古代から続く伝統的葬法「草墳」(2) ― 2026/02/21
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/15/9836684 の続きです。
20年ほど前にヒットした韓国ドラマ『春のワルツ』をご存知でしょうか。 その第二話の最初の方に、主人公の男の子が父親と一緒にお祖父さんの墓参りをする場面があります。 そのお墓が「草墳」でした。 舞台は全羅南道の青山島です。 熱心な韓流ファンが『春のワルツ』のロケ地を訪ねたそうですから、ご存知の方はおられるでしょうね。
この青山島で最近まで残っていた「草墳」の築造過程を記録したユーチューブ映像があります。 https://www.youtube.com/watch?v=SwluibolgFQ この映像のハングルを訳しましたので、「草墳」とはどういうものか、ご理解できるものと思います。
青山島の草墳 試演(0:00)
草墳はお墓の一種で、青山島を含めた島地域で行なわれてきた葬礼の風習である。 遺体を土に埋めないで、藁などで編んだ藁束で覆って、2~3年後に墓を立てる。 このような葬法は一般的な儒教儀式である葬礼がたった一度の単葬制であるのに対し、二度の埋葬をする複葬制である。(0:04)
・正月や2月に土を触って墓を立てれば、村に憂患(悪い事)が起きる。 ・村に伝染病が流行ったとき、草墳をする。 ・肉がまだ無くなっていない遺体を先祖の墓地に埋めれば、腐った臭いが祖先に漂い、憂患がやって来る。 ・墓は先祖に対する孝を象徴するもので、父母が亡くなって直ぐに埋葬すること不孝だと考えられていた。 ・草墳は真心を込めてつくるので、親の生前にしてくれたことを親孝行としてお返しする道でもあった。(0:11)
なぜ草墳をつくるのかについて、「肉がまだ無くなっていない遺体を先祖の墓地に埋めれば、腐った臭いが祖先に漂い、憂患がやって来る」 「墓は先祖に対する孝を象徴するもので、父母が亡くなって直ぐに埋葬すること不孝だと考えられていた」ということです。 前者は複葬制=洗骨の説明であり、後者は儒教の影響を受けた説明ですね。
草墳をつくるために、幅50㎝、長さ200㎝ほどの石の土台をつくる。 周辺の土地をよく均してから、石を水平になるように地面に並べる。(0:21)
石の台の上に松の枝をぎっしり敷いて、その上に縄を横に五本、X字に二本を置く。(0:28)
棺を固定するための蓆(むしろ)を敷く。(0:41)
敷いた蓆の上に棺を置く。 この時、棺は足が海の方に、頭が山の方に向かうようにするのが原則だ。(0:45)
蓆を棺の角が斜線になるように切ってやり、左右から畳んで上下に畳む。 下に置いておいた縄を結んで固定させる。(0:53)
雨や風から棺を保護するために、藁束を奇数にして、藁の根の部分が地面に付くように右側に回して編む。(1:09)
藁束の上にヨンマルム(藁束を組んで作った覆い)を置いて、編んでおいた藁束の重心を取って、草墳を固定させるようにする。(1:17)
縄の端を石で結んで、風で飛ばないようにして、ヨンマルムの両側に縄を回して縛り付けて、格子模様に固定させる。(1:25)
家族が別れの挨拶をする。(1:43)
松の枝を地面に向けて編んだ縄の間に挿す。 これは病虫害の予防の役割をし、また家族が墓を参ったことを表示するものである。(1:51)
このように、「草墳」は棺を藁で覆って小屋掛け状にして遺体を保管するものです。 そして遺体の肉を2~3年かけて削ぎ落として(肉は自然と腐乱してなくなる)骨だけにし、その後にその遺骨をきれいにまとめて棺に入れて埋葬します。
日本では古代の『古事記』『日本書紀』や中国歴史書の倭国伝などに、人が死ねば「殯(もがり)」をしてから墓に埋葬することが記録されています。 詳しくは「殯(もがり)」を検索してお調べください。 「殯」は死の直後から埋葬までの間に遺体を保管しておくことですから、肉は腐敗して消滅し骨だけが残ることになります。 ですから「殯」が草墳に相当する可能性があります。 また沖縄では「洗骨」した骨を墓に収める慣習があり、この洗骨が草墳に相当するとも考えられます。 とすると「草墳」は遺体から肉を削ぎ落として白骨化させてから埋葬する「複葬」の一種で、「殯」や「洗骨」と同様のものと言えるでしょう。
以上から考察するに、「草墳」は東アジアに非常に古くから存在した葬法である「複葬」に由来するのではないか、そして日本古代では「殯」だったのではないかという推測が成り立ちます。 それがその後の儒教や仏教の普及によりそれぞれの民族によって葬法が変化していくのですが、韓国や日本の一部の地方に「草墳」「洗骨葬」として残存したことになるでしょう。 ただし、これはあくまで仮説であり、そう考えることもできるということにご留意ください。 (続く)
古代から続く伝統的葬法「草墳」(1) ― 2026/02/15
以前のブログ https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/22/9832164 で、「草墳については後日に紹介します」と予告しました。 今回はこの「草墳」について、お話します。
今の韓国では火葬が増えてきて土葬を上回るほどになっていますが、植民地時代にはほとんどが儒教式の土葬であり、火葬は仏教僧侶ぐらいとされていました。 ところがそれ以外に「草墳(초분)」という古代から続く伝統的な葬法があり、李朝時代ではその伝統が全国的に残っていたことはあまり知られていないようです。 植民地時代に抑制されたために「草墳」は減り、全羅南道の島嶼部に残るだけとなりました。 それでは「草墳」とはどういうものなのか、先ずは10年ほど前に刊行された『新版 韓国・朝鮮を知る事典』にある説明を見ていきしょう。
초분(草墳)― 韓国南西部・全羅南道の多島海地方で広く行われていた葬制。 草殯(초빈)などともよばれ、複葬制・洗骨葬の一種と考えられる。 遺体を納めた棺はすぐに埋葬せずに、山林や海岸、耕地の隅などに移し、地面や石、床几などの上に安置する。 上を藁や樹皮などで覆い、1~3年間置いてから、肉の落ちた遺骨を取り出して浄め、正式の墳墓に埋葬する。 類似の葬法は《三国志》魏書東夷伝や《隋書》高句麗伝などにも散見され、朝鮮時代までは全国的に行なわれていたとされるが、全羅南道の南西海岸・島嶼地域では、この地方独特の巫俗とも結びついて遅くまで残り、2000年代に入ってからも、実例が記録・報告されている。 起源については、南方文化の伝播など、いくつかの説がある。 (平凡社『新版 韓国・朝鮮を知る事典』2014年3月 377頁)
「草墳」は、遺体に藁や草で覆っておいて2・3年ほどかけて肉を削ぎ落として骨だけにし、その遺骨をきれいにして土葬するというものです。 これは日本で刊行された辞典での説明ですので、韓国ではどのように説明されているのか、『韓国民俗大百科事典』 https://folkency.nfm.go.kr/kr/topic/detail/461 を訳してみました。 なおこれには草墳の写真が掲載されていますので、是非URLを開いてご参考ください。
草墳
【定義】 遺体をすぐに土に埋めるのではなく、石や木の上に棺を置いて、藁で作った小屋のような形態の臨時的な墓。
【歴史】 遺体を埋葬する前に臨時に安置する殯葬の一つの形態として、古代社会の時から行なわれたものと推定される。 一部の文献記録に草墳についての記録が見えるが、具体的な事例と痕跡を見つけることは難しい。 朝鮮時代末期と日帝強占期の初期までは全国的によく作られていた。 しかし日帝強占期以降、衛生法の制定と火葬の奨励、および草墳の禁止で徐々に消えていった。 1970年代、セマウル運動の影響でほとんどが消えた。 しかし2000年代の初めまで、西南海地方の一部の島嶼で草墳が作られ続けた。
【内容】 草墳は村の近くの山の麓や畑で作られる。 人が死ねば、遺体を正式に土に埋めるのではなく、入棺した後に石や木の台の上に棺を置いておいて、藁などで覆って作る。 藁などで棺を覆った上に、ヨンマルム(藁束を組んで作った覆い)を覆って草ぶき家の屋根をあげるように縄で組んで縛り、四方の端に石を結んで風で飛ばないようにして仕上げる。 そして松の枝を組んだ囲いを周囲に回して、獣が接近しないようにした。
草墳は毎年藁を交換して補修した。 草墳を作ってから2~3年あるいはそれより長い歳月の後、肉が腐ってなくなっていたら、骨だけ取り上げてきれいに洗ってから、また棺に入れて土に埋める。 すなわち草墳は遺骨を処理する前に身の肉を処理する方法で、洗骨葬の一種である。 また本格的な葬礼を執り行なう前にする殯葬の一種であり、複葬制の遺習である。
草墳を作る理由は、祖先崇拝と関連が深い。 草墳は祖先に対する礼儀を果たすことで、生きている親のように誠意をもって面倒見なければならないと信じ、名節や忌日などの特別な日には草墳に来て祭事を行なう。 このような風習は朝鮮時代末期まで全国的に行なわれた。 しかし1970年代のセマウル運動の一環として草墳が行政的に禁止されると、主に西南海の島嶼地方で維持された。 特に全羅南道の莞島、青山島、麗水の金鰲島・安島・蓋島、高興の羅老島、新安の曾島・都草島・飛禽島、霊光の松耳島、群山の巫女島、扶安の界火島などの全羅道の南海岸と西海岸の島嶼地方に草墳が残っていた。
草墳は、本葬を執り行なう前に長い期間管理せねばならないので厄介であり、経済的に余裕がない人は作るのが難しかった。 草墳の様子は風葬に似ていて混同される場合があるが、違うものだ。 風葬は、それ自体で遺体を処理する完結した儀礼であるが、草墳は本葬を行なう前にやる一次葬の性格を持っていて、根本的に違う。
【特徴および意義】 遺体を土に埋める前に、身の肉を腐らせて骨をきれいにするために、藁などを編んでつくる草ぶきの家の形態の一時的な墓だ。 本葬を執り行なう前に行なう殯葬であり、複葬制の一次葬である。
(続く)
岩波『世界』の論稿に抜け落ちた資料 ― 2026/02/08
岩波書店の『世界』2026年3月号に、「外国籍職員の採用を廃止?―三重県知事発言を問う」と題する柏尾安希子さんの論稿があります。 このなかで次のような一文がありました。
1972年には大阪市が中国人職員の採用に踏み切り、翌1973年には尼崎市、西宮市など兵庫県の六市一町で国籍条項が撤廃された。 その後、全国でも国籍条項の撤廃を目指す地域がでてきた。 (『世界』1003号 2026年3月 119~120頁)
これに付け加えますと、実際に翌1974年、在日朝鮮人卒業生が教師たちの推挙で尼崎や川西市などに地方公務員として採用されました。 ところがその翌75年度末、その教師たちが一転して「在日朝鮮人生徒の公務員就職を凍結する」と言い出したのでした。
兵庫県進路指導研究会ニュース1976年3月『新しい出立のために』第18号に、「朝鮮人生徒の進路保障 在日朝鮮人生徒の公務員への就職―当面凍結する意味を進指研で討議―」が発表された。 そこには次のように記されている。
「在日朝鮮人生徒の公務員への就職については、私たちは今後これを凍結する。 在日朝鮮人生徒を公務員として送り込んだ阪神間の高校では、いま、彼らをすみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合いが続けられている。 在日外国人の門戸を開放し、地方公務員として受け入れてきた側の自治体の、民族問題に対する理解がまったくないことがその後明らかになってきており、このままでは在日朝鮮人法的地位に抵触する危険も生じる恐れがある。 また、このことで、私たち日本人が同化に手をかすことがあるとすれば、なおのこと見過ごすわけにはいかない」
「自治体当局ばかりではなく、労働組合もまた(在日に関する知識や認識)に乏しい‥‥公務員のストが禁じられているいま、(外国人公務員が)労働運動をすれば、生命に危険があることすら分かっておらず、在日朝鮮人を日本人の責任で守り切れる保障がない限り、彼らを労働組合に加入させるべきではない」
「(在日朝鮮人生徒の公務員就職は)凍結するが、<国籍条項>撤廃の要請は続ける。 そのわけは私企業が在日朝鮮人、中国人生徒を採用しない口実として、<公務員>も外国籍生徒を採用しないといったようにして就職差別を正当化しようとする風潮が現に存在するからである」 (以上、玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社2021年4月 157~158頁より再引)
もう少し詳しく言うと、進路指導研究会(進指研)とは公立高校の教師たちの集まりで、生徒らの就職について情報を交換し、時には企業等に働きかける組織でした。 外国人の公務員採用について昔から〝公権力の行使”の点から採用しないことが〝当然の法理”とされてきたのに対し、それは民族差別を正当化するものとして批判し、1973年に阪神間の地方公務員就職について採用条件にある「国籍条項」を撤廃させて、実際に在日朝鮮人子弟を公務員として採用させるという成果を挙げたのでした。 ところがそれが間違いだったとして、在日の公務員就職活動を凍結させるだけでなく、前年度に公務員採用された在日の子を「すみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合い」をしているのだというのです。 まさに〝手のひら返し”です。
この〝手のひら返し”をさせた人物が金時鐘さんのようです。 彼が兵庫県進指研を動かしたと思われます。 彼は1973年に兵庫県立湊川高校に教師(ただし教員免許がないので、実際は実習助手)として就職しており、当時の日本社会において民族差別問題ですでに大きな影響力を有する人物でした。 その彼の発言を拾いますと、
在日朝鮮人が日本の公務員になることは、日帝時代の夢を彷彿させる。 1945年8月15日まで、朝鮮人の青少年たちの夢は、町村の吏員になることがすべてだった。 いま、日本人化する風潮がつよく、帰化運動を推し進める動きが阪神間で起こっていることを合わせて考えるなら、官吏になることは同化の道行きだ。 言うまでもなく、在日朝鮮人の鉄則は、日本の内政に干渉しないことである。
公務員というなら、朝鮮語を教えることで公務員になっている私の場合のような、知識労働者としての面が開発されるべきだ。 公務員への就職を食えるからとか、金になるからというだけの、市民的権利の拡大だけに短絡させてはいけない。 そのような職場開拓は問題がある。 (以上、兵庫県高校進路指導研究会「在日朝鮮人諸団体の評価」にある金時鐘さんの一文。 金宣吉「歴史をふまえた『異者』との共生」52~53頁より再引)
(植民地時代に朝鮮人が)下っ端というか、木っ端役人ですが、ともあれ行政権力から給料をもらえるということが一番の夢だったのです。 少年の夢として、青少年の描く夢として何と、わびしい限りではありませんか。 (現在の日本で)そのようなことが、在日朝鮮人の労働権の開発という正当な運動の闘い取る遺産の中で、在日世代のさもしい夢として育てられるのでしたら、これは何ともやりきれない話です。 (「民族教育への私見」 『金時鐘コレクション10』藤原書店 2020年6月 204頁)
‥‥そのこと(在日朝鮮人の公務員就職)を凍結するといったことの裏には、初めて兵庫で地方公務員に入ったのは県立尼崎工業高校の卒業生たちでありましたが、その生徒たちの一部に、勤めていっても続かなかった子供がいたという実情があったのです。 ‥‥又は姫路の西播磨地区でも女生徒が一人、やはり地方行政に入っていますが、聞くところによりますと、その生徒は、入ったとたんに日本人らしく振舞っているといいます。 親まで加担したそうだといいます。 朝鮮人の痕跡をなくす側に立っていく。 そういうことがあって、行政側に推挙することを凍結するというふうに兵庫の解放研ではいったのです‥‥ (「民族教育への私見(下)」『朝鮮研究』172号 1977年 -玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社2021年4月 176頁より再引
民族差別に反対する側である金時鐘さんが、〝在日朝鮮人の子を公務員に就職させてはならない”という主張をしていたのでした。 植民地時代の朝鮮の若者は総督府の吏員となることに憧れて親日派=日帝の手先となり皇民化を推進したという歴史を振り返るならば、現代に在日朝鮮人が日本で公務員になることも同じことだとする考え方です。 朝鮮人は日本人に同化して権力の走狗になっていいのか、ということのようです。
このたびの三重県の公務員採用に外国人を除外しようとする動きに対し、岩波の『世界』が反対の意見を載せました。 しかしそこには上記の金時鐘さんや兵庫県進指研の主張が全く取り上げられていないことに疑問を感じ、本ブログでこの時の資料を呈示するものです。
外国人の公務員就職問題は〝当然の法理”で反対する意見もあれば、民族差別と闘う者からの反対意見もあったことは、記憶に留めてほしいものです。
【拙稿参照】
金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006
第100題「国籍条項撤廃運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakudai
毎日新聞の創氏改名記事の間違い ― 2026/02/03
2月1日付けの毎日新聞の「サンデーコラム」に、ソウル支局長の福岡静哉さんが創氏改名の記事を出しています。 https://mainichi.jp/articles/20260201/ddm/007/030/033000c 内容にはかなりの間違いが見られるもので、これはちょっと困ったものと思いました。 そこでここに批判していきたいと思います。 なお有料記事ですので、関心ある方は図書館にでも行ってみてください。 またここで論じるのは、記事の前半部分だけです。
「創氏改名」を拒否して死んだ男
日本は韓国を植民地統治した時代、日本式の名前に変えるよう朝鮮人に強いる「創氏改名」を1940年2月から行った。 先祖伝来の姓を重視する朝鮮半島の人々はどんな思いだったのか、以前から気になっていた。 知人から「創氏改名を拒否し命を絶った人がいた」との話を聞き、一族が住む集落を訪ねた。
韓国南西部・光州からバスで約1時間。 田園が広がる淳昌(スンチャン)郡は「薛(ソル)」姓の人が多い。 この地域の名士として知られた薛鎮永(ジンヨン)は40年5月、創氏改名を拒否し、石を抱えて井戸に身を投げ、70年の生涯を終えた。
「ここが井戸があった場所です」。 一族の取りまとめ役である薛明煥(ミョンファン)さん(81)が案内してくれた。 今は水田の一部で、井戸は残っていない。
鎮永は若いころ、反日闘争に参加。 晩年は私塾で若者らに漢文を教えた。 井戸の跡地近くには私塾の建物が残る。
鎮永を題材に作家の梶山季之は小説を書いた。 これを原作に韓国で映画が作られ、日本でもジェームス三木が舞台作品をてがけた。
明煥さんは次に自宅を案内してくれて、書庫から古びた書物を取り出した。 「これは1848年に作られた薛氏の『族譜』です」
「薛鎮永」という人物について付け加えますと、この名前は一族の家系図である『族譜』にある名で、戸籍では「薛鎮昌」です。 号は「南坡」で、上記に出てくる「私塾」は「南坡書室」といいます。
姓、家系図 命懸け
族譜とは、始祖から現在に至る一族の家系図だ。 韓国では多くの一族が所有する。 同じ姓でも、一族の発祥地「本貫」が異なると別の一族になる。 例えば金(キム)氏でも、南東部・慶州をルーツとする「慶州金氏」や、釜山近郊・金海(キメ)が本貫の「金海金氏」などがある。 金海金氏は韓国最大の一族で400万人以上いるとされる。
鎮永の一族は、慶州と淳昌にゆかりがある「慶州・淳昌薛氏」。慶州に首都を置いた新羅(紀元前57~935年)の建国に功のあった豪族を始祖とする、伝統のある家系だという。 一族でつくる「慶州・淳昌薛氏中央大宗会」の名誉会長も務める明煥が力説する。 「韓国人にとって先祖から伝わる姓やそれを証明する族譜は、死ぬほど大切なもの。 鎮永先生はそうした伝統を守るため、命懸けで創氏改名を拒否したのです」
薛氏の門中(一族のこと)は1940年5月10日に長老たちが集まり、「玉川」と創氏することを決議しました。 しかし鎮永は先祖から受け継ぐ姓や族譜を否定するものだと反対して拒否を貫き、同月19日に井戸に身を投じて自殺しました。 だから記事のタイトルが「『創氏改名』を拒否して死んだ男」となっています。 しかしそもそも創氏改名は姓を否定するものではなく氏を新たに定めることで、姓には変更はありません。 また族譜は私的文書ですから、これも変えることはありません。 ですから姓も族譜も守られるものでした。 鎮永はそれを誤解して自死に至ったのでした。
その後この薛家の創氏改名はどうなったかですが、亡くなった鎮永の後を継いで戸主となった息子の泰洙が三ヶ月後の8月8日に「玉川」と創氏を届け出て、受理されました。 父の鎮永は文字どおり「命懸け」で創氏改名を拒否したのですが、結局は鎮永の家族は門中の決議に基づいて日本名を届け出たのでした。 創氏改名の届け出は戸主のみの権限で、鎮永は亡くなって代わりに息子が戸主となっていましたから、法的に問題がありません。 息子の「薛泰洙」さんは「玉川泰洙」さんとなり、「薛」という姓は本貫欄に移すという形で戸籍に残ったのでした。 ですから先祖から伝わる「薛」という姓は、戸籍でもって証明することができたのです。
「天皇中心を徹底」
日本が創氏改名を行った背景にあったのが、こうした大規模な氏族集団の強固な結びつきだ。 朝鮮総督の南次郎は当時、創氏改名の目的をこう語っている。 「(朝鮮人を)血族中心主義から脱却させ、国家中心の観念を培養し、天皇を中心とする国体の本義に徹せしめる」
南次郎朝鮮総督がこのような話を本当にしたのか、調べてみましたが見つかりませんでした。 朝鮮総督府は1940年2月に創氏改名を解説する『氏制度の解説―氏とは何か 氏は如何にして定めるか』という冊子を発行するのですが、そのなかに南次郎総督の談話が出てきます。
(注)「国家中心の観念」「天皇を中心とする国体」は、南総督の言葉にあるとの指摘がありました。 出典はコメント欄をご参照ください。 この部分を削除します。 2026年2月5日 記
氏族集団を解体し、天皇に属する「皇国臣民」を作る意図がうかがえる。 法施行日の2月11日は「日本書記」などで神武天皇が即位したとされる「紀元節」だった。
ここに「氏族集団を解体し」とあります。 私は30年前に発表し25年前に拙HPに掲載した「創氏改名とは何か」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai で、「創氏改名は男系の血のつながり重視する朝鮮の家族制度を否定し、血のつながりよりも『家』の存続を重視する日本の家族制度を導入しようというものであった。これが分かってくると、血のつながりを示す不変の『姓』ではなく、自分の所属する家を示す『氏』を創れとする創氏改名も、同じ意図からの政策であることが容易に理解できるだろう」と論じました。 私のこの考え方が今度の記事では受け継がれているようです。 しかし創氏改名は上記の薛氏がそうであったように氏族集団である門中で決めることが大半であり、総督府もそれを認めていました。 ですから「氏族集団の解体」の意図があったのかどうか、今は疑問に思います。
そしてまた記事では「天皇に属する『皇国臣民』を作る意図がうかがえる」ありますが、そこまで言えるのか疑問です。 そもそも1910年の日韓併合により全ての朝鮮人は、法的には「皇国臣民」になったのですがねえ。 また「皇国臣民」という言葉自体に「天皇に属する」という意味が含まれているので、二重表現となっています。
だが日本式の名字に変えた人は3月末までで1.5%にとどまった。 京都大の水野直樹名誉教授の調査によると、公務員や教師、経営者らの割合が高かった。 日本当局との関係から「率先垂範」を求められたとみられる。
そこで総督府が主導し、各地方の役所などを通じて創氏改名を迫る運動を展開する。 制度を強く批判する人を治安維持法違反で逮捕するなど、強制的なものとなっていく。 薛氏の族譜などによると、創氏改名に抵抗した鎮永は「伝統が私の代で絶たれれば、天下の罪人だ」との遺書を残し、命を絶った。
記事を書いた福岡さんは、創氏改名には「設定創氏」と「法定創氏」の二種類があることを知らないのではないかと思われます。 「設定創氏」は日本名を届け出て氏を新たに設定するもので、もう一方の「法定創氏」はそんな届け出をせずに先祖から受け継いできた姓をそのまま氏とするものです。 前者は日本名となりますが、後者は民族名が残ります。 どっちの創氏を選ぶかは自由でした。 しかし「設定創氏」だけを取り出して、創氏改名は朝鮮人に日本名を強制するものとする俗説が広まっています。 福岡さんもこの俗説を信じておられるようです。
総督府は当時〝創氏改名は内地人式の名前(日本名)を強制するものではない”と宣伝していましたが、末端の行政機関では設定創氏の届け出率の低さを問題と思ったのでしょうか、住民らに創氏の届け出をかなり強引に勧めたようです。 これが日本名を強制されたように受け取られて、創氏改名の誤解につながったと考えられます。
薛鎮永がもし自殺せずに生き残りさらに役場に創氏の届け出もせずに放置していたら、戸籍の事項欄に「氏の届出を為さざるに因り、昭和十五年八月十一日、薛を氏とする」という旨が記載され、戸主の「薛鎮昌」と息子の「薛泰洙」という民族名は変更されずにそのまま残ったはずなのですがねえ。 なお上述したように「薛鎮永」は族譜上の名前で、戸籍上の名前は「薛鎮昌」でした。
【創氏改名に関する拙稿】
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423913
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/30/8425667
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/01/8436928
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441238
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444253
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447420
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/09/8451992
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457633
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (9) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478676
朝鮮人戦死者の表彰記事―1944年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716160
創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (11) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/11/9346012
創氏改名とは何か (00年4月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai
創氏改名の残滓 (01年6月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai
創氏改名の手続き(04年10月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai
創氏改名の誤解―「世界史の窓」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421515
朝鮮名での設定創氏が可能な場合 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596
宮田節子の創氏改名論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557
石破茂さんのデタラメ創氏改名論 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/06/9161642
朝鮮名での設定創氏が可能な場合 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596
金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/03/9779836
尹東柱の創氏改名―ウィキペディアの間違い http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/11/8939110
尹東柱の創氏改名記事への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954
「尹東柱」記事の間違い―中央日報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/17/9464967
在日の葬送の歴史―火葬の受け入れ(2) ― 2026/01/29
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/22/9832164 の続きです。
植民地時代の在日朝鮮人は葬送を実際にどのようにしたのか、作家の金達寿は著書『わがアリランの歌』に父親の死の際のことに触れています。 金達寿の家はもともと地主で資産家でしたが、父親は遊郭に入り浸って散財したため先祖からの土地を手放し、先に日本に行っていた叔父を頼って日本で働いて故郷に仕送りすることになりました。 その時、父親は長兄と妹を日本に連れていき、次兄と達寿の二人の子は祖母に残したといいます。 1925年の時でした。
祖母と私とは間遠になった日本からの仕送りを待って暮らしていた。 そして次兄の良寿が死んで半年か、1年たったであろうか、するとこんどはその日本から、「チチシンダ‥‥」という電報が届けられてきた。 父たちが日本へ渡って3年ほどがたった、1928年9月のことだった。 ‥‥1年もたっていなかったつい先には孫(次兄の良寿)を亡くし、ついでこんどは、一家離散となって日本に渡っている息子にまで死なれた祖母は、一夜のうちに髪が真っ白になってしまった (金達寿『わがアリランの歌』中公新書 昭和52年6月 14頁)
しばらくすると、それまでは知らなかった親戚で叔父にあたるという人が、日本から遺骨を運んで来た。 次兄の良寿のときと同じように、また集落の人たちや、あちこちの親戚たちが集まって葬式がおこなわれ、父は馬山の近くにあった檜城の先山(ソンサン―祖先の墓があるところ)に葬られた。 (同上 14~15頁)
金達寿の父親は日本で亡くなり、火葬されたことが分かります。 そして遺骨が故郷に帰り、通常通りの葬儀が執り行われたのでした。 そこには土葬に対する強いこだわりというものがありません。 つまり土葬か火葬かについて、朝鮮社会は柔軟な考え方になっていたと言えるでしょう。 しかし祖母は少し違っていました。
祖母はまえからも言っていたことであるが、日本へ行って死ねば「死体は焼かれるから」と言って聞き入れなかったのである。 (同上 30頁)
祖母は〝日本では死ねば火葬されるから”といって日本行きを拒否したのでした。 このあたりの話を聞くと私は30年ほど前の1990年代ですが、近くの農村地帯で周りはすべて火葬となっていたのに一人のお年寄りが「自分は死んだら土に返る、火葬は絶対にイヤ」と遺言したので土葬となったという話を思い出します。 死んだらどういう世界に行くかという死生観は時代とともに変化するものですが、個人は年を取ってもなかなか変わらないものだということなのでしょう。
在日は戦後(朝鮮の解放後)、葬送をどう行なっていたか、小泉和子『ポッタリひとつで海を越えて』には、次のように記されています。
解放後は葬儀社に頼んで、地域内の寺や葬儀場を会場に葬儀が行われるようになっていく。 その場合、大阪や東京など在日の多い地域では同胞が経営する葬儀社に頼み、朝鮮の伝統にのっとった葬儀を行なう人もいるが、多くは、日本の葬儀社や葬儀場を使い、内容の一部に朝鮮式を入れるというのが一般的であった。 例えば遺族は白喪服を着たり、哭をしたり、朝鮮の供物を並べたり、戒名をつけないなどである。
墓については、故郷の墓に納骨する人もいたが、しばらく日本にある朝鮮寺や日本の寺に遺骨を預ける人が多かった。 その後、1970年代半ば以降になると次第に日本に建てる人が増えていく。 形は日本の墓と同じものが多いが、側面に族譜を綴ったり、墓誌が本名であるいは通名だったり、あるいは家族の中でも祖父母は本名で、両親は通名など、さらには今もまだ寺に預けたままの人も少なくないなど、墓にも在日の置かれている状況の大変さが現れている。 (以上、小泉和子『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 227~229頁)
白喪服は在日の葬儀で昔にあったと聞きますが、私は見たことがないですね。 祖国の韓国では喪服は今ではほとんど黒になっていますが、伝統を色濃く残す地方では近年まで白喪服、喪主や遺族は麻製の薄黄色の喪服を着たようです。 なお喪主は昔から儒教の伝統により長男に限られます。
今の在日は日本人と同様に黒の喪服を着ており、また女性の喪主も誕生しているという話を聞いたことがあります。 そして日本人と同じく在日もほとんどが火葬となりました。 火葬と喪服、在日はこの点でも日本に同化していると言えそうです。
しかし民族の伝統の土葬にこだわる人がごく僅かにいるようで、そういう人のために土葬も可能な霊園を経営している韓国系のお寺が京都にあります。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/20/9564102 なお本来の民族伝統では、土葬する時に棺担ぎ(상여꾼)が鐘や太鼓を叩いて歌(상여소리)を歌いながら棺を運んで埋葬するのです(下記参照)が、この韓国系寺院の霊園でもやっていることなのか、そこはよく分かりません。 しかし今どき棺担ぎはいくら民族を大事にするとしても、在日には存在しないだろうと思います。
以上見てきたように、今の在日韓国・朝鮮人は葬送儀礼でも民族の伝統をそのまま持ち込まず、一部の民族主義者が寿衣(死装束)などに民族の痕跡を残す程度で、大まかに言って葬礼は日本に同化してきました。
とすると今の日本で物議を醸しているイスラム教徒たちの土葬を含む葬送問題を考える上で、在日の葬法の100年の歴史は参考になるのではないでしょうか。 この問題は早急に結論を求めるのではなく、100年単位で考えながら、最終的に彼らが同化する方向で解決を探るべきだというのが私の考えです。
ありていに言えば、イスラム教徒に土葬を禁止して火葬を要求することは、彼らには宗教を捨てることを強要されているという意味に受け取られて摩擦が生じ、時には対立するまでに至ります。 しかし彼らも日本で亡くなれば、たとえ嫌であっても経済的な理由などで今のところ火葬するしかないことを理解しています。 なにしろ日本では外国人が土葬できる霊園が余りにも少なく、また遺体を故国に送るには多額の費用がかかりますから。
ということで私の考えでは、彼らには今の日本の現状を説明して火葬を自然に受け入れてもらえるように気長に待つしかないだろう、ということです。 イスラム教徒が土葬できる霊園がもっとたくさん増えればいいのですがねえ。 あるいはシンガポールのように、土葬は認めているが埋葬期間を15年と定め、それを過ぎると掘り起こして火葬等に改葬する方式(再埋葬もあるが、やはり15年という期限がある)が参考になるかも知れません。
要するに、イスラム教徒は日本人にも受け入れられるような葬送文化に変わることが求められており、そうなれば日本人はその新たな葬送文化も自文化の一つとして受け入れて文化の幅を広げるようになるだろう、というのが私の主張です。 (終わり)
【参考】
韓国伝統の葬礼(土葬の棺担ぎ行列)の動画。 喪主や遺族は薄黄色の喪服、参列者は白喪服を着ている。
https://www.youtube.com/watch?v=6w9dXoqTF3E&t=1439s https://www.youtube.com/shorts/77oAR3Ktiwk
【土葬に関する拙稿】
土葬と火葬 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/27/9310074
京都高麗寺の国際霊園 土葬墓地 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/20/9564102
在日の葬送の歴史―火葬の受け入れ(1) ― 2026/01/22
イスラム教はその教義から火葬を嫌い、土葬を旨としています。 今イスラム教徒が多く来日しており、彼らは亡くなった時に多くが土葬を望んでいます。 しかし今の日本では、30年ほど前まで各地に残っていた土葬風習がほとんど消え去って火葬となってしまいました。 すると今度は日本人の土葬へのタブー視が非常に強くなりました。 そのために、イスラム教徒たちが土葬を求める動きに対する日本人側の反発が激しく、物議を醸しているようです。
今の日本で起きているこのような外国人の土葬問題を知ると、古くからの外国人である朝鮮人は亡くなった時に葬送をどのようにやってきたのかが気になります。 そこで在日韓国・朝鮮人の葬送の歴史について、調べてみました。
実は朝鮮民族の葬送は儒教式の「土葬」あるいは古代からの伝統を継ぐ「草墳」で、「火葬」は仏教僧侶だけでした。 すると植民地時代に来日した朝鮮人は亡くなった時、民族の伝統である土葬・草墳にこだわることはなかったのだろうか、という疑問が湧きます。 なお草墳は植民地時代にかなり抑制されて一部に残るのみとなり、ほとんどの朝鮮人は儒教式土葬となっていました。 草墳については後日に紹介しますので、今ここでは土葬だけを扱います。
昔の日本は地域によって違いが大きいですが、おおむね都市部では大半が火葬、農村部では地区(当時は「部落」と呼ばれていた)の多くが土葬でした。 ただし土葬の場合、埋葬地は地区の共有地であり、その地区の住民のみが土葬できるのであって、よそ者は土葬できませんでした。 120年以上前の1900年頃の日本では火葬率30%ぐらいで、残りの70%は土葬でした。 その後火葬が増えていきましたが、それでも40年前の1970年代で火葬率85%、土葬は15%ほどでした。
朝鮮人も土葬は故郷の土地で行なうものでした。 たとえ来日した朝鮮人が日本で土葬しようとしても、よそ者ですから土葬する場所がありませんでした。 つまり朝鮮人は日本では土葬することができなかったのです。 しかし死はいつか必ずやってきます。 それでは彼らはどうしたのでしょうか。
金賛汀さんの『在日コリアン百年史』という本の中に、次のような記述があります。
在日朝鮮人が日本に居住するようになり、彼らは、朝鮮の風俗習慣を日本に多く持ち込み、とりわけ冠婚葬祭は異国の生活の中でも遵守された。 朝鮮は儒教の国である。 儒教は形式を固く守ることによって成り立つことが多い。 儒教の強い影響下にあった人びとは、葬儀においてもその形式を守ろうとした。
当時、日本の都市部では火葬だったが、朝鮮では多くが土葬であった。 特に済州島では、土葬が固く守られていた。 1920年代後半頃から、済州島の人々は、日本で亡くなった人の死体を箱詰めにして、島まで搬送していた。 そのため定期航路の船会社とのトラブルが多かったという。 死体の搬送には何日間も親戚縁者が同伴するため経済的な負担も大きく、葬儀を終えて日本に戻るまでには一ヶ月もの日時を必要とし、戻ってきたときは、仕事を失っていた。
そのうえ、当時、日本政府は朝鮮人の渡航を厳しく制限していたため、葬儀で帰国したまま日本に戻れなくなったケースも珍しくなかった。 (以上、金賛汀『在日コリアン百年史』三五館 1997年11月 101頁)
「朝鮮では多くが土葬であった」とあります。 上述したように朝鮮人ほとんどが土葬でしたが、僧侶は火葬で、また一部地域に古代からの伝統である草墳が残っていました。 「多くが土葬」という表現はこのことを指すようです。
この本によると、在日朝鮮人が発行していた1935年の『民衆時報』(ハングル新聞)に、次のような投書があったといいます。
【火葬を励行しよう】 私は読者の一人として、一つ問題を提起しよう。 もちろん、私が提唱する改良的な問題よりも、さらに進歩的な問題があることは知っている。 しかしながら、最も進歩的な問題でも生活改善を除くということはないのであるから、関西地方在住の労働者、常民(朝鮮の階級、平民)たちの、重大な利害関係に関する問題として私は火葬励行を提唱する
水の中でも、土の中でも、人の死骸は結局土になる。 全てに綺麗な火葬が、どうして土葬よりも悪いといえるのか。 土地の値段が高い日本で、土葬を行なうのは経済的に見ても大変なことであり、だからといって故国に土葬のために死体を送るというのは、済州島出身者以外は問題にもならない。 その島出身者の労働者は怒るかもしれないが、はっきりと目を見開いて生きようとする労働者ならば、地方熱と懐郷病を投げ捨てるべきである。
働き、生きているところが故郷であり、生まれ故郷は、必ずしも故郷ではない。
葬儀を行なうため死体を搬送して故郷に帰り、日本に戻ってきたときに仕事を失い、悔やんでいる親友たちがいかに多いことか、それらを軽視することはできない。 貧しければ貧しいほど、自由渡航が止められれば止められるほど、わずらわしい土葬から解放されなければ、一個の死体のために何人もの生命が飢餓線上で脅威にさらされる。 土葬から解放されよう。 火葬を励行しよう。 (以上、同上 100~101頁)
ここで注目すべきは「土葬を行なうのは経済的に見ても大変なことであり、だからといって故国に土葬のために死体を送るというのは、済州島出身者以外は問題にもならない」という部分です。 朝鮮人が亡くなって土葬しようとした時、日本では土葬できませんから遺体は故郷に送るしかありません。
済州島人の場合、当時大阪―済州島間に定期航路があって、済州島では一周して各地の港に寄港していました。 ですから遺体を船で搬送する場合、大阪港まで運んで定期船に積み込んで運送し、済州島の各港で下ろして故郷まで運ぶことになるのですが、やはり多額の費用がかかります。 一方、朝鮮半島本土(陸地)の人の場合は故郷へ行くのには関釜連絡船しかありませんが、その連絡船が遺体の運搬を禁じていました。 「済州島出身者以外は問題にもならない」とは、朝鮮本土の出身者はやろうにも出来なかったという意味のことです。
いずれにしても従来の葬送方式である故郷での土葬にこだわっても、朝鮮本土の場合は不可能です。 また済州島の場合は可能でしたが遺体搬送に大変な費用がかかるし、当時のことですからおそらくは冷蔵できず密閉も不十分な搬送となりますので腐敗の進む遺体にはトラブルが多くなるし、故郷で土葬を含む葬儀にはかなりの日数がかかります。 不安定な仕事をするしかなかった朝鮮人は故郷まで家族の遺体を運んで葬儀をすれば、その間に仕事を失う可能性が高くなります。 そこで『民衆時報』の投稿者は、在日は火葬をしようと呼びかけたのでした。 (続く)
【土葬に関する拙稿】
土葬と火葬 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/27/9310074
京都高麗寺の国際霊園 土葬墓地 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/02/20/9564102
韓国語の雑学―東床礼(동상례 足叩き) ― 2026/01/15
朝鮮民族の独特な風習として〝足叩き”を挙げることができます。 おそらくほとんどの日本人は知らないだろうし、在日でもこれを実際に見て知っている人は60代以上のお年寄りでしょう。 私は〝足叩き”と覚えていたのですが、最近になって『ポッタリひとつで海を越えて』という本で、「東床礼」という言葉であることを知りました。 そこでは次のように説明されています。
新婚旅行を終えて新婦の家に戻って来た新郎を裸足にして足首をくくり動けなくして、新婦の親戚や友人たちが質問攻めにする。 「何しに来た?」と聞いて「嫁を貰いに来た」と答えると「泥棒だ!」と、寄ってたかって新郎の足の裏を乾いた明太や棒で叩き、なれそめや新婚旅行でのあれこれを白状しろと迫り、答えられないと「答えろ」と叩き、曖昧に答えると「はっきり答えろ」と叩き、うそを言うと「正直に答えろ」と叩く。 最後に新郎を救うのは、新婦の母で「そろそろ許してあげなさい」と皆に料理をふるまう。 幸せな新婚の二人をからかって親睦を図る「賀礼」の一つだ。 在日朝鮮人のコミュニティーでも1980年代ころまで行なわれていた。
かつて朝鮮半島の北側、平安道地方では新郎に漢詩を詠ませ、うまく詠むとまたほかのお題を呈示して何度も詩を作らせた。 そのためこの地方では新郎に漢文が得意な親戚が同伴するのが常だったという。 詩を披露した後、新婦の家では知識の豊富な婿を得たと料理をふるまった。
東床は婿のことで、この呼び方は中国の故事に由来し、朝鮮語では婿を「東床」とは言わない。 (以上、小泉和子編著『ポッタリひとつで海を越えて―在日コリアンの生活誌』合同出版 2024年9月 218・219頁)
「新郎を裸足にして足首をくくり動けなくして‥‥寄ってたかって新郎の足の裏を乾いた明太や棒で叩き」とあるのが、正に〝足叩き”です。 こういう説明を読むと、おふざけでやるものだから大したことないと思われるでしょう。 確かに悪ふざけなのですが、叩き方が半端ではありません。 逆さ吊りにして本当に思いっきりの力で叩くのですから、まるで暴力沙汰のように見えます。 そして新婦側が「もう止めて!」と頼むまで叩き続けるのです。
新婦が〝足叩き”風習を知らない時があります。 その場合、新婦はその暴力沙汰に驚いて泣いてしまって「止めて!」と言えず、今度は〝足叩き”している男どもがいつまでも叩き続けるしかなかった、というような話もありました。 また足を叩かれた新郎は何日も歩くことができず、何ヶ月経っても足を引きずっていたという話もありました。 10年ほど前にヒットした韓国映画『国際市場で逢いましょう』には、〝足叩き”の場面が出てきましたね。
『ポッタリひとつで海を越えて』では、在日の結婚での〝足叩き”を実際に見た人の話が出てきます。
(1951年)結婚の祝いは三日三晩続き、余興も出た。 ‥‥余興は新郎を酒の肴にして冷やかし、足の裏を叩いたりする遊び(東床礼)をした。 三日三晩も自宅で宴をすると料理作りや後片付けが大変なので、今は専用の式場を使うようになり、東床礼の遊びもなくなったが、昔は娯楽が少なかったから、大変だと言いながら、結構楽しんでいた (同上 219~220頁)
(1976年)結婚式では東床礼という余興も行なわれた。 トンサン(東床)とは新郎を指し、新婦が西側に立つ慣習からきている。 式に参列した独身の若者たちが新郎をやっかみ、「どこで知りあったか」「いつ手を握ったか」などと聞きながら、細い枝や、紙を細い棒状にしたもので新郎の足を叩き、告白させるものである。
きわどい話になると新郎はなかなか言い出せない。 それで新婦が助けに入る。 するとますます足叩きが始まる。 そこで新郎は新婦の母に助けを求め、かわいい婿を救うため、新婦の母がさらに客に酒や肴を勧めるという趣向である。 (以上、同上 221頁)
もう今では〝足叩き”なんてやっていないようですが、韓国一部では残っているらしいです。 ただし優しく軽く叩く程度で和気あいあいとやるようです。 あの暴力的風習は受け継がれなかったようですね。 また若い在日は〝足叩き”を全く知らないし、もし知ったら大いに驚くことでしょう。 まあ〝悪習”と言ってもいいものですから、無くなったのは幸いです。
在日の結婚式は今や日本人と同じように式場かホテルでやるようになりました。 しかも在日は日本人との婚姻が多くなってきて、日本人側は当然ながら〝東床礼”なんか知りません。 こういったことも〝足叩き”がなくなった要因の一つのようです。 しかし式場やホテルでの結婚式の余興として、〝悪習”とはいえ民族の伝統である〝足叩き”は当人には大変なことですが、見る分には面白いので復活すればいいのにと密かに願っているのですが‥‥どうなんでしょうかねえ。
参考までに、韓国では「東床礼(동상례)」はどう説明されているか、ウィキペディアを訳してみました。 https://namu.wiki/w/%EB%8F%99%EC%83%81%EB%A1%80?uuid=6e041a03-5092-4693-a841-ad257495cfdd
1.紹介
結婚式が終わって、親戚や友人たちが新郎をいじめた風俗をいい、신랑다루기(新郎いじり)ともいう。 東床というのは、新しく来た婿を意味する漢字語だ。
2.やり方
一番有名なやり方のうちの一つである「足の裏叩き」。 新婦の実家で新郎の足を縛って逆さに吊るし、手と足、特に足の裏を棒でぶっ叩く。 この時、新郎は妻の家族らに助けてくれと哀願し、妻の家族らはもう参ったという振りをして御馳走の席を用意する。 そして酒宴を始める。 足を叩く風習のために、打足掌ともいう。(注1)
新郎と同年輩たちが集まってきて、漢詩の一節を詠んで、これの対句を作れという。 作れなかったら無知な奴だといい、上手に作っても剽窃だとか拙作だとか非難する。 また新郎に漢詩を作れといって、新郎が上手に作っても作れなくてもやはりぶっ叩く。
3.問題点と衰退
このように過酷な暴行を受けると、歩行が困難になったり、極端な場合に障害者になって社会生活ができなくなったり、死亡する場合もあった。 このような副作用により、政府が禁止しようとしたが、返ってさらに盛んになった。 そして時代が段々変化していくと、人々の認識も変わったこともあって次第に衰退し、現代社会ではほとんど見られなくなった。
東床礼は、度が過ぎれば害になるが、適当にやれば村や家族間の親睦を深める機会になる。
(注1) 足の裏にぺこんと凹んだところにツボがあるが、このツボの穴を開けてやれば男性の性機能が強化されるという韓方医学の俗説があって、足の裏を叩くということである。
「歩行が困難になったり、極端な場合に障害者になって社会生活ができなくなったり、死亡する場合もあった」というところに驚く方が多いでしょう。 かつての韓国での東床礼はこれほど過激だったようです。 そういえば、ある在日が自民族の野蛮性の根拠として〝足叩き”を挙げていました。
【韓国語の雑学―これまでの拙稿】
韓国語の雑学-공수래공수거(空手来空手去) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/28/9785334
韓国語の雑学-고려장(高麗葬) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/18/9740391
韓国語の雑学―客妾(객첩) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/03/10/9666292
韓国語の雑学―남부여대(男負女戴) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/14/9634052
韓国語の雑学―전산이기(電算移記) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/06/17/9594956
韓国語の雑学―賻儀 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/26/9543701
韓国語の雑学―将棋倒し http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/15/9235466
韓国語の雑学―下剋上 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/04/22/9237987
韓国語の雑学―「クジラを捕る」は包茎手術の意 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/10/9325273
韓国語の雑学―내로남불(ネロナムブル) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/01/04/9334079
韓国語の雑学―東方礼儀の国 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/17/9388692
韓国語の雑学―동족방뇨(凍足放尿) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/09/02/9418323
日本への悪口言葉―韓国語の勉強 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/19/6907092
朝鮮人の子供たちは同化されたのか(2) ― 2026/01/09
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/01/02/9827716 の続きです。
これまでの在日の同化・将来の外国人の同化
日本の教育当局は1930年頃から在日朝鮮人子弟の教育に力を入れ始め、いわゆる同化=皇民化教育を施しました。 しかし子供たちの多くは通わされていた日本の学校に違和感を有していたようです。 朝鮮の子供たちの日常会話は多くが日本語になっており、普段の立ち居振る舞いはどんどん日本化していくなどある程度の同化が進んでいたのですが、多くが日本の学校に違和感を持ちました。 しかし熱心な皇国少年になった子も少なくなかったようです。 そして1945年に日本の敗戦=朝鮮の解放を迎えました。 子供たちは戦後すぐに各地に開設された朝鮮人学校に入学して、それからわずか3年後の1949年にその学校が閉鎖されてまた日本の学校に戻されるという、時の流れに翻弄されながら学校に通ったのでした。
その後、1950年代に総連系の朝鮮学校(他に民団系の韓国学校があるが僅か)が開設され、子供たちは朝鮮学校に行くか日本の学校に行くかで、分かれることになりました。 このうち日本の学校に通う朝鮮人の子供については、優秀な成績を修めて有名大学や医学部に進学するような子もいましたが、日本の教育に不適応を見せる子が少なくありませんでした。 1970年とかなり後になりますが、大阪の校長会の内部文書で在日生徒を次のように評価していたことが明らかになりました。
大阪市立中学校長会「昭和45年度研究部のあゆみ」
朝鮮人子弟は、一般的に利己的・打算的・刹那的・衝動的な言動が多く、それが情緒不安定、わがまま勝手、ふしだらな傾向、実行の伴わないみせかけの言動となってあらわれる。 罪悪感に欠け、性的早熟、自己防衛的でその場限りのウソも平然とし、同じあやまちや不注意も繰り返す。 半面、外国人ということを卑下して、日本人のように振る舞おうとし、無気力になったり、荒々しくなったりする。 (永井萌二『見知らぬ人 見知らぬ町』1971年7月 五味洋治『高容姫』文春新書 2025年6月 65・65頁より再引)
日本の学校に通う在日韓国・朝鮮人の子供たちの多くは戦後(朝鮮解放)25年経った1970年になってもなかなか同化せず、荒れた学校生活だったようです。 彼らが同化して落ち着いてくるのはそれ以降で、民族コミュニティ(いわゆる朝鮮部落)の縮小・解体とともにしていたのではないかと私は思っているのですが、どうでしょうか。(下記の拙稿参照)
一方、同化に抵抗して民族を強調してきた朝鮮学校では、校内では日本語が禁止されて朝鮮語のみが使用されましたが、そこで交わされる朝鮮語は「在日朝鮮語」という日本語に大きく影響された言語であり、また子供たちは一旦校外に出れば日本語をしゃべって日本人と変わらない生活を送っており、あるいは日本の学校生徒との凄まじい対立・抗争はかなり以前から聞かなくなりました。 いま朝鮮学校に通う在日の子供たちは一部の「赤い人」でさえ祖国に帰らずに日本で生活する選択をしています。
ですから2026年の今では、ほとんどの在日は同化の最終段階に向かいつつあると言っていいでしょう。 戦前に日本の教育当局が目論んだ在日の同化は、100年近く経ってようやく成就したということになります。
なお以上は在日全体の大ざっぱな流れを論じたものであり、個々人を取り出せば同化の度合いが違うのは当然のことです。 名前も国籍も何もかも全てが日本人化した在日もおれば、同化しているといっても名前や国籍、生活の一部に民族の痕跡を残す在日もおり、あるいはまた日本人から受けてき差別の歴史を根拠に〝同化されてたまるか”と頑張る在日もいます。
以上に論じてきた在日韓国・朝鮮人の子供たちについての知見は、今の日本の当面の大きな課題となっている外国人子弟の教育問題の解決に寄与するのかどうかについて、あまり参考になっていないように思えます。 全ての外国人の子供たちが、遅い早いはありますが、同化していってくれればいいのですが、出身国や民族によっては世代を越えて日本語をなかなか覚えず、そして日本社会に馴染もうとせずに反社会的行動に突き進む場合があります。 ここは性急に結論を求めず、在日の場合のように100年単位で考えるべきところと思うのですが、どうでしょうかね。
ただ日本史を振り返るならば、日本列島には朝鮮半島からの多くの渡来人が定着してきました。 古代にあっては渡来系氏族であり、そのうち最高位に上り詰めた百済王氏(くだらのこにきし)が有名です。 彼らは平安時代までには名前も含めて日本に完全に同化し、祖先伝承に痕跡が記録されるだけになりました。 また豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰倭乱)の際に朝鮮から陶工たちが渡ってきて、日本の陶磁器文化の発展に大きな貢献をしてくれましたが、彼らも日本に同化する歴史を歩みました。 現在の在日外国人も同じ渡来人ですから、将来は同じ道をたどるだろうと考えます。(下記の拙稿参照)
こんなことを書けば、〝外国人が同化しなければどうなるのか?” 〝このまま外国人が増え続けて多数派になるのではないか?”という質問が来ますね。 世界史をひもとけば、4~7世紀のヨーロッパで「民族大移動」が起こりました。 ある民族が移動してきて先住の民族を追い出して代わりにその地に居住し、追い出された民族は他の地に行ってそこの先住民族を追い出して居住するという民族集団行動が繰り返されたのでした。 地域を区切って言えば、民族の置換ですね。 今の西欧・北欧において都市の一部に住民全てが移民となっている地区が出現しており、また国民と移民との間の激しい葛藤も起きているところを見ると、「民族大移動=民族の置換」が再現するかも知れないと思えるほどです。 日本ではこんな歴史にはならないと思うのですが‥‥。
楽観的希望の観測を言えば、在日外国人は最終的に日本に同化し、彼らがもたらす文化は日本に溶け込んで日本文化の深みと幅を大きくしてくれるだろうということです。 (終わり)
【民族コミュニティ(いわゆる朝鮮部落)に関する拙稿】
「朝鮮部落」を探訪したユーチューブ動画 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/04/9773065
「朝鮮部落」の思い出(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262
「朝鮮部落」の思い出(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331
神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772
「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/21/9811055
「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/27/9812859
小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502
戦前の朝鮮部落の状況 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806622
【古代渡来人に関する拙稿】
第20題 「古代渡来人」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuudai
韓国の伝播論と日本の由来論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/04/26/342428
在日の古代史(1)―古代渡来人と広開土王碑改竄 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/01/9598436
【中・近世の朝鮮人陶工に関する拙稿】
朝鮮人陶工の歴史(1)―こうして歴史は作られる https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/15/9701351
朝鮮人陶工の歴史(2)―ハンギョレ新聞を読む https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/20/9702696
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602
壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/10/9699962
『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/02/9647749
『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/09/9649336
東郷茂徳が名前を変えた理由 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/04/21/1453694
朝鮮人の子供たちは同化されたのか(1) ― 2026/01/02
戦前に来日した朝鮮の子供たちの教育について、日本当局は当初は方針を特に定めていませんでしたが、1930年代に入ってからようやく対策を打ち出しました。 それは朝鮮人自身がそれまで自分たち子弟のために行なっていた教育を否定して、日本の学校に誘導することでした。 それで子どもたちの多くは昼間の学校に通ったのですが、一方では当時の在日朝鮮人家庭の貧窮状況により各地に設けられていた夜間小学校に行く子供も少なからずいました。
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/09/9815943 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/15/9817244
しかしそこは日本の学校であり、朝鮮人の民族教育をする場ではありません。 朝鮮人の子供たちには日本語を覚えさせ、日本社会に早く馴染ませようと、いわゆる同化教育(当時は皇民化教育)を施すことになります。
(1936年以降)すべての朝鮮人を管理する目的でつくられた協和会の活動が活発になると、公立学校に入学させる方向で皇国臣民化教育が徹底されるようになり、朝鮮語はまったく教えられなくなり、皇国少年がつくり上げられていく。 1936年の協和会体制強化以降に育った子供たちは、この強い日本人化=皇民化教育の影響を受けることとなったのである。 (樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社2002年6月 83頁)
このような同化教育がどういうものであったか。 それは朝鮮人の民族性を否定するものであったため、次のような状況になっていたとされています。
1930年代半ばに朝鮮人の自主的な教育機関が閉鎖された後、朝鮮人の子どもたちは日本の学校に通うことになった。 当局は学校教育を通じて日本への同化、日本精神の注入を図るために、それまでの放任姿勢を改め朝鮮人の子どもを積極的に学校に受け入れて「協和教育」「皇民化教育」を施す方針に転換した。 しかし、朝鮮人の子どもたちを待ち受けていたのは、学校での差別的な扱いであり、自己否定を強要される教育内容であった。
1938年に下関の学校が作成した資料は、全校児童の約20%を占める朝鮮人児童の性格を「無気力、不熱心、勉学心乏し、積極的気風を欠く」「剛情強いところがあるかと思うと軽率、雷同的」「不道徳行為を平気でやる」「虚言を何とも思わず、羞恥心に乏しい」など、あらゆる否定的言辞で貶めた上で、それを矯正するには「日本人意識日本精神」を持たせ、「日本人の真の力を敬仰景慕せしめ日本児童たることを至高とし感謝する情念を養う」ことが必要であるとしている。
このような教育方針のもと、子どもたちは朝鮮人であることを徹底的に否定され、自らもそれを否定しなければならない状況に置かれた。 (以上、水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』岩波新書 2015年1月 63~64頁)
これは実際の学校現場では、同化教育がうまくいっていなかったことを示しています。 このことは日本の司法当局側から次のように報告されており、それを裏付けています。
日本の官憲は朝鮮人の子どもたちの日本社会への同化を期待したが、かれらの民族への愛着を抹殺することはできなかったようである。 例えば1939年に福岡地方裁判所と検事局が主催した、県下朝鮮人に関係している日本人の座談会で、ある日本人はつぎのように報告している。
「私が一つ意外に感じた事例がありますので参考までに申し上げます。 私は従来成人は同化ということは困難だろうということは考えておりました。 しかし子供はそうではないだろうと思っておりました。 ところがある機会に尋常6年か5年の子供ですが、男だったか女だったかを記憶しておりませんが、内地がよいか朝鮮がよいか尋ねたところ、その子供が、どうしても朝鮮がいい、卒業したら朝鮮に帰るのだ、という答えをきいて、実に意外の感に打たれたのであります。
けれども子供等はほとんどこちらで育っておって、朝鮮にはお正月に二度か三度親に連れられて帰った程度でしょうが、それにも拘わらずどうしても内地はいやである、朝鮮に帰りたいということをいう。 こういうことを聞きました時、私どもは従来、今の成人がなくなってしまって、今の子供が成人して次の時代になったら、内地に同化できるのじゃないかと思っておったことを自ら危ぶまねばならぬという感じを受けたのであります。 これは従来ひそかに抱いていた危惧の念をいっそう深くした次第であります」(司法調査課『福岡県下在住朝鮮人の動向に就いて』) (以上 姜在彦・金東勲『在日韓国・朝鮮人―歴史と展望』労働経済社 1989年9月 71~72頁より再引)
(続く)
【拙稿参照】
戦前の夜間小学校―朝鮮人子弟の教育(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/09/9815943
戦前の夜間小学校―朝鮮人子弟の教育(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/15/9817244
第64題 朝鮮人学校閉鎖令 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuyondai
朝鮮人学校閉鎖令 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/12/18/1036201
在日の低学力について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638
在日の低学力について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374169
親の靴職人を継いだ在日子弟―『抗路9』座談会 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/24/9466872
在日のアイデンティティと「赤い人」 ― 2025/12/27
在日と本国韓国人との間の距離はどんどん大きくなり、それだけ在日は日本への同化がより顕著になってもはや日本人との違いがなくなった、ということです。 そのような在日の同化は自然現象というほかなく、止めようとしても止めることのできないものです。
14年前の本ですが、文芸春秋『日本の論点 2012』の「在日コリアンについての基礎知識」に次のように記されています。
(在日コリアンは)このように日本への社会的・文化的同化が進むなかで、韓国籍を有していても韓国を祖国としてそこに帰属する意識をもてず、日本においては韓国籍でありながら「外国人」としての意識を持ちにくい存在―この民族と国籍のずれの問題にどう取り組むか、韓国人もなく日本人でもない「〈在日〉コリアン」として、みずからのアイデンティティとエスニシティをどう確立するか、これが若い在日コリアンの抱える新たな課題として浮上しているようだ。 (文芸春秋『日本の論点』2012年1月 715頁)
「アイデンティティとエスニシティ」は「民族性」と言い換えることができます。 民族性というのは普段の日常生活の中で自然と造成されるもので、言葉はもちろんのこと、ものの考え方や立ち居振る舞い、行動様式までも含みます。 そうならば過去の植民地史に由来する在日は今や日本にほぼ完璧に同化しており、民族性は韓国ではなく日本そのものと言うしかありません。 従って在日の「民族性の確立」とは、今は少なくとも韓国人としての民族性ではあり得ないことになります。
また「韓国人でもなく日本人でもない在日コリアン」という独自の民族性は、〝表面は韓国人だが実際の中身は日本人”という曖昧模糊な存在に他なりません。 在日が海外旅行する時は韓国のパスポートを持っていくしかなく、そこでは「私は韓国人でも日本人でもありません、在日です」と言っても通用しないのです。 ですから在日の「みずからのアイデンティティとエスニシティをどう確立するか、これが若い在日コリアンの抱える新たな課題」は日本国内に限定して暮らす個々人ではあり得ますが、国際的にはあり得ないということです。
一方、朝鮮総連の熱誠活動家や朝鮮学校に通っている在日はそのような同化に抗して、自分たちは日本人ではないと明確に主張しています。 ところがそんな彼らも学校の外に出ると家族や友人とは日本語を使い、日本の文化にたっぷりと浸かって、やはり日本人と全く変わらないほどに同化していっています。 だからこそ北朝鮮をこよなく愛する彼らは自分たちだけで固まり、日本人との違いを際立たせようとするいわゆる「赤い人」が活躍しています。 そのあたりはパク・ユソンさんという朝鮮学校出身者の在日がユーチューブで語っておられますね。 やはり朝鮮学校でも「赤い人」は少数のようです。
そんな赤い在日学生たちが2025年正月公演のために祖国の北朝鮮を訪問し、最高尊厳の歓迎を受けており、その画像が公開されています。 https://www.youtube.com/watch?v=uhaJzHUpP0Y 当人たちは大感激のようですが、祖国の人たちとの違和感というか摩擦感はなかったのでしょうか。 そして来たる2026年正月の「설맞이 공연(迎春公演)」に参加する在日学生たちが、この12月3日に北朝鮮に向かったという報道がありました。 「赤い人」たちの熱意はすごいですね。 彼らは日本国内では「リンゴ」(皮は赤いが中身は白い)ですが、北朝鮮に行けば「トマト」(中身まで赤い)になるようです。 そのまま現地に移住すれば、「아버지 원수님(父なる元帥様)」の懐に抱かれつつ生活することになって幸せな人生を送れると思うのですが、そうならないのが不思議ですね。
2025年の「설맞이 공연(迎春公演)」の動画は次にあります。 https://www.youtube.com/watch?v=7SVaapoRT_Y
私の考えでは、「赤い人」たちは「元帥様」への「敬愛」は半端ではありませんから、日本にいる限り一般社会とはさらに断絶し孤立化していくだろう、だからこそ彼らの団結は強くなっていくだろうと予想しています。
【北朝鮮に関する拙稿】
在日朝鮮人が話す北朝鮮 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/19/9643754
この世はすべて金―北朝鮮 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/05/25/9687110
北朝鮮には税金がない、その代わり‥‥http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/18/9660183
脱北して戻ってきた在日 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/25/9662215
核問題は北朝鮮に理がある―金時鐘氏 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/23/9653071
小松川事件は北朝鮮帰国運動に拍車をかけた https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/02/9639109
朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056
朝鮮総連幹部らには月3万円の教育費支給 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/10/24/9627897
今日は「太陽節」-朝鮮総連に教育費2億7千万円 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/15/9577360
北朝鮮の「갓끈 전술(帽子の紐 戦術)」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/01/08/9022748
「朝鮮半島の非核化」は「北朝鮮の非核化」とは違うのでは? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/03/08/8799658
北朝鮮の核開発の目的 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/07/8671910