民族差別―総督府官僚だった任文桓の回想2022/04/19

 4月15日付の本ブログで、植民地下の朝鮮における民族差別の一つとして、下記のように給与差別があると論じました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/15/9481866

属人主義の差別として、給与差別を挙げることができます。 朝鮮では公務員の給与において、宗主国の日本人には6割の外地手当(加俸という)が出ました。 これは海外赴任手当のように見えますが、朝鮮で生まれ育った日本人でも朝鮮総督府に勤めればこの6割の手当が貰えたといいます。 同じように朝鮮で生まれ育っても朝鮮人にはその手当がないのですから、正に民族差別です。

 これの裏付けとなる資料として、任文桓『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』(ちくま文庫 2015年2月)を再度紹介します。

 この資料のなかにある「バウトク」は任文桓の幼名。 바위 덕(岩の徳)の意で、この本では自称でこの名前を使っています。 また「昌平」は任文桓の友人の秋山昌平。 任と秋山は同じ旧制六高・東京帝国大学法学部を経て、一緒に高等文官試験に合格し、朝鮮総督府に赴任しました。 親友関係だったので、互いの給与を知っていました。 まずは赴任する際に支給される「赴任旅費」です。

東京から京城までの赴任旅費としてバウトクには70円が渡された。ところが昌平は60円も多い130円を貰った。(223頁)

ある日、六高の先輩である警務課長吉良喜重市が、彼(バウトク)の赴任旅費は値切り過ぎだと、学務課長に文句をつけた。‥学務課長は、本人が承知して受け取ったあとだからを理由に、増額に応じようとしなかった。 ‥‥勝手に金額を決めた‥(225頁)

 赴任旅費には担当官の裁量部分が大きかったようで、その際におそらくは朝鮮人だからという理由で旅費を少なく出したのでしょう。 担当官は、“それで本人が承知したのだから”と言い逃れしたということです。 こんなことを言われても、本人が納得できるはずもないでしょう。 次は「加俸(外地勤務手当)」と「宅舎料(住居手当)」です。

(朝鮮総督府で)バウトクの月給は75円であった。 ところが昌平のほうは、この金額の6割にあたる植民地勤務加俸なるものが上積みされ、その上に、宅舎料なるものまで加給されるので、昌平の給料は130円を上回った。 おかしなもので、バウトクのように日本で勉強して京城に家一軒持たない者には、加俸も宅舎料もくれないくせに、朝鮮で生まれ、そこで学校を終え、京城にある豪華な自宅から通勤する者でも、父母が日本人の原種でありさえすれば‥大手を振って加俸と宅舎料が貰えた。(223~224頁)

こうして出来た昌平とバウトクの月収の差は、たいそうなものだった。‥‥年の暮れに支給されるボーナスも、月収の何割で計算されるので、これにも二人の友人のあいだに大きな差が出来た。(224頁)

 「加俸」と「宅舎料」は、この資料に「朝鮮で生まれ、そこで学校を終え、京城にある豪華な自宅から通勤する者でも、父母が日本人の原種でありさえすれば‥大手を振って加俸と宅舎料が貰えた」とありますように、現地採用でも日本人(当時は内地人)でありさえすれば貰え、朝鮮人には貰えませんでした。 そして東京で採用されて朝鮮に赴任した場合でも、日本人は貰えて朝鮮人は貰えませんでした。

 つまり朝鮮人であるという理由だけで日本人よりも6割も給与が安く、住居手当もないという、明白な民族差別だったのです。 この収入の差は、職場での民族間に微妙な葛藤を生じさせます。

官界というところは、何と言っても月収の嵩が人品を決める標識となる世界であった。 したがってバウトクの下で働いている属僚(部下)でも、原種日本人でありさえすれば、月収は彼(バウトク)よりはるかに多く、彼(バウトク)が日本の名門学校で学び、特待生として優遇され、朝鮮の役人中には例がないほどに優秀な成績で高文(高等文官試験)に合格したと自負してみたところで、彼(バウトク)の部下である原種日本人どもは、鼻の先でこれをせせら笑っていた。(224頁)

かくして、年功序列の厳しい官界の仕来りは、内鮮人(内地人と朝鮮人)間においては完全に乱れ、彼(バウトク)の二年後輩の見習いまでが、彼(バウトク)の名を君づけで呼ぶようになった。(225頁)

 加俸だけで6割、それ以外に宅舎料まで差のある民族差別給与でしたから、朝鮮人が先輩・上司であれば、後輩・部下の日本人は「鼻の先でこれをせせら笑い」「彼(バウトク)の名を君づけで呼ぶ」ようになったということですね。

 また日本では、目下の者が目上の人を「君」付けで呼ぶのは今でも非常識とされます。 植民地時代の日本人と朝鮮人との間では、そういう非常識な関係になっていたのでした。 任が「原種日本人ども」と言いたくなる気持ちは、理解できます。

当時の朝鮮は13道に分割され、全羅北道、全羅南道、忠清北道、江原道の四ヶ道‥の中から二つを選んで、朝鮮人知事に割り当てた。 ところで日本人知事の下にある警察部長は、総督府に提出する書類には知事の決裁を仰ぐことに規定されていたが、朝鮮人知事の部下である警察部長には、その必要なしと定められていた。 馬鹿馬鹿しい話で、朝鮮人知事は部下である日本人警察部長が、自分はもとより他の部下のやっている仕事について、どんな情報を出しているのかいっこうに知らずにいるのである。(227頁)

自分のやっている仕事をくさしている(悪口を言っている)かも知れないこれらの情報は、日に何通となく、自分の首を抑えている総督と政務総監の目にさらされているのだ。‥こんなことが、いわゆる警察情報として‥公然たる行政制度として認められるとなると、驚くほかはない。‥‥内務部や産業部の連中も、(朝鮮人)道知事はそっちのけにして、警察の顔色ばかり気にしていた。(227頁)

 各道の警察情報は、日本人知事さんなら決裁を仰ぐが、朝鮮人知事さんなら知事決裁を経ずにそのまま総督府に送る、というのが制度的に決められていたのですねえ。 朝鮮人知事は自分の知らぬ間に、部下の警察官が書類を上級官庁に送っているのを黙認するしかなかったということです。 こうなると知事の下で働く役人たちは知事よりも警察の顔色を見るようになり、朝鮮人知事は知事としての立場がなくなるのは当然でしょう。 

 以上の実話を聞くと、当時の総督府に勤務する朝鮮人官僚たちは、よくもまあ我慢してきたことか!と感心しますね。 任文桓の本を読んで、日本の朝鮮統治は植民地支配であって、民族差別で貫かれていたことが分かります。

 また差別というのは差別する側では直ぐに忘れるが、差別された側はいつまでも脳裏に焼き付いているということを改めて感じました。

【拙稿参照】

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/06/9479114

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/11/9480573

日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/15/9481866

朝鮮総督府における給与の民族差別 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/17/9411320

植民地朝鮮における民族差別はもっと知られていい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/10/9407660

植民地朝鮮における日本人の差別・乱暴 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/21/9413485

植民地時代のエピソード(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/20/9179083

コメント

_ 竹並 ― 2022/04/19 03:58

>【辻本さま:… 以上の実話を聞くと、当時の総督府に勤務する朝鮮人官僚たちは、よくもまあ我慢してきたことか!と感心しますね。 任文桓の本を読んで、日本の朝鮮統治は植民地支配であって、民族差別で貫かれていたことが分かります。 また差別というのは差別する側では直ぐに忘れるが、差別された側はいつまでも脳裏に焼き付いているということを改めて感じました。】

日本人と朝鮮人は、言語・文化による民族差は明白ですが、人種的には違わない(同じ黄色人種)ということがあり、「任 文桓氏がどういう時代を生きたのか」ということに関して(大日本帝国は、ユダヤ人のいない世界ではあったにせよ…)僕は、『兵士シュベイクの冒険』を思い浮かべますね。
     ----- ↓ -----
翻訳文学を読む時にご当地の音楽を聴きながら読むと臨場感がグイッと増します。 例えばこの本(=『兵士シュベイクの冒険』)の場合、ドヴォルザーク『スラブ円舞曲』、ブラームス『ハンガリー舞曲』あたりがしっくりきました。 しっくりきた、というかどーも僕が好きなだけかもしれません。

二重帝国(=オーストリア・ハンガリー)における反ユダヤ感情についてハナ・アレントの『全体主義の起源Ⅰ』(大久保和郎訳)の中で触れている。 ちょっと長めだけど理解の助けになりそうな部分を引用。

『いかなる国家機構においてもユダヤ人は、ハープスブルク帝室の二重君主国におけるほどの決定的な役割は演じなかった。 ハープスブルク家がナショナルな境界ではなく、もっぱら帝室によって定められた境界に劃(かく)された領土に住む無数の民族の結束を保つことはますます困難になってきた。 オーストリアはユダヤ人の御用銀行家が二十世紀にはいってもなお活動し、敗戦後の君主制転覆後までも生き残っている唯一の国である。(p.78)』

『そのような事態のもとで国民国家の制度を導入したことは一連の奇妙な結果を生んだが、そのなかでもおそらく最も重要なのは階級組織の独特の歪みだった。 封建的な身分組織から発展してきたいろいろの経済的な地位ではなく、多様な民族がこの国では歴史の相貌を決定してきたという事実に対応して、最後にはどの民族に属するかということと階級的な地位との同一化がここでは生じたが、これはほかのどの国でも見られない事である。 こうして、市民階級が国民国家における支配階級となったのと同様に、この国ではドイツ人が支配的民族(ただし決して統治する民族ではない)になった。 貴族階級はハンガリア貴族によって代表され、ハープスブルク帝室に具現される国家機構は、すべてうまく行っているかぎり、国民国家における国家機構と階級との関係に見られたのと同じように社会からはっきりと距離を保ち、同じ方法を用いて自国内の諸民族の間の均衡を保とうと試みた。(p.78)』

https://pushkar.hatenadiary.org/entry/20071228/1198858048

_ 河太郎 ― 2022/04/19 15:57

≫任文桓の本を読んで、日本の朝鮮統治は植民地支配であって、民族差別で貫かれていたことが分かります。≪

引用されている俸給の日本人と朝鮮人の格差はそのとおりでしょうね。

●しかし任文桓の本には別の事実も記載されています。
・任文桓『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』p227
「ところで京畿道には、高文には合格しているのに道知事が採用しているので、総督府がその資格を認めるまで長い間属官をしている原田一郎と堤平太郎がいた。バウトクとは長期見習いとしての同病相憐れんですぐ仲良しになった。
ところが、京城帝国大学出身の日本人法学士一人が、高文に合格通らなかったばかりに、属官にもなれず月給50円で地方課の雇員に雇われていた。雇員には日本人であっても加俸も官舎もなく、バクトウとご同様で本俸一本しかもらえなかった。」(引用ここまで)

この記述から、日本人であれば官吏は誰でも優遇されていた訳ではなく、高文合格者か否か、採用が道か総督府か、属官か雇員か、で給与待遇に差があったことが分かります。つまり、これらでは、日本人と朝鮮人は同じ基準の待遇だったとも言えるのではないでしょうか。


●『日本と韓国』八木信雄著(昭和53年)P128
「在勤加俸制度なるものを設けた趣旨はさっきも言ったが、要するに、日本内地に勤務する日本人官吏と韓国に勤務する日本人官吏との勤務地の相違が考慮されてのことだったので、その財源も中央政府の財政から総督府の財政に補給されていた年額1500万円の中から賄われていたんだよ。しかし、事情はともわれ、事が韓国内の問題に移ると、今の話のように、同じ土地に勤務する日本人官吏と韓国人官吏の待遇上の相違ということにまってしまったわけだね。
 そこで、<こんなことではいけない>という小磯総督の強い指示があって、韓国人官吏にも日本人官吏同様の在勤加俸を支給することになり、財源の都合もあって、昭和19年と翌年の2年間で完全に実施されたわけだ。」
(引用ここまで)

給与の差異には内地勤務と外地勤務の事情という理由があったが、それも朝鮮人の長年の不満もあり、昭和19年には改善されたというのですね。

●『日本と韓国』八木信雄著(昭和53年)P129
「しかし、義務の負担と権利利益の享受との間には、まだ大分均衡を欠いていたものの、総督府政治の方向が日本人と韓国人、日本内地と韓国との間の無差別平等化に向かって一歩一歩前進して行きつつあったことだけははっきりしていると思うんだ。」(引用ここまで)

日本政府も総督府も、朝鮮半島を日本内地と同じような水準の地域にするとの方針はありましたので、ある時点の政策をもって、こうだと結論づけるのではなくて、その後の経過も見るほうが良いだろうと思うほうです。

●『「日本の朝鮮統治」を検証する1910―1945』ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー著(2013年)p304
「もちろん、本研究は朝鮮において日本が行ったことを取り繕うことを意図してなされたものではない。だが、一方でわれわれは、日本による朝鮮統治を可能な限り客観的に検証した本研究の結果を通して、朝鮮・韓国系の人々が往々にして極端に偏見に満ち、反日的な歴史の記憶を選択して記憶に留める傾向を、可能なら少しでも緩和するお手伝いをするべく努力してきた。
その中でもわれわれ二人にとって印象的だったのは、朝鮮の近代化のために、日本政府と朝鮮総督府が善意をもってあらゆる努力を惜しまなかったという事実だった。
だから、日本の植民地政策は、汚点は確かにあったものの、同時代の他の植民地保有国との比較において、アモス氏の言葉を借りて言うなら、<九分どおり公平almost fair>だったと判断されてもよいのではないかと愚考するしだいである。」(引用ここまで)

問題は、どのような事実をもってジョージ・アキタ氏が<九分どおり公平almost fair>と判断したか、です。

この本には、いわゆる日本朝鮮植民地最悪論の幾つかの論客を俎上に載せ、誤りを指摘する形をとっています。
詳しくは同書に譲ります。

実は私もこの本を読んで驚いたのでずが、ジョージ・アキタ氏は、かって梶山李之『族譜』の英語翻訳書の序文を、崔永浩教授と共同で執筆したが、朝鮮総督府政治に対して「極めて過酷な軍事統治」「極端な蛮行」「圧政的統治」のような表現を使い、その表現に何の疑問も抱かなかった、しかしブランドン・パーマー氏の大学院時代に書いた、朝鮮人志願兵制度に関するレポート、を読んで徐々に認識が変わったとのことです。

つまり、ジョージ・アキタ氏は初めはいわゆる収奪論を疑わなかったが、事実を元にした論証的近代化論を知ることにより、<九分どおり公平almost fair>との判断に至ったようです。

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