在日の「国籍剥奪論」はあり得ない ― 2024/11/19
在日韓国・朝鮮人は1952年のサンフランシスコ講和条約発効とともに日本国籍を正式に離脱したのですが、これを「国籍剥奪」といって被害者性を主張する論者が多いですね。 その論理は、“本人の同意も得ずに日本国籍を剥奪した” あるいは “国籍の選択権を与えずに一方的に奪った”というものです。 それまではそんな主張をする人はいなかったのですが、1960年代後半から徐々に出てきました。
それでは在日韓国・朝鮮人たちは自分らの国籍をどう考えてきたのか、また本国の韓国や北朝鮮政府は在日の国籍をどう考えていたのか、ちょっと詳しく見ていきます。 引用する資料は水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』(岩波新書 2015年1月)からのものです。 この本は私とは考えが違いますが、事実関係の記述はおおむね信頼できるものです。
まず1945年の終戦直後です。 日本から解放された在日たちは、故国への帰国と生活権を守るために10月に「在日朝鮮人連盟(朝連)」を結成しました。 しかしこれには左翼色が強かったために、民族主義者らがここから抜け出て「朝鮮建国促進青年同盟(建青)」を結成しました。 「朝連」は後に朝鮮総連に、「建青」は後に民団につながります。 それでは解放直後の在日の代表団体であった「朝連」と「建青」は、自分たちの国籍をどう考え主張したのかです。
朝連や建青が求めていたのは、敗北した日本国民とは区別される『解放国民』、つまり外国人としての処遇であった。‥‥ 連合国民をはじめとする外国人に与えられていた特別配給(日本人の主食配給が一日2.7合に対して4合が支給された)も朝連や建青・民団は、外国人としての立場から一貫してその適用を要求した。 (岩波新書『在日朝鮮人 歴史と現在』 108~109頁)
朝連も建青も、自分たち在日は日本人ではなく外国人であると主張したのでした。 つまり植民地から解放されたのであるから日本国籍がなくなるのは当然だという考えでした。 朝連と建青は当時の在日を代表する団体でしたから、在日全体の意見と見ていいでしょう。 従って在日は日本国籍からの離脱を自ら望んで選択したと言えます。
一方で、GHQ占領下の日本は独立国家ではありませんでした。 ですから日本政府は在日を明確に外国人とすることができず、“外国籍の朝鮮人とするが日本に居住する限り日本人として扱う”という曖昧な法的地位とし、当初は本人次第で国籍を選択できるだろうという「見通し」を持っていました。 しかし結局はそんな選択を認めず、一律に日本国籍を離脱させることにしました。
日本政府は1949年12月の衆議院外務委員会の答弁では、在日朝鮮人の国籍問題について「大体において本人の希望次第」となろうとの見通しを語っていた。 この頃、日本政府は、講和条約の締結(1951年)にあたっては、国籍問題は避けて通ることのできない重要問題の一つとなろう、と予想していた。‥‥ 在朝日本人の引き揚げがほぼ完了したうえ、アメリカ側の平和条約構想の中に国籍規定がないことを知って、在日朝鮮人の日本国籍を一律に奪う方向に転じたのである。 (同上 126頁)
1952年、一片の通達を通じて在日朝鮮人を一律に「外国人」としたが、在日朝鮮人側も自らを「外国人」として律していたわけである。(同上 143頁)
1952年の講和条約で日本が独立国家となると同時に、在日を正式に日本国籍を離脱させることになりました。 この本では「一律に奪う」とありますが、在日は誰も国籍離脱に反対せず、自分たちは「外国人」だと主張したのですから、「奪う」という表現は不適切です。
ところで国籍というのは国家の構成員という意味であり、国籍を証明するのはその国の政府だけが有する権限です。 従って在日の国籍は何かを考えるには、本国政府の見解が重要になります。
在日朝鮮人の国籍問題は講和条約の発効を控えて開かれた日韓予備会談でも議論されたが、韓国側は、国籍の選択権よりも在日朝鮮人を一律に韓国国民として認定することを日本政府に迫った。(同上 126頁)
講和条約に向けた日韓会談で、在日の国籍をどうするのかを日本と韓国が議論した際、韓国側は「一律に韓国国民として認定することを日本政府に迫った」のでした。 つまり在日はすべて我が韓国の国籍を有すると主張したのでした。
それでは朝鮮民主主義人共和国(北朝鮮)はどう考えていたのでしょうか。
(1954年)8月30日、在日朝鮮人を「共和国公民」とする北朝鮮南日外相の声明(「日本に居住する朝鮮人にたいする日本政府の不法な迫害に抗議して」)が発せられた。 声明は在日朝鮮人が朝鮮民主主義人民共和国という主権国家の一員であるとの論理から、共和国政府として在日朝鮮人の自由と権利の擁護を日本政府に求めるものであった。 (同上 131頁)
講和条約の2年後ですが、北朝鮮の外相は「在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国という主権国家の一員である」と声明したのでした。
以上をまとめますと、 ①「在日朝鮮人」は終戦当初から自分たちが日本人ではなく外国人であると主張し、 ②「日本政府」は1945年の終戦によって在日がもはや日本人でなくなったと主張し、 ③「韓国政府」は在日はすべて自国民であると主張し、 ④「北朝鮮政府」もまた在日は自国の公民の一員であることを主張しました。
つまり在日の国籍について、関係する「在日」「日本政府」「韓国政府」「北朝鮮政府」の四者がすべて日本国籍喪失を主張したのです。 ですから在日の国籍問題は、“日本国籍がない”ことで決着したのでした。
ただし日本は “日韓併合条約は合法正当であり、朝鮮人は当然に日本国籍を有していた” という考えであったのに対し、韓国・北朝鮮は “併合条約は不法不当であるから、朝鮮人は日本国籍を強制されたのであって本当は日本国籍を有していなかった” という考えになります。
ですから日本は “在日は日本国籍を喪失して韓国・朝鮮籍になった” となるのに対して、韓国・北朝鮮は “国籍は強制されていたのが元の正しいものに戻っただけ” となります。 つまり、それまでの経過にはこのような意見の違いがあったのです。 ただし前述したように、“今の在日には日本国籍がない”という点で一致したのでした。
それから数十年経って、“在日は日本国籍を有していたのに奪われた” という「国籍剥奪論」が出てきたのです。 これは本国の “奪われる日本国籍なんて元からなかった” とする考え方を否定するものです。 さらに日本も在日も本国も全員が一致して、“もはや日本国籍はない” ということで決着したのに、今になって引っくり返すものです。 「国籍剥奪論」は、“日韓併合は合法正当だから在日は日本国籍を有していた” とする日本側の考えにつながるのものであって、本国の不法不当論に反するものであることに注意が必要です。
「国籍剥奪論」は日本を加害者、在日を被害者とするために、近年に作り出された用語と言えます。 そしてそれは在日の先輩たちや本国の考え方を否定するものなのです。 「国籍剥奪論」は日本を糾弾するために編み出された主張であり、“言葉の遊び”のようなものと言っていいと考えます。
【追記】
・「国籍剥奪論は1960年代後半から徐々に出てきた」と記しましたが、それは宋斗会です。 彼は、“自分は日本人として生まれてきた、日本国籍を捨てた覚えはない”として日本国籍確認訴訟を起こし、自分の外国人登録証を法務省の建物前で焼き捨てました。 彼は民族団体から無視されましたが、国籍剥奪論の最初の人と言っていいでしょう。 一部の知識人と市民団体が応援していました。
・「国籍を剥奪された」という主張は、私の記憶では1970年代後半頃から「在日には国籍選択権を与えるべきだった」とか「在日は権利として日本国籍を与えられるべきである」という主張とともに広まっていきました。 昔に、“日本が私に土下座して‘どうか日本国籍をもらってください’とお願いに来れば考えてやってもいい” と言った在日活動家がいましたねえ。 当時の活動家たちは、「帰化」は日本に頭を下げて申し込むものだから絶対に嫌だという執念を有していました。
・2003年頃でしたか、与党内で「特別永住者等国籍取得特例法案」がまとめられているという報道がありました。 特別永住資格を有する在日韓国・朝鮮人は、所定の要件があれば届け出だけで日本国籍を取得できるというものでした。 ですから「権利として日本国籍を与えられる」という考え方です。 しかし結局は国会に上程されず、廃案となりました。
在日は自ら望み、そして本国政府の方針もあって日本国籍を離脱することで決着したという過去を思い起こすならば、日本国籍の取得は権利ではなく、これまで通りに申請し審査を受けて許可される「帰化」が筋であると考えます。
なお『在日朝鮮人 歴史と現在』は「特別永住者等国籍取得特例法案」に反対する一方で、「オールドカマーの在日朝鮮人が日本国籍を取得することは当然の権利」であると主張しています(228~229頁)。 その論理が理解できないところです。
【拙稿参照】
『抗路』への違和感(2)―趙博「外国人身分に貶められた」 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383666
国籍剥奪論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/07/15/445780
水野・文『在日朝鮮人』(15)―外国人の地位を求めた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/25/8138588
水野・文『在日朝鮮人』(16)―国籍剥奪論の矛盾 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/30/8142349
古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/01/7263575
在日朝鮮人は外国人である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuudai
(続)在日朝鮮人は外国人である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuuichidai
合理的な外国人差別は正当である http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuukyuudai
青木理・金時鐘の対談―帰化(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/08/9524343
青木理・金時鐘の対談―帰化(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/09/15/9526042
52年前の帰化青年の自殺―山村政明(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518301
52年前の帰化青年の自殺―山村政明(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/23/9519952
52年前の帰化青年の自殺―山村政明(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/29/9521733
帰化にまつわるデマ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/31/387157
在日の帰化 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/18/489465
小松川事件―民族問題を絡めてはならない(3) ― 2024/11/13
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/08/9729822 の続きです。
同じように凶悪犯罪でありながら民族問題が絡んだのが、その10年後の1968年に起きた「金嬉老事件」です。 金嬉老は少年時代から窃盗・詐欺・強盗などを繰り返して何度も逮捕され刑務所を出入りする犯罪常習者でした。 1968年に借金の取り立てトラブルから暴力団二人を殺害した後、ライフル銃とダイナマイトを持ち込んで旅館に人質を取って立てこもり、そこにマスコミらを呼んで在日朝鮮人差別を訴え、日本を糾弾しました。 マスコミはその籠城現場に行って金を取材し、生中継するなど、その訴えを報じました。 また金はマスコミの注文に応じて銃を撃つなどのパフォーマンスを演じました。
多くの日本知識人たちが民族差別を訴える金嬉老を支援しました。 支援者たちは人質をとって籠城し民族差別を訴えている金に、次のような「よびかけ」を行ないました。
私たちは今回のあなたの行動を通じて、日本人の民族的偏見にかかわる痛烈な告発を知りました。 私たちはもしもあなたが命を失っても、あなたが叫び続けた問題を、その本質において受け止めねばならないと思います。 私たちは今、あなたにどのような手をさしのべるべきなのか、深刻な反省とともに考えております。‥‥ あなたの行動は民族の責任を衝きました。 私たちはまさに日本民族のために、あなたの声を真っ向から受け止めたいと思います。
そして支援者らは金嬉老の裁判において、「法廷を通じて在日朝鮮人のかかえた問題と、日本人の責任を明らかにする」として、「朝鮮植民地化の責任、関東大震災の朝鮮人虐殺の責任‥‥一度でも問われたことがあったのか。 それを問うことなしに、金嬉老の“犯罪”だけを問おうとするのか」 「日本国家は金嬉老を裁くことができるのか」 「悪いのは国家権力であり、民族差別だ」 「日本人は金嬉老を裁く一切の資格を喪失している」 「金嬉老の無罪を主張する」と訴えたのでした。
凶悪事件を起こした犯罪者が民族差別を訴えると、多くの著名な知識人が支援者として事件現場や裁判に駆けつけ、「日本は金嬉老を裁く資格がない」とまで言って呼応したのですから、裁判は異例な展開をみせました。 金嬉老は“民族差別があったから事件が起きたのだ、すべて責任は日本社会にある、自分は無罪だ”と主張しました。 また収監されていた拘置所(静岡刑務所内)で、金はこの支援運動を背景に刑務官らを脅して操り、自由気ままに行動しました。 寿司でも何でも刑務官に買わせ、監房の出入り自由を獲得し、女囚との密会までしていたのです。 一番驚かせたのは、出刃包丁を差し入れさせたことでした。 そのため刑務官は自殺に追い込まれました。
借金トラブルで二人を殺害し、銃とダイナマイトを持って人質をとって立てこもるという凶悪事件に民族問題を絡ませると、こんなことになるのですねえ。 支援者たちは厳しい民族差別を加える日本社会を告発する意図でしたが、金嬉老にとって民族問題は身勝手に振る舞い自分の罪を免れるための道具でしかなかったようです。
金嬉老は韓国では「民族の英雄」とされましたが、裁判の結果、無期懲役に処せられました。 そして金は仮釈放ののち韓国に引き取られ、歓迎を受けました。 しかしその韓国でもまた殺人未遂・放火・監禁などの罪を重ね、韓国のマスコミは「堕ちた英雄」と呼び、韓国での評判は地に落ちました。 金は、“根っからの犯罪者”とも言うべき人物だったのです。
おそらく金嬉老は、10年前の小松川事件で知識人たちが民族問題として取り上げて支援したことを覚えていたのではないか、そして民族問題を訴えれば自分は有利になると思ったのではないか‥‥、そのように考えるのですが、どうでしょうか。
1958年の小松川事件と1968年の金嬉老事件。 この二つの凶悪事件は日本人や在日知識人らが犯人を支援し、マスコミを賑わせました。 二つの事件の内容はもともと民族問題とは何も関係なかったのですが、一つは支援者側の意図で、もう一つは犯罪者本人の意図に支援者側が同調・応援して、どちらも民族問題が絡んでしまい、在日韓国・朝鮮人の歴史に残ったと言えます。
姜尚中さんは、金嬉老事件から30年経って金が仮釈放されて韓国に引き取られた1999年9月、全国紙で次のように発言しています。
最近、日韓が急速に近しい関係になっているが、金嬉老を生み出した差別構造は残ったまま。 事件から学ばず、歴史の中に封じ込めれば、今後、第二、第三の金嬉老が生まれる可能性がある。 (1999年9月7日付『毎日新聞』)
この姜尚中さん発言の翌年にルーシー・ブラックマン事件が起きました。 この強姦バラバラ殺人事件の犯人は、織原城二(帰化以前の本名は「金聖鐘」、通名「星山聖鐘」)という帰化した在日です。 けれど「第二の金嬉老」とは呼ばれなかったですね。 週刊誌が彼の身元を暴露し、在特会とかネットウヨとかの嫌韓派が執拗にヘイトしていたのに対し、彼は名誉棄損で訴えるなどして対抗しました。 姜さんの言う「差別構造」は残っていたことになるはずですが、誰も織原を応援しなかったです。
そして最近の在日の凶悪犯罪といえば、この4月に発生した宝島夫妻殺害事件の実行犯が姜光紀(カン・グァンギ)というハングル本名を名乗る在日韓国人の若者でした。 ニュースではハングル名が何度も出てきましたねえ。 在日がハングル読みの本名を使えば、以前ならば“民族主体性”とか“高い民族意識”とかで称賛されたものです。 ですからそんな在日が事件を犯せば、昔なら「日本の民族責任を問う」知識人たちが支援の声を上げたでしょう。 しかしこの凶悪事件でも、そんな声を上げる人はいないようです。 250万円かそこらのお金で二名の殺人と死体遺棄を請け負った犯罪者がたまたまハングル読みの本名を名乗る在日だったことに過ぎないのですから、民族問題は全く関係がありません。 それが当然でしょう。 (終わり)
小松川事件―民族問題を絡めてはならない(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/03/9728638
小松川事件―民族問題を絡めてはならない(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/08/9729822
【拙稿参照】
戦後朝鮮人の振る舞い―「事実」の経過 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/28/9299898
戦後朝鮮人の振る舞い―NHK記事に民団が人権救済申し立て http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/25/9299094
戦後の朝鮮人の振る舞い―事実を語るべきか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281241
水野・文『在日朝鮮人』(14)―終戦直後の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135824
張赫宙「在日朝鮮人批判」(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714
張赫宙「在日朝鮮人批判」(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446
権逸の『回顧録』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587
終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495
在日朝鮮人の「無職者」数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/01/05/7971706
闇市における「第三国人」神話 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai
在日朝鮮人の犯罪と生活保護 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuurokudai
暴力にみる民族的違和感 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuunanadai
差別とヤクザ http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuuyondai
小松川事件―民族問題を絡めてはならない(2) ― 2024/11/08
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/03/9728638 の続きです。
彼の抑圧され続けた在日朝鮮人としての苦しみと怒りは、それとして十分に認められるとしても、それらはすべては殺人という行為の瞬間には、性欲という原始的衝動の前に著しく重みを失い、行為の後、おのが行為を自他に分析し、説明し、弁明するにあたって、初めて注目され、重みを回復し、必要以上に幅を利かせ始めるのです。 そのことはR(李珍宇)自身の、行為の理由についての発言の“どうもよく分からない‥‥自分でも‥‥”というところや、また特に被害者がその犯罪時に、果たして絶対に日本人であって同胞でないという確認などを一切していないこと、要するに性欲のはけ口としての<女>でありさえすれば、それで十分であったらしい事からも十分にうかがわれるところです。 (加賀乙彦『ある死刑囚との対話』弘文堂 1990年3月 74~75頁)
「彼の抑圧され続けた在日朝鮮人としての苦しみと怒りは、それとして十分に認められるとしても」は、李珍宇と何度も往復書簡を繰り返した朴壽南が李に民族意識を持たせようと説得したり、日本の知識人たちが「李少年をたすける会」という支援組織を作って世間に訴えた民族問題を指しているようです。 しかし正田は、そんな民族問題は「殺人という行為の瞬間、性欲という原始的衝動の前に著しく重みを失う」と主張します。 つまり李珍宇は民族とは関係なしに「性欲のはけ口としての女」でありさえすれば誰でも襲ったであろうと正田は言うのですが、その分析は正しいと考えます。
ところで李珍宇は第二審判決の6カ月後に、事件を起こした心境について、支援者で往復書簡を交わした朴壽南に次のような手紙を送っています。
私は二つの事件を起こしましたが、あのまま捕われなかったなら、機会あるごとに更に人を殺したことは確かです。 私が捕われてから、何の後悔も見せず、むしろ快活に振る舞ったことは、少なくとも故意ではなく、それは自然でした。 何故なら、私は自分の罪に対して何の後悔も感じていなかったからです。 私は人を殺したことについて何の後悔も感じませんでした。 私は捕われてからも、もしも自分が社会に出たら、また人を殺すかも知れない、ということを感じていました。
第一に、私は人を殺すということについて、何の感動もないのです。 この本性、これは今の、現在の私の心に相変わらずあるのです。 理性、心を考えに入れず、人を殺すという行為そのものを見る時、現在の私は、以前と同じように、それを容易に為し得るという本性を感じています。
‥‥親思いの私も、この本性には打ち勝てませんでした。 私が罪を犯さないのは、その機会がないからかも知れません。 あるいは親を悲しませたくないからかも知れません。 あるいは窮屈な刑務所に入りたくないからかも知れません。 とはいえ、私の本性はそれによって何にしても、無感動なこの本性にたいして堪らない憎しみを感じています。 私は被害者のこと、家の人たちのことを思って涙を流しました。 しかしそれは、ただの涙で、私の本性は無関心です。 (以上、朴壽南編『李珍宇全書簡集』 新人物往来社 昭和54年2月 192頁)
李珍宇は「本性」という言葉を使っていますが、“強姦殺人衝動”という意味のようです。 その“衝動”が一旦湧き上がると、そのまま実行するだけで、そこには「後悔」も「理性」も「心」もなく、「無感動」「無関心」であり、涙を流してもそれは「ただの涙」にしか過ぎない、ということです。 李が事件は「夢」のなかで行なわれたと語った中身は、これだったようです。 そしてそれは、今でも殺人が「容易に為し得る」「社会に出たらまた人を殺すかも知れない」という「本性」なのです。
極悪事件犯罪者の心境というのは、こういうものなのでしょうか。 ここは犯罪心理学などの専門家の意見を聞きたいところです。
しかし李珍宇の犯罪は民族問題(―朝鮮語を知らない)に起因するものだとする主張があります。 在日作家の高史明さんです。 彼は次のように言います。
李珍宇には大きな共感を持ちました。 彼は母親が聾唖者でコミュニケーションが成り立たない。 父親は日雇い労働者で家庭内教育などできない。 言葉を知らないで育った人間がアイデンティティ表明しようとすれば、他者を殺すしかなくなる。 彼は自分の殺人があったか否かを新聞社に電話して確認しましたね。 私なりに言うと、彼はそこまで自らを喪失した者だった。 ‥‥私の彼への共感は言葉を持たない者の次元です。 それに彼の犯罪は民族差別の歪みだけによるのではなく、歴史的、社会的な人間存在総体の奈落によるものと思います。 (『ルポ 思想としての朝鮮籍』中村一成著 岩波書店 2017年1月 11頁)
李珍宇は学校の成績上位者で短編小説を書いていたといいますから、日本語は自分の心情を文章化できるほどに十分にできたと思われます。 ですからここで「言葉を知らない」というのは、民族の言葉である朝鮮語を知らないという意味になります。 つまり李珍宇は朝鮮人なのに朝鮮語を知らないから「アイデンティティ表明しようとすれば、他者を殺すしかなくなる」というのが高史明さんの分析です。 しかしこんなことで強姦殺人事件を起こすものなのですかねえ。 あるいはひょっとして、高さん自身が朝鮮語を知らないために「他者を殺すしかなくなる」という心境になった経験があるという意味なのでしょうか。 どうも理解できないところです。
また高さんは、「彼の犯罪は民族差別の歪みだけによるのではなく、歴史的、社会的な人間存在総体の奈落によるもの」とも分析していますが、李個人の責任を問わないで、犯罪の原因を社会や歴史に求めているように思えます。
私は、小松川事件は人間として許されない凶悪犯罪であり民族問題に絡めるべきものではなかった、と考えます。 問題にすべきことは、犯行時少年だった者に死刑判決を下し、執行したことが妥当なのか、という点でしょう。 (続く)
小松川事件―民族問題を絡めてはならない(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/03/9728638
小松川事件―民族問題を絡めてはならない(1) ― 2024/11/03
66年前の1958年に発生した小松川事件は在日朝鮮人が起こした凶悪事件ですが、これに民族問題を絡めて救援活動が行われたので、在日朝鮮人の歴史を語る本などでは必ずと言っていいほどに出てきます。 拙ブログでも取り上げたことがあります。
犯人の李珍宇は事件について民族問題と絡められることに困惑していたという証言がありましたので紹介します。 出典は加賀乙彦『ある死刑囚との対話』です。 加賀はバー・メッカ殺人事件の死刑囚である正田昭と手紙をやり取りしていて、その内容を本にしました。 このなかで正田は東京拘置所で同囚の李珍宇に出会い、話を交わしていたというのでした。
R(李珍宇)は生前私に、自分の犯罪が在日朝鮮人一般の問題として広く展開されてゆくことに戸惑い、困ってしまう‥‥と申しておりました。 (加賀乙彦『ある死刑囚との対話』弘文堂 1990年3月 78~79頁)
李珍宇は死刑囚として東京拘置所にいた際に、同じく死刑囚で同じ拘置所にいた正田昭にこのような話をしていたのでした。 この証言はそれが出てきた経過から、内容に間違いがないと思われます。 “自分の犯罪は民族問題ではない”ということです。
次に正田は李珍宇の事件について考察します。 正田は同じ死刑囚として李と話を交わしたというのですから、その発言内容には重みがあると思います。 それを紹介します。 正田はもともと学があり、囚人生活のなかで小説家にもなりましたから、文才があると言っていいでしょう。 紹介する文には当時のインテリらしい表現が出てきますが、今ではちょっと読みづらいかも知れません。
R(李珍宇)少年の場合、その行為から考え、大江健三郎氏にしろ、他の論者にしろ、何故最も根源的理由とごく普通に認められているものを見過ごしているのか、不思議でなりません。 それは性欲、それも異常に強い性欲です。 単に禁断的状況にあるが故ならず、明らかに一般より数倍する外部からうかがえる、かつ昼間においても自瀆しないでいられぬ程の人間が為した強姦殺人‥‥ (同上 66頁)
「自瀆」なんて、今は知る人がいないでしょう。 オナニー(自慰・手淫)のことです。 事件について大江健三郎などが民族問題を言っているが、「根源的理由」は「異常に強い性欲」である、というのが正田の考えです。
李少年の犯罪が単純に性欲のためだとする考え方の方に、私は賛成です。 (同上 69頁)
「女の人を自転車から引きずり下ろしたとたん、僕は夢を見ているようだったと。 これは夢なんだと思った」と。 すなわち、彼は女の人の体に触れたとたん ‥‥自分の行為は理性(精神)によって律しられておらず、肉体の支配に委ねられたことを感じ、だからこそ「夢を見ている」と覚えたのです。 ひとたび、肉体の論理が人間を支配すると、行為はとことんまで行く。 原始的で凶暴なものが噴出し、その最後まで行ってしまう。 李少年の殺人はかくして成就し‥‥ (同上 70頁)
李珍宇は自分の事件を「夢を見ている」と言っているんですねえ。 ここらあたりは私には理解できませんが、正田は同じく殺人事件を犯した体験から、李がその時の自分自身の精神状況を「夢」と語ったことが理解できるようです。 それは、後先も何も考えずに湧き上がる感情のまま行動したのが強姦殺人だった、それはまるで夢の中のようだった、ということなのでしょうか。
殺人という異常な行為は李のように「夢」と感じられる。 つまり非現実的な世界の出来事として感じられる。 なぜなら精神にとって肉体は常に非現実的なものなのですから。 このことはドストエフスキーが、おそらく世界で初めて発見したことではないでしょうか。 (同上 70~71頁)
李珍宇は凶悪犯罪行為を実際に行なっていながら、「非現実的な世界の出来事」すなわち「夢」と感じているということですね。 正田はドストエフスキーを引っ張り出してきて、李の「夢」が分かると言っているようです。 私はドストエフスキーをほとんど読んだことがないからでしょうか、ちょっと理解できませんねえ。
在日朝鮮人であること、圧迫された人間であることは、彼の犯罪とは無関係かどうか、 この点について私は無関係だとは言い切れない。 ただそれが第一義的なものではないといえる (同上 71頁)
民族問題は第一義ではないというのは、私もその通りと考えます。(続き)
【拙稿参照】
小松川事件(1)―李珍宇救援を呼びかけた人たち http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/04/9574532
小松川事件(2)―李珍宇と書簡を交わした朴壽南 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/08/9575512
小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502
水野・文『在日朝鮮人』(17)―小松川事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/15/8152243
小松川事件は北朝鮮帰国運動に拍車をかけた https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/02/9639109
韓国のドイツ風住宅 ― 2024/10/27
今から10数年ほど前、韓国の新聞に「ドイツ風住宅」の広告が載ったことがあります。 都会からちょっと離れた田園風景の土地で、第一期として何軒かの建売住宅を販売するものでした。 ですから最終的には十数軒か何十軒かの団地になるようでした。
ところで、なぜドイツ風なのか? 韓国では何かドイツ文化が流行しているのかとも思いましたが、そんなことはありませんでした。 ですからその時は、一風変わった住宅をアピールする宣伝戦略なのだろうと思いました。
それから何年かして、『国際市場で逢いましょう』という韓国映画がヒットしました。 家族を守り支えるためにベトナム戦争などの戦乱を体験し、ドイツに出稼ぎに行ったりした男の物語でした。 ここにドイツが出てきます。
軍事政権時代だった1960年代後半~70年代前半、貧しかった韓国ではドイツ(当時は西ドイツ)への出稼ぎ労働者が募集されていました。 男なら炭鉱夫、女なら看護助手です。 映画の主人公は男でしたからドイツの炭鉱に行ったのですが、同時に募集された女性は看護助手としてドイツの病院・療養所等に行きました。 そして彼らは何年か働いて稼ぎ、契約が終わると韓国に帰ってきました。
映画では韓国に帰ってその後の物語に続くのですが、実は一部の韓国女性がドイツに残ったのです。 看護助手は看護師の補助作業で、患者の身の回りの世話をします。 一番大変なのが沐浴や排せつの世話ですが、韓国から来た看護助手らは小さい身体で大柄なドイツ人患者らを嫌がらずに誠心誠意で世話をしました。 そうすると患者の息子たちがその姿を見て感動し、惚れ込んで求婚したそうです。
詳しい数は分かりませんが、看護助手の韓国女性がドイツ男性と結婚した例がかなりあったと聞きました。 その結婚式には韓国の家族が参加できず、男性側は家族・親戚等大勢だったが女性側はごくわずかの友人のみ、という式だったそうです。 その時、花嫁は韓国の母親から送られてきた韓服を着たそうです。
また韓国の家族のためにまだまだ儲けねばならないと新たな在留資格を取ってドイツに残ったり、同じく派遣された男性炭鉱夫と結婚してドイツにそのまま定着した女性もいました。
それから数十年が経ち、彼女らは老境とともに望郷の念が募り、韓国へ帰ろうとする動きが出てきたのです。 冒頭の「ドイツ風住宅」というのは、そういった彼女たちのための家だったのです。 更にそれがこれまでの韓国にはないモダンでシャレた住宅ということで、ドイツとは関係のない韓国人にも需要が出てきたようです。
韓国の新聞の載った建売住宅の広告なんて本来はどうでもいいことなのですが、その背景をちょっと調べると、韓国現代史の新しい知識を得ることができました。 雑学でも知識が広がれば、興味がさらに深くなりますね。
金正恩10・7演説「韓国を攻撃する意思はない」(2) ― 2024/10/20
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/15/9724192 の続きです。
我々は正直言って、大韓民国を攻撃する意思が全くありません。 意識することすら鳥肌が立ち、あの人間たちとは向かい合いたくもありません。
以前の時期には、我々があの南の解放という声も多くあって、武力統一とも言いましたが、今は全くこれに関心がなく、二つの国家を宣言してからは更にもっとあの国を意識することもありません。ところで問題は、ひっきりなしに我々を苛立たせていることです。
ここで「韓国を攻撃する意志はない」という言葉が出てきました。 今まで「南の解放」「武力統一」と言ってきたが、もう韓国を「意識することはない」から「攻撃すらもしたくない」ということです。 そうであるのに韓国はごちゃごちゃ言ってきて、「我々を苛立たせる」というわけです。
我々は最近の我が国家周辺の情勢環境を鋭く注視せねばなりません。 ありもしない脅しを《抑制》するという妄念にとらわれて、《韓米同盟》という核を基盤とする同盟に変異させて武力増強に熱を上げながら、狂的に繰り広げる米帝と傀儡の戦争騒動と挑発的行動は、いつ朝鮮半島で力の均衡が崩れるかも知れないという危険性を内包しています。 自分たちの軍備拡張と軍事行動は正当で防御的性格であり、我々の該当する活動は危険で挑発になるという非論理的で変態的な理由がまさに米帝と手下たちが声を上げている盗人猛々しい主張です。
イヤでイヤでたまらない韓国が、米国と同盟して我が北朝鮮を挑発し、戦争を企んでいるということですね。
朝鮮半島で戦略的力の均衡の破壊は、すぐさま戦争を意味します。 正にそのために、敵をいつも抑え込んで情勢を管理できる物理的力を持たねばならないという我々の自衛国防建設論理は、針を通す隙間もなく完璧で正当です。 軍事超強国、核強国へ立ち向かう我々の歩みは更に早くなります。 韓米軍事同盟や傀儡たち自らが言うように核同盟へ完全に変異された現時点で、我が国の核対応態勢は更にもっと限界のない高さまで完備しなければなりません。
韓米同盟が核を保有する我が北朝鮮を攻撃してもすぐさま完璧に対応するぞ、というのです。
話のついでに指摘しておくと、去る10月4日、国連事務総長代弁人は我々に《修辞の水位を低めることを望む》と要請してきました。 このような要請がソウルにも伝えられたのか不分明ですが、この席を借りて再び強調することは私の発言を世の中が聞こうとするなら直ぐに聞かなければならないことです。 私は明らかに、そして一貫して軍事力使用に関する我々の立場を鮮明にするたびに《万一》という前提をつけました。その《万一》という仮定のもので、我々の憲法は我が軍に厳格な命令を下すのです。
敵たちが我が国家を、反対する武力使用を企図するならば、共和国武力は全ての攻撃力を躊躇なく使用するのです。 ここには核兵器使用が排除されません。
ここで北朝鮮は「万一の仮定」と言いながらも、核兵器を使用するぞと脅していますね。
また何度も強調するところですが、そんな状況で生存に希望をかけることは無駄なことであり、幸運も《神の保護》も、大韓民国を守ってやれないのです。 これは国連が言う修辞的水位に関する問題ではなく、明らかに実地行動的警告です。
我々の前には、世界最大の核保有国と一緒にいじり回そうとする一番奸悪な傀儡があります。 このような環境下で我々の見解と選択、決心は絶対に変わることがありません。 敵は軽挙妄動をしてはなりません。 敵たちは我々の警告をいつものように間違って聞けば、更に凄絶で酷毒な対価を払うようになるということを深く噛みしめなければならないのです。
現在、我々が保有する絶対的力は、実地の戦争を抑制し平和を守る使命を責任もって遂行しています。 どんな勢力も、朝鮮民主主義人民共和国に反対する軍事力使用と軍事力間の衝突という選択はできません。 しかし敵たちが《核同盟》を武器に力の優位を占め、戦略的形勢をひっくり返そうと足掻けば足掻くほど私たちは国防科学と工業の継続的な跳躍を成し遂げ、自衛の戦争抑制力を無限大に強化していかねばなりません。 我が党と共和国政府は、朝鮮半島で力の均衡が破壊されることを少しも許容しないのです。
我が北朝鮮を挑発・攻撃しても無駄だ、返って痛い目に遭うぞ、という意味ですね。
以上で、金正恩の「韓国を攻撃する意志はない」という言葉がどういう話の流れのなかで出てきたのかを見てきました。 要は、韓国なんか顔も見たくないほどに嫌いだ、しかしその韓国が“自分はこれだけ強い”と力自慢をしている、これに対して核強国の我々は黙っていないぞ、けれど韓国が黙って大人しくしていればこちらから攻撃はしない、という主張のようです。
今月、韓国が無人機を平壌に飛ばしてビラを撒いたとして北の金与正が「惨事が起きるぞ」「宣戦布告とみなすぞ」と報復の警告を発し、金正恩は「主権が侵害される場合、我々の物理力がためらわず使用される」と宣言しました。 おそらく、“韓国を攻撃する意志はないとせっかく言ってあげたのに無視しやがって、見てろよ”ということなのでしょう。 本気なのか虚勢なのか分かりませんが、“我が国は核武装と軍事強国で相手に恐怖を与える”という路線に変わりがないみたいです。 (終わり)
【拙稿参照 ―労働新聞】
金正恩2024年1月15日施政演説(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/30/9654884
金正恩2024年1月15日施政演説(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/03/9656008
金正恩2024年1月15日施政演説(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/07/9657120
金正恩の2024年1月15日施政演説(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/11/9658152
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/04/9607167
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/08/9608146
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(5) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/12/9609128
今日は「太陽節」-朝鮮総連に教育費2億7千万円 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/15/9577360
金正恩10・7演説「韓国を攻撃する意思はない」(1) ― 2024/10/15
金正恩が10月7日、創立60周年を迎える国防総合大学を祝うために訪問し、演説をしました。 そのなかで「韓国を攻撃する意志はない」という発言があり、翌10月8日付けの労働新聞に掲載され、「ハンギョレ新聞」等の韓国メディアが報道しました。 https://www.hani.co.kr/arti/politics/defense/1161475.html
一体どんな演説だろうかと思い、労働新聞の当該記事を探しました。 http://www.rodong.rep.kp/ko/index.php?MTVAMjAyNC0xMC0wOC1OMDAyQA 長文の演説文で、その中に確かに「我々は正直言って、大韓民国を攻撃する意思が全くありません」という文言がありました。 この一文だけを見ると、まるで平和共存を言っているように思えます。
それではこれが一体どういう文脈の中で出てきたのかを見るため、翻訳してみました。 長文になり、また感情のこもった北朝鮮独特の修飾語ばかりの言葉が続きますが、その中にその文言が出てきます。 どういう考え方でこういう文言が現れるのか、実際に読んで確認する翻訳作業です。
翻訳は「韓国を攻撃しない」が出てくる部分の前後を含めて、全体の4分の1程度です。 直訳したところが多く、また北朝鮮独特の表現もありますので、意味がちょっと不明のところが出てきますが、飛ばして読んでくれてもある程度意味は分かるでしょう。
敬愛する金正恩同志におかれまして 金正恩国防総合大学を祝賀訪問なさって述べられた演説 (10月8日付け『労働新聞』)
同志たち!
国防総合大学は自尊、自立の強国を粘り強く支える革命工業の栄光の過去と今日を作り上げただけでなく、これからの永遠な勝利を建設する戦略的堡塁です。 ここは気持ちのいい校庭ではなく、尖鋭な戦場に他なりません。
同志たちが相手にしている敵は滅亡する瞬間まで反共和国敵対意識を変えない徹底した反共勢力であり、高度に発展した軍事科学技術と軍需工業、世紀を継ぐ戦争史を誇る帝国主義侵略実体です。 反共と戦争に命をかけている侵略の元凶とその家来たちは、汚らしい命が絶たれる時を感じるほどに更に発狂的に出てくるものであり、自分の最後の力がすっかり消耗する時まで突っ走ります。
去る10月1日、大韓民国の執権者たちがあの何と《国軍の日》という行事をやって、凶妄で浅薄な文をだらだらと読み、非正常的な事由を満天下に晒して見せたことを見てもそうであります。 傀儡政府は、あの《核心的国政課題》といって推進してきた《戦略司令部》が発足されたことに特別な意味を付与しながら、《ついに》自分たちを《先端在来式戦略とアメリカの拡張抑制能力が統合》されたと力説しました。
南朝鮮を「大韓民国」と正式名称と呼んだかと思うと、「傀儡」と呼んだりします。 この落差が、やはり分かりませんねえ。
ろくな戦略武器一つないことが、ご主人様の核を借りて見せかけの《戦略司令部》を作り、それを《核心部隊》《国防戦略の大幅強化》だと持ち上げて、後には40年ぶりにアメリカの最新鋭戦略核潜水艦が韓国に入り、戦略爆撃機が初めて着陸したことについてくどくどと言い訳し、ご主人様と野合して地域情勢を故意的計画的に悪化させてきた彼らの行為を自画自賛の中でそのまま自認しました。
力の劣勢に対する強迫観念と、我が国家に対する病的な被害意識から出発し、苦労して虚勢で組み立てられた《記念の辞》というものをよくよく見ると、核に基盤を置く軍事ブロックで変異した《韓米同盟》に依存して、我々との力の均衡を何が何でも維持しようという愚かな心算です。 同志たちも敵がどんな敵なのか、直ぐに知っておかねばならないだろうと私は言うのです。
韓国と米国との同盟に対する批判です。 批判するための言葉を選んで使ったみたいで、“結局、中身は一体なに?”ですね。
尹錫悦も記念の辞で、共和国政権の終末について浅薄で卑しい妄言を吐き出しましたが、ご主人様の《力》に対する盲信に完全に深く溺れています。 同志たちも新聞報道を通して見たでしょうが、これに対して私は何日か前に私の見解と立場を明らかにしたところです。
賢明な政治家であれば、国家と人民の安全を放っておいて調子に乗るのではなく、核国家とは対決や対立より、軍事的衝突が起きないように状況管理の方に力を入れるのです。 それが自国の安全のためにも絶対に正しい選択であり有益な取り扱いであるためです。 そのようにすることが正に政治家としても老練で巧みな資質と手腕です。
ところでソウルでいま湧き上がっている声はどうでしょうか? あの人間が核保有国の門前で軍事力の圧倒的対応を云々しましたが、その光景を見ながら世間が何だと言うでしょうか? 珍しく度胸一つ見せて、何だかんだとこのように褒め称えるのでしょうか? そうでなければ何か愛国名将にでもなるというのでしょうか? たとえ悠久の歴史になかった無敵の名将が出現するとしても、核と在来式戦力の格差を克服する秘訣を引き出すことができないのです。
大韓民国が安全に暮らす方法は、我々が軍事力を使用しないようにすればいいのです。 方法はこのように簡単です。 我々を常に苛立たせないように、我々を差し置いて《力自慢》をしなければいいだけですが、そんな簡単なことができる偉人はソウルにいないようです。
韓国の尹錫悦大統領は“北朝鮮を恐れない”ということで自国の軍事力を誇ったのですが、それに対する批判です。 韓国を国家と認めながら、このようなちょっと品のない表現を使うのは、やはり北朝鮮です。 (続く)
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国日は本当か? ― 2024/10/10
韓国の週刊誌『週刊朝鮮』2825号(2024年9月9日~15日 34~35頁)に、「北朝鮮の9・9『共和国建国日』は虚構だ」と題する論稿が掲載されています。 論者はピョードル・チェルチズスキーという人で、肩書は「博士 『金日成伝記』の著者」となっています。
拙ブログでは以前に、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国過程について論じたことがあります https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056 。 今回紹介する論稿もそれに関係するものですが、私の知らなかった事実が記されていて、参考になりました。 主要部分を翻訳して紹介します。 所々に、私のコメントを挟みます。
来たる9月9日は北朝鮮の「朝鮮民主主義人民共和国 建国日」である。 「九・九節」と呼ばれるこの日、韓国のマスコミでは「北朝鮮政権が1948年9月9日に建国された」と繰り返している。 そしてほとんどの読者たちは、これを事実として受け入れている。 だがこの主張は事実ではない。 北朝鮮政権は実際には1948年9月9日に建国されていないのである。 ‥‥ 実は北朝鮮の歴史では「政権樹立宣布」が明確になされた日がいつなのか、明確に分からないのである。
「建国行事」がなかった1948年9月9日
1948年9月9日に何か特別な「建国行事」を開かなかったという点を注目すべきところだ。 ‥‥ 北朝鮮の建国に至る過程を振り返ってみよう。
1948年初め、北朝鮮は事実上ソ連軍のソビエト民政部の支配下にあった。 ただし形式上では北朝鮮を統治した公式機関は「北朝鮮人民委員会」である。 この人民委員会の委員長は金日成であるが、実際のところ人民委員会自体はソ連軍の指示と命令によって運営されていた。 北朝鮮の建国を決定する権限は人民委員会にはなく、ソ連軍とソ連政府だけが有していた。
ここはその通りです。 世に出回っている北朝鮮の歴史によれば、金日成をはじめとする朝鮮の指導者が北朝鮮を動かしていたような記述が多いですが、それは形の上だけで、実際はソ連が北朝鮮を動かしていたのです。
1946年、ソ連はアメリカとの「米ソ共同委員会」で親ソ連の統一政府提案書を提出しようとしたが、協議が失敗したため、北朝鮮地域で「単独政権」を立てることに方向を変えた。
当時のソ連は、平壌政権が38度線以南の南朝鮮までを領土とするのかどうかについて、明確な立場を明らかにしなかった。 その結果、「朝鮮民主主義人民共和国 臨時憲法草案」には領土と関連した内容を含めなかった。 首都についての規定は二重的だった。 共和国臨時憲法草案には「朝鮮民主主義人民共和国の首府はソウルである。 統一政府が樹立される時まで、平壌市を首府とする」とした。 これはこの憲法が最初は北朝鮮地域にだけ効力を持ち、もし統一政府が樹立されれば南朝鮮まで拡張されることを意味する内容だったのである。
この臨時憲法草案書は1948年2月11日に公表された。 この2月11日という日付は、当時の朝鮮半島では誰もが知っている日だった。 まさに大日本帝国の紀元節の日だったのだ。 北朝鮮当局はこの日の意味を、「人民民主主義の憲法」という新しい意味に替えようとしたわけである。
1948年4月12日、ソ連は平壌の北朝鮮人民委員会に、南朝鮮の李承晩政権に反対する政治家たちを集めて会議を組織せよという指示を下した。 「全朝鮮諸政党社会団体代表者連席会議(南北連席会議)」という名前で知られるこの会議は、その年の4月19日から22日まで平壌で開かれた。 南朝鮮から金九や金奎植などが参加したこの会議では、ソ連政府の指示に従って朝鮮半島から外国軍隊の撤収と全国的な選挙実施を要求する決議案を通した。
会議が終わった後、ソ連の党政治局は北朝鮮の立法機関である北朝鮮人民会議に臨時憲法草案を決議するよう指示を下した。 これにより4月28日の人民会議はこの指示に従い、決議した。 新しい憲法には「臨時首都平壌市」の文言がなくなり、ソウルが「朝鮮民主主義人民共和国の首府」と宣布された。 これはすなわち、北朝鮮政権の領土が南朝鮮まで含むこと主張する意味であった。
この時(1948年)の憲法では「第103条 朝鮮民主主義人民共和国の首府は、ソウル市である」となっています。 これはわが北朝鮮が南朝鮮を解放して祖国を統一するという意思を示したものと解されています。 なお参考までに1972年に憲法が改正されて「第149条 朝鮮民主主義人民共和国の首都は、平壌である」となり、首都が変更されました。 祖国統一がなされれば首都を平壌にするという意味ですが、北朝鮮は南朝鮮解放路線を放棄したのだろうかという憶測が流れましたねえ。
4月28日にこんな内容を骨子とする北朝鮮憲法が通過したのだが、その効力はまだ発生していなかった。 ソ連指導部は南朝鮮で北の主導する選挙が完了した後に、憲法を実施するよう指示した。 一方の南朝鮮は1948年5月10日に単独総選挙を実施したのだが、これに対して北朝鮮人民会議は7月10日に朝鮮民主主義人民共和国憲法を北朝鮮地域で施行することに決定した。 だからこの7月10日が「北朝鮮政権樹立の日」に一番近い日と思われる。 憲法施行が決定されるや、北朝鮮はそれまで使っていた太極旗を廃止し、新しい旗である「人共旗」を掲げた。 この時、当時の北朝鮮人民会議副議長である崔庸健は「朝鮮民主主義人民共和国憲法実施万歳」と宣言した。
ここは、ややこしいですね。 「選挙」が二つ出てきます。 一つは「北の主導する選挙」で、朝鮮民主主義人民共和国憲法(北朝鮮)を実施するための選挙です。 もう一つは韓国(南朝鮮)で5月10日に実施された単独総選挙です。
北の選挙で選ばれた北朝鮮最高人民会議は1948年7月10日に憲法を北朝鮮地域だけで施行することを決め、国旗を「太極旗」から「人共旗」に変えた、というのは初めて知りました。 これは勉強になりましたね。 なお「人共旗」は北朝鮮国旗の韓国での呼び方で、北朝鮮では「共和国旗」と言います。 この北朝鮮の国旗はこの時に始まるのですねえ。 解放後からこの日までは、北朝鮮は韓国と同じ太極旗だったのです。
そうして同年9月2日に開かれた第1次最高人民会議は、自らを「全ての南北人民を代表する」と主張した。 そして9月8日の最高人民会議は「朝鮮民主主義人民共和国憲法」が全ての朝鮮で施行されると宣布した。 同日、北朝鮮の初代内閣が設立されて、北朝鮮人民会議委員長である金日成が初代首相に推戴された。 もちろん金日成の首相推戴は、後日に初代駐北朝鮮ソ連大使になるソ連軍将軍のテレンチー・シュトコフの事前決定によるものであった。
「9月2日に開かれた第1次最高人民会議」には、ちょっと説明が必要ですね。 この二ヶ月ほど前の7月に、南朝鮮ではいわゆる「地下選挙」によって代表者が選出され、翌8月21日~26日に北朝鮮の海州にこの代表者たちが集まって「南朝鮮人民代表者会議」を開いて代議員を選出して、翌9月の2日に始まる「最高人民会議」にこの代議員を送った、という経過になります。 「最高人民会議」は北朝鮮だけでなく南朝鮮でも選挙で選ばれた代議員で構成されたということになりますから、自らを「全ての南北人民を代表する」と主張したのでした。
9月8日にその最高人会議で、憲法は全ての朝鮮で施行されると宣布して、政府の樹立と首相推戴を決めたのでした。 この経過からすると、朝鮮民主主義人民共和国の建国は9月8日です。 ところが北朝鮮では建国日を翌日の9月9日にしています。 これは何故か?
「審美的な歴史歪曲」の最初の事例
北朝鮮の公式の歴史では、捏造された記念日がいくつかある。 例を挙げると、朝鮮労働党は1945年10月10日に設立されたとあるが、実際はそうではない。 また北朝鮮当局は金日成が1932年4月25日に「朝鮮人民革命軍」を創建したとするが、実際にこんな組織は存在したことがない。 あるいはまた金正日の公式の生年は1942年と知られているが、彼は実際には1941年に生まれた。
確かに北朝鮮の定める記念日には、疑問点が多いです。 論稿はそれを「審美的な歴史歪曲」としています。 分かりやすく言えば、“語呂がいいように日付を変えた”という意味です。 語呂合わせですから、「審美的」と言えばそうかも知れません、
「9月9日 建国論」は、これらの捏造記念日のうちでも一番早くに作られたものだ。 この捏造は、北朝鮮の「審美的な歴史歪曲」のうちの最初の事例である。 これは数字の9・9の視覚的・聴覚的な美しさを浮き彫りにする意図だった。 これによって北朝鮮の建国節はブルガリア人民共和国の国慶日である「解放の日」と同じ9月9日になった。
以降、同じやり方で朝鮮労働党の創建記念日である「10月10日」も捏造され、また金正日の生年はやはり金日成と30年間隔を維持するために1941年から1942年に捏造された。 金日成が生まれた年である1912年と確かに30年間隔だ。 これは北朝鮮政権が歴史的事実を尊重するよりは、審美的目的のためにも歴史歪曲を正当化していることをよく表している。
国家の記念日を語呂合わせで定めたということです。 本当か?と疑問に思う人がいるでしょう。 残念ながら、北朝鮮ではあり得る話と言わざるを得ません。
朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056
日韓市民運動の悲観的記事-ハンギョレ新聞 ― 2024/10/04
韓国で左派性向が強いとされる『ハンギョレ新聞』に、日韓の市民連帯の将来を悲観するちょっと異例な記事がありました。 https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/51262.html
『ハンギョレ』のキル・ユンヒョン論説委員が、韓国の「アジア平和と歴史研究所」と日本の「九州韓国研究者フォーラム」が共同開催する「学術大会」に出席しての感想です。 この学術大会の理念やこれまでの経緯を先ずは説明した後、次のように記しています。
しかしその後、状況はどんどん悪化していった。 毎年少なからぬ市民たちが会い、互いの考えを語り合っても、溝は大きくなるばかりだった。 ここで安倍晋三元首相(1954~2022)の名を取り上げずにはいられない。 日本軍「慰安婦」問題をめぐり韓日の立場がぶつかる中、「(日本の)子どもたちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」という安倍談話(2015)が出た。 それ以降、日本の首相はもう謝罪と反省を語らなくなった。尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が「屈辱外交」という厳しい批判を受けても2018年の最高裁(大法院)判決に対する「一方的な譲歩案」を提案したが、日本は応えなかった。おそらく最後まで応えないだろう。
一方で、日本の右傾化の流れに立ち向かい小さくも力強く抵抗してきた日本の市民団体は、後世がいない問題から、5年後も見通せない状況に追い込まれている。 国際情勢の悪化により、韓日を越え北朝鮮・中国を包括する民間交流はもはや遠い夢だ。 これがここ20年余り続いた東アジア市民交流の現実なのではないだろうか。
『ハンギョレ』記事では、安倍談話(2015)以降「状況はどんどん悪化していった」「後世(後継者)がいない問題から5年後も見通せない状況に追い込まれている」と非常に悲観的な展望です。 歴史問題の市民連帯運動は、この「学術大会」の趣旨に賛同し参加した記者がこんな見通しを書いて記事にするくらいに追い詰められている、ということでしょうか。
私が考えるには、そんな市民運動では若者が後に続いていこう思わないほどに魅力がなくて関心を持たれなくなっているからでしょう。 市民運動を続けてきた活動家や研究者たちは、お互いだけで話が通じ合う狭い関係のまま高齢化したという事情があったと思われます。
記者は次のように言います。
行事が終わって訪れた居酒屋で、「日本にはもう期待できるものはない」と挫折する私に、日本のある友人は「あきらめてはいけない」と言った。「キルさん、私たちはまだ河野談話(1993)と村山談話(1995)を捨てていませんよ。あきらめたら、日本の右派の望み通りになってしまう」
記者は「日本に期待できない」とまで言うのですが、日本の左派市民活動家が30年も前の河野談話や村山談話を持ち出して、「あきらめてはいけない」と慰めたといいます。 日本の左派リベラルは、「(日本の)子どもたちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」という安倍談話を否定できず、右派に対抗することだけを続けてきたようです。 これでは若い人は元気が出ないだろうし、ついてこないだろう、というのが私の感想です。
記者は最後に次のように言います。
安部が作り、尹錫悦が受け入れた「残酷な現実」をそのまま受け入れるわけにはいかない。そうだ。これからも力の限り書き、考え、抵抗するしかないのだ。
最後になってやっと『ハンギョレ新聞』らしい記事になりました。 しかし歴史問題で日韓の連帯を続けてきた運動は、やはり縮小していくのでしょうねえ。
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(4) ― 2024/10/01
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/26/9719415 の続きです。
トンデモ話がどのような経緯で始まり、どのように信じられて広がっていったのか、分かりやすくするために時系列でまとめてみました。 これまでの『朝鮮日報』記事だけでなく、検索して得られた記事も参考にし、私のコメントを挿入しました。
・1988年11月: 詩人の高銀が『ハンギョレ新聞』に、「ホーチミンは茶山丁若鏞の『牧民心書』を読んで感動し、丁若鏞の命日にはチェサ(法事)を挙げるくらいに尊敬した」というトンデモ話を投稿。 今のところ、これが文献上に残る最初のトンデモ話記録である。 なおこの年にソウルオリンピックが開催され、ベトナムは北朝鮮がボイコットを呼びかけたにもかかわらずこの呼びかけに応じずに参加した。 このことがトンデモ話に関係した可能性はある。
・1992年: 作家のファン・インギョンが小説『牧民心書』を出版し、その序文に「ホーチミンは終生『牧民心書』を枕元に置いて教訓とした」と記した。 この年に韓国はベトナムと国交を正常化したので、両国友好の象徴としてこのトンデモ話が広がったとも考えられる。
・1993年: 嶺南大学教授のユ・ホンジュンが『私の文化遺産踏査記』を出版し、その中で次のように記した。 「ホーチミンが不正と非理追放のためには朝鮮の丁若鏞の『牧民心書』が必読の書だと言ったという話が伝えられているので、これがあの方の偉大さを証明するものとしたい」。 ユ・ホンジュンは後に盧武鉉政権の文化財庁長官を勤めるような人だったので、韓国では権威ある研究者がこのトンデモ話にお墨付きを与えたことになる。
・1994年: 高銀が『京郷新聞』の「私の山河 私の人生―革命家の死と詩人の死」というタイトル記事で、「ホーチミンは少年時代、激動の朝鮮後期の実学者である丁若鏞の牧民心書を求め、彼の命日を知って追悼することを忘れないようにした」と書いた。 高銀は6年前の1988年にも同じことを『ハンギョレ新聞』に書いているから、トンデモ話を本当と信じ込んでいたと思われる。
・2004年6月: 『東亜日報』フランス特派員が、「フランスの作家が書いた『ホーチミン評伝』を見ると、ホーチミンは最も尊敬する人物として茶山を挙げた。 彼は『牧民心書』を読んで、体が震えるほどの感動を受けたという。 そしてこの本から霊感を得て、ベトナムを引っ張っていく方向を定めたと告白した。 毎年、茶山の命日にはチェサ(法事)まで執り行なったというから、彼の尊敬する心がどれ程かを推察できる」という記事を書いた。 なおフランスの作家が書いたという『ホーチミン評伝』の所在について、この特派員記者は15年後の2019年に問い合わせされた時に「忘れた」と回答している。
・2004年:7月 茶山研究所パク・ソクム理事長はHPで、「ホーチミンの枕元には『牧民心書』がいつも置かれていたという。 茶山の命日まで知っていて、毎年チェサ(法事)を手厚く執り行なっていた」と記した。 丁若鏞の専門研究機関までもがトンデモ話を持ち出した。 トンデモ話に更なるお墨付きを与えたのである。
・2005年: 丁若鏞の生地である韓国の南揚州市とホーチミンの故郷であるヴィン市との間に、姉妹都市が結ばれる。 このトンデモ話に基づいて、国際交流まで行なわれるようになった。
・2006年: 『聯合ニュース』は茶山研究所理事長とともにベトナムのホーチミン博物館を訪ねたところ、ウンウォン・ティ・ティン館長から「わがホーチミン博物館には『牧民心書』はない‥‥『牧民心書』に関連する主張は明らかに誤伝である」と言われたと記した。 これがトンデモ話を否定する最初の記事のようである。 しかしトンデモ話は鎮まることはなかった。
・2009年: 朴憲泳の伝記である『朴憲泳評伝』が発行される。 その中に「朴憲永はホーチミンに『牧民心書』を贈った。 この本は将来ベトナムの指導者になるホーチミンに生涯の指針になった。 ‥‥ 朴憲永が贈った『牧民心書』はハノイにあるホーチミン博物館に保管されていて、朴憲永は“親しき友”という意味の『朋友』と署名して贈った」と書かれていた。 実際にはホーチミン博物館は丁若鏞の『牧民心書』を保管していないし、過去にそんなものがあったとする記録も全く存在しない。 『朴憲泳評伝』はトンデモ話を検証せずにそのまま書き入れたようである。
・2017年1月: 丁若鏞の生地である韓国の南揚州市は、2005年に姉妹都市となったベトナムのヴィン市に援助して道路を作り、その道路名を丁若鏞の号から「南揚州茶山道路」と名付けた。 韓国のトンデモ話は、国際交流を進展させていった。
・2017年11月: ベトナムで開かれた「世界文化エクスポ」に、文在寅大統領が開幕祝賀メッセージで「ベトナム国民が最も尊敬するホーチミン主席の愛読書が、朝鮮時代の儒学者である丁若鏞公が書いた『牧民心書』だということは広く知られている事実です」と書き送った。 世界では誰も知らないトンデモ話は、韓国では大統領までもが信じ込んで国家レベルの外交にまで利用された。
・2018年以降: 大統領発言が契機になったのか、韓国のマスコミらはベトナムを訪問してファクトチェックを行ない、「虚偽」と判定したという報道が相次ぐ。
・2019年4月: 在ベトナム僑民雑誌の『グッドモーニング・ベトナム』が、茶山研究所のHP掲示板に「『牧民心書』とホーチミンとの関係」について問い合わせの投稿をした。 これに対して研究所は「ホーチミンが『牧民心書』を耽読したという話は根拠が全くない。 朴憲泳とホーチミンの牧民心書にまつわる逸話も確認できるものはない」と回答した。 しかしHPの“ホーチミンは牧民心書を愛読し丁若鏞のチェサ(法事)をしている”という文は削除されなかった。
・2019年11月: 茶山研究所のパク・ソクム理事長はローカル新聞で、「2004年の研究所HPにホーチミンと丁若鏞の関係について、『東亜日報』の記事を信じて書いたが、その根拠とされる『ホーチミン評伝』は見つからない、『東亜日報』記者に問い合わせたら“忘れた”という答えだった、あれを書いたのは自分の不覚であり間違いだった」と否定した。 なお理事長は2006年にホーチミン博物館を訪れた際に、丁若鏞関係の資料は一切ないことを確認していたにも拘らず、それを公表しなかった。 つまり2019年までの14年間、茶山研究所は韓国内でトンデモ話が飛び交っていることを黙認してきたのである。
以上、年表風にまとめました。 ところで韓国ではこのトンデモ話を今でも信じて語る人が後を絶たず、ネットでも時おりそんな記事や映像が上がっています。 歴史の歪曲・捏造を正すには長い時間が必要ということですね。 (終わり)
【追記】
日本では東北文化学園大学の文慶喆教授が2016年に「この『牧民心書』はベトナムのホーチミンが愛読した本の一冊でもあった」と書いておられますね。https://www.tbgu.ac.jp/faculty/bl/kunimi-terrace/kunimi-blog/18914 文さんは韓国出身で、当時韓国に広がっていたトンデモ話を信じ込んでいたのでしょう。 これはトンデモ話が韓国以外で公表された唯一の例と思われます。
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/16/9717148
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/21/9718240
ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/26/9719415