「公式」朝鮮史で語られない「日常生活」2023/01/04

 ちょっと古い本ですが、古田博司・小倉紀蔵編『韓国学のすべて』(新書館 2002年5月)の中に、朝鮮近代史研究の永島広紀さんの「植民地時代の史実で韓国では『語られていない』ものは何か」(135頁)というコラムがあります。

 よく韓国から日本に向かってしょっちゅう発せられる「歴史を直視せよ!」の「歴史」は、永島さんのコラムによると「『日帝暴虐史観』とそれと対をなす『抵抗史観』式の単純な構図」で、韓国では「公式」の歴史とされています。 そして永島さんはこの「公式の歴史」が、朝鮮人や日本人たちの「日常生活」が「語られていない」と批判しています。

植民地時代の史実で「公式」に語られることが極めて少ないことの筆頭に‥「日常生活」をあげることができよう。

日本人は軒を連ねて畳の家に集住して居住区を形成しており、通常生活では(朝鮮人と)没交渉でも支障はない。 そんな異邦人社会をしり目に、ラジオ第二放送(朝鮮語放送)からはパンソリ中継が流され、清渓川には砧を打つ音。 鐘路の封切館では新作映画を見るべく列をなして順番を待つ人々。 餃子売りの中国人。 カフェで女給を相手にくだを巻く酔客。 買い物客で賑わう和信百貨店。 春には徳寿宮の桜を愛で、冬には氷結した漢江でスケートに興じる人々。

日本人と朝鮮人は率直に言って生活者としてその仲は決して良好とは言えなかった。 特に都会では互いに反目が強かったようである。 特権意識を振りかざす下品な日本人は多かった。

しかし、そうした「心ない」日本人に眉をひそめる日本人も少なからずいた。 そして田舎に行けば行くほど、密接な人間関係が構築されたことも少なくなかった。 

戦後、「故郷」に里帰りする元在朝日本人が、かつての隣人たちから篤い歓迎を受けたり、あるいは小学校の元教師が韓国人の教え子たちの招待を受けて渡海したりという「佳話」の類は引きも切らない。 ただしそれらはあくまで「非公式」の場でのことである。 (以上135頁)

 植民地時代を具体的に知らない後世の者が「日本帝国主義の暴虐とそれに対する朝鮮人の抵抗」という「公式の歴史」を教え込まれると、日本人は悪者、反対に朝鮮人たちはそれに抵抗して頑張った正義の人、というような考え方を持つようになります。 しかしそこには、当時の人々がどのような日常生活を送っていたのかという肝心なところが忘れられています。 それを永島さんがコラムで指摘し、その「日常生活」の一部を列挙したのでした。

 一方で「公式の歴史」ばかりを知る人は、そこから当時の「日常生活」を想像たくましく語るようになります。 例えば、朝鮮人は朝鮮語を禁止されて日本語を強制されたという「歴史」を勉強して、当時の朝鮮人は親と話をするにも日本語を使わねばならなかった、もし道端で朝鮮語をしゃべったら警察に逮捕された、なんて言う人がいました。 

 しかし植民地時代を実際に体験した人は、それがウソだということをすぐさま見破ります。 朝鮮人は通りでは朝鮮人同士で朝鮮語をしゃべり合っているのを毎日のように見ているし、郵便局へ行けばハングルで電報を打つ朝鮮人の姿を知っており、ラジオからは朝鮮語の番組放送が流れてきていたからです。

 また学校では日本語で授業が行われ日本語が強制されましたが、その学校に朝鮮人は行かなければならない義務というものがなかったことも当然知っていました。 実際に朝鮮人の子供たちが学校に通っていたのは、植民地時代後期でも男子40%、女子10%だったのでした。 ちなみに朝鮮に住む日本人の子供たちの就学率は100%に近かったのでした。 また当時朝鮮半島の人口は朝鮮人が約2500万人、対して日本人は80万人ほどでしたから、朝鮮人たちに朝鮮語を禁止して日本語だけ使わせることなんて、どだい無理なことだったのです。

 しかし「公式の歴史」では、朝鮮人は朝鮮語が禁止されて日本語を使うしかない屈辱を味わった、という被害者性ばかりを強調します。 こうなると、もはや「虚偽の歴史」ですね。

 「公式の歴史」である「『日帝暴虐史観』とそれと対をなす『抵抗史観』」は、確かに当時は朝鮮人対して傲慢な日本人が少なからずいたし、また日本支配に対して果敢に抵抗した朝鮮人も少数ですが、存在しました。 ですからすべて全くの間違いとは言えませんが、そんな歴史観に固執すると当時の人たちが具体的にどのような日常を送っていたかが分からなくなるのです。

 歴史を研究する上で、当時の人びとの日常生活を知らないというのは、決定的な欠陥であることを自覚してほしいと思います。

【拙稿参照】

日本統治下朝鮮における朝鮮語放送  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721782

朝鮮語は容認されていた―愛国班  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/10/8724405

朝鮮語は容認されていた―愛国班 (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/14/8727138

『現代韓国を学ぶ』(6)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/11/6476173

『図録 植民地朝鮮に生きる』   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/11/02/6621470

朝鮮語を勉強していた大正天皇  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/09/24/6111974

「朝鮮語は禁止された」というビックリ投稿  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/15/8324407

学校で朝鮮語を禁止した理由  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327730

日本統治下朝鮮における教育論の矛盾   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/01/1156247

韓国映画「マルモイ」に見る時代考証不足 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/07/19/9269548

植民地朝鮮における日本人の差別・乱暴 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/21/9413485

植民地時代のエピソード(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/20/9179083

朝鮮植民地史の誤解 ―毎日の読者投稿 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/03/9404045

保険未加入外国人の治療費―東京新聞2023/01/07

 東京新聞2023年1月5日付けに「『日本人なら生きられたはず』困窮外国人にのしかかる高額医療費 保険未加入で法外な治療費も」と題する記事がありました。   https://www.tokyo-np.co.jp/article/223503

 在留資格がないなどの事情を抱える外国人は健康保険に加入できず、「法外な治療費」を請求されるというものです。 この記事を読みながら、色々と疑問が湧きます。 最初にミャンマー人の話が出てきます。

先月上旬。東京都内の公園で暮らすミャンマー国籍の40代男性を見つけると、大沢優真さん(30)が駆け寄り、体調を気遣った。

男性は8年前に来日。仕事を失って2年前にシェルターに入ったが、半年ほどで野外生活に移った。ミャンマーで反政府デモに参加していて、昨年のクーデターにより帰国は絶望的。在留資格は更新しているが、笑顔と裏腹に生活は厳しい。特に体調を崩すと、深刻な状況に陥りかねない。

日本人の場合、健康保険に加入していれば、医療費の自己負担は一部で済む。もっとも、滞納や退職後の加入忘れなどの事情があれば、全額負担となる。ところが、男性のように保険未加入の外国人は、全額負担を超える費用を求められることがある。

 8年前に来日し、1年半前から野外生活しながら「在留資格を更新している」とあります。 どのような在留資格か書かれていませんが、住所のないホームレスが在留資格をどのように更新してきたのか、まず抱く疑問です。 そして在留資格があれば健康保険に加入することができると思うのですが、加入しなかった理由も書かれていないことに疑問が湧きます。

 また「反政府デモに参加していて、昨年のクーデターにより帰国は絶望的」が事実なら、そんな思想的なことよりも命と健康の方が大事でしょう。 表面的でもいいから現政府に従順な姿勢を見せて帰国するのがいいと思うのですが、それをしない理由が分からないところです。 そもそもミャンマー政府がその人を反政府活動家として把握しているのかどうかが疑問です。 活動家であるなら、ホームレスなんかしないと思うのですがねえ。 「反政府デモに参加」は無理矢理こじつけているとしか思えないのですが、どうなのでしょうか。

 次に健康保険に未加入の外国人は全額負担どころか2倍の治療費を請求されるとあります。

在留資格のない外国人が心疾患で「手術しないと命を落とす可能性がある」と診断された。費用を150万円と見込み、支援グループでとりあえず100万円を工面。ところが「うちは外国人は2倍」と300万円を要求されたという。「差別ではないか」と掛け合ったが「ルールだから」とにべもない対応。

 記事の見出しではこれを「法外」としています。 なぜ「法外」なのか、私には理解できないところです。 保険未加入の外国人が病院で治療を受けた場合、その治療費を払わない事例が少なくないという事情があります。 そしてその人が日本から出国すれば、支払い請求は不可能となります。 また病院側が保険未加入の外国人に2倍の治療費を請求しても、再診等の際に精算するのですから「法外」とは言えないと思うのですが。

 国公立病院の場合は知りませんが、私立病院の場合、外国人でなくても保険に入っているかどうか確認できない患者さんに全額負担の二倍程度の治療費を請求するのは、よくあることのようです。  私の経験では、交通事故にあって救急車で病院に運ばれた時、治療が終わってから約10万円を請求されました。 明細を見ると200%、つまり二倍の金額でした。 その時に保険未加入者は二倍、というルールを知ったわけです。 なおその時はクレジットを使い、後日に保険証を持って行って清算されました。 もしこれが不法滞在・仮放免の外国人なら、保険に入っていないしクレジットカードもないだろうから、大変だろうなあと思ったものでした。

大沢さんは、在留資格の有無にかかわらず、外国人がさらされる命の危機への対策として、まずは医療費の負担軽減を挙げる。さらに、一部の在留資格に限られている生活保護の受給を、広く受けられるようにするのも重要とみる。

 ここは大いに異議のあるところです。 「医療費の負担軽減」と言っていますが、医療にかかる費用そのものを減らすわけにはいかないでしょう。 また保険に入っていないのなら、保険からその費用を出すこともできません。 とすると「負担軽減」という主張は、その分の医療費をいったい誰が負担すべきだといっているのか、ということです。 前後の文脈からして、これは公費つまり税金で負担せよと主張しているようです。 しかし、これはどだい無理な話です。 

 冒頭のミャンマー人の場合、保険に加入せずに治療費に困り「命の危機にさらされている」のであれば、まずは在日ミャンマー人同胞たちが立ち上がらなければならないと思うのですが、記事を読む限りそれはないようです。

 東京新聞の記事は短くて不分明な部分が多いのですが、私には疑問点ばかり出てきていると感じました。 この記事を掲載した東京新聞の加藤益丈記者は、こういった治療費に困っている外国人のためにどれほどのお金を拠出しているのだろうか、まさか記事を出して終わりじゃないでしょうね、新聞記者といえば年収1000万円をはるかに越える人ばっかりなのだが‥‥、という疑問も抱きます。

【拙稿参照】

不法残留外国人について    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376331

不法残留外国人について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/17/9378363

かつての入管法の思い出    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306547

昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536

8歳の子が永住権を取り消された事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/01/9322206

移民の犯罪率は高いのか    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/23/9390661

自宅を外国人シェルターにした女性―時事通信2023/01/12

 2023年1月9日付の時事通信に「『外国人のシェルターに』=入管で面会重ね、自宅受け入れ―ウィシュマさんも支援・愛知の女性」と題する記事がありました。    https://sp.m.jiji.com/article/show/2878146   https://news.yahoo.co.jp/articles/b467e0980051958d1acda2485986113a9fa9b908

 こういう問題には私も関心があるので興味深く読んだのですが、読んでみて違和感というか疑問を持ちました。 この女性は、仮放免の外国人の身元保証人となって自宅に受け入れています。

不法滞在を理由に入管施設に収容された外国人の中には、さまざまな事情で母国に帰ることができず、収容が長期化する人も少なくない。一時的に拘束が解かれる「仮放免」となっても就労できず、健康保険に入れないなど困難な生活を強いられる。愛知県津島市の歌手、真野明美さん(69)は施設で面会を重ね、身元保証人になって自宅で受け入れるなど支援を続けている。

真野さんがこうした外国人の支援を始めたのは約5年前。古民家を買い取って自宅兼シェアハウスに改装したところ、難民認定を求める外国人が入居に訪れたのがきっかけだ。仮放免となっても困窮する人が多いことを知り、無償で受け入れるようになった。「困っている外国人のシェルターがあるといいと思った」と振り返る。

 彼女はシェアハウスを経営していたところ、難民認定を求めている仮放免の外国人を受け入れるようになったという経緯を説明しています。 ここで最初の疑問が出てきます。 この外国人はそれまで見ず知らずで、どこの馬の骨か分からない人物のはずなのに、彼を受け入れたというのがビックリするのです。 この外国人は保証金になるようなまとまったお金を持っていたのでしょうか。 「困っている外国人」なのですから、これはあり得ないと思うのですがねえ。

次第に全国から寄付や食料などが届くようになり、これまでに8人の身元保証人になった。無料や低額で診療を受けられる病院に連れて行ったり、地域住民と交流するイベントを開いたりもしている。

 彼女の活動が全国的に知られるようになって、支援物資が来るようになったと思われます。 ここは理解できるのですが、次の「8人の身元保証人になった」というところでまたビックリ。 どの範囲までの「身元保証」なのか分からないのですが、普通に考えるなら、その外国人が他者に損害を与えた場合に、代わってその補償を行なうことを約束するという意味があります。 それが8人。 短時日にそれほどの信頼関係を築いたというところに、本当だろうか?という疑問が湧きます。 私でしたら、親戚だとか元同僚でその家族まで知っているとかの場合ならともかく、収容所での面会で知り合っただけの人の身元保証はできませんねえ。

真野さんは入管施設に収容された外国人について、「最初は違法なことをした人というイメージが強かったが、母国で迫害を受けて帰れなかったり、日本の就労先が劣悪で逃げ出したりとさまざまな事情があることが分かった。もっと関心を持ってほしい」と話した。 

 仮放免の外国人の「事情」はそれこそ千差万別なので何とも言えません。 ただ疑問を抱くのは、本国にいるはずの家族に連絡を取っているのか、が書かれていない点です。 家族に連絡がつかなかったのか、それとも連絡してもそんな者は知らぬと拒絶されたのか、いろいろな事情が考えられるのですが、そもそも連絡しようとしたのだろうかという疑問までもが出てきます。 記事は不明な点が多くて、疑問がいっぱいに出てきます

 ところで私がこの問題に関心を持つのは、1960年末~70年代に大村収容所廃止を要求する運動があり、それに知り合いが関わっていたからです。 当時は外国人問題といえば、ほとんどが韓国・朝鮮人でした。 特に韓国からの密入国者は多く、摘発されると国外退去処分となり韓国に送還されます。

 しかし韓国側がこの送還を拒否し、送還されても逆に元の日本に送り返すという事例が多数出てきました。 送り返された韓国人はこの大村収容所に再収容されることになります。 韓国に帰る見込みがなく、といって日本に在住する見込みもないという事態ですから、それこそ行き先がなくて何年も収容所に入れられることになります。 しかもこの収容所ではかつて暴動が起きたことがありますから、収容者はほとんど刑務所受刑者と同じような待遇を受けたといいます。 (以上の事実関係は今ではあまり周知されていないようです。「大村収容所事件」「任錫均」等で調べれば、ほんの一端ですが理解できると思います)

 この大村収容所を廃止しようという市民運動があったのです。 主宰していたのは飯沼二郎さんだったように記憶しています。 私は関わりませんでしたが、これを傍で見ていましたので今でも外国人の退去・収容問題には関心があるという次第です。

【拙稿参照】

保険未加入外国人の治療費―東京新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/01/07/9553457

不法滞在・犯罪者の退去・送還-1970年代の思い出 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/21/9379672

不法残留外国人について     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376331

不法残留外国人について(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/17/9378363

かつての入管法の思い出     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/10/17/9306547

昔も今も変わらない不法滞在者の子弟の処遇  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/03/21/9226536

8歳の子が永住権を取り消された事件 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/12/01/9322206

移民の犯罪率は高いのか    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/06/23/9390661

映画史にみる在日とヤクザ―『文芸春秋』(1)2023/01/18

 月刊誌『文芸春秋』2022年12月号に、伊藤彰彦さんの「仁義なきヤクザ映画史⑨ ヤクザとマイノリティ―民族と差別が葛藤する只中で」という題名の記事が掲載されています。(386~396頁) このなかで論者は在日朝鮮人がヤクザになる過程を、部落民と比較しながら次のように書いています。

被差別部落民や在日コリアンがヤクザ社会に入り始めた時期について、ヤクザ研究の先駆者であるジャーナリストの猪野健治はこう語る。

〈被差別部落民の人たちがやくざ社会に流入してくるのは、実は明治4年8月、太政官布告で「解放令」が公布されてからなのだ。 それまで部落の人たちは部落の外へ出ることができず、やくざになる自由さえもなかったのである。 同じことは在日韓国・朝鮮人についても言える。 彼らも昭和20年8月、日本が敗戦を迎えるまではやくざになることもできなかった。 自由渡航してきた人を除いては、すべて軍需工場や軍役などの強制労働にクギづけにされていたからである〉 (「近未来を見据えた画期的なやくざ論」『ちくま』07年9月号)

「やくざになる自由さえもなかった」という言葉が、昭和の戦前までの日本社会の差別の過酷さを物語る。 1945年8月15日、日本敗戦の日、GHQは炭鉱、軍需工場などで労働を強制されていた朝鮮人、中国人、台湾人らを解放した。 「第三国人」と蔑称されながら、大都市の中心部に集まり、焼け残ったビルに事務所を構え、「戦勝国民」を名乗り、「朝鮮人連盟」や「華僑連盟」の看板を掲げる者も現れた。 そして彼らの一部は、大都市周辺の倉庫や食料品を積んだトラックを襲撃し、略奪した物資を露店で売り、ヤクザや警察との衝突を繰り返す。

50年代に入っても、在日コリアンは住宅を賃借りすることが容易でないなど生活の根本を脅かす差別が続き、60年代になっても医者か弁護士になる以外、たとえ東大を出ても就職先は焼肉屋かサラ金かパチンコ屋が多くを占めた。 〝レーニン全集を読む在日韓国人ヤクザ″として知られる柳川組二代目谷川康太郎は自らの境遇をこう語っている。

「小学校のセンセイは、努力する者は必ずむくわれる、と教壇の上でよう言うとった。 これほどひどいウソはないわ。 差別されとるモンは、ナニかしよう思うても、ナンもでけんやないか。 貧乏やから銀行いってもカネかしてくれへんし、学校もろくに行けんからまともなところには就職でけん。 ビルの谷間を這いずるような雑業か日雇いくらいしかないわけや。 差別されとるモンが正直に真面目に生きよう思うたら、ひもじいみじめな生活しかでけんいうことや。 それにそれに最初に気がついたわけや。 それからはすべてに反発した。 反発することがすべてやった」(猪野健治著『やくざ親分伝』02年)

日本社会から閉め出された在日コリアンにとって、芸能界やスポーツ界とともにヤクザ社会は、最後のアジール(避難場所)であり、夢の容器だった。 (以上『文芸春秋』2022年12月号388~389頁』)

 これを読んで、確かに戦前には在日がヤクザになったという話は聞きませんねえ。 これまで知り合った在日のうち、父親がヤクザをやっているという人が何人かいましたが、戦後にヤクザ稼業を始めています。 ヤクザの歴史にはそれほど詳しくないですが、戦前のヤクザ社会に朝鮮人が入っていたという資料は見たことがありません。 在日朝鮮人がヤクザと関係を持ち始めたのは戦後と言っていいのかも知れません。

 これは終戦直後に日本社会が混乱した中で、自分たちを解放民族だと称して粗暴な行為を繰り返した在日朝鮮人が多かったという事情が背景にあります。 詳しくは下記の【拙稿参照】をご覧ください。

 ところで伊藤彰彦さんのこの記事にはいくつか間違いがあります。 例えば「60年代になっても医者か弁護士になる以外」です。 実は、弁護士は1977年になって初めて外国人もなれるようになったものです。 最初の外国人弁護士は金敬得さんという方で、1977年に外国人として最初の司法修習生となりました。

 それ以外にも事実関係で首を傾げるところが幾つかあります。 しかし、おおむね在日がこのような差別を受けてきたのであり、在日にとって「ヤクザ社会は最後のアジール(避難場所)であり、夢の容器だった」ということは事実だったと言わざるを得ないところです。 そして当時の在日活動家たちは、在日は日本から厳しい差別を受けたからヤクザの道に行ったのであり、その責任は日本にあると訴えていたことが思い出されます。

 記事では在日が登場するヤクザ映画として、『血染めの代紋』『血と掟』『神戸国際ギャング』『男の顔は履歴書』『三代目襲名』『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』『実録外伝 大阪電撃作戦』等々が列挙されています。 私はヤクザ映画を好まなかったので、ほとんど見たことがありません。 ですから題名の紹介だけにとどめます。 (続く)

【拙稿参照】

戦後朝鮮人の振る舞い―「事実」の経過 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/28/9299898

戦後朝鮮人の振る舞い―NHK記事に民団が人権救済申し立て http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/25/9299094

戦後の朝鮮人の振る舞い―事実を語るべきか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281241

水野・文『在日朝鮮人』(14)―終戦直後の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135824

張赫宙「在日朝鮮人批判」(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714

張赫宙「在日朝鮮人批判」(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446

権逸の『回顧録』          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587

終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495

在日朝鮮人の「無職者」数      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/01/05/7971706

闇市における「第三国人」神話    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai

差別とヤクザ    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuuyondai

映画史に見る部落とヤクザ―『文芸春秋』(2)2023/01/25

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/01/18/9556169 の続きです。

 月刊誌『文芸春秋』2022年12月号に掲載された伊藤彰彦「仁義なきヤクザ映画史⑨ ヤクザとマイノリティ―民族と差別が葛藤する只中で」は、映画史を通して在日と部落民のヤクザを取り上げています。

やくざ映画は、近現代史において秘匿された被差別部落や在日コリアンに向かい合った‥‥一般にヤクザの攻勢比率は、被差別部落民、在日コリアン、市民社会からのドロップアウトがそれぞれ三分の一ずつであると言われている。 つまりヤクザ映画を作るうえで、差別問題は避けて通れないのだ。(388頁)

 その一例として、あるヤクザ映画に京都の部落が登場することを取り上げます。

実在する京都の侠客、図越利一(会津小鉄会三代目)の若き日々を描いた後藤浩滋の映画の遺作『残侠 ZNKYO』(99年)で、監督関本郁夫は京都最大の被差別部落「崇仁地区」を初めて撮影する。 会津小鉄会では、多くの組員がそこに出自を持ち、組を縄張りでもある崇仁地区のロケを今まで誰にも許さなかったが、彼らの親分の伝記映画を撮る関本だけには許諾したのだ。 関本は『残侠』でここを戦後の闇市に見立て、その後の『極道の妻たち 死んで貰います』(99年)では祇園のクラブのママ(東ちづる)が生まれた町として描いた。

このように東映ヤクザ映画は、在日コリアンの集住地区や被差別部落のフィルムに収めたが、それぞれの作家はドラマの中で地域の歴史や由来を詳らかにはせず、分かる人には分かるように、登場人物とその土地の関係を仄めかすだけにとどめた。(以上391~392頁)

 ここでは会津小鉄会三代目が出てきていますが、次の四代目会長が高山登久太郎(本名 姜外秀)で、在日韓国人として有名ですね。 テレビに時おり出ていたし、マスコミからのインタビューにも応じていました。 任侠道を強調して、堅気さんには迷惑をかけるな、が信条だったといいます。

 私の知り合いだった人ですが、京都で交通事故を起こしてしまい、相手が何と会津小鉄会の組員。 事務所に呼び出されて恐る恐る行ったら、ヤクザ映画に出てくるような事務所の構えで、そこにこの四代目が出てきて優しく応対され(というより普通の応対)、結局はごく常識的な線で収まったということでした。 たまたま「任侠道」を発揮されたのでしょうかねえ。

 ところでさらに記事では、部落解放運動の父といわれる松本治一郎を描いた映画について、次のようなエピソードを報告しています。

中島貞夫は‥‥部落解放運動家の伝記映画「夜明けの旗 松本治一郎伝」(76年)の監督を最初に依頼され、解放同盟本部に当時、中央執行委員長だった上杉佐一郎を訪ねた。 この映画を社会運動の「英雄伝」にしたがる上杉に対し、中島は「上杉さん、これヤクザものでやらしてくれ」と言った。 しかし上杉は「それやんなきゃ本当は駄目だよ。 だけど駄目だ」と釘を刺したという。(『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』04年 中島貞夫著)

上杉は、被差別部落出身者がヤクザと隣接する存在たらざるを得ないことを知りながら、その現実を描かれたくなかったのだ。

「その問題をきちんとやんないと日本のやくざ映画の意味がないというのは、どっかにあるわけですね。 だけどきっちりは出来ない。 匂いを出すっていうんですかね」と中島は前掲書で語っている。 中島が志向したことは、同時期(1976年)に竹中労が唱えた「松本治一郎その人『博多から筑豊炭田の川筋にかけて知らぬ者のない』暴れん坊・侠客・土建業者の大親分として」とらえ直す(『竹中労の右翼との対話』)という問題意識と重なるだろう。(以上392~393頁)

 解放同盟委員長だった上杉佐一郎さんがヤクザと部落の関係について、「本当はやらなければならない」と言いながら、「だけど駄目」と言ったところが興味深いです。 つまり解放同盟は、ヤクザとの関係を知っていながら隠蔽してきたということを自ら認めていたのです。 

 解放同盟はヤクザとどのような関係であったのか。 解放同盟は飛鳥会事件の際に「暴力団」「反社会団体」関係者が加入していることを認めましたが、事件が明るみに出たので仕方なく認めたという感じでした。 そしてそれだけで終わりましたねえ。

 それまでどれだけのヤクザが同盟に加入し、どのような活動をしたのか、そしてヤクザ組織にどれくらいのお金が流れていったのか、同盟はこのような検証をしませんでした。 またヤクザとどのように縁を切るのかも言明しなかったです。 それから16年が経ちましたが、解放同盟はこれからもヤクザとの関係を隠蔽したまま続けるのでしょうねえ。 (終り)

【拙稿参照】

差別とヤクザ      http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuuyondai

飛鳥会事件―「心から謝罪」は本当か?  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/24/1206080

解放運動に入り込むヤクザ        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/04/1482616

これが「真摯に反省」?   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/27/382079

ラムザイヤー部落論(5)―反社に行く者,地区から出る者 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/01/15/9456213

「いわれなき差別」あれば「いわれある差別」あり https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/22/9542764