韓国の小説の翻訳に挑戦(10)―キム・エラン2016/08/05

 韓国語の勉強のための小説の翻訳。 韓国の小説が面白いのかどうか、人それぞれ感じ方が違うでしょうが、面白いものもあれば面白くないものもあるとしか言い様がありません。 語学の勉強の一環ですから、そんなことに関係なしに翻訳しています。  

立冬 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/rittou.pdf 

 作者のキム・エランは、2002年登壇。 小説集や長編小説を出しています。 日本ではほとんど知られていないようです。

【これまでの小説の翻訳】

ファン・ジョンウン「上流は猛禽類」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/jyouryuuhamoukinnrui.pdf

クォン・ヨソン「伯母」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/imo.pdf

申京淑「ある女」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/aruonna.pdf

申京淑 「伝説」  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dennsetsu.pdf

申京叔「今私たちの横に誰がいるのでしょうか」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/imawatashitachinoyokoni.pdf

孔枝泳 「真剣な男」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/shinnkennnaotoko.pdf

孔枝泳「存在は涙を流す」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/sonnzaihanamidawonagasu.pdf

殷熙耕 「私が暮していた家」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/watashigakurashiteitaie.pdf

殷熙耕「他の雪片と非常によく似たたった一つの雪片」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-

HP開設17周年・ブログ開設10周年2016/08/10

 「歴史と国家」というタイトルでHPを開設したのが1999年8月でしたから、もう17年が経ちました。 また本ブログを開設したのが2006年6月でしたから、こちらは10年です。 昨年と一昨年には、15・16周年の記事がありますので、ご参考下さい。

 HP開設16周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/06/7779581

 HP開設15周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/08/7408861

 17年間とは、よくもまあ長く続いたものです。 もう限界だと思いながらも、何とか続けてきました。 一時に比べればアクセス数はかなり落ちているようですが、定期的にご訪問して下さる方もおられます。

 しかし今はもう「続けることに意義がある」というだけの状態になっています。 段々気力が失せていっているのを自覚しています。 何か新しいテーマを見つけなくてはならないのですがねえ‥‥。

 ゆっくり休み休みしながら続けていこうかな、と思うこのごろです。 

【ホームページ「『歴史と国家』雑考」】  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/

    HP論考集一覧       http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/ronkoushuu

【ブログ tsujimoto】          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/

    ブログ論考一覧       http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/burogu

「歴史と国家 雑考」Q&A    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/11/02/585606

ルサンチマン           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/07/19/3637965

水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件2016/08/15

1958年8月、都立小松川高校で女子生徒の遺体が発見され、翌月、18歳の李珍宇がこの女子生徒を殺害した容疑で逮捕された。 いわゆる「小松川事件」である。 李は、日雇労働者の父と半聾唖者の母との間に、貧しい亀戸の朝鮮人部落で生まれ育ち、日本名を名乗り、日本語しか話せぬ朝鮮人二世であった。 中学卒業後は、日立製作所と第二精工舎に国籍を理由に就職を拒否され、都立小松川高校の定時制に入学していた。 帰国運動というある種の民族運動が一大高揚期を迎え、民族という価値規範がその重みを決定的に増した時代にあって、李珍宇は、女子生徒ともう一人の女性の殺人の罪を問われて最高裁で死刑を言い渡された(62年11月執行)。 李自身は、自らが犯した罪と、朝鮮人としての出自や境遇を必ずしも結びつけて考えていたわけではない。 だが、多くの在日朝鮮人が李の境遇に我が子や自分自身のそれを重ね合わせて、行末の不安や絶望を抱いて、“社会主義の祖国”に一筋の希望を見出した(147頁)

 ここでは重大な事実が書かれていません。 李珍宇は二人の女性を殺害したのですが、二件とも強姦殺人事件です。 しかもそのうちの一人は高校の同級生でした。 更に李は、これは完全犯罪だとマスコミに電話して挑発したのです。 この事実を書かなかった理由は何なのでしょうかねえ。

 またこの本はこの事件について「多くの在日朝鮮人が李の境遇に我が子や自分自身のそれを重ね合わせて、行末の不安や絶望を抱いて、“社会主義の祖国”に一筋の希望を見出した」と記して在日朝鮮人問題と関連付けようとしていますが、いかがなものでしょうか。 李は自らの民族性とは全く関係なしに事件を犯したのです。

 李珍宇は極貧の在日朝鮮人家庭にたまたま生まれたサイコパスであって、事件は在日朝鮮人問題とは関係ないと考えるべきです。 一部の左翼・革新系知識人が在日問題にからめて救援活動を行ないましたし、今でも在日問題を扱うこの本のように必ずと言っていいほどに取り上げられていますが、これはやはり疑問と言わざるを得ないでしょう。 もしこの小松川事件を問題にするのなら、犯行時に未成年だった者に死刑を執行していいのかどうか、という点でしょう。

【関連拙稿】

在日の今後の見通し(犯罪率)について http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/11/25/6642370

「在日の犯罪と生活保護」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuurokudai

水野・文『在日朝鮮人』(18)―北朝鮮帰国事業2016/08/21

そもそも貧困層を中心とした在日朝鮮人の大量帰国‥‥帰国者の大半は、枝川や中留など朝鮮人部落の貧しい住民たちだった。‥‥63年までに帰国した男子1万9344人のうち「無職」「土工。人夫、日雇等」「工員」「行商人、屑屋」など貧困層と思しき範疇に含まれるものが1万4000人近くで全体の70%を越えている。(170頁)

そういうわずかな、しかし最後の拠り所でもあった生活保護に廃止や減額処分が断行されたのである。戦後10年余りの窮乏生活に倦み疲れ、万策尽きて、もうこの地を去りたい、との気分が朝鮮人コミュニティを覆い始めとしても不思議ではない。(144頁)

 1959年12月から始まる北朝鮮帰国事業のことです。私は、帰国した朝鮮人の多くが日本にあった財産を処分したり朝鮮総連に寄付したという話や、北朝鮮で出迎えた現地の人が彼らを見てまるで貴族のような姿に見えたという話を聞いていたので、帰国者はそれなりに生活の出来ていた人たちだったというイメージがありました。 だから帰国者は日本で高校や大学に行くことは出来ても就職が出来ずに希望を失っていたので北朝鮮に希望を見出したと思い込んでいました。 しかし、必ずしもそうではなかったのです。 多くの朝鮮人が日本で貧困に喘いでいたから北朝鮮に希望を見出した、こういう人の方が多かった、ということになるのですねえ。

 そういえば昔、当時北朝鮮帰国事業に協力・推進した佐藤勝巳さんが、北朝鮮に帰国する人に祖国で頑張ってくださいと握手した時、アル中で手が震えている人や炭鉱事故などで手や指を切断した人が意外に多くて、これで北朝鮮に帰って祖国建設事業に参加できるのかと思った、という話をされていたことを思い出しました。

 北朝鮮に帰国した在日朝鮮人は貧困層が中心であったことについて、菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』(中公新書 2009年11月)では次のような記述があります。

帰国事業開始当初の帰国者のうち生活保護受給者の比率は、59年12月が41.71%、60年3月が39.93%、同年6月が29.49%にのぼった。また59年から帰国中断前の67年12月までの帰国者総数八万8611人のうち、成人男子の帰国者2万1733人の39.6%が「無職」、20.8%が「土工、人夫、日雇い労務者」で、成年男子の約6割が無職か不安定な職業従事者だった。(150頁)

 このように貧困層が非常に多かったのは、朝鮮総連の方針でもありました。

原則的に、失業者、無職者、貧困者、不幸にも残留する家族の進学生などを先に帰国できるように指導して(170頁)

 しかしこれには次のような理由があったようです。

東京の中央本部からは「一人でも多く本国に送り込め」と、最初は金持ちや有力者の子弟をオルグするよう指示された。しかし彼らは日本の生活に満足し、なかなか帰国しないので、次第に「貧しい家の人々を狙うようになった」という。(174頁)

 結局は在日朝鮮人でも最下層の人が多く帰国したのですが、日本で苦労してきた彼らは北朝鮮でもっと過酷で悲惨な苦痛を味わうという結末を迎えることになります。

【これまでの拙稿】

水野直樹・文京洙『在日朝鮮人』(1)―渡日した階層 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/06/8066021

水野・文『在日朝鮮人』(2)―渡航証明と強制連行 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/11/8069125

水野・文『在日朝鮮人』(3)―強制連行と強制送還  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/17/8072649

水野・文『在日朝鮮人』(4)―矛盾した施策 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/25/8077594

水野・文『在日朝鮮人』(5)―強制連行と逃走  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/29/8080041

水野・文『在日朝鮮人』(6)―渡航の要因 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/09/8086320

水野・文『在日朝鮮人』(7)―人口の急増 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/14/8089137

水野・文『在日朝鮮人』(8)―戦前の強制送還者数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/19/8092119

水野・文『在日朝鮮人』(9)―ハングル投票  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/19/8115076

水野・文『在日朝鮮人』(10)―子弟の教育 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/22/8116734

水野・文『在日朝鮮人』(11)―尹東柱   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/26/8118773

水野・文『在日朝鮮人』(12)―財産を形成した在日 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/12/8129867

水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282

水野・文『在日朝鮮人』(14)―終戦直後の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135824

水野・文『在日朝鮮人』(15)―外国人の地位 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/25/8138588

水野・文『在日朝鮮人』(16)―国籍剥奪論の矛盾  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/30/8142349

水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243

関東大震災の朝鮮人虐殺2016/08/26

 ちょっと古いですが、野村進『コリアン世界の旅』(講談社 1996年12月)に、関東大震災に関連して、個人名が文公協という朝鮮人から取材して、次のような証言を得ています。

あわただしく済州発・大阪行きの連絡船に乗り込んでいく群衆の中に、十七歳の文公協の姿もあった。    「東京に行ってひと月余りで震災にあいました。 ええ、関東大震災です。九月一日ですよ。十二時二分前だったですよ。 ぱっと見たら、工場がつぶれちゃった。学校に避難して、塩の握り飯一個で暮らしました」     私は、あえて尋ねました。 関東大震災時の朝鮮人虐殺に巻き込まれそうにならなかったのか、と。文は「いやいや」と大きく手を横に振ってから、思いもよらぬ話を始めた。     「支那人のやつらが、壊れた家から品物を泥棒しておったんですよ。 そこに青年団が来て、支那人をみな、殺ってしまったんです。 でも、青年団長が(朝鮮の)この人たちはいい人だからと、学校に避難させてくれました。 荒川の三河島界隈では、朝鮮人の被害が珍しく少なかったんですよ」 (221頁)

 取材した年が関東大震災から70年以上も経っているのですから、証言には思い違いや錯誤があるのは仕方のないことです。 しかし少なくとも関東大震災を実際に体験した文公協という朝鮮人は、日本人から被害を受けたことは全くなかったという証言は事実のようです。 野村は大震災前後のこの地域について、さらに次のように記しています。

この関東大震災前後から、カバン作りを家内工業的に始める高内里(文公協の故郷の村)出身者が数人現れ、あとから渡ってきた同郷の青年たちを雇い入れて、カバン製造業の規模は次第に広がっていく。(221頁)

 もし何千人もの朝鮮人虐殺が本当にあったのなら、朝鮮人は危険を感じますから早急に避難し、当分の間はそこに住むことはないはずです。 しかしその地域の朝鮮人たちは、大震災があってもそこを離れることなくカバン製造の家内工業を持続・発展させたのです。 しかも故郷から人を呼び寄せています。 在日朝鮮人人口が大震災後も大きく増加している統計がありますが、その統計数字は以上のような証言からしても信じることが出来ると言えるでしょう。 そしてそれは、数千人もの朝鮮人虐殺があったという「事実」に疑問を抱かせるものです。

【参考表】   関東大震災(1923年)前後の在日朝鮮人人口と増加率 

  樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社 2002年6月 206頁の「付表 在日朝鮮人人口の推移」より作成

 年   在日朝鮮人人口  対前年比増加率(%)

1920年   30,189

1921年   38,651       28

1922年   59,722       54

1923年   80,415       35

1924年   118,152       47

【拙稿参照】

水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282

関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058