戦後補償運動には右派も参加していた2022/02/07

 『抗路9』(2022年1月)に、外村大さんの「歴史としての戦後補償運動」と題する論稿があり、その中に次のような一節があります。

戦後補償運動といえば、1990年代‥‥以前にも、アジア近隣諸国の被害者支援の活動はあった。 例えば、在韓被爆者の生活医療援助やサハリン残留韓国人の家族との再会や帰国の実現、台湾人の元日本軍軍人・軍属への補償実現などは1970年代から取り組まれていた。 また、具体的な支援対象者や政策実現の要求の運動ではなく、強制連行等に係る史実の調査や学習、追悼事業などについても、地道な活動を続ける人びとがいた。 

そのような、いわば初期戦後補償運動の活動はどんな特徴を持っていただろうか。 またそれを生み出した思想的背景はどのようなものだったろうか。

まず、注意すべき点として、これらの活動が必ずしも左派が独占していたわけではないということがある。 平和や人権、アジア近隣諸国との友好といった主張は左派系であるという、今日の一般的なイメージは当てはまらないのである。‥‥

そもそも、この時期、日本人の前に現れて植民地支配の清算の必要を意識させたのは反共国家(つまり台湾や韓国)の人びとであった。 日本人がマルクス主義の理論を語りながら彼らに対する支援を呼びかけたとしても、受け入れるはずはなく、むしろ迷惑であった。 被害者当事者が必要としたのは人権救済であり、空疎な左翼の理論は時には批判された。‥‥

こうした初期戦後補償運動の一部には、保守政治家や右翼活動家も参画していた。 国政レベルでも超党派で問題解決のための施策や立法が進んだ。 サハリン残留韓国人問題や台湾人の元日本軍軍人・軍属への補償問題はそうした事例である。 日本帝国とのつながりを意識する保守政治家や右翼活動家の中に、“旧植民地の人びととの間で補償に格差があるのは問題である、一緒に戦ってくれた彼らに何かをすべきであると考える者がいたことがそこに関係している。 これは論理的にも、同時に論理を超えた人間関係を大切にする右派の行動様式から言っても不思議ではなかった。 (以上『抗路』第9号 3~4頁)

 戦後補償運動は、今では革新・左翼系ばかりがやっている印象ですが、実はその運動の初期である1970年代は保守・右翼系も参加していたということです。 特に旧植民地だった韓国や台湾については、左派より右派の方が熱心でした。 なぜなら日本の左派は、韓国・台湾は米帝に支配されている反共独裁国家という位置づけで、どちらもこの世にあってはならないと考えていたからです。 

 当時韓国や台湾に進出していた日本企業家が、昔日本はあちらに迷惑をかけたのだからその罪滅ぼしのようなものです、とか言っていましたねえ。 しかし当時の左派は、日本はかつての大東亜共栄圏を夢見てアジアを再侵略しようとしているなんて主張していましたから、そんな話は再侵略を実行しているだけだと批判・糾弾の対象とするものでした。 

 ところで外村論稿では台湾について、「台湾人の元日本軍軍人・軍属への補償実現」と記しています。 これは台湾のアミ族出身の旧日本軍人だった中村輝夫(李光輝)の件を指しています。 彼はインドネシア東部のモロタイ島で、日本敗戦後も日本軍人として30年間にわたり残留し、1974年に発見されました。 

 1970年代前半は、日本敗戦後も元日本軍人の自覚を維持しながら現地に残留した横井庄一や小野田寛郎が相次いで発見されており、その直後にこの中村輝夫が発見されたのです。 ところが問題は横井や小野田には補償金が出たのに、中村は台湾人であることを理由に補償金が出なかったのです。 これはおかしいと立ち上がったのが保守政治家や右翼活動家であり、左派ではなかったのでした。

 以上のことを思い出すにつけ、戦後補償問題は1970年代までは日本の「右」も「左」も関わっていたが、1980年代以降「右」はもはや解決したとして手を引き、「左」だけが自らの存在証明のように活動を熱心に続けた、と言えるのではないかと思い出されます。

 これが1990年代になっていわゆる従軍慰安婦問題等へと続いて「左」と「右」の対立となり、さらに「左」は「良心的日本人」として韓国と連帯するようになり、問題が日韓の国家的対立にまで突き進んだと言えるでしょう。

【『抗路』に関する拙稿】

在日誌『抗路』への違和感(1)―趙博「本名を奪還する」  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/27/9381682

『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666

趙博さんの複雑な名前     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/02/9171893

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

在日総合誌『抗路』に出てくる「北鮮」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000

戦後補償問題の解決とは?―『抗路』外村大を論ずる2022/02/14

 戦後補償問題について、私は前回で次のように記しました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/07/9461960

戦後補償問題は1970年代までは日本の「右」も「左」も関わっていたが、1990年代以降「右」はもはや解決したとして手を引き、「左」だけが自らの存在証明のように活動を熱心に続けた

 この時期の事情について、外村さんはその所論の中で次のように説明しています。

そうしたなか(1990年代以降)で、戦中派の不満を受け止めつつ、謝罪と戦後補償への反対を掲げる保守派の巻き返しが力を得た。 かくして1980年代までに見られた超党派の枠組みの基盤は破壊されていったのである。(8頁)

この時期(1980年代まで)の日本はGDP等の指標でみれば、アジアのなかで他国とは隔絶した地位にあった。 しかも1990年代初頭までのバブル景気の時期には、日本は最も成功した国家であり、世界の最先端を行く社会であるというような意識すら広がっていた。 総じて現状への批判的意識は薄れ、近代日本の影の部分を見据えようというムードは一般的ではなかった。(8頁)

むしろ(戦後補償問題に)影響していたのは、GDP等で測られる日本の国力への自信であった 。つまり、戦後補償としていくばくかのお金を支出することは、さして負担でないし、アジアのほかの国に対して優位に立っていることは変わらない、むしろ、謝罪してお金を払って解決するのであればそうすればよい、という認識が、謝罪と補償への支持の背景にあったと思われる。(9頁)

だが、日本人が自国の国力は絶大で、ほかのアジア諸国への優位にあるというような自信を持ちうる条件は崩れていった。 自分たち日本人の優位を前提として、他民族への謝罪や補償を認めることはもはやできない。 そうしたなかで、多くの日本人は加害の史実を直視することすら厭うようになっている。 それが今日の日本社会の現実ではないだろうか。(9頁)

 この分析はその通りと思います。 かつての日本は「金持ち喧嘩せず」という諺の通りを実行し、時には謝罪し譲歩してきました。 しかし日本の絶対的優位は1990年代以降の「失われた20年」によって崩れ、アジア諸国(韓国など)の言い分を聞く余裕がなくなったのです。 いつまでも止むことのない戦後補償問題、そしていくら謝罪しても更なる謝罪を要求されることに日本人の多くが〝うんざり″感を抱くようになり、強い反発が見せることになったのは周知のことでしょう。

 外村さんは、さらに次のように論じます。

かくして被害当事者らが納得するような戦後補償の実現は困難となった。 だが、依然として歴史問題の解決は重要課題である。(9頁)

 「戦後補償の実現」=「問題の解決」は困難だと言いながら、「重要課題」だとしておられるところに大きな違和感があります。 そして、この困難な「問題解決」のために、

‥‥ 継続的な関係者の交流、史実の継承といった、市民の「和解」こそが必要であり、それが葛藤を解きほぐしていくであろう。 そのためには、市民一人ひとりが、かつての植民地支配や戦争によって起こった人権侵害の歴史について、自分たちの関係の中で考えることが重要である。 (9頁)

 つまり外村さんは、「市民」が「歴史問題」に取り組むことを「和解」として提唱しています。 解決が困難なのに「和解」が出来るのだろうか? いつまでも解決しない問題ならば、「和解」しても意味がないのではないか?という疑問が湧くのですがねえ。 ところでその「和解」の具体的内容は、

朝鮮人強制連行の史実の調査や被害当事者との交流、犠牲者の遺骨返還、追悼行事等は、貴重な実践である。 慰安婦問題でも、多くの人の心を動かす活動が続けられ、歴史研究にも影響を与えた。(9頁)

 このような実践を行なう「市民」の活動はそれなりに貴重だとは思いますが、あくまで一部の有志で、しかも歴史事実の追究という立場からのみで行なうべきだと私は考えます。 少なくとも、すべての国民に課せられた問題としないようにお願いしたいものです。

【拙稿参照】

戦後補償運動には右派も参加していた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/07/9461960

中韓は子供と思って我慢-藤井裕久    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/27/7157809

毎日新聞 「“強い国”こそが寛容に」   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/15/7344974

「歴史」を学ぶことの疑問   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuurokudai

糾弾する朝鮮人と反論できない日本人 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuuhachidai

「強制連行」考      http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuuhachidai

「朝鮮人は朝鮮に帰れ」考   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunanadai

「尹東柱」記事の間違い―中央日報2022/02/17

 今の韓国で最も有名な民族詩人である尹東柱は、太平洋戦争中の1945年2月16日に日本の福岡刑務所で獄死しました。 ですから、この2月16日を前後して、尹東柱の記事が多くなりますね。 韓国の『中央日報』2022年2月15日付で、「【時論】韓国と日本をつないだ尹東柱」と題する記事がありました。 https://japanese.joins.com/JArticle/287796

 そのなかに、歴史的事実として間違いと言わざるを得ない部分がありますので、指摘しておきたいと思います。

尹東柱(ユン・ドンジュ、1917ー1945)の「序詩」(1941)だ。16日は詩人の忌日だ。「生きとし生けるもの」に国とハングルを奪って平沼東柱に改名を強要した日本人も含めたのだろうか。

 「生きとして生けるもの」が誰なのかは読者によって違うでしょうから、そこはいいのですが、その次に出てくる「国とハングルを奪って平沼東柱に改名を強要した日本人」に間違いがあります。

 まず1910~45年の植民地時代、日本は朝鮮で「ハングルを奪った」ことはありません。 当時の資料に、ハングルはたくさん出てきます。 朝鮮総督府は大東亜戦争の意義を朝鮮人たちに理解させるために、ハングルを使った資料を配布しています。 また朝鮮でのラジオ放送にも、時間数は少ないですが朝鮮語の番組がありました。 あるいは朝鮮内での電報は、ハングルで送ることが出来ました。 つまり日本人が「ハングルを奪った」とする中央日報の記事は、明白な誤りです。

 それから日本人が「平沼東柱に改名を強要した」とありますが、「尹」を「平沼」に創氏を決めたのは尹一族であり、尹東柱の父(あるいは祖父―要するに戸主)がその決定に基づいて「平沼」と創氏を届け出たから、尹東柱は「平沼東柱」となったものです。 もし届け出せずに「尹」という名前で創氏することも可能でしたが、尹の門中はそれをしなかったのでした。 ですから日本人が尹東柱に「改名を強要」したことはありません。 これも明白な間違いです。

生存する2人の女子学生の証言によると、写真を撮って川辺で昼食を食べた後、尹東柱は級友に頼まれて韓国語でアリランを歌ったという。当時は禁止されていた行為だった。

 当時は日本語が公用語でしたから、学校や裁判、役所等の公的な場所では日本語が強制されました。 しかしそこから一歩出たら、家族・親戚・近所・友人間等においては朝鮮語を使うことは自由でした。 ですから尹東柱が級友と川辺で昼食を食べた時に「韓国語でアリランを歌う」ことは、何ら禁止されるものではありませんでした。 ここも明白な間違いです。

 尹東柱については、韓国でも日本でも間違いの記事が多いですねえ。 これまで同じような間違いを繰り返しています。 (下記をご参照ください)

【拙稿参照】

毎日のコラム「余録」の間違い―尹東柱 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/15/9295605

尹東柱の創氏改名―ウィキペディアの間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/11/8939110

尹東柱の創氏改名記事への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954

尹東柱記事の間違い(産経新聞)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/09/7568265

尹東柱記事の間違い(毎日新聞)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/15/7572811

尹東柱記事の間違い(聯合ニュース) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/29/8339905

水野・文『在日朝鮮人』(11)―尹東柱  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/26/8118773

尹東柱は中国朝鮮族か韓国人か   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/21/8075000

尹東柱のハングル詩作は容認されていた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283

『言葉のなかの日韓関係』(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/09/6772455

『言葉のなかの日韓関係』(3)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/11/6774088

『言葉のなかの日韓関係』(4)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/13/6775685

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423913

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/30/8425667

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/01/8436928

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (4)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441238

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (5)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444253

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447420

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/09/8451992

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457633

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (9) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478676

朝鮮人戦死者の表彰記事ー1944年  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716160

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (11)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/11/9346012

宮田節子の創氏改名論          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557

民族名で応召した朝鮮人         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/14/7491817

尹東柱の言葉は「韓国語」か「朝鮮語」か http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/19/8945248

第三次教育令ー朝鮮語教育は廃止されたのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/12/8971509

朝鮮語は容認されていた―愛国班  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/10/8724405

朝鮮語は容認されていた―愛国 (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/14/8727138

日本統治下朝鮮における朝鮮語放送  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721782

尹東柱の国籍は? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/13/9356544

尹東柱と孫基禎の国籍について http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/07/18/9399145

親の靴職人を継いだ在日子弟―『抗路9』座談会2022/02/24

 雑誌『抗路』は以前に論じましたように、思想的立場が左派であることを明確に打ち出している「在日総合誌」です。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212 しかし「在日」「韓国」を具体的に体験している人たちの論考ですから、私の知らない事実があったりして、それなりに参考になります。

 ですから私は、考え方が違いますが『抗路』を評価しています。 2022年1月の『抗路』9号に「座談会 新・猪飼野事情」と題する記事があります。 大阪の生野区で活動する在日やこの地区の学校教員だった日本人、五人の座談会です。 この中で古川さんという元教師が次のような体験談を話しています。

僕が鶴見橋中学で受け持った最初の卒業生の在日の子で、今は57・8歳になるけど、勉強がものすごく出来て天王寺高校に行った子がおった。 なのに、五月の連休で辞めて家におると聞いて訪ねてみたら、靴職人の父親の横で靴を作っているんです。 

「なんで辞めたんや、勿体ない」と言ったら、親父さんに「先生、日本人か」と聞かれた。 そうだと答えたら、「それじゃ分からんのぉ、この子、天高に行ったけど、この学力じゃ国公立の医学部は無理や。 私立の医学部にやる金はない。 うちら在日の子は、たとえ京都大学に入っても文学部や法学部なんかだったら、卒業してもどんな会社も役所も採用してくれへん。 

それやったら、早く技を身につけて靴職人になった方がまともに生きていける。 まだこいつらはマシや。 こいつらの上の世代は、ヤクザになるかパチンコ屋か焼肉屋になるしかなかったんや」とアボジに言われて。 (44頁)

 「天王寺高校(天高)」とは、大阪の公立高校の中で「御三家」と言われていた最高レベルの学校の一つです。 「今は57・8歳」とありますから、この高校に進学したのは1970年代後半と判明します。 

 それはともかく、靴職人である父親が子供の通う高校を辞めさせ、靴製造の家業を継がせたというところにビックリしました。 というのは当時の在日は一般的に、お金を稼ぐためにこの日本にいる、まともな企業の就職なんて難しいから日銭を稼ぐ仕事か小さな自営業をやる、それは仕方なくやっているのであって子供には継がせたくない、という人が多かったからです。 というより、ほとんどでした。 ですから靴職人の在日の親が息子にその家業を継がせた、しかも入学して直ぐの高校を辞めさせてまで、というところに、へーっ!これは珍しい!本当か?!と驚いた次第。

 1970年代の在日社会は男尊女卑の考えが強く残っており、女子の進学には反対する親が多かったのですが、男子は違っていました。 ましてや天高という進学名門校に行ったのですから、狭い地域の在日社会では評判になって、親には自慢の息子となったでしょう。 だから金のことは心配するな、もっと勉強しろというのが普通だったと思うのですがねえ。  そうなのに入ったばかりの高校を辞めさせて家業を継がせるというのは私には信じられず、もしこれが本当なら何か「裏」があったのではないかという疑問を抱きました。

 ここからは私の憶測になるのですが、「裏」というのはこの親が密入国者だったのではないか?ということです。 家業に固執して狭い範囲内で過ごすことによって長年秘密がバレないで来た家庭が、これからもこの秘密を維持しようして子供に家業を継がせたのではないか? 子供もそれを知っていて、親友のいる学校を辞めて靴製造の家業を継いだのではないか?

 こういう憶測は本来やってはいけないものですが、当時のごく一般的な在日を知る私にはどうも納得できないと言うか、ちょっと異常としか思えなかったので、あえて憶測をしてみました。

【追記】  

 靴職人といえば、私は岡林信康の「チューリップのアップリケ」を思い出します。  放送禁止歌に指定されました。  今も禁止されているのですかねえ。  禁止理由は、靴製造は部落産業で靴職人は部落民、だから差別を助長する、というものだったという記憶があります。  関心のある方は、検索すると出てきます。  (2月25日 記)

【『抗路』に関する拙稿】

在日は「生ける人権蹂躙」?-『抗路』巻頭辞 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/31/9460212

戦後補償運動には右派も参加していた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/07/9461960

戦後補償問題の解決とは?―『抗路』外村大を論ずる http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/14/9464117

在日誌『抗路』への違和感(1)―趙博「本名を奪還する」  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/27/9381682

『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666

趙博さんの複雑な名前     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/02/9171893

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

在日総合誌『抗路』に出てくる「北鮮」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/16/9338000