金時鐘氏への疑問(16)―猪飼野詩集2025/07/12

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/23/9784276 の続きです。

㉓ 『猪飼野詩集』は猪飼野で詩作されたものではない

 私は金時鐘さんの代表作『猪飼野詩集』を読んで、彼は1949年来日して以来ずっと大阪市の猪飼野で暮らしておられたと思っていました。 ある金時鐘研究者も、次のように論じています。

1949 年6月に済州島から渡日し、最初に生活を始めたのが「猪飼野」であり、「猪飼野」は、その後も長年の間、彼の生活の拠点となった地である。 金時鐘は、これまでに何度も「猪飼野」の町を作品のテーマや背景として描いてきた。 1978 年には、「猪飼野」で生活する当時の在日朝鮮人の様子を描いた第4詩集『猪飼野詩集』を発表した。 

file:///C:/Users/Takeshi/Downloads/lcs_34_2_okazaki.pdf 

 しかし金さんは、『猪飼野詩集』を書き公開した時は猪飼野ではなく、吹田市に住んでおられました。 彼は次のように回想します。

私はこの夏の始めまで30年近く、大阪府吹田市の、東海道本線(JR)の電車や列車が地鳴りを立ててひっきりなしに行き交う、線路の間際に住んでいました。 (「善意の素顔―より良い理解のために」 藤原書店『金時鐘コレクション11』2023年8月 所収 55頁)

 この「善意の素顔」は1997年11月の講演です。 ですから「30年近く」前は1968年頃になりましょうか。 ある方が1970年代に金時鐘さんの吹田の家を訪問したら、「林」とい表札が掲げられていたという思い出話をどこかで書いておられたのを覚えています。 従って金さんは、1968年頃から1997年まで吹田市に住んでおられたことは確かと思われます。

 とすれば1968年以前は猪飼野に住んでおられたのだろうと考えて、金さんの書いてきたものを探してみました。 すると2019年の『朝日新聞』文化・文芸欄に金さんの回想エッセイがあり、その中で次のように語っておられるのを見つけました。 

猪飼野かいわいで10年余り暮らしましたが、 (金時鐘⑦「語る―人生の贈り物―『猪飼野』なくてもある町」 2019年7月26日付『朝日新聞』) 

 http://shiminhafiles2.cocolog-nifty.com/blog/files/342e98791e69982e99098e38080e8aa9ee3828b.pdf

 ですから、金さんは1949年に来日してから1960年代前半までの「10年余り」を大阪市猪飼野に住んでおられたことになります。 それから1968年頃までの数年間はどこに住んでおられたのか、探してみましたが不明ですね。 そして1968年頃に吹田市に引っ越して、そこで「30年近く」生活されたことになります。 さらにその後は、おそらく今の住所である奈良県生駒市に引っ越されたのでしょう。

 まとめますと彼の日本での住所は、猪飼野に1949~1960年代前半、しばらく不詳の後、吹田市に1968年頃~1997年頃、生駒市に1997年頃~現在になると考えられます。

 吹田に住んでおられた時、つぎのような事があったそうです。

選挙のたびに繰り返される笑えない喜劇だが、ぜひ一票をと、朝鮮人の私の家まで尋ねてくれる熱心な運動員たちがいる。 (「足元からの国際化」『金時鐘コレクション8』2018年4月 135頁)

 この散文は1993年8月に発表されたものですから、「私の家」は吹田市にありました。 金さんの家は選挙権を有さない外国人宅ですから、公職選挙法違反(戸別訪問禁止)には問われなかったのでしょう。

 ところで、彼の代表作『猪飼野詩集』は1970年代に『季刊三千里』で連載された詩などを集めたものです。 その年代を測るに、それは朝鮮人集住地区である猪飼野で詩作されたものではなく、日本人ばかりがいる吹田市内の一角で詩作されたものだったのでした。 そしてそこでは彼と周辺の善意な日本人たちと間にどのような軋轢があったのか、上述の「善意の素顔」でそのエピソードが語られていて、興味深いものですので一読をお勧めします。

 彼が『猪飼野詩集』を書いたきっかけは、1973年2月の地名変更で「猪飼野」という町名が消えたことでした。 彼にとって猪飼野は、1960年代前半までのわずか10年余りの生活だったのですが、

在日朝鮮人の生活史が地のまま保たれている ‥‥苦難の故郷を見棄ててきた者のうしろめたさから在日民族団体の常任活動家となって、いっぱしの組織活動家になっていったのもまた、在日朝鮮人運動の拠点地域だった猪飼野でありました (『金時鐘コレクション4』366頁)                                                                                                                                                                                                   

とあるように、思い入れ深い場所でした。 彼はこのような「猪飼野」の地名が消えることが、「日本の保守政権はたゆみなく、戦前の軍国日本の痕跡を消し去ることに注力してきました」(同上、367頁)と同列に考えておられますから、「猪飼野」の地名変更に反対する意味で『猪飼野詩集』を書かれたと思われます。

 しかし実際にその猪飼野に住んでいる人は

『イカイノ』と聞くだけで地所が、家屋が、高騰一方の時節に廉く買いたたかれるといい、ひいては縁談まで支障をきたしている(同上、366頁)

のでした。 地名が消えたのはその住人には理由があったようですが、金さんは〝そこの住人でなくなったから反対した”と言えるようです。

 『猪飼野詩集』は、金さんが同胞のいない吹田で生活していた時に同胞集住地区である猪飼野に通いながら過去のノスタルジーに浸りつつ書いたものと言えるのではないかと思われます。 つまり『猪飼野詩集』は〝もはや住民でなくなった金時鐘が書いた詩集”ということです。 研究者が『猪飼野詩集』を論じる際に、吹田に言及しないのが不思議ですね。       (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477

金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295

金時鐘氏への疑問(10)―北朝鮮批判と擁護代弁 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/14/9775437

金時鐘氏への疑問(11)―スキー客・新井鐘司  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/19/9776467

金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/24/9777663

金時鐘氏への疑問(13)―石鹸工場・民戦    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/13/9782053 

金時鐘氏への疑問(14)―吹田事件       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/18/9783181

金時鐘氏への疑問(15)―ハングル       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/23/9784276

韓国ホルホル動画―한국물결(韓国の波)2025/07/05

 韓国に「한국물결(韓国の波)」というユーチューブがあります。 自国を誇らしげに自画自賛するような映像ばかりで、いわゆる「ホルホル動画」と言われるものです。 「ホルホル」はもともと韓国語だそうで、詳しい意味は検索して調べてみてください。

 この中で2025年6月18日に、日本に関連したものが公開されました。 題名は「ハングル導入、日本の伝統学者たちが激烈に反対した理由!??」 「日本右翼vsハングル 教育戦争  日本文盲率→ハングルで解決した実話」です。 https://www.youtube.com/watch?v=xKOSUJKO1yc&t=71s  

 韓国語の勉強のつもりで視聴してみたところ、まあまあ聞き取りやすかったです。 しかし内容はデタラメで、突っ込みどころが多いですねえ。 本国の韓国人はこんなデタラメ動画で「ホルホル」するのか!?と妙に興味深いものでした。

 これは韓国の「ホルホル動画」ですが、一方日本の「ホルホル動画」では「日本最高!」「日本人はすごい!」「世界が驚愕!」などと日本人が「ホルホル」しているのとよく似たものですね。 どちらも一部の自国民の「癒し」になっているようです。 韓国と日本の「ホルホル動画」比較検討なんて、研究対象として面白いかも知れません。

 今回はこの韓国「ホルホル動画」を翻訳してみましたので、お読みいただければ幸い。 取り急ぎの翻訳ですので、日本語としてはこなれていない部分があります。 なおバカバカしい内容ですから真剣になる必要はなく、軽く読み流せばいいです。

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(導入)   2024年、東京大学大講堂、日本最高の言語学者たちが集まった学術大会で衝撃的な発表があった。 「日本の未来のために、ハングルを第2の文字として導入すべきです」。 この一言に、学界は大騒ぎになった。

(本文)  実は5年前に論争が始まったのですが、これがどのように日本社会を変えたのか? そしてなぜ伝統学者たちは激烈に反対したのか? すべては2019年の大阪の小さな小学校から始まりました。

 西成区、日本で最も貧しい地域の一つ。 ここで小学校の校長である田中ヒロシ(弘?)は深刻な問題に直面していました。 自校生徒の40%が学習不振児童でした。 特に日本語の読み書きで深刻な困難を抱えていたのでした。 漢字、ひらかな、カタカナ、三つの文字を同時に学ばねばならない子供たちがへとへとに疲れています。

 田中校長は偶然に韓国の文盲率が世界最低水準という記事を読みました。 そしてハングルの科学的構造について、知るようになったのです。 「24個の文字ですべての音を表現できるなんて、日本語は基本的に覚えねばならない文字が2000個以上というのに。」

 田中校長は果敢に試してみました。 放課後、特別プログラムとしてハングルを教え始めたのです。 目的は簡単でした。 ハングルで先ず初めに読み書きの原理を覚えた後、日本の文字を学ぶようにしたのです。

 最初は生徒の親たちも反対しました。 「なぜ子供が韓国の文字を勉強しなければならないのか」というのです。 しかし3カ月後、驚くべきことが起りました。 学習不振児童に分類されていた子供たちがハングルで読み書きを始めたのです。

 子供たちは初めて自分の考えを文字で表現する喜びを知るようになったのです。 8歳のユキ(由紀‥‥?)は、このように言いました。 「漢字が難しすぎて、あきらめました。 しかしハングルはレゴ・ブロックみたいです。 組み立てれば文字になるのが不思議です。」

 6か月後、さらに驚く結果が現れました。 ハングルを最初に学んだ子どもたちが日本の文字の学習にもメキメキと上達したのです。 文字の構造と原理を理解するようになり、複雑な漢字も直ぐに覚え始めたのです。 ハングルはまるで学習の入門道具のようでした。 子供たちはハングルで自信を持ち、その自信で日本の文字に挑戦することができたのです。 

 この話は日本の教育界に波紋を起こしました。 2020年、大阪教育長は10ヵ所の学校に試験的に事業を拡大しました。 結果は衝撃的でした。 参加した生徒の識字率が平均35%向上したのです。

 しかし、この時から激烈な反対が始まりました。 日本の伝統文化保存会会長の山田ケンイチロウ(健一郎?)は記者会見を開きました。 「これは日本文化に対する冒瀆です! 千年以上続いてきたわが伝統を、韓国のものに代替しようという試みは認めることができません!」

 東京大学国文学科名誉教授の佐藤マサヒロ(正弘?)も強く批判しました。 「日本語の美しさは複雑性にあります。 漢字の形態美、ひらかなの流麗さ、カタカナの簡潔さ。 これが日本精神の精髄です。 ハングルなんかに代替できるものではありません。」

 右翼団体はデモを始めました。 「日本の魂を守れ!」「ハングル教育反対!」 プラカードを持ったデモ隊が文部科学省の前に集まりました。 (3:19にデモ写真。プラカードにある漢字が滅茶苦茶!)

 しかし現場の声は違いました。 大阪のある親は、涙を流して言いました。 「うちの息子は難読症(学習障害の一つ。ディスレクシア)がありました。 小学3年生なのに、自分の名前もちゃんと書けなかったのです。 しかしハングルを学んで初めて私に手紙を書いてくれたのです。 「『엄마, 사랑해요(お母さん、愛してる)』と、たとえハングルだとしても、それの何が重要だというのですか?」

 論争が激化した2021年、意外な人物が現れました。 日本のノーベル文学賞受賞者である村上春樹でした。 彼は韓国語を勉強しながら、ハングルの美しさを知るようになりました。 「ハングルは文字を民主化した革命的発明品です。 私たちがハングルから学ぶべき点があるなら、学ばねばなりません。 それが本当の知恵です。」

 村上の発言は大きな反響を呼びました。 若手学者たちが声をあげ始めました。 早稲田大学の若い言語学者である橋本ユイ(結‥‥?)は、衝撃的な研究結果を発表しました。 「日本の機能性文盲率が先進国のなかでは最高水準です。 成人の30%が複雑な文書を理解できません。 これはわれわれの文字体系の複雑性と関係があります。」 彼女は提案しました。 「ハングルを代替文字ではなく、補助学習道具として活用しよう」ということです。 「ちょうど水泳を学ぶ時、補助道具を使うように」です。

 2022年、九州のある私立学校が電撃的にハングル並行教育を導入しました。 校長の中村ケイコ(恵子‥‥?)は、次のように説明しました。 「私たちは日本の文字を捨てるのではありません。 むしろ、もっとちゃんと教えるためにハングルを活用するのです。 ハングルで文字の原理を理解した生徒たちが漢字ももっともっと早く覚えます。」  1年後、この学校は日本全国学力評価で1位を占めました。 特に国語部門で圧倒的な成績を収めたのです。

 伝統学者たちは相変わらず反発しました。 「一時的な成果に幻惑されてはダメだ!」「日本のアイデンティティが消えてしまう!」

 しかし変化はすでに始まりました。 2023年、日本政府は「多文字教育特別法」を制定しました。 ハングルを含めた多様な文字教育を許容する法案でした。 もっとも劇的な変化は東京の名門私立大学で起きました。 伝統を重視することで有名なこの学校がハングル教育を導入したのです。 「我が校の学生たちがグローバルリーダーになろうとするなら、多様な考え方に知らなければなりません。 ハングルはその良い道具です。」

 2024年現在、日本全体で500の学校がハングル教育を実施しています。 その結果は驚くべきものです。 学習不振児童の割合が50%減少、識字率20%向上、創意的な作文能力35%増加。 もっと重要なことは、子供たちの変化でした。 ハングルと日本の文字を同時に学んだ子供たちは、柔軟な考え方をするようになりました。 12歳のサクラ(桜‥‥?)は、次のように言います。 「ハングルで日記を書いて、漢字で詩を書きます。 それぞれの文字の感じが違っていて、面白いです。」

 大阪の田中校長は、退職を前に次のように回顧しました。 「最初は本当に怖かったです。 売国奴という非難も受けました。 しかし子供たちの笑顔を見て確信しました。 教育は伝統ではなく、未来のためのものだと。」

 現在、日本の文部科学省は2025年から「文字の多様性教育」を正式教育課程に含める予定です。 ハングルは選択科目として提供されます。 伝統学者たちの憂慮と違って、日本の文字は消えることはありませんでした。 むしろハングルを通して、日本の文字の特性がもっと理解するようになったという評価が多いです。

 東京大学の言語学者である高橋教授は言います。 「ハングルは鏡です。 その鏡を通して、われわれは日本の文字の長点・短点を客観的に見ることができるのです。」

 もっとも大きな変化は、子どもたちが自信を持ったことでした。 文字の学習に挫折していた子供たちが、今は二つの文字を自由に駆使します。 「私は日本人です。 そしてハングルも書くことができます。 それが私を特別なものにしました。」 9歳のケンタ(健太‥‥?)の言葉です。

 2024年、ユネスコは日本の多文字教育の試みを「21世紀の教育革新事例」に選定しました。 全世界が注目しています。 伝統と革新が衝突して融合する日本の試みがどんな結果を生むのか。 一つ確実なことは、壁はすでに崩れたということです。 千年の伝統も、子供たちの未来の前では一歩退くということを、日本は見せてくれました。 今日も日本のどこかで子供たちがハングルと日本の文字を同時に学んでいます。 子供たちは二つの文字の美しさを知っている新しい世代になるのです。

 伝統学者の山田は、最近のインタビューで立場を少し変えました。 「相変わらず憂慮しているが‥‥ 孫娘がハングルで書いた手紙を受け取った時、少し理解したよ。 『할아버지 사랑해요(おじいちゃん、愛してる)』とハングルで書かれていたのだが‥‥。 何、愛には文字が重要ではないからね。」 変化は続いています。 そしてその変化の中で、新しい可能性が開かれているのです。 奇跡は続きます。

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 この韓国「ホルホル動画」は14日間で再生数が4.3万、「いいね」が812、コメント投稿数が92。 そこそこの人気を得ているようです。 コメントの内容を読むと、賛成・称賛が多く、苦言を呈するものはほとんどないですねえ。 やはり「ホルホル動画」は一部の韓国人の「癒し」になっているように思われます。

 これは日本の「ホルホル動画」が一部の日本人の「癒し」になって再生数を上げているのと同じでしょう。 また在日外国人ユーチューバーが日本をヨイショする「日本ホルホル動画」を作成して、かなり稼いでいるようです。

 なお北朝鮮の「ホルホル動画」ですが、今年の正月に平壌で行なわれた在日朝鮮学校生たちによる「설맞이 공연(迎春公演)」が公開されています。 https://www.youtube.com/watch?v=7SVaapoRT_Y 

 これは元帥様「ホルホル」であって、韓国や日本なんかのような自国「ホルホル」でないところに特徴があると言えそうです。 朝鮮学校の教育目標はこれだと思えば、興味深いものです。 カルト宗教の宣伝映像を見ているような感覚に陥りますね。

韓国語の雑学-공수래공수거(空手来空手去)2025/06/28

 「공수래공수거(コンスレコンスゴ)」。 漢字にすると「空手来空手去」となります。 韓国の新聞や雑誌に時おり出てきますが、日本語にはない漢字熟語ですね。 直訳すれば、〝手ぶらで来て手ぶらで去る”ことです。 どういう場合にどのように使うか、韓国の百科事典を調べてみました。 翻訳します。

「手ぶらで来て(生まれて)、手ぶらで行く(死ぬ)」という意味で、人生のはかなさを表わす言葉であり、もう少し詳しく言うと〝生きている時、どんなに財物を欲しがり権力を望んでも結局はすべて虚しいものだから、がつがつと欲張る必要はない”ということ。

もともと何か由来のある故事熟語ではないが、世に出ている「故事熟語集」の中に下記のような逸話が紹介されている。

昔、有名なお金持ちが亡くなったという訃報が出て、友人たちが弔問に訪れた。 ところが、彼の棺の形がちょっと異様だった。 小さい棺の両側に穴があって、ご遺体の手がそこから棺の外ににゅっと出ていたのである。 弔問に来た人たちが喪主である息子にその理由を尋ねると、息子は次のように答えた。

「実は父上は亡くなる前に、〝これまでたくさんの財産をためて金持ちになって生きてきたが、人生というのは生まれた時に手ぶらで来て、死ぬ時も手ぶらで逝く、そのことを見せてやりたい、棺をこのように作っておけ”と遺言されたのです。」

持っている物がどんなにたくさんあっても墓まで持って行くことができない。 それを漢字で言えば、「空手来空手去」となる。 〝どんなに多く成し遂げても、また所有する財産が多くても、結局死ぬときは手ぶらで逝くことになる、どうせ空手来空手去の人生、何を得てもそれが何の役に立つのか”と言うことが多い。 〝空手来空手去”を胸に刻み、死ぬ前に自分の財産を社会に寄付する人もいる。

 「空手来空手去」。 これに該当する日本の慣用句は何でしょうかねえ。 すぐに思い付くのが、「お金を持って天国に行けない」。 ひたすらお金を貯め込むような人を皮肉る時によく使いますね。 ただしこれには〝生まれる時も同じ”という意味が含まれていませんから、そのままでは該当しないように思われます。

 一番ピッタリするのが、「人は裸で生まれ、裸で死ぬ」。 しかしこれは慣用句一覧表で探してみましたが、見当たらないですねえ。 またお釈迦様あたりならこのようなことを言っておられるような気がしたのですが、これも見つからないですねえ。 親鸞さんならあるかも知れません。

 韓国では「空手来空手去」は、次のように歌謡曲に出てくるようです。

太進児(テ・ジナ 歌手)の曲の中に「空手来空手去」という歌がある。 H.O.T.(男性アイドル五人グループ)の3集アルバムに収録された曲「列を合わせて!」にも、「空手来空手去、風のように中身がない」という歌詞がある。 また金蓮子(キム・ヨンジャ 歌手)の歌であるアモール・ファティの最初の歌詞にもある。 「生きていくのに、みんなそうなのだ。 誰もが手ぶらでやって来る」は、空手来空手去を表現する内容である。

 また「手ぶら」という意味から、次のような使い方もあるようです。

保安が要求される軍隊、会社、研究所では、保安規則でこの「空手来空手去」が使われる場合がある。 「手ぶらで出勤し、手ぶらで退勤しろ」という意味である。 「手ぶら出勤」とは〝ハッキングや盗聴、盗撮の道具を持って来ないようにすること”であり、「手ぶら退勤」とは〝機密資料を持ち出さないようにすること”というものである。

 本来の意味から離れているように思えるのですが、こんな使い方もあります。

 

【韓国語の雑学―これまでの拙稿】

韓国語の雑学-고려장(高麗葬) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/18/9740391

韓国語の雑学―客妾(객첩)     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/10/9666292

韓国語の雑学―남부여대(男負女戴)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/14/9634052

韓国語の雑学―전산이기(電算移記) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/06/17/9594956

韓国語の雑学―賻儀        https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/26/9543701

韓国語の雑学―将棋倒し      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/15/9235466

韓国語の雑学―下剋上       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/22/9237987

韓国語の雑学―「クジラを捕る」は包茎手術の意 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/10/9325273

韓国語の雑学―내로남불(ネロナムブル) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/04/9334079

韓国語の雑学―東方礼儀の国    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/17/9388692

韓国語の雑学―동족방뇨(凍足放尿) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/02/9418323

日本への悪口言葉―韓国語の勉強  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/19/6907092

金時鐘氏への疑問(15)―ハングル2025/06/23

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/18/9783181 の続きです。

㉒ ハングルを全く知らない訳がないのだが

 金時鐘さんは植民地時代に小学校(当時は普通学校、後に国民学校)に通います。 その時の学校には「朝鮮語」の授業がありました。

小学課程の普通学校2年生まで、日本の年代では「支那事変」と言われた中日戦争が始まったあくる年の昭和13年まで、週1時限の朝鮮語の授業がありました。 たしか1年生のときは週2時限だったと記憶します (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月  7~8頁)

あれは確か「朝鮮語」の教科書がなくなる年のまえの年、普通学校1年2学期の期末試験のときのことでした。 当時はどの教科の一つでも欠点になると「落第」、今で言う原級留置になりますので、試験となると皆の目の色が変わるほど緊張したものです。 (同上 9~10頁)

 昭和13年(1938)の第三次教育令までは、朝鮮語は必修科目でした。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/12/8971509 成績が悪ければ落第になりますから、金時鐘さんは一生懸命に朝鮮語を勉強しただろうと思われます。 彼はその時に出た試験問題を、80年近く経った今でも覚えていると言います。

なぜかそのとき(普通学校1年2学期の期末試験)の試験問題の文句だけはたがえることなく今でもそらんじられるのです。 それは次のような文句です。

ファチョド、シモッスムニダ。 チャンチルル、ハプシダ。

これは「草花も植えました。 宴をしましょう」と訳せますが、子どものままごと遊びを表わした教材のひとくだりです。 そのくだりがところどころ虫食いになっていまして、そこへ答えの文字を入れる問題でしたけど、どうしたわけか「宴」というときのチャンチの「ン」を書き入れていなかったのです。 少なくとも私は意識して抜け落としたのではありません。 この「ン」の響きは「あんない」というときの「ン」に相当する前舌鼻恩の終声子音ですが、このN音を抜かしてしまうと、ご婦人方には説明しにくい「チアヂ」をしましょう、となる。 あからさまに言えば「オチンチンをしましょう」、つまり「情事をしましょう」ということになってしまうのです。 (以上、同上 10・11頁)

 この時の試験問題は「화초도 심었습니다. 잔치를 합시다」ですね。 これは当時の朝鮮全土および現代韓国でも通用する朝鮮標準語で、周辺社会の日常会話である済州方言ではありません。 現代韓国語辞書を引けば、「チャンチ」とは「잔치」、これからパッチムの「ン(ㄴ)」を落とした「チアヂ」は「자지」となり、「オチンチン」の意味になります。 細かいことを言えば「지」と「치」が違うのですが、問題にはならないようです。

 金時鐘さんの年譜(『朝鮮と日本に生きる』292頁)によれば、1937年に「普通学校に入学」とありますので、この試験は7歳か8歳のときになります。 このように彼は小学1年でハングル文字の字面を追うだけでなく、一区切りの文章ならその内容を理解して読み書きできたのでした。 落第しないように勉強した朝鮮語で、しかもその時の試験で出された問題と自分が書いた回答を80年経った今でも覚えているというのですから、ハングルを忘れている訳がないと思うのですが‥‥。

 ところが金さんは17歳で1945年の敗戦=朝鮮の解放を迎えた際に、自分は「それまでハングルが全く書けなかった」と言っておられるのです。

朝鮮で生まれ育っていながら、ハングルではアイウエオのア一つ書けない私でした 

https://www.nikkei.com/article/DGXKZO33039940X10C18A7BE0P00/

私が朝鮮人に立ち返ったのは17歳のときだった。 ‥‥ なにしろその齢になるまでアの字ひとつ、朝鮮文字では書けない皇国少年の私だったのだ。 (『わが生と詩』岩波書店 35頁)

 ここでは例を二つだけ挙げましたが、「朝鮮文字のアイウエオのアも書けない」という一文は彼の著書の他のところでもいっぱい出てきて、まるでキャッチコピーのような感があります。

 一方、金さんの父親は

『朝日』『毎日』といった日刊新聞まで取り寄せて読む人だったけれども、日本語を使わない。 (同上 203頁)

解放されるまで父は、かなりの日本語の蓄えをもっていながら家族にはついぞ、日本語を口にはしませんでした。 (『朝鮮と日本に生きる』 19頁)

とありますように、日本語は読めるのに使わず、朝鮮語だけを使っていました。 「皇国少年」だった金さんは出来る限り日本語を使っていたといいますが、寡黙な父親との数少ない会話は朝鮮語だったでしょうし、日本語を話せない母親とも朝鮮語で会話していたはずです。

 なお父親は北朝鮮の元山出身で、済州島には1930年代後半に息子の金時鐘さんが4・5歳ぐらいの時に来島したようですので、しゃべる朝鮮語は済州方言ではあり得ません。 おそらく朝鮮全土で通用する朝鮮標準語(書き言葉をそのまま喋り言葉とする)だったでしょう。 なお父親は北朝鮮から越南してきた西北青年団と親しかったといいますから、言葉には朝鮮北部のイントネーションが混じる方言だったのではないかと思われます。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477 

 植民地時代の朝鮮人には義務教育はなく、就学率は男子40%、女子10%ほどでしたから、大多数の朝鮮人は日本語の読み書きや会話が出来ませんでした。 ですから金さんは両親だけでなく、親戚や近所とは朝鮮語で会話を交わし続けてきたはずです。 また友達たちとも学校外では朝鮮語で話していました。 

近所の悪童たちから時によって大人までも、パウ(金さんの幼名)の私に出会うと申し合わせたように手を打って囃したてるのです。 「パウよパウよ鉄のパウよ、日が暮れかかる鐘鳴らせ、カンカンカン!」 私はむきになって誰彼かまわず突っかかっていきます (『朝鮮と日本に生きる』23頁)

誰もこの少年(同級生の李行萬)を名前で呼ばないのです。 いつも「ナㇰチェトンイ」(落第坊主)と呼ばれていました。 (同上 61頁)

 ここに出てくる「パウよパウよ‥‥」の囃し言葉や「ナㇰチェトンイ」というあだ名は明らかに朝鮮語です。 つまり金さんは朝鮮語を聞くことも喋ることもできたのでした。 しかも小学1・2年の時は学校で朝鮮語を学んでいて、ハングルの読み書きができていたのです。 また植民地下でも朝鮮では商店の看板などにハングルが書かれているなど、ハングルを目にする機会は多かったはずです。 ですから彼にとって解放後の朝鮮語の勉強はそれほど難しくなかったと思われます。

 ところが彼は「朝鮮文字のアイウエオのアも書けない」として、「それこそ壁に爪をたてる思いで自分の国の言葉と文字を覚えました」「壁に爪をたてる思いで身につけた朝鮮語」(『わが生と詩』 8・10・35・68頁)と記しています。

 ここだけでなく他のところでも「壁に爪をたてる思い」という言葉を何度も繰り返し使っておられます。 これは慣用句か諺のようですが、日本語や韓国語の辞典には載っていません。 創価学会の池田大作さんが著書『人間革命』で「岩に爪を立てる思い」という言い方をしていたので、金さんはこれに影響されて「岩」を「壁」に変えたのでしょうか。 まさか〝隠れ創価”ではないと思うのですが‥‥。

 「壁に爪をたてる思い」は〝血のにじむような努力”という意味と考えられますが、私には猫が家の壁に爪をといでいるとか、囚人が監獄の壁をかきむしる拘禁反応なんかを連想してしまうので、どんな「思い」なのか、ちょっと理解が行かないところです。        (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477

金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295

金時鐘氏への疑問(10)―北朝鮮批判と擁護代弁 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/14/9775437

金時鐘氏への疑問(11)―スキー客・新井鐘司  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/19/9776467

金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/24/9777663

金時鐘氏への疑問(13)―石鹸工場・民戦    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/13/9782053 

金時鐘氏への疑問(14)―吹田事件       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/18/9783181

金時鐘氏への疑問(14)―吹田事件2025/06/18

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/13/9782053 の続きです。

㉑ 吹田事件 ―デモ隊は十三大橋を渡ったのか

 「吹田事件」というのは1952年に共産党が起こした三大騒擾事件の一つで、金時鐘さんはこれに参加しました。 朝鮮戦争に向かう米軍の軍事物資を載せた列車は吹田操車場を通るので、これを阻止するために、豊中にある大阪大学キャンパスに1000人(一説では3000人)ほどが集まり、深夜にデモを開始します。 デモ隊は二手に分かれました。 一つはそこから操車場までデモ行進し右翼や反動人士宅を襲撃しながら進む「山越え部隊」と、もう一つは阪急石橋駅から電車に乗って行く「人民電車部隊」です。 金さんは山越え部隊に入りました。

待兼山で徹夜して、山越え組についていきまして、石橋駅で人民列車を走らせて、吹田操車場でデモを起こして、列車を遅延させます。 待兼山を出て山越えする間、まず吹田操車場にくるとき、もうすでに、機動隊の大部隊が、私の一番しんがりの、ものの30メートルくらいの距離を、ビシッとついてくるんですね。 ‥‥ 吹田事件のあんだけ勇ましい活動をよくやった友人たちがいるなかで、私はずっと、吹田操車場にきて、迫ってくる警官を、(大便を)たらしもって見て走って、たらしもって見て走った。 (「吹田事件・わが青春のとき」 『わが生と詩』岩波書店 2004年10月 所収 127・130頁)

 金さんは途中で激しい下痢に襲われたため、操車場で列車を阻止する活動は十分にはできなかったようです。 それからデモ隊は操車場から大阪(梅田)へ移動するのですが、金さんは次のように記します。

私は十三大橋をデモで渡って、梅田に行ったときはもう、機動隊は梅田界隈で厳戒態勢に入ってましたね。 梅田では大掛かりな検束が始まるのですが、それを振り切って、今の環状線、当時は城東線といいましたが、それに乗るために、つまり満員電車に入り込むことが検束から逃れられるというふうに、私らは踏んどったものですから、大方は最寄りの東口、城東線めがけて土石流のように駆け上がった。 後から追っかけてきた警官と、あの顔は、いまだに忘れられない。 

私は非常にずるい。 まあ経験もあったものですから、梅田を東口、中央口からは、上がりませんでした。 私は「マルセ(共産党民戦の実力組織である祖国防衛隊の機関紙名)」の写真をやっている青年と、あの当時、北側に貨物駅があったんですが、貨物駅に沿って、中央郵便局の方に回りまして、そこからホームに上がったんです。 上がったら、もう修羅場でした。 水平にピストルを撃つのを見ました。 吹田操車場から十三大橋に向かう途中、私たちの隊列に沿って走り抜けようとした機動隊の無蓋トラックに隊列の中から火炎瓶を投げつけられて、その家族の人には申し訳ないけど、それこそ芋ころが転がり落ちるように5、6人の警官が火だるまになってこぼれ落ちていましたね。 (以上、同上131~132頁)

夫徳秀さんは当時、組織されたばかりの略称ミネチョン、民主愛国青年同盟の大阪府委員長で、あの梅田到着まで十三大橋を渡ってデモをした先頭におりました。 ‥‥ 私はデモ隊の一番後ろの部隊にいました (同上 122頁)

 ここに「十三大橋をデモで渡って」「吹田操車場から十三大橋に向かう途中」と出てきます。 あれー?! 吹田操車場から十三大橋までは一本道はなく、遠回りして行かねばならないはずです。 吹田から梅田(大阪駅)までは地図上の直線距離でも8キロですから、十三大橋回りの道を歩くならば十数キロになります。 前日の深夜に出発して夜通しデモ行進し続け、早朝に操車場に着いて乱入するなどの列車妨害活動した後、さらに梅田まで十数キロを集団でデモするなんて、いくら血気にはやる若者たちといっても無理ではないかと思いました。 ましてや金さんは、激しい下痢で体調を崩していたのです。

 このデモ隊の先頭だったという夫徳秀さんは事件の首魁として逮捕・起訴された方ですが、次のように語っています。

それから吹田操車場の北側に出て、今度は大阪の目抜き通りの御堂筋で朝鮮戦争反対デモをやろうと、国鉄吹田駅から列車で向かうことになった。 ‥‥ 吹田駅での混乱をくぐり抜けて、わたしらは列車で大阪駅に移動したんやけど、その大阪駅でも警官がピストルで威嚇しながら、デモ参加者を逮捕しようとしたんや。 (『在日一世の記憶』集英社新書 2008年10月 560頁)

 やはりデモ隊は近くの吹田駅で列車に乗り込んで梅田(大阪)まで行ったのであり、十三大橋を渡らなかったのです。 ここは金時鐘さんの間違いでしょう。

 些細なことであっても事実関係の間違いが一つでもあれば、他にも間違いがあるだろうと考えられて、全体の信用を失いかねません。          (続く)

 

【金時鐘氏に関する拙稿】

金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/03/9779836

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/30/9705285

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/04/9706635

金時鐘氏はどういう言葉を使ってきたのか?(3)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/09/9707790

玄善允ブログ(1)―金時鐘さんの日本名     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877

核問題は北朝鮮に理がある―金時鐘氏      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/23/9653071

金時鐘氏が正規教員?―教員免許はないはずだが‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/16/9651219

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(1)     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/07/9623500

金時鐘氏は不法滞在者なのでは‥(2)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/12/9624809

金時鐘氏は不法滞在者(3)―なぜ自首しなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/17/9626078 

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

金時鐘さんの法的身分(続)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

毎日の余録に出た金時鐘さん          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/27/8950717

本名は「金時鐘」か「林大造」か        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘さんは本名をなぜ語らないのか?     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/02/9110448  

金時鐘さんは結局語らず            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/13/9140433

金時鐘さんが本名を明かしたが‥‥       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169120

金時鐘『「在日」を生きる』への疑問      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796038

金時鐘さんの出生地              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

青木理・金時鐘の対談―帰化(1)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343 

青木理・金時鐘の対談―帰化(2)       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042

武田砂鉄の被差別正義論―毎日新聞       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/24/8810463

社会的低位者の差別発言            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244588

金時鐘氏への疑問(13)―石鹸工場・民戦2025/06/13

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/24/9777663 の続きです。

⑲	石鹸工場での写真の謎

 金時鐘さんは1949年6月に密入国して大阪の猪飼野にやって来た際、幸いに「金井」さんという同郷の人に出会ってローソクを作る小さな工場を紹介されて働きました。 しかしそのローソク工場は年末いっぱいで廃業します(『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 241・242・246頁)。 その後は石鹸工場で働き始めます。

(1949年)年末ぎりぎりに、通称鶏舎長屋と呼ばれている南生野町の板間ひと間のバラック建ちの中年夫婦の部屋に移りました。 ‥‥ 仕事は下宿先の〝兄さん”が見つけてくれた、布施市(現在の東大阪市)の高井田にある石鹸工場に雑用係として働くようになりましたが、かなり離れている百済のバス停から今里経由で高井田まで行かねばならない、交通費の半分は自分持ちの遠距離通勤でした。 (『朝鮮と日本に生きる』 246・247頁

私が日本で迎えた初めての新年は、朝鮮戦争が勃発する1950年に立ち入っていました。 なんとか在日朝鮮人の運動団体につながらねば、と思っているところへ、日本共産党への集団入党が地区単位で出来るとの誘いが、生野区の朝連(在日本朝鮮人連盟)活動家からもたらされました。 ‥‥ 1月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員のひとりになりました。 2月いっぱいで石鹸工場もやめて、中川本通り(生野区)近くにあった民族学校跡の、民戦大阪本部臨時事務所に非常勤で詰めるようになりました。 (同上 247・248頁)

 金時鐘さんは石鹸工場を1950年2月いっぱいで辞めたのですから、2ヶ月間だけ働いたことになります。 そして今度は共産党に入党して傘下の「民戦」で働き始めたそうです。 ところが金さんの近著『金時鐘コレクション7』(藤原書店 2018年12月)の最初の口絵には、「1950年4月(来日の翌年) 大阪・高井田の石けん工場にて」と題する金さんの写真が飾られているのです。 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/kimSijong.jpg (該当キャプションに赤線を引きました)

 つまり金さんは「民戦」で働いている最中に、何ヶ月か前に辞めていた石鹸工場にわざわざ行って写真を撮ったことになります。 当時は写真を撮ること自体にお金がかかる時代であり、その工場に行くのにも交通費が要ります。 果たしてそんなことがあり得るのだろうか? この写真は本物なのだろうか? あるいは2月に石鹸工場を辞めたというのは本当か? などの疑問が湧きます。

 

⑳	まだ結成されていない「民戦」に加入したとは?

 「民戦」は「在日朝鮮統一民主戦線」の略称ですが、金時鐘さんの『朝鮮と日本に生きる』259頁によれば「在日朝鮮民主主義統一戦線」と名称が違っています。 また彼はこの「民戦」について、

(解散させられた朝鮮人連盟の)後継組織として1951年1月に正式に発足する民戦 (同上 248頁)

と説明しています。 そしてこの「民戦」で働くようになった経過は、次のように説明します。

1949年の9月‥‥すでにGHQと日本政府によって強制解散させられた‥‥ この強制解散にも4・3事件の裏打ちのような反共の暴圧を感じ取っていた私は、1月末、自己を奮い立たせるように日本共産党の党員のひとりになりました。 2月いっぱいで石鹸工場も辞めて、中川本通り(生野区)近くにあった民族学校跡の、民戦大阪府本部臨時事務所に非常任で詰めるようになりました。 (同上 248頁)

 つまり金時鐘さんは、「民戦」は1951年1月に発足したとしながらも、その「民戦」で前年の1950年3月から働くようになったと記しておられるのです。 記憶の勘違いなのでしょうかねえ。

 些細なことでも事実関係に問題があれば、全体の信用性に影響が出てくるものです。     (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477

金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295

金時鐘氏への疑問(10)―北朝鮮批判と擁護代弁 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/14/9775437

金時鐘氏への疑問(11)―スキー客・新井鐘司  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/19/9776467

金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/24/9777663

韓国の進歩派の解説―木村幹2025/06/08

 韓国では、6月3日の大統領選挙で進歩派の李在明さんが勝利し、翌日から新政権が出帆しました。 3年ぶりに進歩派が政権を取ったことで、日本でも様々な論評が繰り広げられています。

 ところで韓国の進歩派について、私は1980年年代までは韓国の民主化運動に賛成していましたので、それなりに理解できていました。 しかし1987年に今の憲法が制定されて民主化が成し遂げられて以降、進歩派が理解できなくなっていきました。 それでも韓国では有力な運動の流れですから、それなりに関心を持ってきました。

 昨日の2025年6月7日付けニューズウィークで、木村幹さんの「『韓国のトランプ』李在明、ポピュリズムで掴んだ勝利の代償とは?」と題する論稿があり、その中で韓国の民主化運動について簡潔に解説してくれていて、参考になりましたので引用・紹介します。  https://news.yahoo.co.jp/articles/fcd310d9609cbd77416c6c49839899f394649efb 

 木村さんによると、新大統領は進歩派の主流ではなく、傍流だそうです。

彼の経歴を見ると、明らかな特徴がいくつかある。 1つ目は李が進歩派陣営の中でも傍流を歩み続けたアウトサイダーだということである。 2つ目の特徴は盧や文と異なり、李が民主化運動に参加した経歴を持たないことである。

 傍流の李在明政権がどのような政治・外交を行なっていくのかは、これから見ていくしかありません。 傍流として独自な考えで実行するのか、あるいは主流に合流してその一員となって継承するのか‥‥。 それはともかく、それまでの進歩派の主流はどういう考え方をして、どのような政策を打ち出したのか、先ずはそれから見る必要があります。 

 進歩派の主流は次のような考え方を有していたと、木村さんは解説します。

盧(武鉉)から文(在寅)へとつながるかつての進歩派の主流の人々は、1987年の民主化運動において一定以上の役割を果たした人々であり、それ故に明確な世界観を共有していた。

彼らに言わせれば、権威主義体制期に韓国を支配した今日の保守派につながる人々は、かつての植民地支配期における日本への協力者、韓国で言うところの「親日派」の末裔であり、こうしたかつての「親日派」につながる少数の人々の支配が、政治の世界においてのみならず、韓国の経済や社会、さらには学術の世界にまで広く及んでいると認識した。

だからこそ彼らは、この保守派による支配の打破が民主化であり、「国民」の手に権力を取り戻すことだと考えた。

言い換えるなら、盧や文にとって民主化とは、単なる政治における民主的要素の導入にとどまらない意味を持っていた。彼らはその延長線上で国際社会についてもこう考えた。

保守派の支配を支えてきたのはアメリカとそれを支配する多国籍企業である。その背後には北朝鮮からの脅威にさらされる韓国が、アメリカとの同盟関係なしに、自らの国家を維持できない状況がある。

だからこそ、保守派の支配を打破して、「国民」の手に国家を取り戻すためには、国内における民主化運動の展開のみならず、北朝鮮との間での平和的関係の構築が必要である。こうして朝鮮半島とその周辺に平和がもたらされれば、アメリカに依存しない体制が可能になる。

結果、アメリカに支援される保守派の支配は終わり、「国民」が支配する「真の韓国」が実現できる──と。

 なるほど簡潔で分かりやすいですね。 特に文在寅政権は内政にしろ外交にしろ、何故あんなことを言って実行していくのか、見ていてちょっと理解できなかったのですが、これを読んで、なるほどそういう考えだったのか!と妙に納得した次第です。 だから木村さんのこの分析は正鵠を得ていると考えます。 新大統領はこのような本流ではなく傍流ですが、それでもある程度の方向性は見えてくると思われます。

 ところで日本では昔から韓国の民主化運動=進歩派に肩入れする人が多く、反対に保守派に肩入れする人はごく少数でした。 またそういう韓国内の対立から離れて、客観的に分析する人はほとんどいなかったように思います。

 そういう中で30年以上前とちょっと古いですが、田中明さんが〝民主化運動の担い手は李朝時代の両班の後裔”とする論稿を書かれていて、〝なるほど、そうだ!”と感心したことがあります。 また3年前の韓国の有力紙『朝鮮日報』で、両班の理念が現代の進歩派に復活していると論じる論稿がありました。 韓国の進歩派はこういう視点で分析することが有効だと考えます。 合わせてお読みいただければ幸甚。

「通常‐両班社会」と「例外‐軍亊政権」―田中明  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497623

「例外」が終わり「通常」に戻る―田中明(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/06/14/9499717

「両班」理念が復活した韓国―『朝鮮日報』(1)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491298

李朝の「両班」理念が復活した韓国(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/24/9493453

李朝の「両班」理念が復活した韓国(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/05/31/9495653

金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞2025/06/03

神戸新聞2018年5月27日 朝刊 第7面

 4月11日の拙ブログで、金時鐘さんの創氏改名は「光原」なのか「金山」なのか、疑問を呈しました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588  その際に、神戸新聞の記事に「金谷光原」だとするインターネット情報を紹介しました。 ただしこの情報源は5chですから、信用性がいま一つです。 そこでこの神戸新聞の記事を探してみたところ、見つけましたので報告します。

 神戸新聞2018年5月27日 朝刊 第7面 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/koubeshinnbunn.pdf 。

 ↑は、その記事のうち、金時鐘さんが創氏改名について述べられた段落部分をスキャンしたものです。 赤の傍線を付けました。 「創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に」と明確に言っておられますね。 ですから金さんの創氏改名は、姓が「金谷」、名が「光原」だったということです。

 金時鐘さんの日本名について、これまで公表されてきたものをまとめますと、次のようになります。

① 彼(級友の金容燮)は私の手を握って「光原(これが私の日本名でした)! それが詩なんだ! おまえの詩はそれなんだ」と諭してくれました。  (金時鐘『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 43頁)

② 「創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に」   (神戸新聞2018年5月27日 朝刊 第7面 編集委員インタビュー 「平和への道 歴史直視から」 詩人 金時鐘さん(89)に聞く)

③ 「『済州北初等学校同窓会誌』所収の卒業生名簿 ‥‥ 『同窓会誌』に付された歴代の卒業生名簿の内、33期(1943年3月25日卒業)の欄では、総116名の卒業生の名前と、番地はないが町名までの住所は記載されており、その中で金時鐘らしい人物として目に付いたのが、姓名は「金山時鐘」、住所は「済州二徒」の卒業生である。」  (玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語  「連作エッセイ『金時鐘とは何者か』2(第一部 金時鐘の年譜)2022年9月14日) https://blog.goo.ne.jp/sunyoonhyun5867kamakiri/e/14b31cbf81eda5ac72f05dac66804bb5 

 以上のように金時鐘さんは、①2015年の著書では小学校時代に級友が自分を呼んだ時の日本名が「光原」、②2018年の新聞インタビューでは創氏改名が「金谷光原」、③玄善允という方が金さんの母校に残っていた卒業生名簿に「金山時鐘」を発見し2022年に公表。 このように資料上では三つの日本名がありました。

 それ以外に両親から名付けられた④「金時鐘」と、今の法律上(日本の外国人登録と韓国の戸籍)の氏名である⑤「林大造」の二つがありますから、全部で五つの名前(日本名は三つ、民族名は二つ)となります。 今、分かる範囲で解説します。

① 「光原」は級友が呼んだ名前です。 ただし次の②にあるように名字ではなく、下の名が「光原」であり、友人間ではこれを呼び合っていた可能性があります。

② 金さん自身は「金谷光原」と創氏改名したと言っておられます。 これが事実ならば、北朝鮮の元山にいる戸主の祖父が1940年に戸籍管轄の地元役場に行って「金谷」と創氏を届け出て受理された後、次に父親が法院(裁判所)に息子の下の名を「光原」にしたいと訴えて判決を受け、その判決謄本を役場に提出して受理される、これでやっと「金谷光原」になります。 ちょっと複雑な手続きですが、姓も名も変える創氏改名というのはこういうことでした。 金さんは子供でしたから創氏改名の手続きをすることはなく、祖父や父親がその手続きをしてくれて、自分は「金谷光原」という日本名になったことだけを覚えておられたようです。

③ 「金山時鐘」は金さんが卒業した小学校の卒業名簿にあった名前ですから、もし事実なら一番信頼性のあるものです。 ただし金さん自身は体験談に「金山」という名前を全く出しておられません。 また彼は下記の朝日新聞記事にありますように1998年にこの小学校を訪ねておられるのですが、ご自分の名前について語っておられません。 従って、「金山時鐘」が本人なのかどうか断定できないところです。  (2019年7月23日付『朝日新聞』 文化文芸欄 「金時鐘④ 語る―人生の贈り物―朝鮮が私の中でよみがえった」 http://shiminhafiles2.cocolog-nifty.com/blog/files/342e98791e69982e99098e38080e8aa9ee3828b.pdf )

④ 一番知られている「金時鐘」は父母に付けられた名前であり、金さんが20歳になるまで韓国で名乗っていたものです。 おそらく当時の朝鮮戸籍に登載されていたと思われます。 ただし金さんの父親は北朝鮮の元山出身ですから本籍は元山にあり、韓国には本籍がなかったでしょう。 従って、元山にある戸籍原本に「金時鐘」が登載されていたと考えられます。

⑤ 「林大造」は、金さんが1949年に日本に密航した際に不正に入手した外国人登録証にあった名前です。 金さんはこの名前を法律上の本名として、これまでの76年間使い続けました。 2023年に韓国戸籍に就籍した時も、この不正入手した「林大造」の名前で登載しました。 これにより「金時鐘」なる人物は、日本でも韓国でも正式に存在しないことになりました。

 名前はその人のアイデンティティの非常に重要な要素ですから、ほんの些細な間違いも許されないものです。 金時鐘さんには、ご自身が語った自分の名前の説明をしてほしいですね。 

【金時鐘氏の名前に関する拙稿】

玄善允ブログ(1)―金時鐘さんの日本名 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/31/9671877

本名は「金時鐘」か「林大造」か  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/23/8948031

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

 

【追記】

 金時鐘さんは、創氏改名についてほとんど語ってきていませんねえ。  ご自分の創氏改名については、今回に紹介した神戸新聞インタビューが唯一ではないかと思われます。

 それ以外に検索してみると、金 泰 明さんという方の論文「共生の思想と言語の力―詩人金時鐘と母語の復権」によれば、金時鐘さんは次のように発言されたようです。(2021年8月9日付け『朝日新聞』)

「‥‥教育というものは本当に怖いものでね。 創始(ママ)改名についても、「日本名を持たない朝鮮人の子は廊下に立たされ、親たちはしぶしぶ日本名をつけた」と振り返った。 

https://keiho.repo.nii.ac.jp/records/1064 52頁

 これは、創氏改名の法的メカニズムや運用を知らないで、〝日本名を強制して民族性を奪った”という、後に広まった間違った知識で語ったものですね。 ですから金時鐘さんがその当時に実際に見たものではないと判断できます。   (6月4日記)

体験談にはウソがある2025/05/29

 2025年5月17日付けの毎日新聞連載コラム『土記』に、 専門編集委員である伊東智永さんの「戦後80年の敗戦後論」と題するコラムがあります。 https://mainichi.jp/articles/20250517/ddm/002/070/132000c (ただし有料記事)

 文芸評論家の加藤典洋さんを素材にして、戦争体験談の継承について論じているのですが、そのなかに次の一文に目が行きました。

戦争体験者の証言をどう継承するか。 それを何より正しい実践と信じる平和愛好家がいる。 体験談をとことん聞き取った経験のある人なら、当事者は必ず「うそ」をつくと知っている。

 コラムでは先の戦争の体験談の聞き取りについて、「当事者は必ず『うそ』をつく」とあります。 「必ず」というのはちょっと言い過ぎのような気がしますが、戦争でなくても体験談には「うそ」が混じるものです。 体験談は「オーラルヒストリー(口述歴史)」とも言いますが、これには「うそ」がつきものであり、そのまま信じることが危険であることは、私は拙ブログでも論じたことがあります。 

オーラルヒストリー(口述歴史)の危険性 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/11/16/9317033 

 戦争でも災害でも事件でも何でもそうですが、自分が直接体験した範囲での話に限るなら「うそ」は少ないものです。 しかし様々な間接情報が入ってきたり、あるいは年が経つにつれ、「うそ」が多くなります。 正確な記憶の希薄とともに錯覚や誇張が生じたり、思い込みや後付けの知識が加わったり、実際に体験していないことまでも語り出したり、時には何かを隠そうと虚偽を言う場合も多々あります。 ですから上記のコラムにあるように、「体験談をとことん聞き取った経験のある人なら、当事者は必ず『うそ』をつくと知っている」のです。

 拙ブログでは、在日の著名な作家である金時鐘さんが公開しているご自身の体験談を検証してみて、悪意はないと思われますが、「うそ」がかなり混じっていることを見つけました。 金さんは著名人であり、また多くの研究者が彼を研究対象としてきたのですが、彼の体験談はさほど検証されてこなかったのだろうと思われます。 しかし「うそ」はやはり困ったもので、これによって彼自身の価値が下がることにもなりましょう。 私は他人の欠点を見つけるのが得意な性格(嫌われますねえ)と自覚していますので、この作業はこれからもしばらく続けるつもりです。

 体験談は貴重な歴史証言ですが、そこに「うそ」が含んでいる可能性があることを常に念頭に入れて読まねばなりません。 ですから当時の社会状況や関連する法・ルールをよく知った上で読んでいき、疑問や矛盾があれば何故それが生じたのかということまで追究する必要があります。 また違う場所にいた人や違う考え方を有している人など、できるだけ多くの人からの体験談も合わせて読むことによって、その信用性を確認することも重要です。

 皆さまには、誰かの体験談を読むときには出来る限り検証してみることをお勧めします。

金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生2025/05/24

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/19/9776467 の続きです。

⑱	崔賢先生との出会いはいつだったのか

 朝鮮近代史で「崔賢」といえば、1930年代に金日成とともに抗日パルチザン闘争を担い、解放後は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の人民武力部長(国防大臣)などを歴任した人物が有名です。 先月に北朝鮮で進水式を挙げた新型駆逐艦の艦名が、この歴史的有名人の「崔賢」でした。

 ところで金時鐘さんによれば、解放後に同姓同名の共産主義者「崔賢先生」に出会い、この先生から共産主義に感化されたといいます。 北朝鮮の「崔賢」とは別人ですね。 彼は次のように回想します。

学生仲間の間で「崔先生、崔先生」と慕われていた、多分筆名だったろうと思いますけど、「崔賢」という30絡みの活動家がおられました。 ‥‥ 私が初めてこの崔先生にお目にかかれたのは、無知だった己れにもようやく民族の憤りが芽生え始めたころの春でしたから、終戦の翌年ということになります。 (「私の出会った人々」1980年1月『「在日」のはざまで』平凡社 2001年3月 53頁) 

 ここでは、崔先生と出会ったのは「終戦の翌年」ですから1946年の春です。 出会ってどのような活動をしたかというと、共産主義の「農村工作」です。 金時鐘さんは農民の厳しい生活状況を目の当たりにして、ショックを受けました。

光州にある無等山の麓の小さな集落を、この先生―というよりは指導者というべきですが―に連れられて初めて農村工作に出かけたとき ‥‥ 全羅南道の道庁所在地である光州市内からそうも離れていないところの農村でしたのに、初めて訪れた農家のかさぶたのひっついているような藁屋根をくぐってみて、本当にたまげたのです。 部屋というのがなくて、異臭のたちこめたうす暗い土間には藁だけが敷いてあり、おなかの突き出た子ども達が、蠅にたかられて、何人もおって、半開きの釜が粗末なかまどにはまったままだったのです。 このような状態で小作農の農民たちが生きていたことを、目と鼻の先の同じ光州市内で何年も勉強していながら知らずにいたこと自体、大変な衝撃でありました。 (同上 54~55頁)

 ここまで詳しく書かれていたら、金時鐘さんが1946年に崔賢先生と出会って農村活動したことは事実として間違いないと思うでしょう。 ところが金さんは、後の著書『朝鮮と日本に生きる』では崔先生との出会いを次のように語っておられます。

(1945年)9月末にはひとまず光州の学校に戻りました。‥‥ 私の自覚を深く目覚めさせた崔賢先生とは‥‥解放までの4年近くを思想犯として服役していた30がらみの痩せたお方でしたが、「自分の在所探し(チェコジャンチャッキ)運動」という、農村の啓蒙活動に力を注いでいる指導者でした。 おかげでようやく自分を取り戻せそうな気がしていた‥‥ (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 87~88頁)

 金時鐘さんは日本の敗戦=朝鮮の解放時(1945年8月)に故郷の済州島に帰っていたのですが、その年の9月末に光州の師範学校に戻り、その際に崔賢先生に出会い、農村活動を始めました。 そして父母と一緒に祖父のいる北朝鮮に行くために一旦その農村を離れて帰省した後、北朝鮮に行けなくなったために10月頃にまた農村に戻ってきます。

すぐに帰ってくるようにとの急な手紙が父から届きました。 うしろ髪を引かれる思いで家に帰ってみますと、本籍地の元山に今すぐ引き揚げるというのです。‥‥あたふたと家を整理して連絡船に乗り、大田で乗りかえて38度線近くの東豆川にたどりつきましたが、真夜中、その川を渡る段になって軍政庁に再雇用されている警務隊に捕まってしまいました。‥‥翌々日、母と私は釈放されて丸裸で済州島に戻りました (同上 88頁)

(10月頃)私はその足で光州に行き、12月末まで崔賢先生が開いている学習所に入りびたって、「チェコジャンチャッキ運動」の手伝いをしながら、知らねばならないことの多くを知らされました。 なんとその間に「登校拒否者」「赤色同調者」として私は学校から除籍されてしまっていました。(同上 88~89頁)

 10月頃に再び光州に戻り、そのまま崔賢先生の学習所に行って入り浸り、その年の12月末までの約三ヶ月の間、一緒に活動したことになります。

崔賢先生の学習所から私が済州島の親許のところに帰ってきたのは、1945年も暮れかかっていた12月の終わりごろでした。 (同上 95頁)

(崔賢先生の)「トゥンプル学習所」との直接的な関わりは三月足らずの短いものでした (同上 104頁)

崔賢先生の生き方、思うことを誠実に実践する行動力に痛く感銘を覚えていた私は、解放の年の12月末、先生の薦めもあって済州の親許に帰ってきます (同上 118頁)

 ただし金さんは、この三ヶ月の間にまた一度済州島の家に帰ったことがあるようです。

その年(1945年)の晩秋、元山の祖父の死の知らせが届きますが、父は牛のうめき声のような声で慟哭しました。 (金時鐘④「語る―人生の贈り物―朝鮮が私の中でよみがえった」 2019年7月23日付『朝日新聞』) 

 http://shiminhafiles2.cocolog-nifty.com/blog/files/342e98791e69982e99098e38080e8aa9ee3828b.pdf

 晩秋ですから11月頃でしょうか。 金さんは祖父の訃報を聞いて慟哭する父を見ていますから、その時は済州島の家にいました。 

 まとめますと、金時鐘さんが崔賢先生と出会って農村活動をしたのは、金さんの著作では「1946年」と「1945年」の二つがあります。 どちらも詳しい状況が書かれていてリアリティがあるように感じられますが、時期が食い違っています。 ということは、どちらかに間違いがあるということになります。

 崔賢先生との出会いと活動は金時鐘さんが共産主義者となる契機となったものですから、その時期は彼の思想を研究する上で重要なものです。 その時期が食い違って混乱しているとなると、一部の小さな間違いに止まらず、全体の信用性に疑問を抱くことになります。

 崔賢先生の活動について、金時鐘さんの回想しか資料がないので、どこまでが真実なのか分かりません。 また「崔賢」という名前は『「在日」のはざまで』平凡社53頁によれば「多分筆名」とありますが、いわゆる細胞ネーム(かつて共産主義者が活動する際に使った通名)なのか、ひょっとして冒頭に書いたような元抗日パルチザン有名人の名前を騙ったのか、などの疑問もあります。

 ただ解放後の全羅南道・慶尚南道の智異山一帯では南労党の活動が活発だったので、共産主義的な農村活動があったのは事実と思われます。 金時鐘さんの記述を検証するために、この時期の南労党の資料が欲しいところです。     (続く)