闘を繰り広げた中核派と革マル派の機関紙を読み比べて、私は面白がりながら読んでいました。 今回の『労働新聞』の「論説」を訳しながら、論説の筆者は過激な修飾語をいかに駆使するかだけに精神を集中し、その過激な表現に自己陶酔しながら書いたのだろうという点で、50年前の日本の過激派諸君の機関紙と同じだなあと感じました。

【参考】  『前進プロレス』対『解放実話』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/14/6510966 

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現代の歴史で7・27が持つ重大な意味は、共和国の尊厳と自主権、輝かしい未来を守り抜いたというところにのみ、あるのではない、新しい世界大戦を防ぎ、人類と地球を大惨禍から助け出し、自主の時代の流れを力強く推し進めたことで、ここに偉大な戦勝7・27の世界史的意義があり、英雄的朝鮮人民の特に優れた功績がある。

祖国解放戦争の勝利はアメリカ帝国主義の世界制覇戦略実行を阻止・破綻させ、人類の平和と安全を守った記念碑的大勝である。

祖国解放戦争は地理的規模から見る時、朝鮮半島で起きた局部戦争だったが、その性格から見る時は新しい世界大戦の除幕だった。第二次世界大戦後、帝国主義陣営の頭目、超大国として登場したアメリカの侵略野望は、地球の全ての所で広げられていた。アメリカ帝国主義が朝鮮戦争を挑発したのは、共和国北半部を占領して全朝鮮を植民地化するだけでなく、第三次世界大戦を起こして、世界を制覇するための最初の実践行動だった。アメリカ帝国主義の新しい世界大戦の野望は、第一段階は朝鮮侵略戦争として始まり、第二段階は戦争を満州に拡大して、最後の段階にはソ連にまで攻め入ろうとすることを予見した《A、B、C計画》を作成したところに如実に現れた。朝鮮戦争の国際的性格は、アメリカ帝国主義侵略軍だけでなく、膨大な追従国家の武力まで参戦した事実をもってしても、分かることである。

大洪水が起きる前には大雨が降るように、世界大戦にも最初の兆候がある。振り返ってみれば、ファッショドイツのポーランド侵攻は、世界征服の野望を実現するための冒険的な第一歩だった。それを適宜に断固として阻止できなかったことで第二次世界大戦が勃発した。5000~5500万人が命を失い、5万の都市と農村が灰と化し、数億万の人民が計り知れない不幸と苦痛を経なければならなかった歴史の大惨劇は、絶対に繰り返してはならない。

偉大な7・27はアメリカ帝国主義が世界制覇実行の第一歩から敗戦の苦杯をなめ、力でもって戦争狂信者たちの気を挫けさせた。歴史のこの日がなかったなら、人類史に最も残酷だった第二次世界大戦の廃墟から直ぐに抜け出し、平和と発展の新時代を迎えていた人類の頭の上に再び火の洗礼が降り注いでいたのだ。アメリカ帝国主義は朝鮮戦争の期間、原子爆弾使用しようとしたことも一度や二度でなく、実際に南朝鮮に原子爆弾を搬入し、その投下訓練まで行われた。アメリカ帝国主義が企てる第三次世界大戦は、きっと核戦争に広がっただろうし、それは想像しても身の毛がよだつ大災害になったであろう。歴史は、自分たちの血と命を捧げて、アメリカ帝国主義が侵略戦争を始めた場所に彼ら自身を跪かせて、刻一刻迫っていた核戦争危機を消し去り、世界の平和の発展と環境を死守した英雄的朝鮮人民の大きな貢献と業績を金文字に刻んで、永遠に伝えていくのである。

祖国解放戦争の勝利が持つもう一つの人類史的意義は、世界政治構図を変化させて社会主義に乗り出す時代の流れを力強く推し進めたことにある。

第二次世界大戦が反ファッショ民主陣営の勝利に終わったことでもって、国際的力量関係では根本的な変化が起きた。アメリカ帝国主義は帝国主義体系の維持に致命的打撃となる社会主義体系の出現を非常に恐れながら、それを揺籃期に失くしてしまうことに全力を傾けた。ここでアメリカが一番に重視した所がソ連、中国と直接つながっていて、新たに独立した国々の先頭で社会主義の道に力いっぱい乗り出す我が共和国であった。アメリカ帝国主義は、朝鮮はアジアにおいてアメリカの全ての成功がかかっている理念上の戦場だと言って、この二つの制度間の対決でアメリカの勝利を保障せねばならないとして大きく準備していた。

アメリカ帝国主義が挑発した朝鮮戦争は、帝国主義連合勢力の《反共十字軍遠征》だった。祖国解放戦争の勝利は資本主義に比べて社会主義の絶対的優越性と威力を余す所なく誇示した、地球の至るところで社会主義を目指す熱気を高調させる転換点となった。我が人民が民主主義陣営の最前線の金城鉄壁の城のように死守したことに、社会主義の国、人民民主主義の国は有利な平和環境の中で革命と建設を力強く迫ることができるようになった。

一点の火花が燎原の炎へ燃え上がるように、帝国主義の隷属に反対し、民族的独立のための闘争で赫々たる勝利を勝ち取った我が人民の英雄的気概と模範的経験は世界の自主化実現で非常な牽引力を発揮した。朝鮮戦争以前において、世界の被圧迫民族たちは植民地奴隷の立場から抜け出して自由と解放を求めてその実現のための闘争に積極的に乗り出すことができなかった。それは崇米・恐米思想、帝国主義に対する幻想と恐怖に深くはまり込んだためであった。反米大勝の始まりである祖国解放戦争は、帝国主義首魁であるアメリカが決して不可抗力的な存在でも《自由世界の化身》《文明の使徒》でもなく、小国の人民たちも正義の偉業のために力を尽くして闘うならば、あのどんな強大な帝国主義侵略勢力にもよく打ち勝つことができることを実証することによって、帝国主義に対する世の人たちの見解を根本的に変化させ、反帝民族解放闘争の熱気を激しくたぎらせた。これは祖国解放戦争直後の1955年から1966年に至る期間に、植民地の束縛から解放された独立国家の数がほぼ二倍になった事実からだけでも、よく理解できる。

植民地統治下で解放さればかりの国、まだわずかの軍事経済力であった小さな国が、自分の運命だけでなく、人類の将来までも担い、歴史的中心を優れて遂行することは、歴史上初めての奇跡と言わざるを得ない。決して1950年代だけではない。以降の70年間、社会主義と帝国主義間の最も先鋭な先駆けであり世界最大のホットスポット地域を守った我が共和国は、不敗の堡塁として威容をとどろかせてきて、東アジア地域と世界の平和繁栄に巨大な寄与をした。万一わが国家と人民が、他の人たちのように経済発展にだけ偏重していたならば、この地には歴史に記録されたすべての戦争よりもっと大きな惨事を引き起こす熱核戦争が数十回も起きて、世界に拡大されたであろうし、今日の文明世界も存在できなかったであろう。

偉大な7・27は、国際的義務に忠実な英雄朝鮮の象徴として、わが人民だけでなく世界が永遠に慶祝する人類共同の記念日となるのである。  (続く)

【拙稿参照】

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137

『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151

コメント

_ 竹並 ― 2023/08/05 04:11

>【辻本さま:  訳しながら思うには、こんな修飾語だらけで内容のない文章を、これだけ大量に長文で書けるものだなあと感心します。】

個人的には、「朝鮮戦争」が(「さきの大戦の原因、諸悪の根源は枢軸国の体制で、それを破壊することが世界平和の基礎である」という)占領軍の対日政策(=極東軍事裁判)の根本思想を転覆させたという見地から、(僕には)労働新聞の饒舌は干天の慈雨、炎暑の中の涼風(すずかぜ)みたいなもんですよ、いくらでも耐えられます(w

「冗長性」というのは、防諜の観点からは「鬼門」なんですが、逆の立場から見れば「情報の宝庫」ですよね。

如来(にょらい)の呼称なんていうのも、日本人にとってはジュゲム(寿限無)ですが、インド人には意味があり、意味があるから繰り返し呼称するんでしょうからね。
     ----- ↓ -----
仏典を紹介しようとして、私がいつも困惑するのは、仏典の作者が必ずしも賢明でなかったことである。
彼らは、まず饒舌である。
一つの思想を伝えるのに、不必要なほどに言葉をか重ねる。
例えば、こんな具合である。

『さて、良家の息子たちよ、かのシュバ=ヴューハ王は、このように多くの美徳を数え上げて、完全な「さとり」に到達した阿羅漢の、かの尊(たっと)きジャラダラ=ガルジダ=ゴージャ=ススヴァラ=ナクシャトラ=ラージャ=サンクスミタ=アビジュニャ如来(にょらい)を讃え、また幾千万億という、その他の美徳を数え上げて、かの世尊を讃え、その時、完全な「さとり」に到達した阿羅漢の、かの尊きジャラダラ=ガルジダ=ゴージャ=ススヴァラ=ナクシャトラ=ラージャ=サンクスミタ=アビジュニャ如来(にょらい)に、このように語った。(坂本幸男・岩本裕訳注『法華経 (ほけきょう)』下、岩波文庫)』

如来(にょらい)の名の、なんと長いことか。
「完全な『さとり』に到達した阿羅漢の、かの尊(たっと)きジャラダラ=ガルジダ=ゴージャ=ススヴァラ=ナクシャトラ=ラージャ=サンクスミタ=アビジュニャ如来(にょらい)」で一人の如来を呼んでいるのである。

これが『法華経』のある小さな1章に18回も繰り返される。
まるで落語の「寿限無 (じゅげむ)」である。
右の(=上の)引用文は、次のように短くできるだろう。

『さて、良家の息子たちよ、かのシュバ=ヴューハ王は、このように多くの美徳を数え上げて、アビジュニャヤ如来(にょらい)を讃え、彼に、このように語った。』

この点では、私は『論語』の簡潔さを高く評価する。
「巧言(こうげん)令色(れいしょく)、すくなし仁(じん)」。
なんと短く、力強い言葉だろう。
これに比べると、仏典は内容が希薄にさえ感じられる。
何十ページも費(つい)やして、たった一行で言えるようなことしか言っていないのであるから。
     ・・・・・
(pp.34 - 35, 『大乗経典を読む』、講談社現代新書)

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