日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(3) ― 2022/04/15
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/11/9480573 の続きです。
当時の朝鮮人は日本の植民地支配を受けていたために、宗主国の日本人とは義務と権利において差別がありました。
義務は、何と言っていても大日本帝国臣民であれば当然のことである納税・徴兵・教育の三大義務のうち、朝鮮人には徴兵と教育の二つの義務がありませんでした。(なお徴兵制は終戦直前の1944年に施行された) 義務がないということは、臣民としての地位が低かったという意味になります。
権利は、植民地であるが故に制限がありました。 まずは参政権です。 朝鮮からは東京の帝国議会に議員を送ることはできませんでした。 なお参政権は属人ではなく、属地主義でした。 ですから朝鮮に住む人は、朝鮮人はもちろん日本人も参政権はありません。 また朝鮮人でも日本(当時は内地)に来れば参政権を与えられました。
属人主義の差別として、給与差別を挙げることができます。 朝鮮では公務員の給与において、宗主国の日本人には6割の外地手当(加俸という)が出ました。 これは海外赴任手当のように見えますが、朝鮮で生まれ育った日本人でも朝鮮総督府に勤めればこの6割の手当が貰えたといいます。 同じように朝鮮で生まれ育っても朝鮮人にはその手当がないのですから、正に民族差別です。
朝鮮人校長の学校に若い日本人教師が来て、教師歴20年のベテラン校長と新任教師との給与が変わらない、という話を聞きましたね。 それでも朝鮮人の教師たちは、じっと我慢したということでした。 植民地なのだから仕方ないと言うことは出来ます。 しかし朝鮮人であるということだけで6割もの給与差別があったのですから、今から見ても誉められた植民地支配ではなかったと言えます。
また朝鮮に帝国大学をつくったことを自慢する人がいるようですが、京城帝国大学の入学および教授任用で民族差別がありました。 京城帝国大学には、朝鮮人教授はいませんでした。 しかし植民地経営のための人材育成の大学だったと考えれば、教授は日本人教授ばかりで、学生数も成績に関係なく朝鮮人と日本人の割合が決められていたというのは納得がいきます。 つまり高等教育においても、植民地支配の論理が貫かれていたのです。 従って朝鮮に国立大学をつくったことは、今から考えてみるとあまり高く評価するほどのものではありません。
また朝鮮戸籍と日本戸籍(内地籍)は、厳密に分けられていました。 朝鮮人は日本(内地)に戸籍を移動することが厳しく制限されたのです。 例外は、朝鮮人女性が日本人男性と結婚して男性側の戸籍に入ること、もしくは朝鮮人子弟が日本人の家に養子として入籍することぐらいです。
日本では一家全体が他家の戸籍に編入してその家の氏を称する場合が可能(例えば、終戦時にA級戦犯だった東郷茂徳は幼少の時に一家が「東郷」家の戸籍に編入された)でしたが、植民地朝鮮人の家は宗主国日本人の家の戸籍に編入することができませんでした。
要するに、植民地人が宗主国の人間になることを厳しく制限したということです。 ですから戸籍を見れば、朝鮮人か日本人かすぐさま判明しました。 そしてこのことによって権利・義務における民族差別が行なわれていたのです。 これ以外にも、当時の朝鮮に対する差別は探せばいくらでも出てきます。
これらの差別を解消しようとしたのがいわゆる「皇民化政策」です。 植民地政府である朝鮮総督府は、朝鮮人を完全な「皇国臣民」たらしめる「内鮮一体」を推し進めて、朝鮮人と日本人との差異をなくそうとしたのでした。 この民族差別解消政策が、解放後“民族性を抹殺するものだ”と激しく批判されたのでした。
差別を放置すれば人間として扱っていないと言われ、差別をなくそうとすれば民族抹殺だと言われる‥‥どっちにしろ、非難を受けるのでした。
なお民族差別をなくす方向を目指した「皇民化政策」は、1945年の終戦=朝鮮解放により中途半端に終了したことを、念のため申し添えます。
【拙稿参照】
日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/06/9479114
日本統治下の朝鮮は植民地だったのか(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/04/11/9480573
朝鮮総督府における給与の民族差別 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/17/9411320
植民地朝鮮における民族差別はもっと知られていい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/10/9407660
植民地朝鮮における日本人の差別・乱暴 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/21/9413485
植民地時代のエピソード(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/20/9179083
(追記 「東郷茂徳」について)
東郷茂徳の先祖は文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)の際に来日した朝鮮人陶工で「朴」を名乗りました。 明治になって壬申戸籍に登載されましたので、当初より日本国籍(内地籍)です。 朴家は西南戦争で敗れて貧窮した鹿児島士族から「士族株」を購入し、「東郷」を名乗るようになりました。 明治19年、茂徳5歳の時です。 朴家が東郷家の戸籍に編入したのです。 これは内地人同士に限り可能だったということですね。
東郷茂徳が名前を変えた理由 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/21/1453694
コメント
_ 河太郎 ― 2022/04/15 10:32
_ おのだ ― 2022/11/17 22:47
_ 辻本 ― 2022/11/18 03:15
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●納税(税負担)の義務について
・「昭和17年度朝鮮総督府予算に就いてという講演の中で、朝鮮総督府財務局長を務めた水田直昌はこう語っている。《(内地の)所得に対する税負担の割合は約1割4、5分。(朝鮮の)割合は1割に満たないのであります》」--――産経新聞 平成30年3月11日 (引用ここまで)
・チェキホ『日韓併合の真実』(2003年)p256
<1938年に「朝鮮学校費令」が施行されたが、「住民賦課金」の朝鮮人賦課額が一戸当たり平均1円48銭だったのに対して、在鮮日本人の負担は「組合費」と称して、一戸当たり平均12円50銭であって、朝鮮人の八倍の負担を強いられた。1942年には、在鮮日本人一戸当たり平均20円30銭と、負担が増額された。
入学資格は、日本人学校も、朝鮮人学校も、日鮮人の区別なく入学を許可されたが、朝鮮人小学校の年間平均学費が一人7円30銭であったに対して、日本人小学校の負担額は平均40円だった。>引用ここまで
朝鮮半島の朝鮮人の税負担はサービスの対価としての側面もあるでしょうね。
もしそれすら負担していなかったとしたら、朝鮮人はタダ乗りしていたのか、の皮肉に対して、どう反論したのでしょうか。
負担額や割合が在朝鮮日本人よりも少なかったのは、朝鮮人の所得が低かったのと、朝鮮人の受けるサービスが日本人と比較して低かった、という合理的理由もあったのではないでしょうか。日本人小学校の日本人教員の給与額を考慮すれば同校の親の負担額も大きかったのは当然でしょう。
日本人小学校に在籍した朝鮮人もいましたが、当然にその朝鮮人の親は日本人と同額の負担はしていたでしょう。
≫義務がないということは、臣民としての地位が低かったという意味になります。
これは朝鮮人志願兵の動機でもあったでしょうね。
かっての米軍の欧州戦線の日系人部隊は収容所に入れられた日系人が、自分たちもアメリカ人としての義務を果たす証明、自分たちの地位を認めさせる目的、として志願しました。そして多大の戦死者も出しましたが。
●給与の格差について
≫属人主義の差別として、給与差別を挙げることができます。 朝鮮では公務員の給与において、宗主国の日本人には6割の外地手当(加俸という)が出ました。 これは海外赴任手当のように見えますが、
今の日本でも、海外赴任手当があります。外地での仕事や生活には、内地とは違う苦労がつきものでしょう。
日本の今の公務員にも海外赴任手当があるでしょう。さすがに日本の政治家にそれを批判する人がいますかね。
≫しかし朝鮮人であるということだけで6割もの給与差別があったのですから、今から見ても誉められた植民地支配ではなかったと言えます。
今、日本でも超高額の報酬を払って外国人社長を雇っています。しかし、誰もこれを民族差別とは言いません。朝鮮半島で教師をする日本人には多額の給与を支払わないと、そもそも誰もその職に就かなかったのでは、とも思います。
●異民族支配の格差について
≫これ以外にも、当時の朝鮮に対する差別は探せばいくらでも出てきます。
ある政策を、差別、と見るのか、それとも、合理的差異、と見るのかの違いでしょうね。
それも、時期がくれば、その差異が少なく、または無くなることになる政策もありました。
今の日本でも、外国人地方参政権について、認めないのは
差別、一方、認めない合理的理由がある、と対立しています。
≫これらの差別を解消しようとしたのがいわゆる「皇民化政策」です。
私もそう思います。
≫差別を放置すれば人間として扱っていないと言われ、差別をなくそうとすれば民族抹殺だと言われる‥‥どっちにしろ、非難を受けるのでした。
非難するのは朝鮮人側から見た場合でしょうね。
私は、当時の政策担当者の意図や目的を知る事は意味がある、と思うほうです。