在日の低学力について(2)2021/05/05

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638 の続きです。

 ところで、なぜ在日の子供たちが低学力なのか。 これは部落問題と共通するものがあると考えます。 同和地区の低学力は昔から問題になっていました。 同和教育(解放教育)の先進地では、放課後に学校で勉強を教える(補充学級とか解放学級とか言われていました)取り組みをするのですが、周囲の一般生徒から「あんたら、いいね、タダで勉強教えてもらって」という妬みを言われます。 また当の部落の子からは、補充学級をしている間はクラブ活動ができないから行きたくない言い出すこともあります。 そうすると、その日の学校のすべてのクラブ活動を中止させるところまで出てきました。

 そこまでやっても同和地区生徒の低学力はなかなか解消しませんでした。 活動家の一人が、“親がパチンコ三昧、家ではテレビの前でビールを飲みながら競馬や野球中継を見るばかりで、子供に「勉強しろ!」と叱りつけても子供は勉強しない、まずは親から生活を正さねばならない”と言っていました。 しかし解放運動ではそんな意見を全く無視し、自分たちの生活を省みることもなく、子供たちには狭山闘争なんかの時に学校を休ませていましたねえ。 学校側もそれを容認していました。

 これも当時聞いた話ですが、ある同和教育推進校にいた教師が「同和地区の家を家庭訪問したら家の中に本がほとんどない、親が本を読まないし読もうともしない、部落の低学力要因は社会からの差別というより家庭環境に問題があるのではないか」と発言し、批判を浴びたといいます。

 同和地区の低学力については、14年前に拙稿でも論じたことがありますから、ご参考いただければ幸い。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/18/1515064

 在日の子供らの低学力も、同じように家庭環境に問題があると思います。 朝鮮人は植民地時代末期に男子の就学率50%、女子はわずか10%でした。 従ってその朝鮮から来日した朝鮮人一世たちは、もともと日本語の読み書きができず低学力が多かったのです。 そういう家庭環境が子供たちの低学力につながったと考えられます。

 ただ両親が無学だからといって、子供が低学力になるとは限りません。 私の知っている例では、両親は日本語の読み書きができないのにかなりの高学力の方がおられました。 お話を伺うと、子供の時に学校から帰って母親に今日何があって何をしたかを話したら、母親はどんなに忙しくても話を聞いてくれた、また長女が少し勉強できたのでその姉から勉強を教えてもらったし、自分も弟に勉強を教えてあげた、とかいうことでした。 そこに高学力の秘密がありそうです。 親がたとえ無学文盲でも、家庭環境によって子供の学力は向上するものだと思いましたね。

 差別をなくす運動は、社会の差別体質に対する闘いだけでなく、被差別者側の生活を点検し改めていく取り組みも必要だと考えています。 〝解放運動“にしろ〝民族差別と闘う運動”にしろ、自分たちの生活や家庭環境に問題がないのかを常に問い返しながら進めるべきでしょう。

 「子は親の背を見て育つ」という諺がありますが、その通りと思います。 親がこんな子になってほしいと願っても子はその通りに生きない。 親が安逸な生活をすればそれを見て育つ子も堕落し、親が誠実であれば子も真面目になる。 勉強も同じです。

 子は親の思う通りになるのではなく、親のようになっていくものなのです。 (終わり)

【拙稿参照】

在日の低学力について(1)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638

同和地区の低学力            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/18/1515064

郵便ポストを設置させた解放運動     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/07/6502784

同和地区の貧困化            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/29/6525302

同和教育が差別意識をもたらす      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/12/29/5614412

柳田邦男のビックリ部落認識     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/12/25/8290405

日本統治下朝鮮における教育論の矛盾   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/01/1156247

差別問題の解決とは?       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/07/09/9266205

不法残留外国人について2021/05/11

 いま入管法改正案が国会で審議されていて、これに反対する運動が盛んなようで、よくマスコミに登場します。

 これに関しては1980年代までは、韓国からの密入国や不法滞在が大きな問題になっていたことを思い出します。 摘発された韓国人は長崎にある大村収容所に入れられ、強制送還を待つこととなります。 しかし時の韓国政府が彼らの送還を拒絶する場合が多々あり、その時は長年にわたり収容所に閉じ込められました。 ですから大村収容所を廃止しようという運動が、1960年後半から70年代にかけて盛んでしたねえ。

 私もこれに関心があって、この運動団体のパンフなんかを熱心に読んでいましたが、周囲の日本人だけでなく、多くの在日韓国人までが「密入国だから仕方ない。私らはあんな人たちとは違う」と冷たい反応だったことを覚えています。

 私には何十年も前のそんな体験がありましたから、今回の入管法改正とそれに反対する運動についても関心があります。 今のところ新聞記事などを読むしかありませんが、そこには不法滞在者や難民申請者の「国に帰れば殺される」というような話が多く出てきます。 それを読んでいて、どうも疑問を感じるところがあります。 例えば毎日新聞5月7日付に「『帰ったら殺される』入管法改正案、在日ミャンマー人の叫び」と題する記事は、次のように書かれています。  https://mainichi.jp/articles/20210507/k00/00m/040/023000c

「帰ったら殺される。恐ろしい」。そう声を落とす40代のミャンマー人男性は母国の軍事政権に反対するデモに何度も参加してきた。男性は「国軍はデモ参加者のリストを持っている」と危惧し、帰国すれば命の危険があると訴える。

男性は1999年に親族を頼って観光ビザで来日。ビザが切れても日本人の人手不足が深刻だった製造業で働いていたが、数年後に不法残留で摘発され、入国管理局に収容された。現在は一時的に収容を解かれる「仮放免」の身。母国の情勢を鑑みて難民申請を繰り返しており、改正法案が成立すれば強制退去になる可能性がある。

 一般的に不法残留には、意図的に不法残留したのか、或いはうっかりで不法残留となったのか、それとも止むを得ず不法残留にならざるを得なかったのか、等々の場合があります。 このミャンマー人の場合、記事を読む限り「意図的な不法残留」と言わざるを得ませんね。 毎日が何故このような例を記事化したのか、そこが分からないところです。

 またミャンマーは2011年に軍事政権から不十分ながらも民政に移管し、2015年と20年に総選挙が実施されました。 しかし今年の2月に軍事クーデターが起こって再び軍事政権となり、国内では民主化を要求する命を掛けた活動が続いています。

 こんな歴史を知ると、毎日の記事に出てくるミャンマー人が日本国内で不法残留の身でありながら「母国の軍事政権に反対するデモに何度も参加してきた」というところに疑問が出てきます。 2011年以降、今年2月までの約10年間は帰国できるチャンスがあったと思うのですが、何故か「難民申請を繰り返して」きたとありますから、単に日本に在留したかっただけではないのかという疑問です。

 毎日の記事は、続いて次のような例を挙げています。

20年以上前に来日した仮放免中のアジア出身の男性も改正法案に危機感を募らせている。不法残留の状態で結婚した女性との間にもうけた子どもは既に高校生。日本語しか話せず、この先も日本での進学や就職を希望しており、「子どもの将来が心配だ」と話す。

 不法残留者同士が結婚して子供ができれば、その子も在留資格のない子供になります。 従って強制送還の対象になります。 こんなことは不法在留者には常識なはずですが、両親はなぜこれを放置してきたのかが理解できないところです。 日本で子供を生めば何かの在留資格が得られると思ったのでしょうか? 周囲にはそれは難しいと忠告する人はいなかったのでしょうか?

 ところで1960年代に韓国からの密入国者同士が結婚して子供を作ったが発覚、両親・子供みんなが送還されたという話はよく聞いたものでした。 この過去と同じ出来事が今も繰り返されているようですね。

 外国人は日本で自分がどのような身分であるかについて、よく知っているものです。 もし不法滞在であることが発覚すれば送還されますから、発覚しないように慎重に生活します。 もし何かの事件に関係したり事故を起こしたりすると、不法滞在であることは直ぐにバレますから、そうならないように大人しく目立たないように生活するのです。 かつて知り合った韓国からの元密入国者は不法滞在時代に職場(パチンコ屋)で事件が起きた時に、自分は事件に直接関係なかったが警察が来る前にそこから逃亡したと言っていましたねえ。

 在日韓国人社会にはかつて韓国からの密入国者が多く存在し、バレるとどのような取り扱いを受け、どのような経過を経るのかをよく知っています。 ある者は強制送還され、ある者は自費帰国し、ある者は特別在留許可を得て引き続き日本に滞在するといった道を歩むのですが、その分かれ道は何なのか。 在日はこういった実際の話を多く見聞きしてきていますから、今回の入管法改正および不法残留者問題に対して役に立つ助言をすることが可能だと思います。 しかし在日たちはそれほど大きな関心がないようです。 

 特別永住等の合法的在留資格を有する在日にとって、今の不法在留者は関係ない問題ととらえているのだろうと思います。 この問題の支援者のほとんどが日本人であり、そして彼らはまるで自分たちの問題であるかのように運動しているところに、私の驚きというか新鮮さを感じるところです。

【拙稿参照】

かつての入管法の思い出 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306547

昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536

8歳の子が永住権を取り消された事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/01/9322206

不法残留外国人について(2)2021/05/17

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376331 の続きです。

 今、入管法改正が大きな議論となっているせいか、在留資格を失った外国人(不法残留)の話がよくマスコミに登場します。 多くのマスコミは入管法改正に反対の立場を強く打ち出していますね。

 そのマスコミが、“この外国人が本国に送還されると大変なことになる、殺されるかも知れない”という記事を出しているのですが、その具体例を読むとどうも疑問に感じるものが多いです。 前回の拙ブログで取り上げたように、毎日新聞の記事にあったミャンマー人等の例がそうでした。

 今回は5月16日付の西日本新聞にある「『国に帰って殺されろとでも言われているよう』入管法改正におびえる難民申請者」と題する記事に出てくる外国人を取り上げます。 https://news.yahoo.co.jp/articles/55fa7ff2079730dc01b9d9ae74b952a121a40314

東京都八王子市に住んでいた知人のネパール人男性を頼って2016年に来日。 永住権を得たこの男性と結婚し、配偶者として在留資格を得て暮らしていたが、昨年離婚し、在留資格を失った。 難民申請は却下され、現在は不服申し立ての審査請求中。 認められなければ不法滞在者として強制送還される可能性がある。

 このネパール人女性は内戦の母国を避けて来日したのですが、日本では「永住権者の配偶者」資格を得て暮らしてきたことが分かります。 しかし離婚したのですから、当然のことながら「配偶者」資格は喪失します。 そのまま日本に滞在していると、不法滞在となることも当然です。

 ところで私事ですが40年前(1970~80年代)のことを思い出します。 韓国女性が在日韓国人男性と結婚して来日する場合が多かった時代です。 彼女らは「永住権者の配偶者」の資格で生活することになります。 そして離婚すればその資格を失うので、離婚されまいと必死でしたね。 男性の方が別れると言って家出までするのですが、女性は男性の両親(舅姑)の世話を一生懸命にやって信頼を得て、息子には絶対に離婚させないと言ってくれたと言っていました。

 またある韓国女性は在日韓国人男性と結婚したのですが、程なく男性が事故で死亡。 この場合も「配偶者」資格は喪失します。 ただし事情がそうでしたから、1年ほどは在留資格を維持できました。 そして彼女はその合法滞在期間中に次の結婚相手を見つけようと、在日韓国人や日本人男性を必死に探していましたねえ。 そうしないと不法滞在となって送還される可能性があるからです。 祖国ではバツイチの女性は生活が難しく、水商売か売春くらいしか仕事がないので、何としてでも日本に残りたいと言っていました。

 またある韓国人女性は在日男性に嫁に来て子供を生みました。 子供は男性の永住権を受け継ぎますから、永住権者となります。 そうすると、その女性は永住権を有する子の母親となりますから、男性と離婚しようが死別しようが、子を養育している限り送還される心配はなくなります。

 昔のことですが私は以上のような話を聞いてきましたから、西日本新聞の記事に出てくるネパール人女性の話には疑問を抱かざるを得ません。 なぜ合法的な在留資格を得ようと努力してこなかったのか?という疑問です。

3回目の難民申請中のスリランカ人男性(39)は「国内の暴力団の恨みを買い、04年に外国への避難を決めた」と言う。 仲介業者を頼って逃げた先が日本。 難民認定率の低さは知らなかった。    「業者にだまされた。帰国すれば命はない」

 これにはビックリ。 「(祖国)国内の暴力団の恨みを買って」日本に逃避してきた人がなぜ難民なのか? これを難民扱いするのなら、麻薬マフィアの抗争で逃げてきたとか、借金取りの取り立てから逃げてきたとか、そんな人まで難民として受け入れねばならないことになります。 またそんなことを言っていたら、祖国で殺人を犯して逮捕を逃れようと来日した人も「帰国すれば死刑になる」から難民だという主張も成立することになります。

 西日本新聞の記事では、入管法改正に反対するための具体的事例として以上の二点を挙げています。 しかしどちらも私には疑問を抱くばかりです。 

【拙稿参照】

不法残留外国人について      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376331

かつての入管法の思い出      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306547

昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536

8歳の子が永住権を取り消された事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/01/9322206

不法滞在・犯罪者の退去・送還-1970年代の思い出2021/05/21

 5月18日付の産経新聞に「〈独自〉不法滞在の外国人、実刑判決の半数が難民申請 現行法で送還できず」と題する記事があります。  https://www.sankei.com/politics/news/210518/plt2105180041-n1.html

 記事によると、日本国内で犯罪を犯して実刑判決を受けた外国人のうち、半数が「難民認定申請」をしているといいます。

約3100人の中で不法滞在以外に罪を犯し、懲役3年以上の実刑判決を受けた人は約310人で、うち約150人が難民認定申請中だ。懲役5年以上は約180人中約90人、懲役7年以上は約90人中約50人が難民認定申請している。

 そのうちの具体例を挙げています。

たとえば、あるアジア人の男は強制わいせつ致傷罪で懲役4年の実刑判決を受け、仮放免中に強姦致傷罪(現強制性交等致傷罪)で懲役6年の実刑判決を受けたが、現在2回目の難民認定を申請している。アフリカ人の男は恐喝などの罪で懲役2年6月の実刑判決を受け、仮放免中に強姦罪(現強制性交等罪)で懲役5年など2度の罪を犯し、4回目の申請中だという。

 不法滞在者が摘発された場合、難民認定を申請すれば認定されるか却下されるか決まるまでの間、母国への強制送還を免れ、また国内で働くことが可能になります。 不法滞在者たちの民間ボランティア相談窓口でも、どうしても日本にいたいのなら難民申請しなさい、却下されてもまた申請すればいい、その間は送還されずに日本におれますよ、と助言しているといいます。 ですから日本ではその分、難民申請の数が多くなり、そして認定される人の割合が低くなります。

 ところで上述の産経新聞は、不法滞在どころか懲役3年以上の重犯罪の外国人の半数以上が難民申請しているという事実を伝えるものです。 難民申請が強制送還を免れるための便利道具になっているわけですね。 日本の難民認定は厳しすぎる、もっと難民を受け入れろ!と批判する人が多いようですが、外国人犯罪者をどう考えるかを聞いてみたいものです。

 また私事ですが、この記事を読みながら1970年代を思い出します。 日本はこの当時まだ難民条約に入っていませんでしたので「難民」なる外国人はいませんでした。 外国人の退去・送還問題といえば、ほぼ100%韓国・朝鮮人であった時代です。

 当時の在日韓国・朝鮮人は126-2-6、4-1-16-2、協定永住等の在留資格でしたから、オーバーステイというのはほとんどなく、問題の多くが韓国からの密航者、および在留資格を持っていながら懲役7年以上の犯罪者(1965年以前は懲役1年以上でしたが、日韓条約以降7年以上等に変わりました)でした。 ごく少数ですが、北朝鮮からの工作員潜入もありました。

 韓国からの密航者は10年20年と長年日本で暮らしてきた人も多く、それがある日発覚します。 多くは同胞からの密告だといいます。 すぐさま逮捕・収監され、強制送還の手続きがとられます。 それまで日本で安定して生活してきたのが一変し、当時まだまだ貧しかった本国に送還されるのですから、必死に抵抗します。 民団はそんな不法入国者を相手にしませんでしたから、在日韓国・朝鮮人問題を善意でやっていた日本人などに電話をかけ、何とかしてくれと頼むことになります。

 日本朝鮮研究所(後の現代コリア研究所―今は閉鎖されてインターネット版の機関紙を発行するのみ)の佐藤勝巳さんは、こんな電話が増えてきて、なかには今入管と警察が家の前に来ているという切羽詰まった電話もあったと言っておられましたねえ。 

 市役所の外国人登録を担当したことをきっかけに在日の生活相談をボランティアでやっていた人は、密航者からの相談、ついには犯罪者からの相談まで来るようになり、もうやっていられないと活動を止めました。

 1965年の日韓条約の法的地位協定により、在日は7年以上の懲役刑を受けると強制退去(送還)されることになりました。 ですから1972年頃からこれに基づく強制送還が始まりました。 その第1号が申さんという方で、刑務所から出所したらすぐに収監されて、強制送還されそうになりました。 彼には年老いた母親がおり、韓国には身寄りがおらず、また韓国語も知らないという事情があったので、彼を守ろうとする市民運動が起きました。 結局は法務大臣の特別在留許可がおりました。

 ところが、ある在日が彼に同情することなく、罪を犯したのだから韓国に送還されるのは当然だと言ったので驚いたことを記憶しています。 自分は法を守って生きてきたのに、そんな犯罪者と一緒にしてほしくないという気持ちのようでした。

 法務省に保護司という制度があります。 刑務所から出所した人を更生保護する役割を務める仕事で、この方から次のような実話を聞いたことがあります。 ある在日が仮釈放されて自分のところの担当となった、ところがその在日はすぐさま収監されて大村収容所に送られたと聞きビックリした、出所した人を更生させねばならないと思っていたのに、日本から追放するという処置に納得できない、これでは二重処罰ではないか、と言うのでした。 保護司という仕事を長年やっておられると、こういう感想になるものだなあと思いましたねえ。

 産経の記事を読みながら、昔の思い出を書いてみました。 今回もまとまらない文章になりました。

【拙稿参照】

不法残留外国人について(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/17/9378363

不法残留外国人について      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376331

かつての入管法の思い出      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306547

昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536

8歳の子が永住権を取り消された事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/01/9322206

在日の密航者の法的地位         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/23/6874269

韓国密航者の手記―尹学準        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/03/7933877

集英社新書『在日一世の記憶』(その3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/12/31/4035996

在日誌『抗路』への違和感(1)―趙博「本名を奪還する」2021/05/27

 在日問題を全般的に扱おうとする雑誌は、今は『抗路』ぐらいですねえ。 今は8号(2021年3月)まで発行されています。 これを読んでいて、私には違和感を抱くものが少なくありません。 具体的にそのお違和感とは何かを検証しようと、編集委員の一人である趙博さんの論考に対する私の感想を書いてみたいと思います。

 『抗路』8号に趙博「BLM運動を/に、学ぶ 『在日』公民権運動の『夢』」という論考に次のような文があります。

私は二一歳で本名を奪還した。(164頁)

さて、二一歳で本名を奪還した私は、この四十数年間、自己と「在日」に対する差別抑圧と不条理に抗ってきた (168頁)

 おそらく彼はそれまで「西山博」という日本名だったのが、その時から「趙博」と名乗ったということと思われます。 それは本名が「趙博」であるのに日本という差別社会が通名の「西山博」を使わせるようにした、だから本名を取り戻し、差別と闘ってきたというのが彼の主張のようです。

 ところが彼は『抗路』6号(2019年9月)の座談会で、自分の名前について次のように発言しています。

僕はどこかに書いたことがあるんだけど、己の記憶に出てくる自分の最初の名前は「あんどうしげはる」なんですよ。 誰が何と言おうと「安藤茂治」なんだ。その事情は中学生の頃に判明するんだけど、お袋が離婚した後、ぼくはおじいちゃん・おばあちゃんのところで育てられます。 爺さんの本名は権元淳、通名が安藤さん。 で、僕が生まれたときに届け出た名前が「趙博」だった。

一方、婆さんからは「お前の本当の名前は趙ヨンテやで」と何度も聞かされていたんです。ヨンテは「栄泰」かな、などと思ったりもしましたが、漢字はついぞ分からない。 ところが「ひろし」という名前が、離婚のときの名前だから縁起が悪いということで「しげはる」に勝手に変えたらしいんです。 そして僕が四歳の時にお袋が再婚したのですが、「今日からお前は西山博(ひろし)やで」といわれた記憶が強烈に残っています。 親父の通名が「西山」で、登録上の名前「博」に戻ったわけです。

僕は産みの親爺にあったこともなければ、顔も知らない。なんでも、韓国海軍の将校クラスの軍人で朝鮮戦争のときに軍隊から逃亡して、密航で日本に来て西成に住んだらしい。 当時、他人の外登(外国人登録書)を金で買えたそうですね。 その人の名前が「趙」だった。 彼の本名は「池」なんだが、離婚しても子どもの姓は変わらない。 僕は「趙博」のままだから、お袋は再婚相手として関西中の趙さんを探し回ったっちゅうんですよ。(笑)

僕はいま「趙博(チョウ・パク)」と自他共に名のっていますが、その確固たる根拠なんてどこにも存在しない、たまたまなんです。 (以上は『抗路』6号 15~16頁)

 彼が奪還したという名前の「趙」は、実父が韓国から密航して不正に入手した外国人登録証の名前ということです。 全くの架空の人物なのか、それとも「趙」という実在人物に背乗り(はいのり)したのか、そこは分かりません。 そして実父の本当の本名は「池」だということです。

 さらに下の名前は、生まれた時に届けられたのが「博」、しかし祖母から本名は「ヨンテ(栄泰?)」と教えられ、母親の再婚時に元に戻って登録の通りに「博」。 

 民族名だけでもこれだけややこしい。 さらに日本名も「安藤茂治」と「西山博」の二つがあって、これまたややこしい。

 こんな名前の歴史を経てきた彼が「本名を奪還した」と言うのですから、「奪われていた本名」とは何だろうかという疑問を抱きます。 彼は韓国籍(ひょっとして朝鮮籍?)ですから、本国の韓国での国民登録(北朝鮮なら公民登録)名が、あるいは「趙」家の族譜の名前が「本名」だと思うのですが、それが出てきません。 出てくるのは日本国政府が編成する外国人登録上の名前で、これを「本名」としているようです。

 つまり彼は日本の国家権力が作る登録制度に依存して、そこに不正に登録された名前を名乗ることを「本名を奪還」と言っているところに、私の大きな違和感があります。

 彼は日本政府について次のように述べます。

日本政府は、「在日」の諸権利については「外国人だから」を根拠に排除する。 典型例は「外国人だから選挙権がないのは当然だ」である。 一方、独自な民族教育を認めよ等と主張すれば「日本に住んでいるのだから日本の法律に従え」と、認めない。 同様の論理で「日本に住んでいるのだから」、税金は日本人「並」に取る。 事ほど左様に、無権利状態とは、権力によって恣意的に排除(強制送還も含めて)されたり包摂されたりする、ということなのである。(『抗路』8号 169頁)

   日本の国家権力に対してこれほどの対抗意識を有していながら、本名となると、その権力がつくる外国人登録制度に、しかも不正登録された名前に依存するのですねえ。 私にはとてもじゃありませんが、大きな違和感を持ちます。

【拙稿参照】

通名禁止、40年前から「左」が主張と実践 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/05/6681269

「左」が担った「通名禁止」運動(3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/23/9359710

第21題「本名を呼び名乗る運動」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuichidai

第85題(続)「本名を呼び名乗る運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai

第84題 「通名と本名」考   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai