松浦武四郎がテレビドラマ化2018/08/02

 今回は韓国・朝鮮とは全く関係のないお話です。

 幕末の北方探検家で、「北海道」の名付け親として有名な松浦武四郎がテレビドラマになるそうです。

https://www.nhk.or.jp/sapporo/nispa/index.html

https://www.sankei.com/west/news/180801/wst1808010002-n1.html  

 私は松浦武四郎の建立した石碑について調べて2005年に某研究誌に発表し、2006年に拙HPに一部を省略して掲載しました。   

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuhachidai

 その後は何も取り組んでいませんが、松浦武四郎にはひときわ感懐深いものがあります。  この度テレビドラマ化されると知り、多くの人が彼を知るようになると思うと嬉しいですね。

 松浦武四郎は北方探検家でしたから、西日本では縁の薄い人物のように見られています。 しかし↑の拙論にありますように西日本の天満宮25ヵ所を巡拝して石碑を奉納しています。 石碑は二十五宮のうち十三宮で今も境内に立っており、十一宮ではいつでも見学できます。 ですから西日本の方々もこれを機会に天満宮に参拝して石碑を見学し、松浦武四郎を知っていただけたら幸いです。

最初の韓流ブーム2018/08/06

 韓流ブームといえば、2003年の「冬のソナタ」から始まったとされています。 確かに冬のソナタの「ヨン様」は韓国への関心を爆発的に高めました。 特に日本の中高年女性がこのブームを牽引し、日本各地の韓国語教室は彼女たちで超満員となったものでした。

 ところでそれ以前はどうだったのでしょうか。 1960年代までは、日本人で韓国に関心を持つ人はほとんど全くいなかったと言っていいでしょう。 左翼・革新系の人たちは社会主義国北朝鮮への幻想を有しており、いずれ韓国は北朝鮮によって統一されて消滅すると信じていましたから、韓国への関心を持ちませんでした。 また右翼やヤクザの一部では裏側で韓国と人的交流があったようですが、極めて特殊な場合でした。

 韓国が日本人の関心の対象となったのは、やはり1965年の日韓条約締結後のことになります。 時の朴正熙政権が、日本から資本と技術を導入して産業化を図るという経済政策を推進しましたから、日本から主に産業界の人士が多く訪韓し、韓国人と交流し、韓国文化に接したのでした。 それまで皆無と言っていい程だった韓国への関心が、この時から始まったのです。 従ってこれを、最初の韓流ブームと言えると思います。

 それではこの当時に訪韓した日本人は、韓国へどのような関心を持ち、どのような交流を展開していったのかです。 そこには今では信じられないような交流があったことは、皆さんの記憶に止めてほしいと思います。 

 安福基子『赤坂魔境』(亜紀書房 1994年10月)に次のような記述があります。

1965年日韓会談が成立すると、日韓経済交流が始まった。    69年9月、日韓合弁企業の第一号韓国工作機械株式会社が釜山に設立されたのをかわきりに、安い賃金の労働力を求めて日本企業の韓国進出が猛烈な勢いで広がった。 経済協力とビジネスの看板を背負って韓国入りした日本の男たちが、最初に覚えたのが女遊びだった。

60年から70年は、日本企業の駐在員の大半が韓国人の現地妻を持った時代だった。 一方で、軍事政権は外貨稼ぎとして観光客を誘致した。 その目玉商品が妓生だった。 たちまち日本の男たちが、団体で韓国旅行に走った。 売春ツァーである。

70年代になると、本場で韓国女と遊びなれた日本の男たちが、コリアンクラブを占領しはじめた。 コリアンクラブ・ブームの幕開けだった。  日本の歓楽街で市民権を得たコリアンクラブめざして、女衒会社である芸能プロダクションがあの手この手で女たちを運んできた。 (以上 20~21頁)

 その後、日本はバブル経済に浮かれ、国内のコリアンクラブは盛行を極め、また韓国への買春旅行も盛んでした。 当時韓国へ行く飛行機乗客の大半が男性で、たまたま乗り合わせた日本人女性が、周囲の男性が女を買う話ばかりするのでビックリして怖くなったと話していたことを覚えています。

 またある日本人女性は、ソウルのホテルのエレベーターで偶然に乗り合わせた日本人男性二人がこっちを韓国妓生と思い込んで、今度はこんな太っちょの女もいいなあ、などと日本語で話し合っていたという体験談をしてくれました。 エレベーターから降りる際に、私は日本人なんですがねえ、と言ったら顔色を変えて追い掛けてきて、すまん、誤解しないでくれと言ってきたが、余りに腹が立って無視したそうです。

 このころの日韓交流は男性が中心で、このように性的な交流が大きな比重を占めていました。 これが最初の韓流ブームと言えるでしょう。 そしてこの交流の味が忘れられない日本人男性は、バブル後も形を変えて交流します。 同じく安福基子『赤坂魔境』です。

1989年ごろから、日本の男たちが数人寄り集まって、韓国で女を囲っている話を聞くようになった。   それ以前は韓国に妾を囲うのは、大手企業の駐在員や中小企業の社長クラスの流行だった。 ところがバブル経済が弾けた後の不景気から、少ない金で今まで通りの女遊びを考えだしたのが、共同妾ということらしい。

私の知人の男も、仲間五人で、一人三万円ずつ出しあい、十五万円の手当てでソウルに一人の女を囲っていた。彼らはゴルフに行く、ちょっと観光、といっては入れかわりたちかわり韓国通いをした。 共同とはいえ、たった三万円で女房の目が届かない海外に、専用の女が持てるのだから、男として有頂天になるのも当然だろう。 帰って来ると、微に入り細に入り女との関係を、人前で話しては自慢した。 (以上 ⅰ頁)

 当初の韓流ブームは1990年代までの長い間、このような性的なブームだったのです。 それが2000年代に入って「ヨン様ブーム」となりましたから、何と明るい日韓交流だろうと感心すること、しきりです。 韓流ブームは中年男性から中高年女性へと主役が替わり、‘暗くて陰湿’から‘明るく健康的’へと質が変わったと言えます。 

 そして韓国からの日本旅行者は年間700万人と、韓国国民7人に1人の割合です。

 以上のことを思うと、これからの日韓関係は庶民の交流レベルではもっと楽観的に見てもいいのではないでしょうか。

尹東柱の創氏改名―ウィキペディアの間違い2018/08/11

 尹東柱の創氏改名について、彼が「苦悩した」とコメントされた方がいて http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954  ちょっと疑問に感じ、調べてみました。 

 尹東柱が創氏改名に「苦悩した」という説はかなり広まっていて、ほとんど定説化しつつあるようです。 彼自身がそのように書き残していれば問題ないのですが、それが全くありませんから後世の人の推測に過ぎないことになります。 つまり苦悩せずに創氏改名を素直に受け入れた可能性もあるということです。 そうであるのに一方が定説化しつつあることは、かえって尹東柱を誤解することにもなりますから、困ったことだと思います。

 ところで韓国のウィキペディアでは、尹東柱の創氏改名について次のように説明しています。 

창씨개명     윤동주 집안은 1941년 말 '히라누마'(平沼)로 창씨한 것으로 돼 있다. 일본 유학에 뜻을 둔 윤동주의 도일을 위해선 성씨를 히라누마로 창씨를 개명하게 되었다.     윤동주의 창씨개명은 본인의 의사와는 관계 없는 것이었다. 그의 연보에 의하면 윤동주가 전시의 학제 단축으로 3개월 앞당겨 연희전문학교 4학년을 졸업하면서 1941년 연말에 "고향 집에서 일제의 탄압과 동주의 도일 수속을 위해 성씨를 '히라누마'로 창씨했다" 는 것이다. 개명 후 윤동주는 매우 괴로워했다 한다.     창씨개명계를 내기 닷새 후 그는 창씨개명에 따른 고통과 참담한 비애를 그린 시 참회록을 썼다.     윤동주의 창씨개명설은 해방 이후에는 알려지지 않았다가 1990년대에 와서 알려지게 되었다.

 ちょっと訳してみますと、

創氏改名      尹東柱の家は1941年末に「平沼」に創氏したとされている。日本留学を志した尹東柱の渡日のために姓氏を平沼と創氏改名することとなった。      尹東柱の創氏改名は本人の意志とは関係ないものだった。彼の年譜によれば、尹東柱が戦時の学制短縮で3ヶ月繰り上げて、延禧専門学校4学年を卒業し、1941年の年末に「故郷の家で日帝の弾圧と東柱の渡日手続きのために姓氏を『平沼』と創氏した」のである。改名後、尹東柱は非常に苦しんだという。     創氏改名を出して五日後に、彼は創氏改名による苦痛と惨憺たる悲哀を表した詩、懺悔録を書いた。      尹東柱の創氏改名については解放以後では知られることがなかったが、1990年代になって知られるようになった。

 この韓国のウィキペディアの記述は間違いだらけで、驚きました。 創氏改名の基礎的知識もなく、俗説を信じて尹東柱の創氏改名を解説したようです。 

 創氏の届出期限は1940年8月10日ですから、尹東柱が「平沼東柱」と創氏改名したのはこの日までのことです。従って「1941年末に『平沼』に創氏した」というのは明確な間違いです。 彼が日本留学を決意した時には、既に『平沼』と創氏していたのでした。 だから「渡日手続きのために姓氏を『平沼』と創氏した」もまた明白な間違いです。

 「尹東柱の創氏改名は本人の意志とは関係ないものだった」はその通りです。 このウィキペディアで唯一の正解ですね。 創氏は尹氏一族が、自分たちは「平沼」と創氏すると決めたから戸主である尹の父親(あるいは祖父)が創氏を届け出たのです。 創氏は戸主がするものであって、尹東柱個人が出来るのではありませんでした。 だから本人の意志とは関係なく、父親(あるいは祖父)の意志によって創氏したのです。

 「日帝の弾圧のために創氏した」とあるのは、おそらく「平沼」と創氏することを日本帝国主義が強制したという意味のようです。 しかし尹家では何も「平沼」のような日本名で創氏せずに、「尹」のまま創氏することも可能でした。 「平沼」で創氏するか、それとも「尹」で創氏するかは、戸主である父親(あるいは祖父)が決めることでした。 「日帝の弾圧のために『平沼』と創氏した」も間違いです。

 また尹東柱が創氏改名に「苦悩した」とする根拠として、彼の「懺悔録」という詩が挙げられています。 この詩は作詞日が1942年1月24日となっています(後述の岩波文庫)。 ウィキペディアによればその5日前に創氏したとありますから、1942年1月19日が創氏の日となります。 しかしウィキペディアは一方で彼の創氏の日を「1941年末に創氏」としていますから、1ヶ月の違いがあって矛盾となっています。

 以上により韓国のウィキペディアの「1941年の年末に故郷の家で日帝の弾圧と東柱の渡日手続きのために姓氏を『平沼』と創氏した」という解説は虚偽であり、作り事としか言い様がありません。 

 次に上述の「懺悔録」という詩が「創氏改名による苦痛と惨憺たる悲哀を表したものだ」としています。 これは岩波文庫『尹東柱詩集 空と風と星と詩』(金時鐘編訳 2012年10月)の46頁に翻訳、原文が122頁に掲載されていますので、是非お読みください。

 これが果たして「創氏改名による苦痛と惨憺たる悲哀を表した」詩なのかどうか。 どうしてそのように読み取れるのか、私には不思議に思えてなりません。

 尹東柱の詩は素直にそのまま読めばいいものを、当時の時代の状況について何か思想的なメッセージが内包しているかのように考えて読むことは、果たしていかがなものでしょうか。 それは尹東柱に対する冒涜と思うのですがねえ。

【関連拙稿】

尹東柱の創氏改名記事への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954

尹東柱記事の間違い(産経新聞)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/09/7568265

尹東柱記事の間違い(毎日新聞)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/15/7572811

尹東柱記事の間違い(聯合ニュース) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/29/8339905

水野・文『在日朝鮮人』(11)―尹東柱  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/26/8118773

尹東柱は中国朝鮮族か韓国人か   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/21/8075000

尹東柱のハングル詩作は容認されていた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283

『言葉のなかの日韓関係』(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/09/6772455

『言葉のなかの日韓関係』(3)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/11/6774088

『言葉のなかの日韓関係』(4)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/13/6775685

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423913

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/30/8425667

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/01/8436928

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (4)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441238

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (5)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444253

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447420

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/09/8451992

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457633

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (9) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478676

宮田節子の創氏改名論          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557

民族名で応召した朝鮮人         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/14/7491817

朝鮮人戦死者の表彰記事ー1944年  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716160

朝鮮人志願兵初の戦死者 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/02/8719450

「強制徴用犠牲者の遺骨」返還記事の違和感2018/08/15

 ハンギョレ新聞によると、植民地時代に日本各地で亡くなった朝鮮人の遺骨が73年ぶりに返還されたというニュースが報道されました。 http://japan.hani.co.kr/arti/politics/31360.html

光復73周年を迎え、強制徴用犠牲者の遺骨35柱が韓国に帰って来た。

遺骨が到着した14日、金浦(キンポ)空港入国場では、英霊たちのための還郷儀式も開かれた。ソウル市は、遺骨35柱がソウル市立竜尾里(ヨンミリ)第2墓地公園に安置されると発表した。「強制徴用犠牲者遺骨奉還委員会」がDMZ平和公園に推進中の海外同胞墓地が完成するまで、委員会の要請で遺骨は臨時安置される。

 埋葬式は16日午後2時に行われる予定だが、埋葬式前日の15日午前11時には光化門広場で、第73周年8・15光復節の民族共同行事兼遺骨奉還国民追悼祭が行われる。ソウル市は昨年の光復節と今年の三・一節にも33柱ずつ合わせて66柱を奉安した。

 かつて日本では朝鮮人強制連行の真相を解明する運動が盛んでした。 私はこれには関わりませんでしたが、彼らから話を聞くことがありました。 思い出話ですので、正確性には自信がありませんが。

 朝鮮人の遺骨はほとんどがお寺に保管されています。 なぜこれまで返還されなかったのかと聞くと、お寺によると遺骨は遺族の元に返されるべきものだから、遺族が返してほしいと言われれば返してきたそうです。 しかし遺族が来られないので、寺ではそのまま保管してきたということでした。

 だったら遺骨に記録される名前や本籍地などの情報をもとに、遺族を探してあげてはどうかと聞くと、それはかなり難しいということでした。

 遺骨に名前等の記録がありますが、その名前が戸籍にある名前なのかどうかの確認が難しいようです。 日本名の場合でしたら創氏改名の名前でしょうが、必ずしもそうではなく、通名として日本名を名乗っていることもあったようです。 

 創氏改名の日本名でも、本国の遺族にはその名前の人が当人であるかどうか、当時を知るお年寄りがいなければ確認が難しいとのことでした。

 韓国では朝鮮戦争で戸籍そのものが焼失した場合が多く、新たに作成された戸籍は不正確だったといいますから、遺骨の名前を手掛かりに遺族を探すのは困難だそうです。

 結局、かつての朝鮮人強制連行の真相を解明する運動では、遺骨の返還はなされなかったようです。 日本の戦争犯罪を糾弾することに重点が置かれていましたから、そういった方向には動かなかったのかも知れません。

 ところで今回の遺骨返還では、結局遺族を探さずに、ともかく祖国に戻すことが優先されたようです。 引き取り手のない遺骨をいつまでも置いておくことは出来ないでしょうから、今回の返還は意味あることだと思います。

 なお今度のハンギョレ新聞の記事で違和感を覚えたのは、この遺骨を「英霊」と表現したこと、および遺骨を73年間も保管してきた日本のお寺等への感謝の言葉がないことです。

尹東柱の言葉は「韓国語」か「朝鮮語」か2018/08/19

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/11/8939110 のコメントで、ヌルボさんが尹東柱の詩の一節の「六畳部屋は他人の国」について、私がこの「国」は出身地のことではないかと自分の解釈を述べたことに対して、

「元の韓国語では「ナラ」で、「コヒャン」ではありません。「ナラ」を「出身地あるいは故郷」と解釈するのは無理があると考えます。

と批判されました。 批判の内容は理解できるのですが、ここで尹東柱が使った言葉を「韓国語」と記されたことに、あれ!と違和感を抱きました。 というのは言語名称の「韓国語」は解放(1945)後に使われたのであって、それまでは「朝鮮語」という言語名称のはずと思ったからです。

 つまり尹東柱が生きていた時代(1917~1945)に、朝鮮人たちが使っていた言葉を「韓国語」と称したことはなかったのではないか、ということです。 ちょっと調べてみました。

 まずは1910年の日韓併合以前は「大韓帝国」でしたから、この時代にこの国の言葉を「韓国語」と称したことがあったのではないかと思ったのですが、「韓語」というのは出てきます。 しかし管見では「韓国語」というのが見当たりません。 見当たらないというのは、根拠提示が困難ですねえ。 おそらくは「英語」を「英国語」と言わないのと同じように、「韓国語」と言わなかったのではないかと思います。

 尹東柱が生きた植民地時代は上述したように「韓国語」というものはなく、「朝鮮語」でした。 「朝鮮語学会事件」なんかが有名ですね。 当時の朝鮮人が使う言葉を「韓国語」と称したというのは出てきませんでした。 しかしこれも根拠提示が困難ですね。 なお上海臨時政府が「韓国語」と称した可能性はありますが、資料が余りに少なくてよく分からないです。

 やはり「韓国語」は、戦後(解放後)に生まれた言語名称だろうと思います。 従って植民地支配下で生きた尹東柱の使った言葉は「朝鮮語」であって、 「韓国語」とするには注釈が必要になるように思えます。

 ところで尹東柱の言葉が「『ナラ』であって、『コヒャン』ではありません」と記されました。 おそらく出身地という意味ならば「나라(ナラ)」ではなく「고향(コヒャン)」としていたはずが、そうではないじゃないかというご批判のようです。

 しかし尹東柱の作品では「고향」というハングルは使われずに、「故郷」という漢字語が使われています。 尹東柱は原則的に漢字語をハングル読みで書き表すことはなかったですから、「コヒャンではない」というご批判はちょっとずれているように感じたのですが。

 「남의 나라(ナメ ナラ ―他人の国)」の「나라(ナラ ―国)」は出身地あるいは故郷の意ではないかというのは、私の解釈です。 これは前に書きましたように、六畳一間の小さな空間を「他人の国」と書いた尹東柱は東京の下宿に馴染めず、故郷のような安息の場所ではないという意味で表現したと思えたからです。

この詩に漂う孤独感をどのように説明されるのか知りたいところです。

 この詩は上京し立教大学に入学して2ヵ月の作詩で、親しい友人が出来ずに孤独な新入生の心情を表したものと考えました。 同時期に作詞された「流れる街」にある「愛する友、朴よ!そして金よ!お前たちは今どこにいるのか?」という一節をはじめ、この時期の詩には孤独感が感じられたからです。

 その際にちょっと想像が過ぎた部分があったことは反省していますが、そういう可能性も考えられるということですね。 想像たくましくとも決して荒唐無稽ではないと思っています。

 ところで文学作品は人それぞれ様々な解釈があります。 だからそれを議論し合うことには意義があります。 しかし自分の解釈を提示せずに人に解釈を聞くというのは議論につながりませんねえ。

【拙稿参照】

尹東柱の創氏改名記事への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954

尹東柱の創氏改名―ウィキペディアの間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/11/8939110

本名は「金時鐘」か「林大造」か2018/08/23

 金時鐘さんの著作の刊行が盛んですね。 彼の主張には耳を傾けるべきものが多く、私も参考にさせてもらっていることが多いです。 しかし彼は自分の本名を「金時鐘」と「林大造」の二つを使い分けていることについて、ごく僅かに触れるだけであって、それをどう考えているのかを明確にしておられないようです。

 彼は親から「金時鐘」という名前をもらい、1949年の日本密航まではこの名前で生きて来られました。 そして日本密航後に不法に入手した外国人登録証の名前が「林大造」と推定され、それ以来日本では法律上の名前は「林大造」、ペンネームとして「金時鐘」として活躍してこられました。

 それから2003年に韓国の本籍を取籍するときに、故国で過ごした「金時鐘」ではなく、日本に密航して新たに得た「林大造」名で韓国戸籍を作成されました。 つまり親に名付けてもらって育ててくれた「金時鐘」ではなく、日本で入手した「林大造」を本国の法律上の本名とされたのです。

 彼自身が自分のこのような本名のあり方をどのように説明しているのかに関心がありました。 しかし彼の著作からは行きがかり上、やむを得ず本名を使い分けてきたような書き方ですので、残念な気持ちです。

 私が彼に期待していたのは、自分にとって日本の外国人登録や韓国の戸籍なんて意味のないものだから、不法に入手した名前でも構わないという法治主義に挑戦する言葉でした。 しかし二つの本名に積極的な意味がないのですから、私には彼の思想が色褪せて見えます。

 私は金時鐘さんの本名に関する疑問を、拙ブログでは下記のように表明してきました。 ところが YahooやGoogleでは排除されているようで、検索しても拙ブログが出てきません。 おそらくは世に知られたくない事実なので、関係者がそのような工作を画策したのかなあ、などと想像しています。

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

金時鐘さんの出生地        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

毎日の余録に出た金時鐘さん2018/08/27

 毎日新聞の2018年8月25日付コラム「余録」が金時鐘さんを話題にしていました。 https://mainichi.jp/articles/20180825/ddm/001/070/145000c  その中身に疑問な点があります。 その部分を紹介しますと、

「在日」として日本語で詩を書いてきた奈良県在住の詩人、金時鐘(キムシジョン)さん。日本に植民地支配された朝鮮半島で生まれ、学校では日本語の使用を強制された。敗戦からほどなくして思い出したのは、幼いころ、港で釣り糸を垂れる父の膝で一緒に朝鮮語で歌った「いとしのクレメンタイン」だ ▲<ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)ナエサラン クレメンタイン(わがいとしの クレメンタインよ)>。日本の勝利を信じる「皇国少年」だった。敗戦直後は涙に暮れて海辺で「海行かば」を口ずさんだ。だが、父の歌が「私に朝鮮をよみがえらせた」(著書「『在日』のはざまで」)という ▲母国語を奪われた朝鮮の人々は日本の支配からの解放をどれほど喜んだことだろう。しかし故国は米ソの対立によって南北に分断される。日本でも、同じ朝鮮人なのに南か北かで対立を強いられた ▲南北は融和に向けて動き出そうとしている。半島の非核化の進展に日本から注目が集まるのも当然だ。だが金さんのように半島の悲劇の歴史に翻弄(ほんろう)された在日コリアンがいることも忘れずにいたい。

 余録は、金時鐘さんが「父の膝で一緒に朝鮮語で歌った」書きながら、その直後に「母国語を奪われた朝鮮の人々」と書いています。 母国語を奪われた朝鮮人の親子が母国語で一緒に歌を歌ったというのは、矛盾だと思うのですがねえ。

 「学校では日本語の使用を強制された」とありますが、日本語が公用語ですから学校で日本語を厳しく教えられるのは当然です。 これは例えばイギリスの植民地だったインドや香港の学校で英語を教えられていたのと同じです。

 公用語というのは公文書、裁判、公的会議、契約等々の社会生活に必要な言語ですから、公用語が出来る・出来ないは就職に大きく影響します。 学校の教師たちが朝鮮人の子供たちに公用語である日本語を覚えさせて、子供らの将来の生活の安定を図ろうとしたのは当たり前のことでしょう。 これを「強制」と否定的に表現することは、事実を歪曲するものと言っていいと考えます。

 また当時の朝鮮人には教育の義務がありませんでした。 ですから朝鮮人子弟の就学率は、男子は50~60パーセント、女子は10パーセントしかありませんでした。 もし親が子供に日本語を覚えなくてもいいと考えれば、学校に行かせなくてもペナルティがなかったのです。 そんな時代でしたから「母国語を奪われた朝鮮人」というのは、当時としてはあり得ないことです。 

 余録は金時鐘さんを「半島の悲劇の歴史に翻弄(ほんろう)された在日コリアン」と評しています。 果たして金さんが「歴史に翻弄された」というような没主体的な生き方をされたのでしょうか?

 金さんは植民地支配下では自ら皇国少年となり、日本が敗戦すると南朝鮮労働党に加入して共産主義者として活動し、4・3事件で警察に追われると日本に密航し、日本では日本共産党に入党して吹田事件等の暴力闘争を闘い、その後朝鮮総連とたもとを分かち、日本公立高校の教師として就職し、そして執筆活動して生計を立ててこられました。 余録は「同じ朝鮮人なのに南か北かで対立を強いられた」と書きますが、金さんはその対立なかで北を自ら選び、その後南の韓国籍を自ら取得されたのです。

 これらはその時々の社会情勢に合わせて自ら主体的に選んできた道であって、外部の力によって押し流されて生きてきたことを意味する「翻弄された」ことはなかったのではないでしょうか。

 そんな彼が本名を「金時鐘」と「林大造」の二つを使い分けていることについて、主体的な選択という説明がないことに大きな違和感と失望感を抱いたことは、下記のブログで書きました。 ご参考いただければ幸い。

【拙稿参照】

本名は「金時鐘」か「林大造」か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

金時鐘さんの出生地        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

済州島4・3事件の赤色テロ(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890

済州島4・3事件の赤色テロ(5)―右翼家族へのテロ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/05/8909472

済州島4・3事件の赤色テロ(6)―評価は公平に http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/10/8912907